海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

海鷲の墓標

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広島で被爆し、長崎に行って更に被爆した二重被爆者の故人をイギリスBBCが「世界一不運な男」などと愚弄する放送をしていたことが判明した。在英日本大使館が抗議したが、イギリス政府からはなしのつぶてだという。

なぜ、何の罪もない被爆者を馬鹿にするのだろうか。イギリス人にとって、第二次世界大戦は笑い話なのか。イギリス人は人権感覚が麻痺しているのだろうか。

被爆者が不運、不幸というより、世界一馬鹿な放送局がBBCであり、こんなロクでもないBBCなど潰れてしまえば良い。

かつての大英帝国の殷賑をきわめた時代は、とっくの昔に去った。しかし、彼らの頭のなかでは、いまだにイギリスが世界の中心であり、日本などは中国の隣にある小さな島国とでも思っているのだろうが、そういうアジアの人間を見下してきたイギリス人の考え方が、今日の衰退のもとになっていることに気づいていないらしい。実際、国際金融市場でもロンドンの役割は、第一次大戦後大幅に低下している。しかも、現在欧州通貨はユーロの時代であり、近い将来ユーロ圏のどこかが、ユーロ不参加のイギリス・ロンドンにとってかわる可能性がある。

日本も、別にイギリスなどと国交を断絶しようが、特段困ることもない。勿論、馬鹿な放送をBBCがしたからといって、イギリスと国交をいますぐ断絶する必要はないだろうが、日本政府は断固抗議し、国際的にこれを糾弾しなければならない。

それは、唯一の被爆国という意味からも必要なことである。

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Kamikaze 神風特攻隊に主観を置きました YouTube 動画 ...
© All Rights Reserved.image from Flickr掲載ページ
: http://paranoids.sakura.ne.jp/youtube/search/Kamikaze/

【画像】1944年11月25日12時56分、空母エセックスに突入直前の山口大尉機(艦上爆撃機・彗星三三型)

学徒兵 許されざる帰還
〜陸軍特攻隊の悲劇〜
http://www.nhk.or.jp/special/onair/071021.html

http://image-search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=slv1-tbtop&p=%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A
 
特攻隊志願者はこうして造られた!
親友、安居所三君の場合!


今の若い方には、後長く生きられて数年という特攻隊に、どうして次々死を覚悟し当時の若者たちが志願して行ったのか不思議に思われると思います。

そこで、今日は、当時中学4年生(今の高校1年生)だった私の親友、安居所三(やすいしょぞう)君が、どうして特攻隊を志願したかのいきさつをお知らせしたいと思います。

安居所三君は、私の親友でした。
放課後、あるいは勤労動員の作業を終わってから、いつも、彦根からの琵琶湖岸の1本道を、一緒に自転車で家に帰りました。

私の家は、今は彦根市に吸収合併された、市の中心部から、自転車で約40分の純農村でした。
安居君の家は、私の住んでいる集落から、さらに、自転車で約20分のところにありました。

その頃は、中学3年生になると、陸軍、海軍の予科練習生(いわゆる予科連)の募集が始まります。
身体の柔軟な、中学3年生から仕込んで、戦闘機乗りに仕立てあげるためです。

当時、皆,腹ペコで、次はぎだらけの制服をきていた私たちにとっては、腹一杯ご飯が食べられて、金ピカの七つボタンに、桜に、碇(いかり)の制服制帽に身をかため、腰に短剣を吊るした予科連生はあこがれの的でした。


しかし、厳格な身体検査に合格しなければ、予科練生になれません。
担任の先生は、毎月1回、クラスの生徒を身長の順番に並べ替えます。
そして背の高い順番に、「ハイ、今月は、先頭からここまで」と、毎月数人ずつ予科連を志願させます。
彼らは、当初は約2年で一人前の飛行機乗りに仕立て上げられ、やがて特攻隊員として死んでゆくのです。

私は、クラスで小さい方から5〜6番で身長が足りず、飛行機の操縦棹に足が届かないため番外です。
安居君は、背の高い方から数番目でしたが、母一人、子一人の家庭だったため受験を免除されていました。

しかし、中学4年生になるとそうもゆかなくなりました。
毎月、毎日、特攻隊で死んでゆくのですから補充が大変です。


 
軍隊は、各中学校長に、学校ごとに、今月は○○名受験させろと割り当てがきます。
校長先生は、各担任の先生に、何名受験させろと割り当てます。

割り当て人数を消化できない担任の先生は、今まで免除していた安居君に目をつけ、勤労動員の後で疲れている安居君を、校舎に呼び出して、連日受検を強制します。
私は、暗くなっても、校門のところで待っていて一緒にかえります。
そんなある日、特別遅くなっても帰ってきません!

