海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

戦争遺跡探訪

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柏陸軍飛行場と秋水

1.柏飛行場の戦後と現況

柏には陸軍の飛行場あり、秋水の燃料格納庫あり、高射砲部隊あり、陸軍病院ありと、まさに「軍都柏」の名前の通りである。そのなかで中心的なものは、1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場であろう。柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部は新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行った。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、日中の戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入したいた。柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したものである。兵員はおよそ600〜700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機であった。

柏飛行場には、1500mの滑走路と周辺設備があり、後述するように太平洋戦争末期には、ロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

<東部第百五部隊の営門〜1943年当時>
イメージ 1

<東部第百五部隊の営門跡>
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そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人など約140人が入植した。当地は地味や水利が良くなかったものの、陸稲や小麦、甘藷、落花生などが栽培され、柏飛行場跡地は徐々に農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地は米軍に接収され、朝鮮戦争以降アンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。すなわち、柏飛行場の農地転換作業がほぼ完成した1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発するや、1952年(昭和27年)には日米合同委員会が米空軍通信基地の設置を決定、1955年(昭和30年)、「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が開拓地内に建設された。基地には200mの大アンテナをはじめ、アンテナが林立し、日本の国土でありながら朝鮮、ベトナムに駐留する米軍に対してアメリカ国防総省の命令を伝達する通信基地となったのである。
トムリンソン通信基地では、旧軍の柏飛行場を一部改変し、道路の付替えを行っている。

その後、農民の強い反対運動にもかかわらず、米軍基地は拡大、昭和38年(1963)施設拡充のための国による買収問題を契機に開拓農民に動揺が起き、結局ほとんどの開拓地は国に買収されて農民は去り、わずかな民有地を残して中十余二開拓部落は消滅した。
その後、国民運動におされて、日本政府も基地返還についてアメリカ政府と交渉せざるを得ず、関東での基地返還があいつぎ、柏のトムリンソン通信基地についても昭和50年(1975)に返還の動きが出てきた。そこで県と地元市町村(松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、関宿町、沼南町)は、1976年(昭和51年)2月23日に「米空軍柏通信所跡地利用促進協議会」を設置して、基地の早期全面返還と跡地の公共的利用について、更に積極的な活動を進めることになった。

さらに、県議会、柏市・流山市議会においても早期返還の決議がなされ、また、地元協議会などの幅広い活動の結果、1977年(昭和52年)と、1979年(昭和54年)の二度に渡りほぼ半々ずつの面積で返還が行われ、跡地188 haの全面返還が実現した。
その際、アメリカは1977年(昭和52年)に基地の半分を返還すると通告してきたが、同時に残り半分を原子力潜水艦へ核攻撃の指令を出すための通信基地「ロランC」を新設すると通告、これは国会でも取り上げられ、大きな反対運動が起こった。結果、米軍は新たな基地建設を断念、1979年(昭和54年)の全面返還となったのである。

日本に返還された基地跡は、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。
実は、前述したように、米軍の通信基地になった段階で、旧軍の柏飛行場は大きく改変が加えられたが、通信基地には殆ど無用な滑走路が廃され、新たに道が付替えられるなどした。

色々な文献に、柏の葉公園脇の道路は、かつての滑走路跡を通っていると書かれている。また小生も、そのように記述していた。しかし、航空写真から見られるように、柏の葉公園脇の道路は北側については滑走路跡に重なっているものの、財務省税関研修所付近から南は滑走路跡の西にずれていき、南側は東大第2キャンパスの地点で約200mずれている。科学警察研究所や東大第2キャンパスの一部、柏西高校の校舎などは、かつての滑走路跡に建っていることになる。

それにしても、折角入植していながら、米軍、政府の勝手で土地を取り上げられた開拓農民の人々は、一体どこへ行ったのか。軍隊でもベタ金(将官をあらわす兵隊言葉)や部隊長クラスなど一部高級将校のみ優遇され、下級将校や下士官兵は、天皇や将官からみてどうでもいい存在であった。事実、我下級将校や下士官は、最も減耗率の高い、「消耗品」だったのである。そして、戦後においても犠牲になるのは、いつも真面目にはたらいている労働者・農民・中小商工業者であるのは腹立たしい限りである。


