海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

仏の加護は我にあり

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さる8月17日、長岡京の播翁、木村繁次郎様がおなくなりになっていたとのこと。享年90歳。

体調を崩された最近では、以前は活発に発信されていた木村繁次郎様からのメールを見ることもなかったのですが、どうされたか少し気になっていました。

突然の訃報に驚くととも、氏が生前活発にされていた活動を思い起こし、淋しく思います。

木村繁次郎様は陸軍航空兵出身で元下士官でしたが、終戦後はシベリアに抑留されて、大変なご苦労をなさいました。京都では、その体験を語る活動をずっと行い、またHPなども「男の居場所」といったコーナーを設けるなど、その年齢を感じさせないエネルギーと機知に富んだ方でした。

例えば、長岡京での講演会について、長岡京市民活動サポートセンターがブログで書いています。


その歯にきぬをきせない、舌鋒の鋭さでは、他の会員と衝突することもたまにありましたが、木村様のほうに道理があった場合ばかりであったと記憶しています。また、他の会員が衝突すると、喧嘩の仲裁みたいに、「まあまあ」とさとすようなことも。考え方は、どちらかといえば右寄りですが、小生のはなしには共感していただきました。

とにかく、この人は始終パソコンに向かっているのかなあ、と感じさせるほど、発信もはやく、そのボリュームの多さにも驚かされました。

海軍も陸軍も関係ない、惜しい人をなくしたもんです。

もと軍人でも、実際に野戦などにいった人がすくなくなり、じきに小生のような予科練出身者とか陸軍でも少年兵あがりだけになり、そのうちにそうしたひとたちもなくなっていくのでしょう。氏の貴重な体験談が、もう聞けないことは残念です。

氏のご冥福をお祈りします。

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白井市富塚の西輪寺にある、「護国の英霊」という戦没者慰霊碑であるが、これは1955年(昭和30年)9月に建立されたものである。石碑の表には、12名のかたの戒名と俗名が刻まれているのは前から分かっていたが、二度目にきた時にその裏にまわってみると、位階勲等、軍隊での地位、戦死場所、年月日、遺族との続柄が、一人一人書かれていた。


陸軍兵長 	 昭和19年	4月26日	比島沖に於て輸送船を襲われ戦死	     行年28才
陸軍上等兵	 昭和19年	6月18日	第二陸軍病院に於て戦病死	     行年23才
陸軍兵長 	 昭和19年	8月17日	ニューギニア方面に於て戦病死		行年30才
陸軍兵長 	 昭和19年	10月15日	支那湖南省●山県に於て戦病死		行年24才
海軍整備兵長 昭和20年4月14日	比島ピナッポ山北方に於て戦死		行年36才
陸軍兵長 	 昭和20年	5月13日	比島ミンドナオ島に於て戦死		行年23才
陸軍兵長 	 昭和20年	5月2日	沖縄本島内間方面に於て戦死		行年30才
海軍水兵長	 昭和20年	7月12日	比島イザベラ方面に於て戦死		行年23才
陸軍兵長    昭和20年 8月30日	支那の中部方面に於て戦病死		行年24才
陸軍兵長 	 昭和20年	9月20日	パラオ島兵站病院に於て戦病死		行年30才
陸軍兵長 	 昭和20年	9月25日	支那安徽省鳳陽県石門にて戦死		行年22才
陸軍曹長	 昭和20年	9月30日	支那新楽県新楽方面に於いて戦死		行年28才


(上記碑面には氏名なども当然書かれていたが、何かさわりがあるかと思い、あえて伏せた。また地名は刻まれていたままである)

俺もこんな見落としをするようになったかと思う反面、よくぞこの細い碑の裏に細かく彫っていてくれたとも思った。

やたら兵長が多いが、これはおそらく長い間野戦に出されていて、すんなり満期除隊とならず、部隊のもの皆が古兵となって、軒並み昇進させたのかもしれない。もっとも、死後特進しているだろうから、もとは上等兵だったのだろうが、それにしても古手が多かったものと見える。海軍整備兵長は36才だが、この人は後備兵か何かだったのかもしれぬ。

