海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

海鷲の墓標

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ああ、なんと寂しい海鷲の墓標であろうか。

訪ねる人も殆ど、おるまい。小生も、だいぶ時間をかけて探した。成田にある、霞ヶ浦海軍航空隊機の墜落慰霊碑を。

小生の家から成田山へは、京成電車でたいした時間もかけずに行くことができる。しかし、いかんせん、同じ仏教でも宗派が違い、成田山へ初詣することはできない。あまり知られていないが、太平洋戦争が始まる前、その成田山に隣接する、成田高校近くに霞ヶ浦海軍航空隊の練習機が落ちた。いつか現場に行ってみようと思いつつ、そのままになっていた。ようやく、その気になって、成田まで行ってきた。

1936年(昭和11年)3月12日、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行機が故障のために現・成田高校の裏山に墜落、田中助市海軍一等航空兵曹、江口義夫海軍一等整備兵曹の両名が亡くなっている。これについて、「千葉県の戦争遺跡をあるく」の記事では名前こそ合っているが、田中助市兵曹を海軍一等航空兵として階級が間違っているし、江口義夫兵曹については何故か「陸軍」になっていた。
当時の一等兵曹は、1942年(昭和17年)11月の兵制改革以降の上等兵曹にあたり、陸軍では曹長に相当する。海軍一等航空兵曹と海軍一等航空兵、後の海軍上等飛行兵とは、陸軍でいえば、曹長と上等兵の差である。

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それに海軍の飛行兵と陸軍の下士官が同じ飛行機で飛ぶことなど、通常あり得ない。そんなことは、少なくとも軍隊経験者にとっては常識であるが、今の人はなかなか分からないのだろう。陸軍と海軍が共同で何かやったというのは、南方の狭い島の中での作戦とか、終戦間際の秋水の開発くらいなもので、1930年代頃では聞いたことがない。「千葉県の戦争遺跡をあるく」は、大きくは妥当な記事が多いが、よく読んでみるとこういう間違いが散見される。

なにしろ、この慰霊碑の場所が分かりにくい。「千葉県の戦争遺跡をあるく」にあった地図と記事を頼りに歩いたが、同じところをぐるぐるまわってしまい、いやになった。それで、近隣の方に聞いたのだが、成田公園の三池照鳳大僧正の銅像を南に墓地の横を通って、参道まで出て、参道沿いの土産物屋で聞いてみた。そこのおばさんは、「よそから嫁に来たので分からない、今おじいさんに聞いてみるから」と奥へ聞きに行った。そしたら、その老主人がかろうじて、戦前成田高校の裏山に飛行機が落ちたことを記憶していた。だが、その慰霊碑の場所は分からないという。成田高校の裏山だから、その近くで聞いてみてくださいとのこと。やむなく、成田高校に向かい、歩いていったが、やっぱり分からない。古い話なので仕方がないが、事故そのものが風化している。近所の住民で、墜落事故を記憶していたのが、一人だけとは。やはり、自力で見つけるしかないか、と再び「千葉県の戦争遺跡をあるく」の記述の基点である三池照鳳大僧正の銅像のところに戻った。

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「千葉県の戦争遺跡をあるく」では、三池照鳳大僧正の銅像を右にみて、まっすぐ行って下り、下り降りたところを右手に折れながら坂道を登っていくと碑のある場所に出るとある。
まっすぐ下りたところには割烹料理屋の名取亭がある。その辺りから右手に折れながら坂道を登る、というと成田公園の中の道では、桜山という広場のような場所に出る。しかし、そこには該当の碑などなく、ベンチがある位。鈴木三重吉の文学碑はあったが、それは関係ない。鈴木三重吉の文学碑には

古巣はさびても
小鳥はかよふ
昔忘れぬ屋根の下

とあった。もう碑は、ここにはないのではないか、ふとそういう疑念が頭をもたげる。割烹名取亭を通りすぎると、地図の場所とは離れてしまう。あるとすれば、この近辺。しかし、なかなか分からなかった。
名取亭の駐車場には年配のおじさんがいたが、あの人に聞いてみようかと思い、また坂を下りた。名取亭に近づくと板前さんが道に出ていた。聞いてみたが、やっぱり分からなかったが、「大おかみなら知っているかな、帳場をのぞいてみてください」とのことで、小生、帳場へ。しかし、いたのは現役のおかみのみで、おかみは社長を呼んだ。社長が出てくるまで、しばらく待ったが、正月の参詣客で店内はごった返し、こんなときに聞きにきたのを後悔し、おとなしくしていた。