2.秋水と柏飛行場

戦争末期、頻々として日本国土を空襲する米軍のB29やP51は、1万メートルの高高度を飛ぶ爆撃機であった。特にB29は、空の要塞とも言われた。それを迎撃するにも、日本陸海軍の戦闘機、零戦、隼は既に時代遅れ、月光、雷電、紫電、紫電改では高高度にあがるまでに時間がかかる上、高空性能が悪く、歯が立たなかった。陸軍の高射砲も、一般的な八八式七十五粍野戦高射砲では、最大射高9千百メートルと届かない。1万メートルに届く九九式八十八粍高射砲がのちに量産されるが、間に合わず、他に新しい高射砲も開発されたが、故障が多いなど問題もあり、配備される数もすくなかった。
そこで、ドイツのメッサーシュミットのロケット戦闘機を模して、ロケット戦闘機を開発し、迎撃用とすることが計画された。この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、陸海軍の垣根を越えて開発が進められた。そのロケット戦闘機が、秋水である。それは、当初1945年9月までに数千機作る計画であったが、計画そのものの無謀さもさることながら、如何に戦争末期の日本が最後の切り札として、このロケット戦闘機に賭けていたかがよく分かる。

<ロケット戦闘機 秋水>
イメージ 3

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料館にて、許可を得て撮影(撮影:森−CHAN)

その秋水用の飛行場も、建設されつつあった。その飛行場に柏飛行場が割り当てられた。それはB29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。そのため、柏飛行場には、秋水用の掩体壕などが作られつつあった。また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下壕が建設されたが、リスク分散のため、それは柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地であった。

<秋水地下燃料貯蔵庫跡>
イメージ 4

3.一大軍事拠点になるはずだった柏

それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、秋水の飛行場などの建設は未完に終わった。

しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫跡は現存している。花野井、大室に台地端の崖を利用した横穴式のコンクリート製の地下壕が作られた。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、長さは40mほどで中は中空になっている。断面はかまぼこ型で高さ2m以上、幅は3mから4mもあった。地下壕の出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。
花野井、大室以外に、十余二にも台地上にヒューム管を埋め込む形の地下燃料貯蔵庫が作られた。
現在、確認できるのは、花野井では花野井交番の近くのコンクリートの胴体が露出している地下燃料貯蔵庫のほか、台地端の出入り口が3か所、畑にヒューム管が突き出している場所である。

<畑の中に突き出たヒューム管>
イメージ 5

住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのことで、戦後になって近所の子供が中に入ると人がいて怒られたという話もある。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。



参考文献:「柏に残された地下壕の謎」小野英夫 川端光明 /『柏市史』
     『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』牧野育雄 光人社 (2006)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
     
一般的に、今の新京成電鉄の路線は、かつての陸軍鉄道連隊の演習線だったと知られている。

実際、松戸から津田沼までの、かつての陸軍鉄道連隊演習線は、今は新京成電鉄になっている部分が多いのだが、厳密には松戸に近い部分、八柱〜常盤平〜五香、初富〜鎌ヶ谷大仏などは、元の演習線とはかなり外れたところを現在の路線が走っている。
常盤平団地のある、常盤平駅についてはほとんど演習線の内側で、だいぶ外れているのではないだろうか。それは鎌ヶ谷大仏駅も同様で、例の鎌ヶ谷の橋脚跡も新京成電鉄の駅や線路から離れた場所にある。
それはあまりにも演習線が曲がりくねってつくられていたために、ショートカットしたのと、松戸付近については工兵学校ではなく、松戸駅に乗り入れさせるために、路線を変えたのである。

沿線を歩いてみると、確かに演習線の名残がうかがえる箇所がいくつかある。しかし、松戸市内は廃線部分を探るのも宅地化されていて難しい。
この辺りは、戦争遺跡を探るものより、廃線を調べることを趣味としている人のほうが、あるいは詳しいかもしれない。

