海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

閑話休題

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軍歌「橘中佐」は、きわめて長大であるが、まことに臨場感あふれ、リアルに描かれている。それは、歌の作者が、生前の橘中佐と懇意で、よく知っていたということによるところが大きい。また、明治期の軍歌の一般的な特徴として、具体的な描写がされているということもある。

橘中佐は、名を橘周太といい、長崎県の出身。日露戦争、遼陽の戦いで首山堡の攻撃中に戦死。その時、陸軍歩兵第三四連隊第一大隊長で陸軍歩兵少佐であったが、死後特進して中佐。橘周太は以前は名古屋陸軍幼年学校の校長、その前は東宮武官などをしていて、いわば教育者のような人であり、人格円満にして教育熱心であり、薫陶を受けて戦死を悼む人多く、のちに銅像が建立された。橘中佐が大隊長を務めた歩兵第三四連隊は、通称「橘連隊」と称せられた。陸軍の橘中佐と海軍の広瀬中佐は、日露戦争での戦死後軍神とされ、大いに宣伝された。

この「橘中佐」の場合、彼我の陣営の様子、日本軍の総攻撃の命令、その後の戦闘、橘中佐が銃弾に倒れるまでの経緯と倒れてからの様子、救護する軍曹の活躍など、細かく描かれており、眼前にその光景が浮かぶようなのである。

この「橘中佐」が軍歌の中で好きだという人は多く、橘周太が東宮武官のときに直接教育した大正天皇がその一人であった。

橘中佐 

作詞:鍵谷 徳三郎 

作曲:安田 俊高  
 
(上)

一、 
遼陽城頭夜は闌(た)けて 
有明月(ありあけづき)の影すごく 
霧立ちこむる高梁の 
中なる塹壕声絶えて 
目醒め勝ちなる敵兵の 
胆驚かす秋の風 

二、 
わが精鋭の三軍を 
邀撃せんと健気にも 
思い定めて敵将が 
集めし兵は二十万 
防禦至らぬ隅もなく 
決戦すとぞ聞えたる 

三、 
時は八月末つ方 
わが籌略は定まりて 
総攻撃の命下り 
三軍の意気天を衝く 
敗残の将いかでかは 
正義に敵する勇あらん 

四、 
「敵の陣地の中堅ぞ 
まず首山堡を乗っ取れ」と 
三十日の夜深く 
前進命令忽ちに 
下る三十四聯隊 
橘大隊一線に 

五、 
漲る水を千仭の 
谷に決する勢か 
巌を砕く狂瀾の 
躍るに似たる大隊は 
彩雲たなびく明の空 
敵塁近く攻め寄せぬ 

六、 
斯くと覚りし敵塁の 
射注ぐ弾の烈しくて 
先鋒数多(あまた)斃るれば 
隊長怒髮天を衝き 
「予備隊続け」と太刀を振り 
獅子奮迅と馳せ登る 

七、 
剣戟摩して鉄火散り 
敵の一線まず敗る 
隊長咆吼躍進し 
卒先塹壕飛び越えて 
閃電敵に切り込めば 
続く決死の数百名 

八、 
敵頑強に防ぎしも 
遂に堡塁(とりで)を奪いとり 
万歳声裡日の御旗 
朝日に高くひるがえし 
刃を拭う暇もなく 
彼れ逆襲の鬨の声 

九、 
十字の砲火雨のごと 
よるべき地物更になき 
この山上に篠つけば 
一瞬変転ああ悲惨 
伏屍累々山を被い 
鮮血漾々(ようよう)壕に満つ 

十、 
折しも喉を打ちぬかれ 
倒れし少尉川村を 
隊長躬ら提(ひっさ)げて 
壕の小蔭に繃帯し 
再び向う修羅の道 
ああ神なるか鬼なるか 

十一、 
名刀関の兼光が 
鍔を砕きて弾丸は 
腕をけずりさらにまた 
つづいて打ちこむ四つの弾 
血煙さっと上れども 
隊長さらに驚かず 

十二、 
厳然として立ちどまり 
なおわが兵を励まして 
「雌雄を決する時なるぞ 
この地を敵に奪わるな 
とくうち払へこの敵」と 
天にも響く下知の声 

十三、 
衆をたのめる敵兵も 
雄たけび狂うわが兵に 
つきいりかねて色動き 
浮足立てし一刹那 
爆然敵の砲弾は 
裂けぬ頭上に雷のごと 

十四、 
辺りの兵にあびせつつ 
弾はあられとたばしれば 
打ち倒されし隊長は 
「無礼ぞ奴(うぬ)」と力こめ 
立たんとすれど口惜しや 
腰は破片に砕かれぬ 

十五、 
「隊長傷は浅からず 
暫しここに」と軍曹の 
壕に運びていたわるを 
「否みよ内田浅きぞ」と 
戎衣(じゅうい)をぬげば紅の 
血潮淋漓迸(ほとばし)る 

