海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

海鷲の墓標

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終戦時の別府海軍病院長、鏑木喜平元海軍軍医中将は、1919年(大正8年)東大卒業後海軍軍医中尉となって高松宮の侍医をつとめるべく海軍兵学校附であったが、その後大尉となって1923年(大正12年)軍艦神威の軍医長に任じられた。その間、アメリカのカルフォルニアにて大学医学部を見学するなどして、見識を深めていった。

その時の文章が残っていたので、紹介する。我々の身内だから云うわけでないが、後世の不勉強で、一種神がかり的な軍人とは、まったく一線を画するものである。

海軍軍医大尉 鏑木喜平

一.カリフォルニヤ大学医学部附属病院見学

四月十一日桑港日本人街十全病院・加州大学医学部出身ノ橋田喜安両氏ヲ訪問シ大学病院見学ノ件ヲ請フニ直ニ両氏ノ快諾ヲ得テ同市郊外「ツウィーンピーク」山麓ニ自動車ヲ駆リ短時間乍ラ大体院内ヲ瞥見スルコトヲ得タリ

病院ハ山麓高燥ノ土地ヲ占メ近ク市街及金門公園ヲ見下シ遠ク太平洋ノ水平線上ニ盡クルヲ見晴ス等已ニ地ノ利ヲ得 加フルニ院ノ内外頗ル清浄ニ設備悉ク整ヒ誠ニ吾人ヲシテ羨望ニ耐ヘサラシメタリ

殊ニ驚嘆ニ値シタルハ多数ノ女学生カ男学生ト相伍シテ到ル処ニ孜々勉学シ居レル所ニシテ我国ニ於テカヽル状況ヲ見ンハ到底近キ将来ニハ非ザルベシ

束導ノ両氏執務ノ都合アリテ充分視察ノ時間ヲ許サザリシハ遺憾ナリキ

ニ.州立カリフォルニヤ大学見学

同日午後前記橋田氏ノ好意ヲ以テ多忙中ナリシニモ拘ラス「バークレー」市ナル同大学ヲ見学スルコトヲ得タリ
同大学ハ各科総合制ニシテ前記病院カ桑港ニアルト農学部実習所カ「サクラメント」郊外ニアル外ハ各科悉ク同構内ニアリ

規模内容夫々米国一流ノ大学タルニ恥チス
之等荘麗ナル建築物ノ間ニアリテ独リ医学部ノ校舎ノミハ何レモ極メテ貧弱ニシテ約七十年前同大学創立当時其ノ儘ナルモノ多ク外観ノ見ルヘキモノ一モ無カリシハ成金国タル米国ノ大学ニ於テ見ルコト予期セサル所ナリキ、橋田氏ノ説明ニ依レハ法、工、文科等ノ建物ハ一般富豪ノ寄附金又ハ有力ナル卒業生ノ醵金或ハ学生主催ノ公債募集等ニ依リテ年々増築或ハ改築セラレ老朽ミルニ耐ヘサルカ如キハ殆ト之無キモ医学部ノミハ一般富豪ヨリモ殆ト顧ミラレス卒業生等ニモ職業ノ性質上有力ナル資本家モ出テサルヲ以テ主トシテ州責ノ補助ヲ以テ維持セラレサルヘカラサル境遇ニアルカ故ナリト云フ、資本主義、実業主義ノ米国トシテハ蓋シ止ムヲ得サル所ナルヘシ
然レトモ医学部各科教室ヲ一巡スルニ内容ハ中々整頓シ吾カ東京帝国大学医学部等比較スルモ決シテ遜色ナキモノト認メラル殊ニ衛生細菌学研究室ハ同所ニ州立衛生試験所併置セラレ居ルヲ以テ外観内容共ニ他教室ニ卓越セルモノアリキ之レ単ニ医学ト関係アルノミナラス公衆衛生ト密接ナル関係アルヲ以テ州トシテモ特ニ目ヲ掛クルカ為ナルヘシ
次ニ特筆ニ値スヘシト認メタルハ同大学ノ軍隊教育徹底ノ有様ナリ各科男子学生ノ初級者即チ一学年及二学年学生ハ身体虚弱ナルモノノ外全ヘテ一週四時間ノ軍隊教育ヲ受クヘキ義務アリ
之カ為ニ上級学生ニハ服装ノ制限ナケレトモ之等初級学生ハ必ス「カーキー」色軍服ヲ着用セサルヘカラス市街ナトニテ之等ノ学生ニ逢フ者知ラサレハ士官学生ト誤ルヘシ此ノ月モ校庭ニ於テ銃隊教練実施セラレ居ルヲ見タリ
自由主義ヲ標榜スル米国ノ而モ最モ自由ヲ高唱スヘキ所ノ大学生ニ於テ已ニ斯ノ如シ、以下一般ノ国民軍事教育普及ノ度ハ推シテ知ルヘキノミ
二千年来軍国主義(消して)尚武ヲ以テ国是トシ世界一般ヨリモ之レヲ以テ名アリトセラレタル我カ国・近時ノ状態ハ果シテ如何取ッテ以テ範トスヘシト強フヘカラサリシモ徒ニ対岸ノ狂言視スヘキモノナラサルヘシト信ス
                              (終)