出てきた社長という人物は意外にも若かった。小生が手に持っていた「千葉県の戦争遺跡をあるく」の地図をみると、「池がここでしょ、じゃあこっちだなあ」と、店から草履で出て、小生に方向を指差してみせた。すると、やはり一度小生が低地に出て、登った方向を指している。あの辺りには碑がいろいろありますからとのことだった。やはり、そうか。小生、社長に礼を言い、探していた場所は間違っていなかったと思いながら、再び同じように登ったが、今度は公園内の道ではなく、舗装された外側の道を登った。道を登った台地中段に大浦屋という、廃業した蕎麦屋があり、もう一軒営業していない店があった。

その店の裏に、もしかしてと思い入ってみた。その店とは、一休庵といったと思うが、その店も廃業したものか、しもた屋のように見える。その家のなかに犬がいて、近づくと吠えるので往生した。その家屋の裏に細い通路があり、急な階段を登ると、四角柱の形をした碑が見えてくる。「故海軍一等航空兵曹勲七等田中助市君、故海軍一等整備兵曹勲七等江口義夫君」と銘がある。この碑は1938年(昭和13年)3月12日に成田町有志によって設立された。幅は50cmほどで厚みも同じ位か。高さは約2mである。どうせ建てるなら、もっと大きな碑をとも思うが、台地の端の狭い場所ゆえ、仕方なかったのかもしれない。碑文は成田山貫首荒木照定が書き、成田町総代として宮崎廣町長の名が刻まれている。

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この碑の存在自体、近所の人も殆ど知らず、最後に聞いた割烹名取亭の社長以下、従業員の方には忙しいときにお騒がせした。
細かい場所は違っていたが、名取亭の社長の指した方向はあっており、何とかたどり着くことができた。

海軍に予科練の制度が出来たのは、1930年(昭和5年)で、それは横須賀海軍航空隊のなかであった。
よく若鷲の歌の中に「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ」という詞があるために、予科練発祥の地は霞ヶ浦と思っている人がいるが、そうではない。1930年(昭和5年)、海軍飛行予科練習生の制度が設けられ、横須賀海軍航空隊の一隅に開かれた「横須賀海軍航空隊予科練習部」が予科練の始まりであった。当時は、予科練といっても、甲種も丙種もない、乙種一本であったが、他に区別する必要もなかったので、乙種という言葉もなかった。予科練の制度が設けられたのは、近代戦における航空兵力の増強のために、飛行兵の養成が急務となったためである。

横須賀の貝山緑地には、「予科練誕生之地」の碑という碑や甲飛出身者が建てた碑もあるが、1937年(昭和12年)に横須賀海軍航空隊が建てた「海軍航空発祥之地」という碑があり、以下のように書かれている。

「明治四十五年始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追濱ニトシ 
東西二百米南北六百米ノ地積ヲ劃シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日海軍大尉河野三吉カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス同六日海軍大尉金子養三モ
亦ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 是実ニ帝國海軍飛行ノ嚆矢ナリ
今茲ニ碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ以テ記念ト為スト言フ 
                       昭和十二年十一月二日  横須賀海軍航空隊」

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実は、横須賀は横須賀鎮守府のある海軍のメッカであるとともに、海軍航空発祥の地でもあった。1903年(明治36年)、ライト兄弟が動力飛行を成功させたが、その4年後の1907年(明治40年)には海軍軍令部の山本英輔海軍少佐は飛行機の将来性に注目した。その山本英輔海軍少佐の意見具申に動かされた斎藤実海軍大臣が、寺内正毅陸軍大臣とはかって1909年(明治42年)に創設したのが「臨時軍用気球研究会」。当初、航空機というと気球が第一に考えられたようである。飛行機の実際の飛行という意味では、陸軍は1909年(明治42年)12月にフランスから購入した、アンリ・ファルマン機で徳川好敏工兵大尉が、ドイツから購入したグラーデ機で日野大尉が、ともに代々木練兵場で初飛行に成功した。遅れをとった海軍は、艦船協力のための水上機にこだわっていたが、ようやく1911年(明治44年)に金子養三大尉をフランスに、翌1912年(明治45年)に河野三吉、山田忠治、中島知久平の三人の大尉をアメリカに派遣し、陸上機、水上機の操縦、整備を学ばせた。帰国に際して、金子大尉はモーリス・ファルマン式二機、河野大尉らはカーチス式二機の水上機を持ち帰った。