不思議なことに、終戦後の戦死者、戦病死者が四柱もある。1945年(昭和20年)8月30日と同年9月の戦死、戦病死である。これは、どうしたことか。有名な例では、小野田元少尉とともに、ルバング島にいた小塚金七元一等兵は、小野田元少尉らととも日本の敗戦を知らず、戦い続け、フィリッピン警察軍と交戦し、戦死した。そういう特殊な例はあるが、外地といえども8月下旬には日本の敗戦を各部隊は知らされていたはずである。

あるいは、その終戦直後に戦傷がもとでなくなったというのであろうか。もはや、分からないかもしれんと思うが、できればどういう事情か知りたい気がする。




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白井市富塚の西輪寺には、「護国の英霊」と刻まれているが、まだそれほど古くない戦没者慰霊碑がある。12名のかたの戒名と俗名が刻まれている。昔は純農村だったと思うが、20軒かそこらの小さな集落で、12名もの戦死者というのは、非常に多い人数である。西輪寺の檀家は、もともと7軒くらいだったのだから、7軒が母数なら1軒に2人くらいの勘定である。「護国の英霊」という石碑の文字が気に入らないが、亡くなった方はどんな思いで死んだのだろうか。

西輪寺は、急雨山圓乗院西輪寺という天台宗の寺。阿弥陀如来を本尊とするが、聖徳太子を祀っており、境内外に太子堂が二つある。

<白井市富塚の西輪寺>
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開創は戦国時代に今の柏市藤ヶ谷を領したという相馬氏で、1593年(文禄2年)の創建という。その相馬氏は千葉氏の分流で、相馬御厨一帯の領主となった相馬師常の子孫、その本家は南北朝のころ東北へ、下総に残った相馬氏のなかでも本流は守谷城主となったが、柏市藤ヶ谷にも下総相馬の分流がいたとのことで、現在も相馬姓の家が散見される。その戦国末期の当主が藤ヶ谷から富塚まで勢力をのばしたらしく、それでこの西輪寺という天台宗の寺を建てたわけだ。

藤ヶ谷にも、登慶山如意輪寺持法院という寺があるが、これも天台宗。こちらは古く、1223年(貞応2年)に、相馬氏が観音堂を建てて観音像を安置したのがはじめという。なぜか、この寺は徳川将軍家と関係があったらしく、「三葉葵」の紋章が観音堂に見られる。

富塚の西輪寺の方は、やはり太子堂が目をひく。寺の境外にある太子堂は、少し離れた場所で、寺からみれば北側の台地下にある。

<西輪寺の太子堂>
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なぜ、二つもの太子堂があるのかは分からないが、太子信仰は守谷や印西にもあり、別に当地にあっても不思議ではない。

戦時中、この白井市富塚にも学校や寺に分宿する形で、陸軍歩兵一個中隊が駐屯していた。本土決戦に備えて、こういう田舎にも軍隊は入りこんでいた。松戸の千駄堀もそうである。ここでは、山林のなかでも台地下の水辺に近い場所に軍馬を二十頭ほど飼っていたそうだ。ほかに山砲隊もいた。
兵隊は貧しく、また街道に出てタバコ屋まで行くのも大変なので、近所の旧家の人がタバコの葉を紙に巻いてあげたそうだ。兵隊たちは、大変喜んだらしい。

傑作なのは、終戦のショックからか、終戦時にその中隊長が指揮刀を宿舎にしていた小学校に忘れていったこと。さすがに小学校に刀を置いておく訳にはいかず、近所の旧家が引き取り、さらにそこから郷土資料館に寄贈されたらしい。

こんな片田舎でも、戦争中はいろいろあった。



佐倉市にある海隣寺

佐倉市の海隣寺という寺院は、高台の上、佐倉市役所に隣接する場所にある。その高台は、今の国立歴史民俗博物館のある佐倉城跡からも程近く、佐倉城跡からは堀端の道路から分岐する坂道を登っていくかたちになる。