このように、アメリカの先進的な医療教育に接し、男女平等で学んでいる姿を含め、新鮮な驚きを率直に表現している。文章は平明で、字も達筆ではないが、楷書で比較的丁寧に書かれている。最後の方で「軍国主義ヲ以テ国是トシ」の「軍国主義」が「尚武」と書き改めてあるが、不適切だと注意されたのだろうか。教育内容だけでなく、主題とは直接関係のない建物の概観、寄附の実態、軍隊教育など細かいことも書いてあり、行間から筆者の人柄が偲ばれる。

また、1934年(昭和9年)、海軍軍医中佐のときに、欧米各国を外遊している。鏑木喜平軍医は、別に親英米派ではないが、欧米の先進的な医学を見聞し、広い視野をもっていたことは間違いない。


(写真は軍艦神威  出典:「海軍艦艇史3航空母艦」)

ああ藤ヶ谷陸軍飛行場

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戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となり、1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した陸軍第十飛行師団の飛行第五十三戦隊が根拠とした。

この飛行第五十三戦隊は、三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五十三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。

<屠龍>
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実際に第五十三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五十三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。

この飛行第五十三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。

<一〇〇式司令部偵察機>
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藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。

そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五十三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。

現在、下総航空基地と呼んでいるが、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されているものの、松戸飛行場とは違い、旧陸軍飛行場当時の建物、施設は残されていないようである。

別に記載した地下格納庫以外には、掩体壕が鎌ヶ谷市初富に近年まで残っていたが、それもなくなった。

(冒頭の写真は地下格納庫跡)

参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)

参考サイト:
海上自衛隊下総教育航空群 http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/

嗚呼海軍七勇殉難之趾

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船橋市は新京成滝不動駅から東に1Km余り行ったところに、大穴という地区がある。その大穴北8丁目にある高齢者用住宅の近くに、谷津田に面して、台地中段が帯状に平坦になっている場所があるが、なにやら石塔があるのに気付く。近くに寄らなければ分からないが、実はその石塔は「嗚呼海軍七勇殉難之趾」と彫られており、戦争中に海軍機が墜落した慰霊碑である。

(慰霊碑のある台地中段)
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そのあたりには谷津田があり、以前は周囲にほとんど家など建っていなかったが、最近では市街化が進み、谷津田沿いの道も散歩したり、サイクリングしている人も多い。たぶん、そうした人は、ここが日本海軍の一式陸上攻撃機が墜落した場所であることは知らないであろう。

大穴という集落は、江戸時代からあり、女流俳人である斎藤その女が出た。その中心地は、もっと東の西光院辺りだったと思うが、斎藤その女の墓もその西光院にある。それはともかくとして、上述の場所に一式陸攻が墜落したのは1942年(昭和17年)11月27日で、乗組員の7名が亡くなった。だから、くだんの慰霊碑にも、「海軍七勇」と彫ってあるのである。

墜落した一式陸攻は、第七〇二海軍航空隊所属のもので、殉職した7名とは飛曹長1名、一飛曹2名、一整曹1名、二飛曹3名の准士官・下士官たちであった。第七〇二海軍航空隊といえば、第四海軍航空隊がラバウルから木更津に帰還する際に改称したものである。第四海軍航空隊は、一式陸攻をラバウルに配備するために、台湾の高雄海軍航空隊から19機引き抜き、千歳空の中攻8機とあわせて1942年(昭和17年)2月に編成された陸上攻撃機の航空隊である。しかし、その編成から半年後の8月7日にはガダルカナル島に上陸した米軍を攻撃し、6機を失い、翌8月8日には第一次ソロモン海戦に出撃するも、わずか3機が帰還でき、殆ど壊滅に近い状態となったといういわくつきの航空隊である。その後も、大きな痛手を受けることがあり、そのため第四航空隊、略して四空は、かげで「死空」と呼ばれるにいたった。

