海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

戦争遺跡探訪

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船橋市小室は、今はやりのニュータウンの街となっているが、ここは実は鎌倉時代から続く古い集落である。そのなかに寺は、日蓮宗の本覚寺という寺がある。日蓮宗の寺は船橋市北部にも多く、この本覚寺も古い寺で、その名前も、鎌倉の日蓮宗の古刹、本覚寺と同じである。

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この小室の本覚寺の墓地に、「大東亜戦争戦没者之霊」という慰霊碑がある。これは1956年(昭和31年)8月に遺族が建立したものである。碑の題字を揮毫したのは、極東国際軍事裁判で終身刑となり、1955年(昭和30年)に仮釈放となった元海軍大将の嶋田繁太郎である。

碑の裏には、海軍三人、陸軍六人の計八人の戒名と俗名、階級と一部の人は勲位、そのすべてに戦死の日付と場所が簡単に刻まれている。さらに、遺族の家の屋号も刻まれており、古き良き地域共同体の雰囲気が感じられる。

それをみると、いずれも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)の戦没であり、戦没の古い順から、

海軍上等水兵 1944年(昭和19年)6月1日  中部太平洋方面で戦死
陸軍上等兵  1944年(昭和19年)8月18日 バシイ海峡で戦死
陸軍大尉   1944年(昭和19年)12月20日 フィリピン セレベス島で戦死
陸軍軍曹   1945年(昭和20年)1月2日  フィリピン ルソン島 リンガエ沿岸で戦死 
海軍二等兵曹 1945年(昭和20年)2月12日 フィリピン マニラ クラーク飛行場で戦死
海軍兵曹長  1945年(昭和20年)3月11日 フィリピン方面で戦死
陸軍兵長   1945年(昭和20年)6月10日 フィリピン ミンダナオ島で戦死 
陸軍上等兵  1945年(昭和20年)8月17日 中支方面で戦死

とあり、8人中6人がフィリピン方面で戦死、特に陸軍軍曹が1945年(昭和20年)1月フィリピン・ルソン島リンガエ沿岸で戦死しているが、当時米軍がリンガエ湾に強行上陸しており、その米軍との攻防でその軍曹は亡くなったと思われる。その軍曹が亡くなる直前にはセレベスで陸軍大尉が、また軍曹の亡くなった翌月、翌々月と海軍の二等兵曹、兵曹長が戦死しており、激戦がうかがわれる。

また、最後になくなった陸軍上等兵は、昭和天皇による終戦の放送があった後の戦死である。おそらく、終戦の報が届いていなかったのであろう。まったく、もう死ななくてもよかったのに、どういうことだろうか。

「大東亜戦争」という言葉や、揮毫の主に問題があったとしても、戦後遺族が建立した碑には、純粋な追悼の念が込められており、今後もなるべく紹介することとしたい。

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こちらは、佐倉市内ではなく松戸市小金であるが、佐倉の歩兵第五七連隊のレイテなどフィリピンで戦没した将兵の慰霊塔がある。知りえた事実で関連するので、記載しておく。

それは、かつて小金宿のあった水戸街道沿いの市街地で、JR北小金駅の南側の東漸寺の道をはさんだ向かい位にある妙典寺の境内にある。

妙典寺は山号を正覺山といい、日蓮宗の寺院で、中山法華経寺の末寺である。周囲はそれなりに交通量の多い道路や市街地であるが、寺に入ると静かな感じである。ただし、あまり大きな寺ではない。

この寺で有名なのは、松朧庵探翠が1825年(文政8年)に建てたという芭蕉の句碑である。小金は水戸徳川家の本陣もおかれた、水戸街道の宿場町として栄え、その経済力をバックにした町人たちは俳諧などをたしなむものも少なくなかった。妙典寺だけでなく、本土寺にも「翁の碑」といわれる芭蕉の句碑があり、それは「御命講や 油のような 酒五升」という句が刻まれている。また、「東都今日庵門人小金原 藤風庵可長 松朧庵探翠 方閑斉一堂 避賢亭幾来 当山三十九世仙松斎一鄒 文化元子十月建之」とあり、芭蕉没後百年の芭蕉忌に建てられたもの。