十六、 
中佐はさらに驚かで 
「隊長われはここにあり 
受けたる傷は深からず 
日本男子の名を思い 
命の限り防げよ」と 
部下を励ます声高し 

十七、 
寄せては返しまた寄する 
敵の新手を幾度か 
打ち返ししもいかにせん 
味方の残兵少きに 
中佐はさらに命ずらく 
「軍曹銃をとって立て」 

十八、 
軍曹やがて立ちもどり 
「辛くも敵は払えども 
防ぎ守らん兵なくて 
この地を占めん事難し 
後援きたるそれまで」と 
中佐を負いて下りけり 

十九、 
屍ふみ分け壕をとび 
刀を杖に岩をこえ 
ようやく下る折も折 
虚空を摩して一弾は 
またも中佐の背をぬきて 
内田の胸を破りけり


みられるように、十一番で「名刀関の兼光が 鍔を砕きて弾丸は 腕をけずりさらにまた つづいて打ちこむ四つの弾」と最初五発腕などに被弾したことが分かり、十四番ではまた炸裂した砲弾の破片が腰にあたっていた、十九番ではさらに一弾被弾し、 当たった弾丸が橘中佐の背を貫通して、橘中佐を背負っていた内田軍曹の胸を破ったとか、被弾した数や負傷した部位まで特定できる正確さである。

作詞者の鍵谷 徳三郎 は、橘周太が名古屋の幼年学校校長だったときに、文官教官であり、心底から橘周太に傾倒していたのである。その思いが、かくも長大、精緻な歌詞をつくらしめたような気がする。

この歌は、のちに静岡の陸軍歩兵第三四連隊の隊歌となった。





なお、上記の軍歌の虚実や、中国国歌が日本で出来た話、「慰安婦」問題など、今までブログに書いたり、最近考えたりしたことを、
「千葉県の戦争遺跡」http://www.shimousa.net/
に「資料室」というメニューを追加し、掲載しました

(写真は、「資料室」の表紙に使ったものです。ある神社を参拝したときの某海軍大尉)

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最近、外出して休憩したいとき、普通の喫茶店があれば、そこに入るが、ない場合に困ることがある。

まったくなければ、缶コーヒーで我慢するが、なぜかスターバックスやタリーズなどしかないことがあって、小生その手の店が苦手で困るのである。

セルフサービスでもドトールコーヒーがあれば、迷わずに入る。なぜかと言えば、メニューなども分かりやすいからである。コーヒーのサイズを選ぶにしても、S,M,Lとなっていて、分かりやすい。サンドイッチもミラノサンドA、B、Cと何とかいう小さなサンドイッチのみ、あとはジャーマンドッグやトーストが少々あるくらいで、余り迷うこともない。

ところが、外資系のスターバックスやタリーズでは、やたらメニューがあるのだが、馴染みのない名前ばかりである。コーヒーのサイズも、スターバックスではショート、トール、グランデとあるが、ショートといってもショートホープを思い出すくらいで、スモールと言ってくれた方がピンとくる。グランデというサイズは、日本人の中年以上には無用ではないかと思うくらいのビッグサイズである。
かく言う小生は、ショートオンリーで、それでも多いくらいである。

アメリカ人にはハンバーガーショップに行って、一人でケチャップを一本使うようなのもいるのである。それと日本人を同じ尺度で考えてもらっては困るのである。

外資系は、なんでも本国のものを持ち込む傾向があるが、少しは日本人の、それも人口の多い高齢者のことを考えてもらいたい。

少なくとも、コーヒーのサイズくらいは、S,M,Lか、何でもいいが、日本人に分かりやすいものにしてほしい。

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最近、車を運転しなくなってから、行動範囲がだいぶ狭くなった。

しかし、家にいるばかりでは、足腰が弱るので、家に近いところは歩いて、遠いところは電車とバスで行くことにしたのだが、よほど田舎でない限り、十分出かけていくことができる。