ラバウルは、日本陸海軍が南洋諸島のなかで、最重要拠点としたが、第四海軍航空隊は大きく傷つき木更津に帰還して、名前を第七〇二海軍航空隊とかえ、夜間攻撃訓練、本州東方海上哨戒にあたった。その後、1943年(昭和18年)春には再びラバウルへ行くのであるが、大穴の墜落事故は木更津にいる間に起きた。

(富士山付近を飛ぶ一式陸攻)
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1942年(昭和17年)11月27日早朝4時過ぎのこと、天候が急変し、豪雨、雷となったところ、飛行訓練中であった第七〇二海軍航空隊の一式陸攻が大轟音とともに、当地に墜落した。そのため、近隣の人が駆けつけると、墜落した一式陸攻の機体は真っ二つとなって折れており、あたりには油のにおいがし、煙がたちこめていたという。墜落現場は、憲兵や警察隊などが取り囲むなか、当時の豊富村の斎藤村長だけがある程度まで近くに入ることを許された。当時の斎藤村長は、戦後も30年以上生きていたため、斎藤村長の見聞したことが伝わっており、それで当時の様子がある程度分かっている。とにかく、憲兵たちはこれは軍の機密であるから、見聞きしたことを決して漏らさないように、口外しないようにと、再三村民に注意したという。
その翌日には4台のトラックで飛行機の残骸をきれいに運び出し、斎藤村長(当時)のもとには海軍当局から極秘の書状が届いたという。

慰霊碑が建立されたのは、墜落事故の3カ月後の1943年(昭和18年)2月27日で、地元の有志が中心となったようである。建立された当初は、建てた当人たちが管理していたのだろうが、どういうわけか1964年(昭和39年)近所の住民が偶然発見するまで、土中に殆どが埋もれていた。慰霊碑は白御影石でできており、正面の「嗚呼海軍七勇殉難之趾」は大きな字で明確に分かるが、裏面と側面の字が細かくて分かりにくい。薄曇りの日を選んで行き、斜めから見るなどして、何とか判読すれば、以下の通りであった。

(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

(向かって右側面)
昭和十八年二月二十七日建之 (以下略)

思えば、ラバウルから帰還し、飛行訓練をしていた飛行兵曹長と下士官連中は、まさか内地のこんな田圃の近くの山林で墜落して死ぬとは思っていなかったに違いない。その事故を軍機密と処理した海軍、それに対して慰霊碑を建てた当地の住民。戦後一時期、土中に埋もれていた(あるいは故意に埋められていた)、この慰霊碑には、時々誰かがお参りしているものと見え、先日はきれいなユリの花などが供えられていた。こうした慰霊碑には、当時の世相を反映して軍国調な言葉が使われているが、その言葉とは別に近隣の人々の思いが伝わってくる。

(花が供えられた慰霊碑)
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(参考文献)
平成15年第4回船橋市議会定例会会議録

(参考サイト)
生まれも育ちも東葛飾
http://blogs.yahoo.co.jp/nonki1945/folder/556027.html?m=lc&p=2

軍旗

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以前、兵たちが南方から持ち帰った、陸軍歩兵第五七連隊の房だけになった軍旗を展示してあるのを見たことがある。

1944年(昭和19年)7月24日第一師団のフィリピン、レイテ島への動員下命があり、8月20日歩兵第五七連隊(連隊長:宮内大佐)は孫呉を出発。上海を経由して、フィリピンへ向かった。11月1日にレイテ島オルモックから上陸、11月初旬リモン峠で米軍と戦闘、ここで約2,500名のうち約2,000名もの戦死者を出した。12月21日、第一師団はりモン峠を棄て、その西のカンギポット山方面へ敗走、1945年(昭和20年)1月15日、軍命令で、レイテ島からセブ島に連隊長以下198名移転、レイテ島に間宮大尉以下115名残留した。セブ島ではかろうじて回りの房飾りの部分だけになった、連隊旗が保持された。戦闘に参加した2,541名のうち、戦死2400名以上、8月15日現在の生存者114名となったいう。連隊旗は、のちに生存者によって分割保管され、内地帰還後に結合されて、現存している。

その話は「人間の旗〜甦った血と涙の連隊旗〜」(岩川隆)に書かれている。「レイテ島で戦った将兵は、終戦を迎えたとき、戦友の血と涙にまみれた軍旗を奉焼するにしのびず、ひそかに切り刻んで分配した。……そして戦後三十有余年、苦心のすえ幻の連隊旗は復元されたのだ」(光文社の解説より)

