海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

閑話休題

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松川事件のこと

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最近、松川事件をあるジャーナリストが追求した本を久しぶりに読んだ。

松川事件は、小生が戦後大学に入った1949年(昭和24年)のことであるから、ずいぶん昔の話だが、いまだに解決していない。福島県松川駅付近でおきた列車転覆事件に関して、赤間勝美という、解雇された元国鉄線路工夫の青年が不当な手段でうその自白をさせられ、国鉄、および東芝の工場の労働者が不当逮捕、裁判にかけられた。当時は、中国では革命のさなかで国共内戦があり、南京の中華民国政府が台湾に退き、かわりに中華人民共和国が成立した。それを契機として、アメリカの日本に対する民主化政策が日本を「反共の防波堤」とする政策へ転換、経済面でもGHQ顧問として来日したドッジのいわゆるドッジ・ラインによる財政緊縮政策がとられ、これがデフレ不況を招いて倒産失業が相次ぐ暗い時代となった。

1950年12月6日の福島地裁による一審判決では、20人全員が有罪(うち死刑5人)、1953年12月22日の仙台高裁による二審判決では17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となったが、裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、1959年8月10日、最高裁は二審判決を破棄、検察側の隠していた「諏訪メモ」で東芝のオルグ佐藤一被告に明確なアリバイがあることが判明。さらに謀議自体が成立しなかったことが判明した。1961年8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告全員に無罪判決。1963年9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告全員の無罪が確定した。途中経過では、最初みな有罪判決で、一部の人は死刑判決がくだったが、結局最後には全員無罪となった。

その裁判を被告側から支援するために、松対協(松川事件対策協議会)というのがあって、各大学や職場、地域などに組織があった。そこで会員券を配り、カンパを集めて、映画の「松川事件」というのを作った。映画「松川事件」の監督は山本薩夫、出演者は宇野重吉、宇津井健、西村晃、千田是也、澤村貞子、加藤嘉などそうそうたるメンバーであった。内容は赤間勝美が不当逮捕され、偽りの自白をさせられるまでがまずあって、その自白をもとに他の国鉄、東芝の労働者たちが不当に逮捕され、一部取り調べられるシーンが続き、その後は法廷でのやり取りとなる。法廷での証言者の話に、一部人間性が出る面白い部分があるが、一般の娯楽作品のようなどんでん返しとかの見せ場はない。なにぶん最終判決の前の映画で、二審判決が出て、それに支援の労働者、学生、看護師らが抗議の声をあげ、一団となって闘争の歌を歌う場面で終わっている。
この松川事件は広範な国民の関心を集め、特に作家の広津和郎が熱心に被告無罪論を説いて、この事件を追及していたことでも有名であった。

<現場の見取り図>
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あれは権力犯罪ともいうべきフレームアップであったが、占領軍、CIC(諜報部隊)などが関連していたことは間違いない。その唯一の目撃者である斎藤金作さんは、身の危険を感じ、横浜に移って仕事をしていたが、なぞの死を遂げている。

その当時、下山事件、三鷹事件と不気味な事件が続いていたが、自殺説がとられた下山総裁殺害以外の三鷹、松川事件で、警察が仕立てた「犯人」は、共産党を含む組合活動家、あるいは活動とも無関係な一般労働者(松川事件で逮捕された東芝の菊池武など)で、みなでっち上げ逮捕であったが、労働運動を弾圧する意図が根底にあった(三鷹事件の「犯人」とされた竹内景助は共産党員ではなかったが、事件当時風呂屋に行っていた目撃者が複数いるにも関わらずアリバイが認められず、真相が解明されぬまま獄死。竹内は獄中で死去するまで、再審を請求していた)。

当時の政府は、今の政府に連続している。在日米軍は占領軍というかたちではないが、日本の国土にいまだに居座っており、かつてのCICのような組織もあるのだろう。
CICと右翼、特務機関、大陸浪人崩れなど、得体のしれない連中が行った犯罪が、きちんと断罪されぬまま、今日にいたっている。旧日本軍の残した負の遺産は、アメリカ帝国主義という新たな絶対権力と結びついて、今日も生きているのだ。

松川事件についてかかれた1960年代の本を久しぶりに読んで、その当時と今がそれほど変わっていないことに慄然とした。

旧軍の境界標石

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日本全国、あちこちに残る旧軍の境界標石。旧日本陸海軍が土地を収用、あるいは買収した印。小生の家の近所にもある。

陸軍の場合、「陸軍用地」「陸軍省用地」、あるいは「陸軍」と刻まれ、材質は御影石や粒度の細かい石で作られていることが多い。ただ、お地蔵さんや庚申塔などと違って、年紀もなければ、彫刻などもない、それ自体は鑑賞の対象にはあまりならないが、建っていることに意味がある。すなわち、境界標石があることは、軍の基地や施設などがあった証拠になるからだ。

しかし、軍用地のもとは、多くの場合、農民の土地だったのである。江戸時代に牧であったような原野もあったが、明治新政府の政策で開墾され、困難な開拓を移民や近隣農家の次三男たちがやってのけ、かれらも自作農となった。そういう農民の土地を軍は相場より安い値段で買い叩き、あるいは戦時収用した。
境界標石は、その象徴であり、誰にむけて建てられたかといえば、元の土地所有者である農民が、そこにはいらないように建てられたのである。

