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昔の新京成の新津田沼駅があった、津田沼市街の線路脇(パルコの裏手)に、ガードレールのかげに隠れて、陸軍境界標石があった。以前、かつての新津田沼駅周辺には六本あったが、二本なくなって、四本あるといっていたが、実際に改めて数えてみると、駐輪場に一本、線路脇に四本*、骨董屋の敷地内に一本、長野土地建物の事務所近くの線路沿いの道に一本あり、七本ある。前は九本あった勘定になる。 新津田沼駅と前原駅の間には、やはり線路脇の道沿いに三本、前原小学校下の踏切の近くに二本(一本と思っていたが、その後もう一本あることに気づいた)あり、そこから前原駅の手前までに六本*あって、計十一本*。前原駅のホーム脇に一本あり、さらに道入庵の近くの線路脇に四本あるから、新津田沼駅から前原駅までで都合二十三本*あることになる。(*20009.02.28改訂) どうも新津田沼駅から前原駅までの線路脇の道で、線路に遠い側に境界標石があることからみて、現在の新京成線の線路と旧陸軍演習線は多少ずれていて、昔の線路は一部は今の線路脇の道と重なっていたのではないかと思う。また、今の新津田沼駅のある場所と隣接するイオンのショッピングセンター周辺は、以前は材料廠があったところで、その辺には陸軍境界標石がなく、昔の痕跡をとどめるものが何もない。1970年くらいまでは、鉄道の修理工場があり、かつての雰囲気が色濃く残っていたのだが。 しかし、境界標石も新津田沼から松戸までの沿線を数えると、いったい何本になるだろうか。一度常盤平の廃線跡を調べたが、境界標石は結構な数があった。とはいえ、目の悪い老人のことゆえ、見落としもあるだろう。現在の新京成沿線で、百本くらいはあるだろうか。 これらの陸軍境界標石は、鉄道連隊にかかわるものが殆どと思うが、大多数である「陸軍用地」という表示のもの以外に、単に「陸軍」と書かれたもの、あるいは「陸軍省用地」となっているものもある。それは何か用途別あるいは年代別などで違いがあるということなのだろうか。 これらの陸軍境界標石は、大体白い御影石で出来ていて、戦後の標石より一回り大きい。また頭に十字の刻みが入っているので、幸いにしてほかの標石と区分できる。
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閑話休題
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予科練を含め、海軍で罰直のタネは、あまた数あれど、軍帽の被り方がなっとらんというのは、ほとんど言いがかりに近い。 もちろん、前後逆に被っているとか、被るべき時に被っていないなら、叱られても仕方ないが、少しつばが斜めになっているとか、中心線からズレているだけで、容赦なくビンタが飛んでくる。 例えば、写真は軍艦浅間の乗組員であるが、士官も下士官も水兵も正しく軍帽を被っている。これが当たり前なのである。もっとも、海軍兵学校の練習艦となった浅間でもそうなのだから、金剛や長門で変な軍帽の被り方をしていたら、それこそどんな制裁をされたか、気合の入れ方も半端ではなかったろう。 ところが、どういうわけか海軍でも、稀に軍隊生活を遊び人のように送っている者がいる。規律は衆人環視のもとでは、とりあえず守っているが、ギリギリのところまでわがままをしている。当然ながら、ネイビーブルーの中では異端児であり、古年次であっても、それ以上出世する見込みはほとんどない。兵隊上がりでも、兵曹長より上の、昔の言い方では「特務士官」になる人間もいるが、彼らはそういう人々とは明らかに違っている。海軍という大組織の片隅にいる、澱んだ集団。 そういう澱んだ集団とは、航空隊でいえば海兵団上がりの古参の下士官とか、よそからの転科者のなかの一部か何かで、純粋培養の航空兵では少なかったと思う。下士官・兵だけでなく、士官のなかにも同類項はいた。もちろん海軍兵学校、機関学校出のようなエリートではない。学徒出身の予備士官なら、まだ良い方で、地方で別の職業だった人が軍隊にはいって士官になる場合もあり、そうすると中年のおとっつあんの少尉などもいたのである。 彼らは、海軍に長く居ても、中心になる人材ではない。どこか、あきらめたムードが漂い、それで服装などに欲求不満がでるのかもしれない。そういう連中は、昔の一部の駅員や運転手のように、軍帽も頭頂部をわざと潰し、平べったくして被っている。お洒落でもなく、バンカラとも違う、どことなくやさぐれている。平べったい軍帽を被り、ひげを生やすか、もみあげを伸ばしてカミソリで端を綺麗に剃るなど、精一杯のわがままをしていたのである。古参の彼らに注意できるのは、ほとんどおらず、航空隊では司令などの一部の士官に限られるのである。 彼らのような人々は、代替要員というような意味で「スペア」と呼ばれることがあった。