海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

閑話休題

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先日、ひさしぶりに習志野市大久保の鉄道第二連隊演習線跡に行ったら、紫陽花の花が咲いていた。

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この演習線跡は、別名「ハミングロード」と呼ばれている。
その解説は、習志野市のHPにある(以下のURL)。


この道は鷺沼のほうから京成大久保駅前を通り、マラソン道路といわれている京成実籾駅北側の道まで続いている。途中には「鬼っ子」の像とか、変わったものもある。

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今は、さつきの季節は過ぎ、さつきも咲いてはいるが盛りを過ぎて、紫陽花のほうは真っ盛りである。ハミングロードといえば、地元では桜は有名かもしれない。しかし、枕木を利用した花壇があったり、ほかにも色々植物が植えられている。
鉄道連隊の線路自体は残っていないが、畑のなかなどにある陸軍境界標石にわずかに当時の姿を偲ばせるものがある。

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昔は陸軍鉄道第二連隊の演習線で、おそらく汽車の運転とかの訓練で鉄道兵がしごかれた場所であろうが、今や市民の憩いの場になっている。こうした場所は、都市化の波に押されてなくなりがちだが、是非今後も現在の状態をあまり変えずに残していってほしい。

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先ごろ、テレビで「東京大空襲」の番組が放映された。東京大空襲は、過去のこととはいえ、それでなくなったり、家を失った人の話は数知れず、東京の下町を歩けば、慰霊碑や戦災でなくなった人の供養のための地蔵などにすぐに出くわす。東陽町には慰霊碑や深川親子地蔵尊があり、遊郭のあった洲崎にも富岡八幡宮の門前仲町、扇橋、菊川などにも慰霊碑や供養のための地蔵尊がある。

日本本土への空襲が大規模になったのは、太平洋戦争が激化し、日本の敗色が濃厚になってからである。1944年(昭和19年)にはさかんに米軍機が飛来して、都市部を中心に爆撃していった。それは、1944年7月にサイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、サイパンなどが日本本土への空襲を行う際の米軍機の基地となったからである。米軍にしてみれば、そこを拠点に日本本土がまさに射程距離にはいったわけだ。
米軍機の爆撃目標は軍の施設、軍需工場だけでなく、国鉄などの輸送手段や民有地にもおよび、そうした目標への集中した爆撃とともに、じゅうたん爆撃もされた。

東京大空襲は、よく知られている下町への空襲が1945年(昭和20年)3月10日で、江東区、墨田区などの下町で多くの無辜の民衆がなくなった。その前にも、中島飛行機工場に対する空襲などのほか、1945年(昭和20年)1月27日にも有楽町・銀座地区への爆撃があり、国鉄有楽町駅は罪もない民間の人たちの死体であふれた。

1945年(昭和20年)3月10日の下町への空襲は、下町の町工場、中小企業が軍需産業を下支えをしているとの理由から、下町の市街地と市民そのものを爆撃の対象にした夜間爆撃である。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区、その後、城東地区、浅草地区と行われた。
下町を東西から挟み撃ちにするように爆撃をおこない、その東西の中心地点に逃げた人に対して、大量の焼夷弾の雨を降らせた。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1,783トンにのぼった。

この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にし、わざわざ燃えやすい日本家屋用に、燃焼力を主体として開発されたものであった。焼夷弾は燃焼するものが何かによって、油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾などに分けられるが、東京大空襲でも使用された、集束焼夷弾E46という焼夷弾は、子弾として48発のM69焼夷弾(その一発は長さ50cm、重さ2.5Kgほどで小型)を内蔵するクラスター構造をもち、投下後上空700m程度でこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐ仕組みであった。その子弾である、M69には、目標となる木造家屋への貫通力を高めるため、姿勢を垂直に保つ目的のリボンがついていた。おそらく、このタイプと思われるが、下志津の空襲でも不発の焼夷弾が蔵を貫通した跡が残るお宅がある。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では火災から逃れるために、隅田川などの河川、および河川に架かる多くの橋に避難した人も多かった。しかし、人であふれかえった橋まで炎が滝のように流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの溺死したり、その当時は春とはいえ、夜間のことゆえ、水温も低くて凍死する人も多く、翌朝の隅田川などの河川は死体でいっぱいであったという。

3月10日はくしくも、陸軍記念日。その日を狙ったかどうか知らないが、この空襲で日本の首都東部は壊滅的な打撃をうけたのである。

大都市部では、同年3月12日には名古屋大空襲が、3月13-14日に大阪大空襲があり、多数の死傷者を出している。
もちろん、空襲の当事者は米軍であるが、もともと無謀な戦争に突入したのは日本の軍部・支配層であり、日本もまた中国の重慶などに大空襲を行っている。