一方、妙典寺の芭蕉の句碑には、


  表「しはらくは 花のうへなる 月夜かな  翁
                             松朧庵探翠建之 」

  陰「     文政八乙酉三月五日 梅澤氏  明珠院自得日歓信士
                       圓珠院妙得日喜信女
                         文化三丙寅天三月四日」

とある。この翁は、もちろん松尾芭蕉のことである。

<妙典寺の慰霊塔>
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その句碑の横に、墓石のようなものがあり、それが歩兵第五七連隊比島戦没者慰霊塔である。

日露戦争末期に出征し、北朝鮮の守備についた陸軍歩兵第五七連隊が佐倉の兵営に移ったのは、1907年(明治40年)に第一師団隷下、内地帰還(習志野)となってからである。もともと青森で編成され、東北を転々としていたが、衛戍地は佐倉、徴兵区域は千葉県一円とされた。その翌年にかけて、東北出身者の除隊、千葉県出身者の徴兵が進められ、名実ともに、第五七連隊は郷土部隊となった。その後、本格的な野戦としては、1936年(昭和11年)5月22日 旧満州移駐を命ぜられ、5月30日以降チチハルに駐屯後の1937年(昭和12年)7月、日中戦争が戦端が開かれたなかで、第三大隊は張家口の戦闘に加わっている。その後、陸軍歩兵第五七連隊主力は、11月5日旧北満州の孫呉に移駐、1939年(昭和14年)7月〜9月、日本軍のモンゴル・ハルハ河地区への侵入に端を発する、ノモンハン事件に参戦。その後も、連隊は孫呉駐屯を続ける。

その後しばらく孫呉駐屯を続けていた歩兵第五七連隊であったが、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦以降、戦局が著しく暗転した戦争末期である1944年(昭和19年)2月、第三大隊はグアム島行きを命ぜられ、大隊長谷島大尉以下、グアム島にて米軍と交戦、激しい戦闘で大隊628名中、大部分が戦死、生還できたのはわずか63名であった。

さらに、7月24日第一師団のフィリピン、レイテ島への動員下命があり、8月20日歩兵第五七連隊(連隊長:宮内大佐)は孫呉を出発。上海を経由して、フィリピンへ向かった。11月1日にレイテ島オルモックから上陸、11月初旬リモン峠で米軍と戦闘、ここで約2,500名のうち約2,000名もの戦死者を出した。12月21日、第一師団はりモン峠を棄て、その西のカンギポット山方面へ敗走、1945年(昭和20年)1月15日、軍命令で、レイテ島からセブ島に連隊長以下198名移転、レイテ島に間宮大尉以下115名残留した。セブ島ではかろうじて回りの房飾りの部分だけになった、連隊旗が保持された。戦闘に参加した2,541名のうち、実に戦死2400名以上、8月15日現在の生存者114名となったいう。連隊旗は、のちに生存者によって分割保管され、内地帰還後に結合されて、現存している。その話は「人間の旗〜甦った血と涙の連隊旗〜」(岩川隆)に書かれている。「レイテ島で戦った将兵は、終戦を迎えたとき、戦友の血と涙にまみれた軍旗を奉焼するにしのびず、ひそかに切り刻んで分配した。……そして戦後三十有余年、苦心のすえ幻の連隊旗は復元されたのだ」(光文社の解説より)

<レイテ島に上陸した米軍>
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なぜ、その慰霊塔が佐倉と離れた当地にあるかといえば、それはこの寺の住職自身が歩兵第五七連隊だったため、激戦のレイテ島などで戦死、戦病死した戦友の死を悼んで、その遺族などの協力を得て建立したそうである。遺族が寺に戦没者の慰霊碑を建てるのはごく一般的であるが、住職当人が部隊出身者で、遺族と一緒に寺に慰霊碑を建てたというのは珍しいケースだろう。