自分が見聞した、かつての陸軍鉄道連隊演習線の名残をいくつかあげてみよう。

1.前原駅附近の陸軍境界標石

これは、駅からすぐの民家の塀に埋めるように立っている。というより、境界標石のある場所に塀をたてようとして、それをよけて塀をたてたというのが正確だろう。一見、戦後の境界標石に見えるが、御影石製で八柱などでみかけるのと同じタイプである。


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2.鎌ヶ谷の橋脚跡

これは、台地の間の窪地となって部分に線路を通すにあたって、勾配差を緩和するために橋脚をつくったのがわかる。橋脚はみな窪地にたっており、その部分が公園化している。最初見たときは、ちょっと威圧感があるが、付近の住民の人の憩いの場になっている。このすぐ上の台地上にも、御影石の境界標石があった。台地上の境界標石は小さく、他では見かけないタイプである。

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3.八柱駅周辺の境界標石、線路跡

この境界標石は全部で十くらいあっただろうか。最近みたら、少し減っていた。この境界標石は有名である。ここになぜ集中しているのかは、よく分からない。そもそも境界標石があるのは、演習場が近く、引込み線があった関係だろうか。そして、これだけ残っているのは、あるいは、他では捨てられたものを、ここでは大事にとってあるのだろうか。また森のホール近くにかつての線路跡が残っている。この線路跡のほうは、あまり知られていないかもしれない。

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4.松戸相模台の陸軍工兵学校附近の境界標石

これも鉄道連隊の演習線に関係ある境界標石らしい。もちろん、工兵学校があった場所であるから、隊門とか、その関係の遺構もいろいろ残っているし、境界標石も「地獄坂」に一つ、工兵学校裏の階段に一つ残っている。松戸は工兵学校まで演習線は延びていたが、新京成にするとき、それでは不便なので、JR松戸駅に隣接するようにしたらしい。だから、松戸駅あたりも、かつての演習線と今の新京成が重ならない場所になっている。

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一方、千葉から津田沼までの演習線跡は、道路となっている部分が多いが、こちらも普通の道路にしか見えないところが多いようだ。京成大久保駅付近のハミングロードも看板がなかったら、廃線道路とは思われないかもしれない。
時間はかかるが、もう少し探ってみようと思っている。

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市川の里見公園に行く途中、東京医科歯科大学の構内にレンガ塀の残欠がある。前から気になっているのだが、この辺はいうまでもなく、国府台砲兵のメッカであり、野砲兵連隊のあった場所である。太平洋戦争末期には首都防衛のための高射砲部隊もおかれた。

したがって、塀が一部残っていてもなんら不思議ではないのだが、あまりレンガ製の塀というのは今まで見てきた旧陸軍施設の塀ではなかったと思う。

市川は陸軍野砲兵、野戦重砲兵などのメッカの割には、あまり目立った戦争遺跡というものが残っていない。かといって須和田の忠魂碑を取り上げる気もさらさらないのだが。

また書面で出せとかちょっとややこしいけれど、市川市教育委員会にでも問い合わせてみようか。

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千葉市内の戦争遺跡をもう少し調査しようとして、千葉空襲の跡地を少し歩いてみた。戦災に関係した石碑を調べようとしたのである。しかし、例えば愛知県豊川市の海軍工廠空襲の慰霊塔や平和記念の像などと比べると、あまり目立たず、石碑自体は大きくても気がつかずに通り過ぎそうな感じがした。一見、空襲の跡地にたつ戦災関連石碑ということが分からない碑のなかで、千葉市街地中心部では川上紀一千葉県知事の名のある戦災復興の碑が唯一戦災が広範囲にあったことを示している。

実際、千葉の市街地の真ん中に空襲があったことも、今の住民は知らない人が多いのだろう。

千葉は船橋と比べると、駅前の道路も幅広く、全体的にゴミゴミした感じではなく、ひろびろしていて、市街地の奥行きが広い感じである。しかし、船橋の本町通りにあるような戦前からの古い商家がある訳でなく、せいぜい昭和30年代くらいの建物があるくらいである。
これは裏を返せば、千葉の市街地の中心部が、空襲ですっかり焼けてしまったためである。