<現在の海隣寺>
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この海隣寺は、千葉山海隣寺といい、阿弥陀如来を本尊とする時宗の寺。相模国藤沢(神奈川県)の無量光寺の末寺であった。

その名前のとおり、かつて下総国の守護から戦国大名になった千葉氏ゆかりの寺であった。海隣寺というからには、海の近くにあったはずとお思いの向きもあろうが、事実この寺も海沿いである幕張にかつては存在した。幕張(昔の馬加)の海上に浮かんでいた金色に輝く阿弥陀如来像(海上月越如来)が引きあげられ、その像を安置するために、千葉常胤により鎌倉時代前期に建立されたと伝えられている。

室町時代の千葉宗家は、足利持氏の永享の乱以降勢力が衰退し、重臣である原氏や円城寺氏らが実権をめぐって相争う状況となっていた。また、当時の関東の覇者を目指す古河公方足利成氏に対する立場によって、千葉家中は真っ二つに分かれて対立していた。千葉氏の庶流である馬加康胤は、足利成氏を支持、1455年(康正元年)、千葉氏の宿老、原胤房らと共に、1千余騎の兵で、千葉宗家の千葉介胤直を討つべく千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、その子胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、千田庄の志摩城や多古城に拠ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃され、志摩城を脱出後、落ち延びた先で自刃した。こうして、鎌倉の有力御家人から大名として成長していた千葉宗家は、一旦滅んだ。

千葉宗家の滅んだあと、庶流である馬加康胤が千葉氏の事実上の棟梁になったが、将軍足利義政の御教書を戴いた千葉氏の流れをくむ美濃の東常縁らによって攻められた。
1455年(康正元年)11月、東常縁は国分、大須賀、相馬をはじめとする千葉氏一族を率いて、馬加城を攻め、馬加康胤、胤持父子は、馬加を逃れたが、追い詰められ、馬加康胤は自刃し、胤持も戦死したといわれる。

<幕張には今やハイテクのビルが建ち並ぶ>
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その後の千葉家当主は馬加康胤の子岩橋輔胤が継ぎ、千葉宗家は輔胤以降も、馬加系千葉氏が相続していき、居城も千葉城から本佐倉城へ移された。

一方、馬加城を東常縁らによって攻められた攻防戦で生き残った馬加氏の家臣は、郷侍か帰農して農民となった。馬加の城下は、1455年(康正元年)の町家からの失火による大火で城下が焼け、さらに同年11月の戦火によって住民が退去、また馬加氏が千葉宗家を継いだため、菩提寺である海隣寺が佐倉に移るなど、一時は約1,500軒あったとされる町家が四散した。

どういう訳か、千葉氏宗家を継いだ馬加氏の居城である、馬加城跡は、跡形も残っていない。それは近年の開発のせいだけでなく、1455年に落城してから東常縁らによって破却されたか、ずっと後の豊臣秀吉の後北条氏への攻撃によって破壊されたのではないかと思われる。また、鎌倉時代から戦国時代前期までは馬加にあった海隣寺の跡は、畑のなかに木が茂っているだけで、そうと言われなければ分からないような場所となっている。1455年(康正元年)の大火とその年11月の戦火で城下は焼けたが、城も寺も今では相当想像力を働かせないと偲ぶことができない。

<佐倉連隊の碑>
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千葉宗家が馬加氏系となって、佐倉に移ってきた海隣寺は、今より寺も大きく、境内も広かったに違いない。佐倉連隊が置かれた佐倉城は、もとは千葉氏一族の鹿島氏が築いた小城だったようだが、千葉親胤、千葉邦胤という戦国後期の当主の命令で、大幅に拡充されようとした。しかし、千葉氏の時代には完成せず、その後1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。海隣寺も、馬加氏系千葉氏が馬加→本佐倉→佐倉と拠点をかえるつど移り、法燈を継いできたようで、結局佐倉城は千葉邦胤の命により拡充されつつあったものの、千葉氏が本格的に移る前に戦国大名としては滅んだために、千葉氏が居城として栄えることなく、寺のみが安住の地を得た形になった。