境界標石
 それは、百姓の涙が固まって出来た
 先祖伝来の土地を取り上げられた百姓の
 悔し涙のひとしずく

一汁一菜

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お酒を飲んだ後に、よく質素な食事をとったりする。

しかし、これは「一汁一菜」とは違うだろう。気分を変えるくらいの意味しかないように思う。

さんざん、贅沢な料理に酒で飲み食いしたあとで、ご飯に汁物、漬物で食事をしても、胃袋は一つなのである。

最初から、贅沢をしなければいい。そう分かってはいるが、結局贅沢をしてしまう。

さすがに年をとると、肉料理や油っこいものは体が受け付けなくなっているが、四十歳前くらいはそんな料理を好んで食べていたように思う。コンビーフの缶詰は、酒を飲まなくても、会社の寮とかでおかずがまずいときなどの代用食として、いつも保管していた。しかし、もう1970年頃の自分とは、趣味嗜好もすっかり変わっている。
今は、精進料理のような、あっさりした料理が好みになっている。

茶道でも、簡単な料理をとるが、その食事のとり方も様式美にかなっている。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/40/79/hari_kenji/folder/1673948/img_1673948_29820645_0?20080108212303

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/40/79/hari_kenji/folder/1673948/img_1673948_29820645_1?20080108212303

松戸市は北小金駅の北に残る日蓮宗の古刹本土寺。

この寺は、1269年(文永6年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が建てた法華堂をもととし、1277年(建治3年)に日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、はじまりという。

そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、中世にはおおいに栄えたが、戦乱などの影響で衰微した。本土寺は「あじさい寺」としても、知られる。今の折々の庭の様子を楽しみに、多くの参詣客が訪れる。

この、本堂の東側に、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家康が武田の名跡が絶えるのを惜しみ、信吉に武田家を継がせたため、家康の子でありながら、武田を名乗り、小金三万石の領主となった。どういうわけか、徳川家康は、武田家の旧臣をこっそり召抱えたり、武田の名跡を残そうとしたり、旧武田家の縁故者、旧家臣を保護しようとしたようである。
しかし、於都摩は1591年(天正19年)に24歳で病没。武田信吉は病弱で、その後1603年(慶長8年)に21歳で病没してしまった。

結局、甲斐の武田家は、信吉なきあと大名としては存続しなかった。武田信玄の次男、信親は盲目であり、出家して竜芳と名乗った。この人は僧侶であったために、合戦にいくこともなく、長く生き残った。この系統が高家となり、一応武田の末裔の本流とされる。そのほか、武田信玄の七男信清は武田が織田・徳川連合軍と長篠で戦って敗れ、その後侵攻をうけて滅んだ後も、姉をたよって米沢の上杉家にのがれることができ、この子孫は現在まで続いている。川中島で戦った上杉家の家臣になってしまったのだから、信玄はさぞや草葉の陰で嘆いたであろう。とまれ、武田家も存続したが、それは大名ではなく、一武士としてである。

戦国大名で、石高を減らしながら江戸期も大名として残ったのは、越後上杉家、周防長門の毛利家、小田原の北条家などがあある。一方、江戸時代になって、一応子孫は高家として処遇されたが、大名ではなくなった家としては、武田家(竜芳の系統)以外に今川家(品川と改名)などがある。

同じ戦国に覇を唱えたものでも、子孫の状況はかくも違ったものになった。

写真(上):秋山夫人の墓(松戸市・本土寺)
写真(下):武田信玄(江戸時代の版画)

参考サイト:「海鷲よ甦れ」森兵男
      http://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/24791582.html

転載元転載元: 俺もおまえも 東葛そだち

茶とは

先日、小さな宴会があり、その宴席に入ったとき、その佇まいが、以前招かれた茶席によく似ていた。小さな座敷に床があり、達磨の絵の茶掛が掛けてあった。ああ、この茶掛は、前にも見たことがあると思った。

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初めて茶席に招かれた時の私は、まだ若かった。茶室に入る、にじり戸が、なぜあんなに小さいのかも知らなかった。茶など、別に好きに飲めば良いではないか、やかんで沸かした湯でも良いのに、なぜわざわざ茶釜で沸かすのか、くらいに思っていた。

イメージ 3ある人に茶席に招かれたとき、蹲踞で手水をつかい、広い庭の一隅にある茶室のにじり戸より席入すれば、何やら達磨の絵が描かれた茶掛が床に掛けてあった。達磨の絵は、墨一色で席画のように簡単に描かれており、傍に賛があった。
また、その下には、一輪挿しに一輪の赤い椿の花が生けてあった。
一輪挿しといえども、名のある陶工が作った陶器であるか、古陶なのであろう。もちろん、当時の小生には、その価値が分からなかった。ただ奥ゆかしいが、凛とした美しさがあると思った。

そして、この狭い空間は、小さな宇宙である、茶事そのものが様式美であると、そのときに分かった。

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茶を飲むのは、ただの液体を飲むのではない。「一期一会」の緊張感のもと、亭主が心をこめて客をもてなす、客もそれに誠意をもってこたえる。
千利休は、「茶道とは何か」ということについて、こういったという。

茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
夏は涼しく、冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ

この七則だけなのだそうである。つまり、自然体で、当たり前のことを誠心誠意おこなうということになるだろう。

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