1912年(大正元年)11月2日河野大尉が横須賀追浜で持ち帰ったカーチス機で海軍としては初めての飛行を行った。同月6日には、金子大尉も飛んでいる。

水上機に着目した海軍は、すでに1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員会を新設し、横須賀追浜に海軍水上飛行場を設置した。そして、1916年(大正5年)3月17日、海軍は海軍航空隊令を制定し、横須賀追浜の海軍航空術研究委員会を正式な海軍部隊とし、横須賀海軍航空隊が4月1日付けで誕生した。
この年からは、ファルマン式水上機は横須賀海軍工廠で製作可能となり、中島機関大尉、馬越中尉の共同設計、横須賀海軍工廠製作の複葉水上機が完成した。その中島知久平機関大尉は海軍を辞し、翌1917年(大正6年)6月に群馬県太田市に中島飛行機工場を設立、民間の立場から飛行機生産に乗り出した。

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一方、1916年(大正5年)イギリスに派遣され、航空母艦の発着艦訓練を視察した金子海軍少佐は、航空母艦、搭載機の準備を進言。陸軍も、1919年(大正8年)フランスからフォール大佐以下63名の航空術指導団を招き、指導を受けた。それは陸海軍双方に益するところ大であった。その際、金子少佐はフォール大佐の助言を受け、1920年(大正9年)霞ヶ浦に海軍初の陸上飛行場を選定した。金子少佐を含め、海軍が特に霞ヶ浦に目をつけたのは、霞ヶ浦の阿見が陸上機と水上機の両方の訓練が可能であることを認識していたからである。
1921年(大正10年)海軍はイギリスからセンビル大佐以下30名ほどの指導団を招き、霞ヶ浦と横須賀で水陸の飛行術を修得した。海軍は翌1922年(大正11年)、霞ヶ浦の阿見原に霞ヶ浦海軍航空隊を、霞ヶ浦湖畔には霞ヶ浦海軍航空隊水上班を開設した。

当時、飛行機の素材は全金属製でなく、木製の部分もあったが、ツェッペリン硬式飛行船、全ジュラルミン製のユンカース片持式低翼単葉機などが、ドイツで第一次大戦前に製造されて注目をあび、全金属製の飛行機の技術開発は世界的に進められた。海軍も東大で3年航空工学を学んだ和田操大尉を1922年(大正11年)5月ドイツに派遣、和田操大尉はドイツのロールバッハ技師に海軍の要望を伝え、ロールバッハ技師はドイツ国内で軍用機製作が禁止されていたにも関わらず、ドイツで部品を作り、デンマークで組み立てる方式で双発片持式高翼単葉式飛行艇を完成させた。この成果を元に和田大尉は帰国後、広工廠で九○式一号飛行艇(1930年に制式機として採用)を製作する。これは日本人の設計した最初の全金属機で、かつ海軍初の単葉機でもあった。

こうして横須賀、広島の海軍工廠で設計された海軍機が次々と国内生産され、艦上戦闘機も愛知、中島、三菱の各社で大正末から1927年(昭和2年)にかけて競争試作が命じられるなど、戦闘機や爆撃機の設計、試作が競争熱をもって行われた。こうして海軍航空は自立の道を進むことになる。

それでは、当時の飛行兵はどんな状況だったのだろうか。前述のように、横須賀と霞ヶ浦で飛行訓練が行われていた。海軍では飛行兵を養成する術科学校を持たなかったから、その養成自体、航空隊が担っていたわけだ。霞ヶ浦海軍航空隊には、横須賀海軍航空隊にあった予科練が、予科練習生の増員等の理由により、1939年(昭和14年)に霞ケ浦海軍航空隊に移転してくる。これが霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部の始まりで、飛行予科練習部は、霞ケ浦海軍航空隊水上班の敷地を拡張し、翌年の1940年(昭和15年)に霞ケ浦海軍航空隊から独立し、土浦海軍航空隊が誕生した。
予科練が移転する以前の霞ヶ浦航空隊などにいた飛行兵は、予科練教育はなかった訳であるから、操縦講習などの術科講習員として教育を受けていたわけである。海軍の操縦術講習員制度は士官については、1912年(大正元年)から、下士官・兵については、1921年(大正9年)から発足している。元々海兵団で水兵としての訓練をうけて水兵であった者や機関兵だったものなども、そのなかにはいた。