やっと帰ってきたので、どうしたと聞くと、もうどうしようもなくなって、断りきれずに、受検することを承諾してきたというのです。
お母さんの反対をどう説得すると聞くと、黙ってハンコを盗み出して願書を提出するというのです。


どうして、反対しきれなかったんだと聞くと、とても断れる雰囲気じゃなかったというのです。

当時の化学実験室は、座席が階段状になっていて、先生は一番低いところで実験をします。
各自が実験するほどの設備がないため、生徒は階段状の椅子に座って、高いところから見守る仕組みになっていました。

その一番低いところに、担任の先生と、相対して座り、担任の先生が、説得するのを、校長先生や、配属将校ど、全校の先生方が見守っているのです。
もう、最後は、担任の先生が気の毒になって、承諾してしまったとのことでした。


それから数日後、彼ともう一人の受験生の送別会を安居君の家で開きました。
はじめは、大人しくしていた二人は、かき集めてきたどぶろくの力を借りて「何が目出たいんだ、あと2年足らずで、俺達は必ず特攻隊で死ななければならないんだぞ!そんな気持ちがお前らに分かるか」と暴れだし、襖や,障子などを打ち破り、やっとのことで皆で抑えつけました。

こうして、昭和20年の7月、彼らは入隊してゆきましたが、8月には敗戦を迎え、幸い特攻隊で、死ぬこともなく帰ってきました。
 
卒業後、大阪の呉服屋さんに勤め、十数年経って、仕事で北海道にやってきて、しばらくぶりに当時の話になりました。

実際に、そのようにしてわずか18〜19歳で死んで行った人々の多かったことか!

戦争賛成!日本の自衛隊も、もっと海外へ、核武装、敵地攻撃論容認などと勇ましいことを言う人は、真っ先に、自分や、自分の子供が、20歳前後には、ほぼ確実に戦死するよな状態を、望んでおられるのかどうか、しっかり、胸に手を当てて、考えてもらいたいものだと思います。


明治時代のジャーナリスト長谷川如是閑氏は、「戦争絶滅請合法案(せんそうぜつめつうけあい法案)」を発表し、政府の高官、その家族が、真っ先に戦場に赴くべきことをのべました。

さしずめ、小泉2世や対馬2世、麻生氏、安倍氏、中川昭一氏や、久間、小池百合子、石破、浜田氏など歴代防衛相や、ついでに元民主党の影の防衛相浅尾氏と、その家族が先ず敵地攻撃とやらに身を挺してもらいましょう!

転載元転載元: 軍事費削って!5秒に一人、飢餓で命を落とす子ら

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NHKの戦争に関する番組

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このところ、余り外出せず、家で本を読むか、テレビを見て過ごすことが多くなった。といっても、体調が悪いわけではない。

以前のように、車を運転してどこか遠くに行って来ることは、もはやできないので、出かけるとしても散歩程度で、電車やバスを乗り継いで行くのだが、この猛暑には正直体力がついていかない。夕方の少し涼しくなってからと思っても、夕方がまだ暑いのだ。10月くらいにならないと、本格的な外出は出来ないかもしれない。

ところで、家でテレビを見るといっても、今は余り面白いものがない。CS放送などでは、古い映画番組もあるが、あいにく加入していないので見ることができない。だから、たまにある特集番組などを、見る程度であった。そのなかで、NHKが着色された戦争当時の実写を番組化していた。これは、非常に興味深く、集中して見ていた。南方で戦死した人たち、担架で運ばれる負傷したアメリカ兵など、極めてリアルであった。サイパンで万歳突撃をした日本兵たちの亡骸が、空しく横たわり、戦争の現実をそのまま伝えていた。

誰も戦争で死ぬことを覚悟して、この世に生まれてきた訳ではない。敵も味方も、身内はあり、故郷はあり、多くは平和な暮らしを望んでいた、普通の人々なのである。それを戦場で殺し合いさせる戦争は、馬鹿げているし、いまだに侵略戦争を賛美する連中は、死者への冒涜を行っているのに他ならない。

それにしても、ベルリンに撃ち込まれるソビエト軍の砲が発射されるときの鮮やかな黄色、国会議事堂に翻った赤い国旗。デジタルリマスターならではの、鮮明な画像と色彩であった。最近は、昔の録画でも、昨日撮ってきたように鮮やかに見えるのだから、技術の進歩はすごい。

今後も、以下のようにETV特集の番組があるらしい。また見てみようと思う。そのうち、この滅茶苦茶な暑さもひくだろう。

9月 5日:「シリーズ安保とその時代 第3回 証言60年安保・激動の一ヶ月」

9月12日:「シリーズ安保とその時代 第4回 「愚者の楽園」へ 〜“安保賛成”を訴えた男たち〜(仮)」

9月19日:「戦争は愚劣だ 〜新藤兼人・98歳の執念〜(仮)」

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木更津海軍航空隊は、九六式陸上中型攻撃機(中攻)のメッカである。