慰霊塔の脇に碑文をしるした黒い石碑があり、「大東亜戦争」などと必ずしも適切な用語ではないが、「この塔は大東亜戦争の天王山と言われたレイテ決戦に参加して戦死された佐倉、歩兵第五十七聯隊勇士の英霊を慰めるため、生存戦友、遺族等有志により建立されたものである。云々」とある。思えば、レイテ島での悲惨な戦いは、佐倉連隊所属の将兵の多くを死に追いやり、戦闘に参加した2,541名のうち、戦死2400名以上という類をみないものとなった。あらためて、日本軍国主義の侵略戦争の犠牲となった、わが軍の将兵、敵軍将兵ならびにアジア民衆の冥福を祈りたい。

ああ藤ヶ谷陸軍飛行場

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戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となり、1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が根拠とした。

この飛行第五十三戦隊は、三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五十三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。

<屠龍>
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実際に第五十三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五十三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。

この飛行第五十三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。

<一〇〇式司令部偵察機>
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藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。

そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五十三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。

現在、下総航空基地と呼んでいるが、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されているものの、松戸飛行場とは違い、旧陸軍飛行場当時の建物、施設は残されていないようである。

別に記載した地下格納庫以外には、掩体壕が鎌ヶ谷市初富に近年まで残っていたが、それもなくなった。

(冒頭の写真は地下格納庫跡)

参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)

参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/

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鎌ヶ谷市軽井沢の台地端の山林のなかに、コンクリート製の地下格納庫1基が大部分を地表面に出して残っている。これは、藤ヶ谷陸軍飛行場関連の遺構と考えられる。地元の人に聞くと、防空壕と呼んでいるが、これは防空壕としてはかなり立派であり、似たような地下格納庫、地下燃料庫は全国的に他にも存在するので、一旦地下格納庫と呼ぶことにする。以下は、その概略図。

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それは藤ヶ谷陸軍飛行場があった下総航空基地からも近い、白井市西白井と谷津一つを隔てた鎌ヶ谷市軽井沢の台地端にあるが、東側低地から見上げると、円形のコンクリートの鍔状の端部が草の中から見える。その鍔状の端部は円筒状の格納庫本体と接合し、端部には1m四方の小さな穴があって鉄の扉でふさいである。台地に上がってみると、コンクリートのドーム状の地下格納庫胴体の天井部分が地表面に露出しているのが分かる。

<地下格納庫の東側端部>
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ドーム状の格納庫胴体天井部分は一部土に埋もれ、埋もれている部分で直角に曲がり、東西に9m強、南北に22mほどものびている。その先端は開口部であるが、人が入らないように鉄の柵でふさがれている。

<地下格納庫の南側開口部>
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コンクリートは砂利が混ぜてあり、鉄筋も使われている。格納庫の胴体の内側は半円、外側には鎬がついて七角形になっており、南北にのびる長い方が幅も広く4.8m以上、短い方で幅2mほどである。

胴体部分の一部は、経年劣化のためか、ひびが入っている。また一つ小さな穴があいていて落葉と土が詰まっているが、これはもともとあった通風孔か、劣化による穴か不明である。

<格納庫の胴体>
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その胴体の外側は、土手状になっている。格納庫の東側端部の丸い鍔状のものは、台地斜面に開口部が開いて、土が開口部に入らないようにしたものと思われ、少なくとも東の端部から現在土をかぶっている部分までは土がかぶせてあっただろう。

南側に開口部があるが、これには鍔状の端部はなく、さらに開口部の南側は緩やかに低くくなり東南側の低地へ傾斜しているが、開口部のすぐ下の両サイドに縁石のようなコンクリートの構造物があり、排水溝のような溝もある。

おそらく南側の開口部の方から、物資を運び込んだものと思われる。南側開口部の内側は、西側に棚状のものがあり、一見すると腰掛のように見える。
今はふさがれていて入ることができないが、近所の人によると直角に折れている部分も含めて内部は全部空洞であり、南側開口部から東側端部までつながっているそうである。

<南側開口部から内部を見たところ>
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参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)

参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/

何気なく手に取った本に、以前分からないで、そのままになっていたことが、さらりと書いてあることがある。
よく調べきらずに、そのままにしたことが良くないのであるが、それが偶然判明することは神の助けのような気がする。