敗戦時、軍の命令で、軍旗あるいは軍艦旗奉焼は日本全国あるいは外地においても、ひろく行われた。

その軍命令にも関わらず、軍旗を焼かずに持ち帰るとは、今の人の観念からも理解しがたいと思う。しかし、その気持ちは小生も分かるような気がする。

敗戦の日以降、海軍飛行基地にいた小生の周りでは、慌しく解員帰郷が進められ、そのなかで我々飛行兵もアメリカに連れていかれて強制労働させられるんではないか、と真剣に心配している奴がいた。しかし、そうはならず、みな軍服を脱いでか、着たままかは別として、故郷に帰ったのである。

戦争が終わり、あらゆる過去の遺物が清算されることは、過去の忌まわしいことも含めて記憶を残さないということになる。軍旗を持ち帰った行為は正しくないかもしれないが、彼らの御蔭で日本の軍国主義が郷党意識をうまく使って、士気を維持し、戦闘力も培っていたことの物的な証拠が残ったともいえる。

(写真は歩兵第五七連隊の軍旗ではありません)

前にかいたように、四街道市で、つい最近フィリピンから米兵が持ち帰った、寄せ書きの日章旗が遺族に返還され、本日12月21日、四街道市核兵器廃絶平和都市宣言二十五周年記念式典が開催され、その会場で展示された。式典開場前から、待ち行列が作られ、開場してからは市民ホールの中は大勢の人であふれ、ほぼ満席の状態。

四街道市長らの来賓の挨拶の後、四街道在住の人から広島での原爆体験が語られ、米国人の詩人アーサービナードさんから第五福竜丸のことなどが講演で述べられた。四街道は、くしくも陸軍野戦砲兵学校や野戦重砲兵第四連隊などあった、いわば軍隊の町であった。だから、その話や関連の展示もあるかと思えば、それはなく核兵器廃絶の話が中心であった。そのほか、音楽演奏や歌、市原悦子さんによる朗読などがあった。

<返還された日章旗>
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たしかに、小生らの目的の寄せ書きの日章旗は会場にあったが、戦争末期の1945年2月、フィリピン・ルソン島で戦死したという、もともとの持ち主の旧陸軍の兵士の経歴や戦闘の様子などを示す展示はなかった。

日章旗には「祈武運長久 大熊武雄君」とあり、日の丸のまわりに40名ほどの名前が書き込まれている。それは現在の四街道近辺の近所の人や、友人たちであるという。その大熊という人は亡くなった1945年2月当時、24歳だったといい、写真をみると襟章は兵長のものであった。

この返還には戦争遺留品の返還運動をしている、「戦争を語り継ごう」の西宮市の西羽さんが寄与しており、そのブログに経緯などが書かれている。


今回の会場での展示でも、日章旗を持ち帰り、返還した側の元米国海軍軍人アール・ウートン氏のメッセージは掲示されており、彼が所属した部隊が移動したフィリピン・レイテ島、タクロバン、ルソン島、リンガウエンなどの地名を見るに、その戦火の激しさ、米軍の圧倒的な物量・火力の前にジャングルの奥地に追い込まれていった、日本兵の生存率の低さは容易に想像がつく。

<展示に見入る来場者>
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実は以前、日中戦争当時は広東作戦に従軍、太平洋戦争では広東守備の任務ののち、内地帰還し、大阪の野砲兵隊、高射砲部隊にいて大隊長を務めたという元陸軍少佐の孫娘である花子君と一緒に四街道に来たことがある。そのときは、ルボン山に登ってもらったり、将校集会所の土塁から古い建物を写真にとってもらったりした。野戦重砲兵第四連隊の隊門の道路を挟んで、ちゃっかり将校集会所の裏門があるのが面白い。

<野戦重砲兵第四連隊 将校集会所の裏門>
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そのときには、気付かなかったが、旧将校集会所の周囲にある土塁側の松の木に大きく削った跡があり、それは松ヤニを取った跡なのである。なぜそんなことをしたかといえば、松ヤニを精製してロジン、テレビン油としたのである。また、松根油については、ガソリンの代替にしようと本気で考えていたのである。松200本で、飛行機が1時間飛ぶというのだから、どこまで節約するつもりだったのか。

<野重砲四連隊 将校集会所近くの松の枯れ木>
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