下の写真は、1930年(昭和5年)頃の霞ヶ関海軍航空隊の飛行兵のものであるが、後の予科練などと違って、ジョンベラを着ている。また、同じジョンベラでも左側の袖章は二等水兵(1942年以降の上等水兵に相当)のもので、右側の二等飛行兵(1942年以降の上等飛行兵に相当)のものと異なる。

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写真に写っている二人は、友人なのだろう。穏やかな表情をしている。
上の写真の右側の人物と同じ人物であるが、下の飛行服を着たときの表情は、海軍によくいるタイプの顔立ちで、海軍飛行兵そのものである。

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(一番上の写真は戦艦三笠、二番目は霞ヶ関海軍航空隊の水上機:1930年前後の貴重なもの)

なお、霞ヶ関海軍航空隊には1929年(昭和4年)ドイツのツェッペリン飛行船が寄航、また1931年(昭和6年)にはリンドバーク夫妻が訪れており、その写真も小生保有しているが、長くなるのでこの辺とする。

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「河和海軍航空隊調査報告書」によれば、「米国戦略爆撃調査団報告」のなかの「海軍・海兵隊艦載機戦闘報告書」の河和関係の記録の一つが、1945年7月25日の空母レキシントンから12時に飛び立ったF6Fグラマンヘルキャット5機、F4Uコルセア2機が本土に侵入、河和空を14時15分から攻撃、2個の爆弾で格納庫と作業場を破壊したというもの。同日、空母サンジェントからもF6Fグラマンヘルキャット10機が河和空に対する攻撃と写真撮影を行った。迎撃飛行機はなく、地上からの反撃も貧弱な対空砲や機銃によるもののみであったという。

ここでの攻撃により、第二河和海軍航空隊の格納庫、作業場、エプロンや第一河和海軍航空隊の機体整備場が破壊されたようである。確かに米軍が撮影した航空写真では、軍港の脇の第一河和海軍航空隊の機体整備場あたりから煙がのぼっているのがよく分かる。

この日の空襲について、去年の美浜町の河和海軍航空隊展に掲示されていた年表になかったのであるが、どうも美浜町が掲示していたのは、第一河和海軍航空隊の主計科の方が記録したものである。出張などで本隊不在のことがあったとあるので、記録が一日抜けていてもと思うが、前日の24日には朝7時にP51、グラマン約10機が来襲し、ロケット弾機銃攻撃で、主計の田村主計分隊士(尉官クラスの士官と思われる)が戦死している。つまり、前日に特筆すべき空襲があり、26日にも空襲の記事がみえるのに、真ん中の25日だけ抜けているのはやはり不自然である。前日では午前中の空襲であり、時間が違い、どうも25日の昼からの空襲ではないように思える。ちなみに、河和町中部国民学校日誌にも、7月25日の空襲については書かれていない。これについては、前回引用させていただいた、ブログ「御塩クラブ」の管理人のかたから、米国海軍の報告書で書かれていた日付・時間が、日本時間ではなく、アメリカの時間であり、時差の関係でズレているのではないかというご指摘を頂いた。確かに、その可能性も高い。アメリカ人が本国の公式文書に書くのだから、アメリカ時間というのは納得性がある。
この件、ほかの隊員の資料なり、日誌等の記録をみて、さらに検討を要す。


(写真は第一河和海軍航空隊機体整備場跡(上)、第二河和海軍航空隊の格納庫跡にのこる基礎部分の残骸(下))

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愛知県知多郡美浜町にあった河和(こうわ)海軍航空隊は、1943年(昭和18年)6月、追浜海軍航空隊知多分遣隊として開設され整備教育などを行った第一航空隊と小松島海軍航空隊知多分遣隊が独立改組され、水上機の操縦訓練および実戦配備を目的とした第二航空隊とあり、その設置場所も、第一航空隊が旧古布地区の南側の内陸部丘陵地帯に展開していたのに対し、第二航空隊は旧古布地区およびその北側の海沿いの低地にあった。

この航空隊も、太平洋戦争末期には米軍機による空襲をたびたび受けている。

ブログ「御塩倶楽部」によれば、1945年(昭和20年)7月25日に空母二隻から飛び立った米軍機によって攻撃されたとある(なお、「御塩倶楽部」のURLは以下)。
http://blogs.yahoo.co.jp/iso710ookina/folder/65513.html#34049907

(以下、引用)
米国戦略爆撃調査団報告によると、1945年7月25日 空母レキシントンから「F6F−5グラマンヘルキャット」5機と「F4Uコルセア」2機の合計7機が河和海軍航空隊基地を攻撃。