今の佐倉市役所の裏は、かつての陸軍墓地。その後陸軍墓地はいったん掘り起こされ、忠霊堂として遺骨が一括保管されていたが、1971年(昭和46年)市役所建設に伴い撤去され、かわって忠霊塔が建設された。その右側には、「顕彰碑」と大書した黒い一枚岩の碑がある。

なお、海隣寺自体にも日清戦争当時、捕虜収容所が置かれた。その他、市街地には妙隆寺、勝寿寺に日露戦争時の捕虜収容所、教安寺には捕虜収容所事務所が置かれていた。


<旧陸軍墓地>
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一度、この旧陸軍墓地と海隣寺参道にある「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」を見に行ったことがある。千葉氏の歴代の墓もそのときに見た。海隣寺の住職は、親切な方で、丁寧に千葉氏歴代の墓のある場所を教えてくださった。

その教えてもらった道順でいくと、旧陸軍墓地のさらに裏手の古い墓地に、千葉氏当主歴代の墓塔があった。それは、五輪塔や宝篋印塔の墓であるが、時宗の教えに則って千葉昌胤(法阿弥)、千葉利胤(覚阿弥)、千葉親胤(眼阿弥)、千葉胤富(其阿弥)、千葉邦胤(法阿弥)、海隣寺住持(其阿弥)などの菩提を弔ったものであることが分かっている。この中世の墓塔群は、1975年(昭和50年)9月17日市指定史跡となった。

<「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」>
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参考サイト:
古城の丘にたちて (森湖城) http://homepage2.nifty.com/mori-chan/

被弾した流山寺の句碑

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千葉県流山市流山、かつて流山糧秣廠があった平和台の近くに、流山寺という寺がある。この寺は、洞雲山流山寺といい、薬師如来を本尊とする曹洞宗の寺である。創建は江戸初期であるが、境内は比較的小さく、本堂の建物は新しく再建されたもの。

実はこの流山寺に句碑がある。それは、栢日庵の庵号をもつ、今の松戸市馬橋の人、大川斗囿という俳人の句碑である。大川斗囿の父、大川平右衛門は大きな油屋であると同時に俳人であり、立砂という俳号をもっていた。また栢日庵の庵号も立砂の代からであり、立砂は小林一茶と親交があった。
松戸あたりもそうであるが、流山でも醸造業がさかんで富裕な商人もおり、そうした人たちが好んで俳諧を嗜んだが、流山でみりんの醸造をおこなっていた商人であった、秋元双樹も小林一茶と親交のあった俳人として有名である。

流山寺の句碑は、上部が三角にとがった形の石に、流麗な書体で句が刻まれている。

名月やいずれの用にたつけぶり   栢日庵斗囿

この1831年(天保二年)に建てられた句碑の「名」の字の左横に大きく窪みがあり、ひび割れているのが分かるであろう。

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誰がこんな傷をつけたかといえば、太平洋戦争中に空襲によって被弾したということである。その傷がなければ、風雅な良い石碑であったが、戦争の傷跡を今に伝えることになった。

なお、この寺には入口のところに、柱状のものの上に、俵に乗った大黒様の像がある。三頭身にもみたない頭でっかちで、かなりデフォルメされている。しかし、眉毛がつながったような面白い顔で、ほほえましい。

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また、その横になにか仙人のような石像があり、大きく袖をひるがえし、杖をもっているが、はたして何を彫ったものであろうか。表情もとぼけている。足もとには、三猿が彫られている。そういう形は、よく庚申塔にみられるが、これはどういうものであろうか。それにしても、ユーモラスな石像である。

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なお、この流山寺の周辺には、小林一茶・双樹記念館や双樹の墓のある光明院など、俳句にかかわる場所が多い。

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