柏陸軍飛行場跡の南側の金属工業団地一帯に存在した、陸軍東部第百二部隊、すなわち陸軍第四航空教育隊は、1945年(昭和20年)の戦争末期に多くの兵を擁し、多いときには一万名もの兵員が南北600m、東西400mほどの隊の敷地にいた。その長方形の区画のなかに、部隊本部、兵舎、格納庫などがあったのだが、今では工場や宅地などになっている。

<東部百二部隊略図〜梅林第四公園の案内図の写真に追記>
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東部百二部隊は東部第百五部隊、柏飛行場の南にあって、柏飛行場の門から豊四季駅にいたる県道279号線、豊四季停車場高田原線の駒木交差点附近が、東部第百二部隊入口であり、そこを東に折れてしばらくいった、現在の梅林第三公園付近に営門があった。ちょうど、その営門があった場所の近く、角地にある住宅横の溝に陸軍境界標石がある。

その「百二(以下不明)」と書かれた陸軍境界標石が民家の塀の基礎に寄り添うようにあるが、その家の人もそれが旧陸軍のものであることを知らないようであった。


<近隣の公園に残る東部百二部隊の営門>
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その営門は前述のように、梅林第三公園近くにあったのだが、現在は少し離れた柏までのバス通りに面した梅林第四公園に移設されている。門柱は、赤味がかった砂岩質の石で出来ているが、その赤い色から地元の人は「赤門」と呼んでいる。かつて、本来の場所にあったときは、門を入ると左手に衛兵所と部隊本部、兵舎が建ち並び、右手には面会所があった。営門は豊四季と柏飛行場営門を結ぶ県道豊四季停車場高田原線の側に開いていて、兵員の出入り口は主にそちら側であった。現在のように柏の葉公園から柏駅を結ぶバス通りはなく、部隊の東側は林であった。

現在のつくばエクスプレスがすぐ近くを通る柏浄水センターの北側から、南は十余二の光風園、高田車庫入口のバス停の辺りまでが、東部百二部隊が駐屯していた場所である。

1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その柏飛行場開設から遅れること約2年、1940年(昭和15年)2月に高田、十余二にまたがる上記地域に、第四航空教育隊(東部百二部隊)は移駐した。この部隊は、1938年(昭和13年)7月立川で開設されたものである。

陸軍航空教育隊とは、文字通り陸軍の航空兵を教育、養成する部隊である。1937年(昭和12年)7月「支那駐屯軍」による北京郊外での通告なしの夜間演習時、中国軍から発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した盧溝橋事件に端を発する日中戦争開戦以降、航空兵の減耗率が高くなったことに危機感を覚えた陸軍は、航空兵の養成のために各地に航空教育隊を開設していった。

航空教育隊に入隊すると、初年兵教育としての基礎訓練3ヶ月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育3ヶ月、都合半年の訓練ののち、実施部隊に配属される。

この東部百二部隊跡の一角である、柏浄水場の北側工場脇に、給水塔が残存している。梅林第四公園にあった案内図をみると、現在の場所ではなく、もっと南側の部隊の中心からみれば西側にあったはずだが、戦後移設したものであろうか。

<給水塔>
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その給水塔の奥に、煉瓦造りの小さな倉庫がある。これが何であるが、おそらくこれも百二部隊関連の遺構であろうとは思っていた。しかし、何の用途の建物であるかは、分からなかった。ところが、柏の図書館に行ったとき、1995年に東葛市民生協の発行した「戦時下のひとびと」という冊子を何気なく手にとると、「三ヵ月の訓練で前線へ」、「部隊は全滅」、「十七歳で陸軍に志願」といった第四航空教育隊で訓練を受けた方の戦争体験記事のなかで、その建物そっくりの煉瓦造りの倉庫が「今も残る弾薬庫」として紹介されていた。

<弾薬庫と判明した煉瓦造りの倉庫>
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過去に実際に陸軍第四航空教育隊にいた人の証言は、たまたま生協が残してくれた。一般的なことを言えば、活字としては残っているが、Webの世界にまで取り込まれた情報は、それほど多くない。問題は、人の記憶が年々失われること。早い話、その証言をした人のなかには、現在あるいは故人になっている人もいるかもしれない。かくいう小生も、じきにあの世に行くのである。

いかに細かいことでも、なんとか後世につないでいきたい。

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