格納庫と作業場を破壊。

12時に発艦、帰艦16時。


 同日 空母サンジャシントから「F6Fグラマンヘルキャット」10機が河和海軍航空隊基地を攻撃。

写真撮影もした。

この時撮影された航空写真を見ると、第1河和海軍航空隊の機体整備場付近から煙が上がっている。

機体整備場の基礎は、以前も紹介したが今も2列残っている
(引用、ここまで)

このように、1945年7月25日に「F6F−5グラマンヘルキャット」都合15機と「F4Uコルセア」2機の計17機の米軍機に河和航空隊が攻撃されたわけである。

どういうわけか、米国戦略爆撃調査団報告にのっている話が、去年小生の親戚が見に行ってくれて撮ってきた美浜町の河和航空隊展の年表には出ていなかったか、日付がマッチしていないようである。その年表では1945年7月の記事としては、24日朝7時に米軍機P51、グラマン等十数機来襲し、ロケット弾、機銃攻撃(同日、隣接する半田市・武豊町も空襲をうけている)、26日も米軍機によりロケット弾、機銃攻撃とある。10日さかのぼる7月15日にも名古屋方面や三河湾からきた米軍機37機以上が機銃掃射、急降下反復攻撃となっている。つまり、美浜町が掲示していた年表にはない日付で、米軍側の資料では攻撃したとなっており、記録の間違いか、空襲が一つ美浜町の年表には漏れていたのか、検討の余地があろう。

しかし、このような攻撃を受けても、迎撃する水上機は高高度を飛ぶことができず、接敵もままならなかった。
敵機が多く来襲した7月15日の空襲の折にも、わが海軍航空隊が撃墜できたのは一機のみであった。

(写真は第一河和海軍航空隊の機体整備場跡)

ああ江田島

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「ああ江田島 海軍兵学校物語」という大映映画があり、随分昔に見たことがある。最近、DVD化されまた見てみたが、昔はわざとらしいなあと思ったシーンも、今見返してみるとそうでもない。映画の中の主要な登場人物は戦死してしまうのだが、改めて戦死した方々、空襲や戦地や軍隊内での病気のために亡くなった方々の冥福を祈りたい。

映画は冒頭、兵学校の生徒だった特攻隊の生き残りの石川竜太郎(小林勝彦)が古鷹山に登り、江田島を眺め、「海は死んでいる」とつぶやくと、一天俄かに掻き曇って昔の軍艦が浮かんだ江田島湾が眼下に広がり、山の斜面に村瀬真一や小暮生徒ら、戦死した兵学校出身者たちが次々に立ち現れる幻想をみるところから始まる。

江田島では上から年次が古い順に一号生徒、二号生徒、三号生徒と呼び、三号はいわば新入生である。その新入生に一号生徒たちが気合を入れる。一号生徒の中で一番の強面が小暮生徒(本郷功次郎)で、彼は自己紹介のときの声が小さく、かつ反抗的な村瀬真一三号生徒(野口啓二)を殴りつけた。

やがて同じ三号生徒の石川や村瀬たちは、厳しい訓練に入っていく。村瀬は実は中学時代にぐれてしまい、中学校の斎藤先生(根上淳)の薦めで兵学校に入ったのだが、再婚した母(三宅邦子)のもとを離れたいという個人的な事情もあった。石川と村瀬はある日、兵学校の田口教官(菅原謙次)の妹由美子(仁木多鶴子)と偶然であい、教官の家を訪問する。その田口教官の家には先客があり、それは小暮生徒であった。石川は、小暮生徒が本当は良い奴であることに気付くが、村瀬は従来の態度を変えず、他の三号生徒とも衝突したりした。石川は、由美子にほのかな思慕の念を抱くようになる。

兵学校では、相変わらず厳しい訓練が続いていた。ある時、態度が悪いと週番生徒に殴られた村瀬を小暮生徒がかばう。実は、小暮生徒は村瀬を兵学校に送り込んだ中学校の斎藤先生が、別の中学校にいたときに面倒をみていた元不良少年であり、その先生から村瀬のことを頼まれていたのであった。そのことを知った村瀬は、泣いて今までの態度を変える。

やがて一号生徒が巣立つ日が来て、小暮生徒は潜水艦に乗り込んだ。

休暇で一時帰郷の際に、村瀬は自分の実家ではなく、石川の実家へついていく。しかし、石川の母は既に一ヶ月前に死亡しており、訓練のさわりになると気遣ったその母の遺言で石川には連絡されなかったのである。嘆く石川を見ていたたまれなくなった村瀬は、自分の実家に帰る。見違えるようになった村瀬を母や妹は暖かく迎える。