房総半島の海軍基地の中で、東京湾に面した広大な敷地、長大な滑走路をもち、大型飛行機を配備するには、もってこいの基地であった。その中攻、すなわち九六式陸上中型攻撃機は、兵器採用されるまでは九試中型陸上攻撃機といい、山本五十六少将(当時)肝いりで開発されて性能もよく、九六式陸上中型攻撃機二一型で、最大速度が時速380Kmであった。同時期に同時期開発された広工廠七試特別攻撃機は、九五式陸上攻撃機(大攻)となった。その大攻は爆弾の搭載能力は2トンの爆弾を搭載できるというものであったが、性能が劣り、「馬鹿鴉」と蔑視された。

1936年(昭和11年)9月24日、北海事件を契機として、木更津空・鹿屋空陸攻選抜隊で第十一航空隊を編成し、台湾の陸軍屏東飛行場に進出した。この北海事件は広東省北海で日本人薬種商中野順三を暴漢が殺害したという事件で、これを奇貨として日本軍は一気に広東に出動しようとしたのである。しかしながら、11月26日に北海事件が解決すると、第十一航空隊の出動はなくなり、原隊復帰した。

この短い編成期間中に第十一航空隊におきた特筆すべき事項は、木更津基地を飛び立って、台湾を目指した大攻一機(機長:亀田三郎航空兵曹長)が10月4日に伊豆半島東岸沖に墜落、乗員8名が殉職したことのみである(以下:アジ歴文書より該当記事を引用)。

件名標題(日本語) 11空隊機密第19号の2 11.12.5  95式陸上攻撃機航空事故調書 
階層 防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>公文備考等>公文備考>昭和>昭和11年>公文備考 昭和11年 T 事件 巻9
レファレンスコード C05035417400 
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発送番号 十一空隊機密第九号ノ@ 昭和 年 月 日 於 第十一航空隊 所轄長職氏名印 第十一航空隊司令 竹中龍三(ママ) 

(航空機名) 九五式陸上攻撃機 航空事故調書 

事故発生年月日時及場所 昭和十一年十月四日 〇七五五・伊豆半島東岸稲取岬ノ沖 

航空作業種別 木更津鹿屋間移動 

搭乗員 操縦員 官(職)階氏名 飛行時数 海軍航空兵曹長 亀田三郎 経歴(操縦ニ関スルモノ) 五期操練 大正一三・二・二八卒業 総飛行時数 二三二八−五五 九五式陸攻飛行時数 一〇九−三五 

搭乗員 操縦員 (以下、官姓名以外略) 海軍一等航空兵 村山作蔵

同乗員   ニ空曹 山本善一郎(偵察員)

      三空曹 原 典夫(偵察員)

            一空    松本哲夫(電信員)

            一空    佐藤正三(電信員)

            ニ整曹 重松重雄(搭乗発動機員)

            三整曹 伊藤末吉(搭乗発動機員)

(略)

損傷ノ程度 掩乗員 八名殉職 器材 大破
 


かねて中国東北部に清朝の廃帝溥儀を担ぎ出して「満州国」という傀儡政権を樹立し、中国大陸を南下して侵略を進めていた日本とそれに抗する中国は、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件に端を発し、日中の全面戦争に突入していった。

日中戦争開始直後の7月11日 戦火拡大に備え、日本海軍中央は即応準備令を発し、木更津空・鹿屋空の中攻主力で第一連合航空隊を編成し、司令部を木更津に置いた(16日に鹿屋空に転進)。司令部の要員については、司令官として館山航空隊司令戸塚道太郎大佐をあて、先任参謀には菊池朝三中佐が起用された。8月1日の陣容は木更津本隊は、館山空の中攻を編入し、中攻20機。司令:竹中龍造大佐、准士官以上39名、兵員573名。残留隊は中攻数機、大攻6機で荒木啓吉中佐を指揮官とし、准士官以上15,6名、兵員200名。

鹿屋空隊は中攻18機で司令は石井芸江大佐。

かくして、8月8日木更津本隊は大村基地へ、司令部と鹿空隊は台北松山基地に進出完了した。そして第一連合航空隊は、第三艦隊司令長官(長谷川清中将)の指揮下にはいった。当初8月8日の移動と同時に、作戦行動を起こす予定だったらしいが、折からの台風の影響で、それは数日延期されることとなった。

そして渡洋爆撃が開始されるのだが、渡洋爆撃前に中国本土への攻撃に備えて台湾に移動しようとした飛行機隊の一機が墜落したことは、あまり知られていない。

(写真は九五式陸上攻撃機)