「スペア」にも、色々あって下士官・兵の「スペア」だけでなく、「スペア中尉」などもいた訳である。 まっとうに海軍のなかで、下士官や士官に任官し、自分こそが海軍を背負って立っていると思っている連中は、「スペア」の存在が目ざわりなのである。それで、何かと「スペア」を鬱陶しく思っていた。 だから、予科練でもどこでも、軍帽を行儀悪く被っていると、「スペアみたいな被り方をしやがって」と威勢の良い上官などから、拳固が飛んでくることになる。そう言って殴る上官は、あるいはかつて「スペア」の古年次兵から殴られたことがあり、その腹いせに若い兵に難くせをつけて殴ったのかもしれない。考えてみれば小生のいた予科練全体が、「スペア」みたいなものである。今思えば、「スペア」が「スペア」の軍帽の被り方をして何が悪いかということになるが、生憎紅顔可憐な予科練ではそう上官や先輩に言い返すツワモノはなかなかいなかったのである。
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街中で、陸軍境界標石に出くわすことがたまにある。それは、千葉県船橋市、習志野市においては、鉄道連隊関連のものが多い。 以前、新京成線になった鉄道連隊演習線関係のものでは、前原駅周辺、三咲駅周辺、初富駅周辺、常盤平駅北の住宅地、新八柱駅周辺などに陸軍境界標石がかたまってある場所があると書いたとおりである。新津田沼駅近くでは、以前は六本あったのだが、最近線路脇のマンション建設により二本減り、四本となった。 前原駅付近では、以前「千葉県の戦争遺跡」ブログで書いて、他にもあると読者の方に教えられ、改めて見に行ったところ、五本あった。それは、最初に書いたように、駅から見える塀に埋め込まれて一本、それから薬園台寄りに進んだ附近の畑の中、線路沿いに三本並び、ほかに一本やや奥まった前原の寺、道入庵に近いところにあるので、都合五本ということである。 (前原駅ホームから見える場所にある境界標石) 新京成の線路沿い、長野土地建物の事務所を過ぎたあたりから、前原駅までは最低三本あると、以前書いたが、この年末になって調べていない、成田街道と新京成線が交わる踏切から前原駅までの区間を歩いてみようとふと思い立った。それで、大晦日であるにも関わらず、何か買い物があれば帰りに津田沼で買ってくるつもりで出かけたのである。 そうすれば、なんのことはない。成田街道の踏切から大した距離でもない場所に、アパートの塀に埋めこめられるような格好で、三本の陸軍境界標石があることが分かった。これは知っている人からみれば、何と言うこともないのだろうが、何度も足を運んでみると、戦前・戦時中と戦後の連続面、不連続面が見えてくるようである。 (新たに見つけた前原駅手前の線路脇の境界標石) 長くなるので、この辺にするが、やはり「千葉県の戦争遺跡」ブログで読者の人から習志野市泉町三丁目の公務員宿舎脇の道路にかつて線路跡(鉄道連隊の演習線線路か自衛隊が引き継いだ演習線線路の跡)があった様子が習志野市公報に載っていたと知らされ、図書館で調べたがどのことか分からず、現地に行ったところ、陸軍境界標石があり、公務員宿舎の境界金網のあたりに陸軍騎兵連隊当時からのものと思われる土塁がめぐっていたのを見た。付近には、他に陸軍境界標石が二本あり、やはり住宅地の隅に土塁のあとがあった。 小生も若いころは、あまりに多かった兵舎跡、軍関係建物など戦争遺跡は、忘れ去りたい負の遺産と思っていたので、陸軍境界標石にも興味がなかった。この年で改めて探してみても、これだけあるのだから、戦後小生が東京に来た当時は、東京にも千葉にもたくさんあったのだろう。 (陸軍習志野学校裏門) 市の教育委員会か、しかるべき公的機関によって、こうした遺物も保存されんことを望むものである。
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小生は、あまり蕎麦屋には行かない。まして、立ち食い蕎麦屋にはほとんど行ったことがなかった。 |

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昔は、正月が来るのが待ち遠しかった。 でも、今は経済が低迷どころか、不況が色濃く影を落としている。これから就職する人や、若い社会人は大変だろう。小生のような老体は、どうということもなし。毎日元気で過ごすことができればよい。 ただ、憲法で保障されている最低限の文化的生活が営まれないなら、問題だ。その問題が、日本各地で続出している。 派遣切り。正社員切り。雇用不安。さっそく、派遣切りされた若者が強盗をしたというニュースがあった。厭な世の中になったものだ。 もういくつ寝るとお正月。 もう何年寝ると不況脱出。 もう何十年寝ると新日本の夜明け。 いつまでも続く不幸はない。明るい未来を期待しよう。
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