そして、戦局が日本に不利に展開していくなか、石川、村瀬も一号生徒となる。加納教官(伊沢一郎)からは本土決戦の日が近いことが、訓示される。
あるとき、空襲があり、防空壕に逃げ込んだ彼らの見ている前で、軍艦が敵機の攻撃を受けて炎上沈没する。憤激した村瀬は壕を飛び出し、防空要員が倒れた銃座に入って敵機にむかって機銃を撃ちまくり、敵機の機銃掃射を受けて死んでしまう。

海軍中尉となった小暮は、沖縄に出撃するために、名残りを惜しんで兵学校に来て、出会った石川から村瀬の死を知る。「馬鹿な奴」と言って、小暮は去る。そして、その小暮も特殊潜水艇回天に乗り込んで、敵艦に体当たりして死んでしまう。

石川は九州南端の航空基地(鹿屋のことか)で、特攻要員となった。そして特攻に出撃し、墜落するが、一命を取り留める。そして戦後十年以上たって、再び古鷹山に登ったのであった。

ここで、最初のシーンに結びつく。つまり、ファーストシーンとラストシーンが同じ場所、同じ時点という訳である。古鷹山では、なぜか田口教官の妹由美子が登ってきて、石川と再会する。ちょっとこの設定は強引かもしれない。由美子は「売れ残り」でまだ独身だと石川に告げる。そして、二人で江田島を見下ろしているシーンで、映画は終わっている。小生は、再会を喜ぶ石川と田口由美子は、そのまま別れることはありえず、結婚すると思うのだが、これは菊村到の原作を見てみないと分らない。結婚をしないまでも、あつい抱擁をして接吻くらいはして欲しいものだ。

これは戦争映画というより、兵学校を題材とした青春映画である。木下忠司の音楽も、叙情豊かな雰囲気を醸し出している。ちょっと不思議なのは、主人公も本来は村瀬の野口啓二なんだろうが、映画では主人公は、その友人の石川役の小林勝彦に見える。殆ど、石川の目で見たことと石川の回想ばかりなのである。小暮生徒の本郷功次郎が準主役といった役回り。DVDのキャスト欄を見ても、石川役の小林勝彦が先頭に書いてある。
青春映画といっても、よくある恋愛ネタは石川の由美子へのほのかな思慕以外なく、男同士の友情や先輩後輩の交流の話と村瀬や石川の家庭の話が中心である。

この映画ですごいと思ったことが一つ、それは防空壕がリアルに再現されていたこと。昔、海軍のどこの施設でも防空壕はあったが、大抵入口が狭く1.2m四方程度の方形か上が丸いドーム状の横穴になっていて、地表面上には土を厚く盛っているが、内部の天井は高く、奥が広い、十人くらいゆうゆうと入ることができるものが多かったと思う。また入口が斜めになっていて、コンクリートの階段で地下へ入る形式のものがあったが、あのようなタイプもあった。

勿論、私は海軍兵学校に入ったこともなく、ある海軍工廠にいただけで、兵学校出のカッコイイ士官さんとは無縁であった。身近な軍人といえば、軍属技師が名を変えた技術士官くらいで、彼らはあくまで技術屋であり、兵科将校とは違っていた。だから詳しくは分らないが、聞いた話では、やはり服装や立ち居振舞いにいたるまで、厳しい規律があり、それに違反するものには罰直が待っていたという。

難を言えば、唯一の戦闘シーンといってもいい、敵機グラマンが江田島湾上に浮かぶ軍艦を襲う特撮が、今ひとつであったこと。やはり、特撮は東宝か。ちなみに特撮は、軍が戦意高揚のために作らせた映画で初めて使われたものである。戦後になって、主に子供向けの映画やテレビで多用されるようになったが、最初は軍艦が沈没するシーンを撮るにしても、本物を沈めるわけにいかなかったので、軍の奨励する映画で戦闘シーンを撮る際に使われたのである。

今までこの手の映画はばかにして余り見たこともなかったが、なかには良いものがあると思った。しかし、最近の戦争映画は荒唐無稽でリアリティもなく、おまけに戦争を賛美しているようなものばっかりで、見る気にもならないようなものが多いのが不満である。

(写真は磐手艦上の少尉候補生、文章は城たく也氏のブログ「中年ジェット」から許可を得て転載)

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