海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

戦争遺跡探訪

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満州事変後、中国大陸への進出を画策する軍部にあって、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図し、同時に航空機による攻撃から首都防衛を考えていた海軍は、かねて東京湾沿岸の適地を選び、海軍航空隊を建設しようと考えていた。
 

東京湾沿岸の候補地は木更津・青堀・姉ヶ崎、行徳などとなっており、1934年(昭和9年)年頭には海軍省から千葉県知事にその旨の内示があり、木更津町長であった石川善之助らも海軍航空隊の誘致運動をはじめた。

すなわち、同年7月5日には石川町長の提唱にて、「木更津飛行場建設促進同盟会」が結成され、翌々日の7日には横須賀鎮守府建築部より測量要員6名が派遣されて現地測量が行われた。一方、木更津海軍飛行場の予定地であった巌根村中里・江川地区の漁民ら住民にとっては寝耳に水であり、また中里・江川地区の海岸の一部埋め立てによって漁業を行う場所が制約されるため建設反対の声があがった。しかし、「木更津飛行場建設促進同盟会」の実行委員らが説得し、7月中旬にはほぼ反対気運はおさまった。その後、7月20日に横須賀鎮守府より木更津町に海軍航空隊設置決定の通告があった。
 
<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(南側)遠景>
 
撮影:染谷たけし
 
<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(北側)遠景>
 
 撮影:染谷たけし
 
こうして同年9月5日より県土木課は買収事務を開始。11月1日には「東京湾海軍航空隊」(仮称)新設起工式が横須賀鎮守府司令長官の永野修身海軍大将以下の臨席で行われた。かくして、東京湾の大規模な埋立工事が開始された。請負業者は浅野財閥系の東京湾埋立株式会社(現・東亜建設工業)。
翌1935年(昭和10年)3月には航空隊建設準備委員が任命され、委員長は竹中龍造海軍大佐が就任した。施設建設は主として横須賀の馬淵組(現在の馬淵建設)が請負い、突貫工事で飛行場建設が進められた。1936年(昭和11年)3月26日には飛行場は概ね完成し、陸上攻撃機(中攻)などの飛行機が配備された。そして同年4月1日に、木更津海軍航空隊は開隊した。
 
開設された、木更津海軍航空隊(木更津空)は、木空(きくう、もっくう)とも呼ばれ、司令は竹中龍造大佐、副長は青木泰二郎中佐、飛行長曽我義治少佐を含め、准士官まで14名、下士官・兵が約100名であった。5月2日の開隊祝賀式には海軍大臣永野修身大将、横須賀鎮守府司令長官米内光政中将のほか陸海軍の幹部軍人が列席、5月末には町内各小学校児童を招き、優勝旗争奪の運動会も催した。
 

 <開隊当時の隊門前>

 
 
木更津基地は東京湾に面して、四周に障害物なく広々として、その大きさたるや、幅八十米、長さ千二百米(後に二千米)の滑走路が南西海岸から北東へのび、東西、南北にも各一つの滑走路がある、理想的な海軍基地であった。
 

この木更津空は、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図した海軍が特に周到に準備した外戦作戦実施部隊であり、平時には首都防衛にあたるもので、同様の目的で西日本を担当する鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した。しかし、一般の木更津町住民には、開隊にあたっての式典で海軍のそうそうたる高官が来たり、大相撲の横綱土俵入りがあったりと、物珍しく映ったに違いない。

初代の司令官、竹中龍造大佐にしても、のちに空母の艦長や各地の航空隊の司令を歴任し、最後は海軍航空技術廠支廠長で海軍中将となった人物であるが、当時の木更津町民には民間の家に住み、朝晩車で送迎されている「偉い人」としてしか、認識されなかったであろう。

 
<開隊を祝う地元の人々>
 
 
なお、開隊の日に見学を許されたのは限られた小中学、女学校生徒などで、その他一般の人には許されなかった。

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鉄道連隊のことを「千葉県の戦争遺跡」HPにのせてきたが、下志津支線については、殆ど記載していなかった。そのことを指摘され、また千葉駅周辺の廃線跡を歩くうちに、下志津支線の廃線跡を実際に歩いてめぐり、そのことについて書いてみようと思った。これは千葉の作草部から四街道の兵営にのびていたと考えられる路線である。

なぜ、千葉〜津田沼沼以外に、下志津支線を作ったかといえば、それは演習というだけでなく、四街道の野戦砲兵学校や野砲兵第十八連隊に物資を送るなどの意図があった。

1910年(明治43年)10月26日に第一師団経理部が陸軍大臣寺内正毅に提出した「下志津軽便鉄道敷設ノ儀ニ付伺 」によれば、
「下志津屯在各部隊構内外ノ儀ハ一般ニ地質軽鬆ニシテ降雨ノ際ハ忽チ泥濘ト化シ運輸交通特ニ困難ヲ感シ候ニ付別紙図面ノ如ク四ツ街道停車場ヲ基点トシテ手押軽便鉄道ヲ敷設シ以テ一般軍需品ノ輸送並ニ構内排出物ノ搬出ニ任シ度候ニ付右御認可ノ上之ニ要スル経費別紙調書之通リ御増額相成度此段相伺候也」
とあり、四街道周辺に駐屯する陸軍各部隊のための軍需品輸送などに四街道駅を起点とした軽便鉄道を利用しようとしたことが分かり、それが鉄道連隊の演習を兼ねた敷設となったものと思われる。