写真は東京は江東区、門前仲町の黒船橋のたもとにある慰霊碑である。ここでも多くの空襲犠牲者が出た。

駄作川柳

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元軍人 反戦説いて 悪いのか


東葛の 一部で役立つ わがブログ


ブロガーの 仲間は千葉の 人ばかり


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八十の ジジイ過激派に 間違われ


なぜ戦後 こんなに阿呆が 増えたのか


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友よたて 国民の敵 いざ討たん


若いなあ 軍帽姿の わが写真
 

予科練の 末は老いたる へそ曲がり


靖国は 「国賊」まつる 場所かいな


予科練で おぼえた関西 訛りかな


なぜ抜けぬ 関西訛りと へそ曲がり


反軍の 下士官老いて なお盛ん

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先日、津田沼駅附近を歩いていたときに、現在の西友の東の線路脇の駐車場のなかに、陸軍境界標石があるのを見つけた。

前原駅のホームから見える場所には、陸軍境界標石があることは前から知っていたが、ブログの読者のかたから前原駅周辺でももっと北側の畑のなかにきれいに残っていることを聞き、先日見に行き、写真に撮った。しかし、このように何の気なしに歩いていて見つけた経験はあまりない。

ちなみに、現在の新京成線新津田沼駅は三代目くらいの駅で、今はない藤崎台駅が新津田沼駅という名前だったこともあり、また西友裏の、かつて八坂神社があった場所の近くに、新津田沼駅があったこともある。

前原駅からの電車は、今の変電所あたりで、藤崎台駅から京成津田沼へ向かう路線と、新津田沼駅へ向かう路線が分岐していた。小生がかつて見慣れていた新京成電車の路線は、そうなっていたのである。つい30年くらいまえに新津田沼駅が今の場所に出来て、前の西友裏にあった新津田沼駅がなくなり、現在の新津田沼まで路線が延長され、京成津田沼駅までつながった。一方、藤崎台駅はなくなり、前原〜藤崎台〜京成津田沼の路線は線路がなくなって、跡地は住宅地になった。藤崎台駅は小さな駅であったが、京成線に乗る用事がある場合は、時刻表をチェックして、そこまで歩いていった。

前原〜藤崎台の線路がどう走っていたか、大体覚えているが、東金街道にあったはずの踏み切りがどこにあったか、思い出せない。東金街道沿いの池田病院は昔からあったと思うので、その脇を線路が通っていたと思うのだが、今では記憶があいまいになっている。

津田沼は、陸軍鉄道第二連隊があった町。その隊門は、千葉工大の門として現役である。

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しかし、どういうわけか、千葉工大のHPを見ても、国の登録有形文化財になっていることはかいてあったが、鉄道第二連隊の隊門であったことは書かれていない。兵舎をいつまで、校舎として使用してたのかも。

藤崎台や昔の新津田沼駅があった当時は、旧軍遺跡などありふれた存在で、珍しくもなかったので、境界標石などに関心がなかった。鉄道連隊の兵舎は、千葉工大の現役の校舎として使われていたし、戦争遺跡ではないが、国際製粉の木造の大きな建物も残っていた。今はそうしたものが立て替えられ、ピカピカの新校舎やマンションなどになっている。

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成田あたりの戦争遺跡を調べようと、すでに行った下総松崎以外に、宗吾霊堂、三里塚に先日行ってきた。あわせて、佐倉で途中だった佐倉市街地の戦争遺跡まわりと足をのばして四街道と最近ではだいぶまわったほうである。宗吾霊堂には成田市が建てた戦没者慰霊碑があり、三里塚には鉄道大隊(津田沼)の隊門、皇太子用の防空壕、三里塚牧場の新山場長銅像(跡)などがある。佐倉は佐倉連隊関連と、病院跡、四街道は陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校があったが、今回陸軍野戦砲兵学校関連を以前の続きでまわった。

三里塚はJRバスで成田から往復すればよく、バス停からも近いので何ということはないが、宗吾霊堂は京成線の宗吾参道駅から約1Kmの道のりをあるいて行かねばならない。
もはや自分で車を運転するのは危ないので、家の周り以外はやめているが、こういうときに車を運転できないのは少々つらい。
佐倉は、バス路線がいろいろあり、戦争遺跡の主なものは市街地にあって、バスの本数も多いところであって助かった。
さすがに四街道は一人では回りきれないと思い、ちょっと若い人に応援を頼んだ。おじいさんが元・陸軍砲兵少佐、本人も興味津々という感じであった。

しかし、まだ戦争遺跡は、四街道でいえば、隊門、兵舎、砲兵の訓練で標的にした小山など、種々残っているとはいえ、すでになくなっているものも多い。四街道の陸軍野戦砲兵学校跡には防空壕がきれいに残っていたようだが、今回探してみたが見あたらず。もう埋めてしまったのだろう。

(写真は宗吾霊堂で撮影)

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