あまり意識していなかったが、最近めっきり谷津田が減ったと思う。千葉県でも、都市部に住んでいると、田圃を見ることは日常的にはない。昔、市川市では国分から大橋、さらに北の大野あたりなどは田畑が多かったように思うし、船橋市の古和釜、金堀から北の方は今でも田圃があると思う。

最近、柏市内であるが、昔は純農村であったような地域にいってみた。

農家らしいお宅から、転げるように、ウサギがでてきたが、飼われているものだろうか。

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そのちかくには、まさに谷津田のしろかきをしており、そろそろ田植の準備のようである。

気付かないうちに、そうした谷津田とか里山はどんどん減っていって、市川市では江戸川沿い、松戸市との境などを除けば、ほとんどなくなり、東葛地方では、船橋市、柏市あたりにかろうじて、少し残っている程度。東の八千代市、千葉市も同じような状況であろう。

都市化の波は、かつての田園地帯を新興住宅地にかえた。特に、谷津田のような狭いところに作られる田圃はなくなっていった。

谷津田には、湧水が谷頭あたりに出ていることが多い。それは、伏流水であり、里山の雑木林が雨水をすって、また地面に出てくるようなものである。その谷津田には、ザリガニやタニシがすみ、谷津をながれる小川にはフナやドジョウがいたものである。ドジョウや田の虫がいれば、白鷺なども生息する。これは、小さな自然生態系が、谷津田を中心に作られるといってもいい状況である。

しかし、近年では、耕地面積が狭く、トラクターなど農業機械の導入が難しい、手が掛かる割には生産性が低いなどの理由から、谷津田や里山などは、どんどんなくなっていった。

今回、たずねた柏市の16号線沿いの集落では、農道沿いにきれいにオオデマリと藤の花が咲いていた。農家の方の丹精だろうか。

こういう場所を大切にしたい。

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花は吉野か ケータイ投稿記事

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春を象徴する日本の花は、やはり桜であろう。梅でも桃でもいいと思うが、なぜか桜が咲く頃には、天気予報でもニュースでも、桜前線がどうのと桜の話を毎年している。

しかし、桜はやたら武士道などに結び付けられ、そのデザインは海軍では襟章などに使われた。桜が何とかという文句は、「歩兵の本領」といった軍歌などにも使われている。吉野の桜が美しいのは、分かっているが、「花は吉野に嵐吹く」というと、逆に桜は吉野だけでなく、全国各地にあるではないか、と思う。

軍国主義の話はともかくとして、桜が美しいのは、短い期間しか咲かないためだともいう。パッと咲いて、パッと散るのが、日本人の美意識というか無常観のような心情にあっているのだろう。

梅が長い間咲いているかといえば、そうではないが、梅の花が桜ほど日本人の心情にあっているという話は聞かない。

ただ、「こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな」という例の菅原道真の歌もある。軍装品や軍関係の意匠では、そのものズバリの梅の花はないが、戦時歌謡で「梅と兵隊」というのはある。

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小生、やたら本を買う癖があり、半分くらい積んどくだけになることがある。

ずいぶん前に、何かの役にたつかと思って買った「明治大帝御聖訓」という古本があるが、これは1936年(昭和11年)に山口鋭之助監修で、愛之事業社発刊のものである。いわゆる明治天皇歌集であり、明治天皇が詠んだ短歌とその解説が1首につき6行ほど書いてある。この本で、「習志野原」の地名の由来である説を調べようとしたものの、その歌は載っておらず、「積ん読」状態になったものである。

先日、本を整理していて、久しぶりに開いたところ、その本からたて6センチ、横4センチほどの小さな写真が出てきた。

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そもそも本の裏表紙には、「第一中隊 第三区隊 都築喜五郎」と書いてあり、元の所有者が陸軍の軍人であることが分かっている。

写真は、その人自身か、誰かを本人が写したものか、また所属がいきなり中隊から始まっていて、どこの部隊にいた人なのか、皆目分からない。

しかし、写真はずいぶんのどかな光景である。のんびりと自転車をひく兵士を窓から写したもの。内地なのか、外地なのか、それすら分からない。

1936年頃は、日中全面戦争前夜で、物情騒然とした時代と思っていたが、軍隊の片隅にはまだのんびりした空気が残っていたのだろうか。

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