千葉市の本格的な空襲は、1945年(昭和20年)5月8日が第一回目で、これは米軍の他目標広域作戦行動圏内に千葉にあった日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)が入ったためである。その後、6月10日、7月7日と両度の空襲があったが、何れも千葉を直接の目標としたものである。
なお、6月10日、7月7日で空爆を行ったのは、米軍爆撃機B29であることが分かっているが、5月8日のはP51ムスタングであるという説が多いなか、別の艦載機であるという説もあって、はっきりしない。
後で述べるように、人的被害も明確になっておらず、行政資料の数字も複数あって、行政資料の数字も当てにならないのが実態(日本国内の日本国民の被害実態からして、この通りで、いわんや海外の戦争被害者においておや、である)。

空襲目標は前記の日立航空機千葉工場だけでなく、千葉県立千葉高等女学校、千葉師範学校女子部(分散学校工場)、国鉄千葉機関区や千葉、蘇我の住宅地も標的とされた。この蘇我の空襲犠牲者の墓は、日蓮宗福正寺の墓地にあるが、犠牲となった152人の名前が刻まれている。中世において下総国の守護をつとめた千葉氏所縁の千葉神社、千葉寺といった寺社も被災している。
現在、千葉神社は朱塗りの綺麗な社殿となって、元々の場所に建っているが、かつて空襲まではその南に千葉氏歴代の墓のあった大日寺があった。しかし、大日寺は空襲で全焼してしまい、今は西千葉に墓地もろとも移転して、跡地は通町公園となっている。

このように、千葉市街地は空襲によって、大きな被害を受けた。しかし、その被害の実態は、千葉市政要覧昭和22年度版によれば、罹災面積70万坪、罹災戸数8,904戸、罹災人口38,062人、死者890人、負傷者1,500人となっているが、死者の数などは別の行政資料と数字が合わず、千人以下ではなさそうであることが分かっているのみで、戦災を記録、被災度合を確定しようという行政側の公的な努力がされないまま、今日に至っているのが現状である。

戦後復興の陰に隠れた、戦争体験の風化とともに、千葉空襲も忘れ去られようとしている。

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先日、流山糧秣廠の引込線が一部残っており、柏の葉の陸軍飛行場跡まで通じていると、ある人から聞いた。また隣接する市の教育委員会の学芸員氏からも、柏の陸軍病院から高野台の高射砲陣地あたりまで、線路が残っていたと教えてもらった。ある学校の敷地に線路跡があり、それを学校の人は子供が遊ぶために遊園地にあるような電車が走っていたのだろうと言っているが、自分はそうは思わない。高野台一帯に軍用の線路があったのだろう、とのことであった。糧秣廠の引込線が高野台まで延びていたというのは、途中台地から低地に下る部分があるため、少々無理があり、流山の糧秣廠と柏の高野台までは繋がっていなかったようである。

しかし、流山糧秣廠については、余り戦争遺跡関連の書籍などでも紹介されておらず、幸いにして流山市の方でいろいろ調査しているので、一度資料集めに行くことにする。

実は、その話を聞くまでは、余り流山方面には興味がなく、松戸の千駄堀にある塹壕群を調べようとしていた。それはそれで調べるのだが、流山の話はぜひ何とかものにしようと思う。

それにしても、小生のHPは『千葉県の戦争遺跡』を謳っているのに、なかなか東葛飾から出られない。東葛飾には、まだまだ戦争遺跡があるからである。東葛が片付いたら、佐倉から成田、それも終わったら佐原から銚子方面へ、また木更津から南房総へと足を伸ばしたい。その前に、東葛飾を何とかせねば。
でも、陸サンの戦争遺跡ばかりである。今まで見てきた遺跡で、海軍のものは行田の無線塔跡くらいで、後は木更津まで行かないと。

(写真は柏市高野台にある高射砲第二連隊の営門)

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