しかし、この路線、途中にあとから下志津陸軍飛行学校ができ、四街道手前で路線変更している。また終点がどうなっていたのかが、よくわからない。

こういう小さなことでも、分からないのはしゃくである。何とか究明したいが、その前にご存知の方がいれば教えてほしい。

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新京成線が陸軍鉄道連隊の演習線であったことを知っている人は多い。しかし、その元になった津田沼〜松戸間の路線(いわゆる松戸線)の一部は、新京成線にならず、廃線になったことは、あまり知られていない。

具体的には、新京成の鎌ヶ谷大仏駅というのは、元の演習線の上にはなく、その前後の線路は、新京成オリジナルである。元の演習線は、二和向台あたりから鎌ヶ谷大仏駅の南側を通って初富駅付近にぐるりと弧を描いていたのだが、その部分が新京成ではショートカットされている。他にも、常盤平付近は大きく北へ小金の方にループしていたのをショートカットし、松戸付近も新京成オリジナル路線である。

鎌ヶ谷については、廃線跡に大きな橋脚が4基あり、分かりやすいかもしれない。それは演習を兼ねて、窪地に架橋したものの名残である。架橋された場所には、現在も頑丈なコンクリート製の橋脚跡が残る。

鎌ヶ谷での架橋演習は、『鎌ヶ谷市史資料集17』にある鉄道第二連隊の元兵士であった飯島豊氏が1998年に語った話では「当時の鎌ヶ谷の橋梁です。記憶では、最初下は川かと思いましたが、水は流れていなかったです。確か窪地でした。そういう地層の所へ、訓練を兼ねて橋を架けたんじゃないかと思います。木橋でしたね。」とあり、同書の図版では1931年(昭和6年)頃のその鎌ヶ谷橋梁の木橋の写真が掲載されている。

つまり、演習で木橋を架けた後、同じ場所に本格的な橋脚を設置し、橋を掛け直したものと思われる。

この鎌ヶ谷の橋脚はみな台地と台地の間の窪地にたっており、その部分が公園化している。
どうも、その橋脚は地元であまり大切にされていないようで、焚火の跡あり、また誰かがボールを打ちつけた跡が無数にある。困ったものである。

常盤平は以前、歩いたので、大体わかるが、松戸の方はいまだに分かっていない部分がある。

廃線跡の探訪は、一部でブームになっているが、小生にとっては遅れてきたブームである。

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京成大久保駅前の商店街に、「坂の上の雲」の碑が出来たと聞き、見に行った。

しかし、その石碑とは、写真のものである。いかにも、地元の商店街が作ったというフレンドリーなものかもしれない。秋山好古の写真は焼き付けされているようだ。設置されているのは、以前銀行の支店があり、支店が撤退してからは地域の人たちが使っているセンターのような場所である。

騎兵旅団本部の門柱が両脇にかたどってあり、馬に乗っているのをイメージしているようだが、もっと立体的な馬にできなかったのだろうか。しかし、限られた予算で作ったのだろうから、贅沢は無用かもしれない。

本当の旅団本部跡は、以下のような場所で、こちらは今は普通の公園になっている。門柱は公園の門にされているので、殆どの人が、おそらく新住民も、これが旅団の門とは知らないのだろう。本来の旅団跡の石碑といえば、以下の画像である。

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商店街の碑をみて少しもの足らず、仕方がないので、鉄道連隊の境界標石をさがしに、ハミングロードを船橋市三山、習志野市東習志野に向かって少し歩いた。既に知っているものだけでなく、新しく見つけた標石もあった。

ハミングロード途中で、大きな五葉松のある家の門前に、境界標石がある。これは前から知っていたが、「陸軍用地」の字がはっきり読み取れる。他にも塀に埋め込まれる様に残っているものなど、結構残っているものである。

八千代市の高津まで続いているらしいが、あまり歩いても疲れるので途中で引き返した。

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途中で気付いたが、演習線は三山から習志野自衛隊の方へ行くものと、花見川へ行くものと分岐していたように思える。花見川に向かうだけと思っていたが、少し外れたところに標石があるのである。しかし、これは不確かなので、あとで調べてみることにする。

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「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/
に、ようやく「陸軍工兵学校」のページを新設することができた。

一応、今までの概要調べや遺構の踏査結果を森-CHANが本職のカメラマンに撮ってもらった写真と手持ちの資料の一部などを作って編集したものである。
小生が以前、「千葉県の戦争遺跡」ブログ(http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/)
に書いていた文章を加筆するとともに、八柱演習場については戦後の旧軍人たちの開拓記念碑についての地元町会が出した冊子などを参考にして記載を増やした。

まだ、「架橋」「交通」「射撃」などと工兵の演習資料が手元にあるが、なにしろ膨大なため、徐々に形にしていこうと思う。演習の記事は未完であるが、まずは大きな懸案の一つが年内に片付いた。

(画像は、陸軍工兵学校で学んだ、ある工兵連隊の将校が描いた架橋作業の操作船)

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