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桜雑感

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先日鉄道連隊の下志津支線跡を歩いていて、ちょうど下志津陸軍飛行場跡の自衛隊北西端あたりから北東にのびる道の途中、墓地にさしかかったあたりで、良い香りがするので見れば蝋梅の花が満開であった。
もうこんな季節になったかと思えば、家の庭に咲く紅梅と白梅の写真を撮らせてくれとご近所の人が来て、写真を撮っていった。その方は、丁寧に出来た写真を置いていったが、侘び住まいの我が家の庭もたまには人の役に立つこともあるかと思った次第。

もうじき、桜も咲くだろう。しかし、桜はやたらに武士道と結び付けられ、わが海軍の襟章、袖章にも桜がはいり、だいたい予科練の七つ釦は桜に錨である。「桜花」や「桜弾」という特攻兵器の名前にもなった。

その桜の咲く頃となった1945年3月13日深夜に、大阪に大きな空襲があり、小生がいた奈良からも空が焼けるように見えた。大阪市街を襲った爆撃により、50万人ほどの人がなくなった。また、その3日前の3月10日の陸軍記念日には東京大空襲があった。東京でも大阪でも、無辜の市民がたくさん犠牲になった。東京でも上野あたりの早咲きの桜は既に満開だったという。だから、なんとなく桜という花には悲しい印象がある。

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あの大空襲は、しかしながら日本の方が先に中国に対して行った南京爆撃や重慶爆撃といった渡洋爆撃という名の無差別空襲の繰り返しでもある。日本の無辜の被災者は、当然ながら戦争の被害者であるが、日本全体としてみれば、日本の軍部は空襲の加害者になる。
しかし、軍人全体が戦争の加害者かといえば、そうではない。戦闘に加わっていないもの、例えば予科練、海軍予備学生などまで戦争の加害者ということはない。また戦争の遂行に指導的な立場であったものと、命令により捕虜殺害などの戦争犯罪に加担したものの責任の軽重は明らかであるが、「私は貝になりたい」で描かれたような悲劇も往々にしたあった。

あの終戦の8月15日、前夜は空襲警報もなく、やけに静かであった。その日は朝から大変暑く、正午に重大放送があると事前に知らされていたので、小生のいた航空隊でも、整列させられ、「玉音放送」を聞いたのであるが、反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。それでも、戦争に負けたということはなんとなく分かり、無条件降伏をすることになったと明確に聞かされると、嗚咽の声が聞こえ、みな呆然としていた。分隊長や分隊士から「軽挙妄動をするな、決して腹を切るな」と言われたが、小生など切腹の作法はどうすればよいのか、という疑問の方が先に立ち、そこまで考える者がいるとは思っていなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。終戦、日本は負けた、いくら考えても埋まらない、いままで聞かされてきたこととのギャップ。「神州不滅」は嘘だったのか。日本は神の国、負けるはずがないのではなかったのか。その何とも表現できない思い。軍艦旗は降ろされ、奉焼された。

当時、鈴鹿空では士官のなかに山に籠って徹底抗戦するとか言い出すものもいたが、しばらくすると収まった。東京近辺では、近衛師団の一部参謀が反乱をおこし、それに陸軍航空士官学校の一部軍人が加担したし、厚木の海軍航空隊は小薗司令のもと徹底抗戦を叫び、一時騒然としたそうだが、関西ではそういうことはなかった。

しかし、終戦の放送のあった翌日16日に、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したというのを後から知った。あの分隊長たちから「腹を切るな」と言われたときに、切腹の作法のことを考えていた自分が何か恥ずかしく、非常な衝撃を受けた。

「若い血潮の予科練の七つ釦は桜に錨・・・」、霞ヶ浦が予科練の東のメッカなら、三重は西のメッカだった。
奈良空も1945年(昭和20年)3月に独立するまでは、三重海軍航空隊奈良分遣隊だった。その本隊での森崎湊予備学生の自決。

小生も二十年ほど前に、一度三重空のあった香良洲浜に行ったことがある。そこにある若桜福祉会館という予科練の記念館には三重空の隊門があり、軍艦旗が以前のように翻っていた。そうだ、俺たち自身が若桜だったんだ。会館のなかには、事務の人と小生以外は遺族らしい人数人がいたきりで、元軍人らしき人はほかにおらず、外にあるいくつかの慰霊碑、記念碑や大きな錨などが仰々しくみえた。

そこで見た森崎湊予備学生の写真は、小生が想像していた優しそうな顔ではなく、目の鋭い、顎の大きな、どちらかと言えば武骨な顔で、典型的な海軍軍人の顔立ちであった。映画監督の森崎東さんの実の兄ということだが、喜劇映画の監督である弟と目の鋭い士官候補生がどうしてもむすびつかない。

この森崎湊予備学生の日記などが、まとめられた本として、「遺書 海軍予備学生 森崎 湊」というものがある。その本の装丁にも何故か桜が使われている。

また、桜の季節が来るが、何となく悲しく思える。

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