海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

仏の加護は我にあり

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松戸市平賀にある日蓮宗の古刹、本土寺。

その本土寺にある、像師堂は平賀氏の屋敷跡で、日蓮宗の高僧、日朗上人も日像上人も平賀氏の出身であるという。では、その平賀氏は如何なる氏族であるか、これが分からない。一説には、源氏の流れをくむという。平賀氏というと信濃源氏の名門の平賀氏を連想し、そう書いている書物もある。しかし、本土寺の場所に屋敷を構えた平賀氏は、上総の豪族上総氏の流れをくむ印東氏が、おそらくは地名にあわせて名字を改めたもののようである。この場合は平氏で、印東氏が名字を変えたことになる。なお、本土寺によると、日朗上人、日像上人に、日輪上人を加えて平賀氏出身の三聖人とし、「三聖人と申しますのは平賀の三兄弟で、師孝第一と讃えられる日朗聖人、日蓮大聖人に次ぐ偉聖と崇められる日像聖人、そして池上本門寺、比企ケ谷妙本寺の大成者日輪聖人であります」という。

日朗上人は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の高僧であり、父は平賀(印東)有国という。その印東氏は、上総氏の流れをくむ有力武士でしたが、上総広常の没落、宝治合戦後の下総、上総の有力氏族の衰退の後、室町時代になると印東氏の一部は鎌倉の奉公衆となり、ほかに里見に仕えた者もあった。しかし、なぜ平賀(印東)氏がこの風早庄の地に来たのか、日朗上人がどういう背景で出家したかなどはよく分からない。日朗上人は、日蓮六老僧の一人で、大国阿闍梨とも称される。日蓮上人とたびたび法難にあい、右腕の肘を折られ生涯不治。佐渡に配流となっていた師日蓮上人のもとを八回訪ね、1274年(文永11年)には赦免状を携えて佐渡に渡った。のちに鎌倉妙本寺を建立、そこを拠点として同じく六老僧の一人日昭上人(日朗上人の母の兄という)とともに教線を延ばした。1288年(正応元年)日蓮上人の御影像を造立し、武蔵国池上本門寺の基礎を築いた。

なお、日像上人は、日朗上人の父、平賀(印東)有国の弟、忠晴の子だという。さらに、日朗上人の母、印東治郎左衛門尉祐昭娘が有国の死後、忠晴に再嫁したともいい、日朗上人と日像上人は従兄弟もしくは異父兄弟になるわけである。
日像上人は、初め日蓮六老僧の一人日朗上人に師事したが、その後日蓮上人の直弟子となり経一丸の名を与えられ、本尊を授けられた。1293年(永仁元年)日蓮上人の遺命により京都での布教を決行した。その後いろいろ曲折があり、京都追放の院宣をくだされるなど弾圧されたが、許されて1321年(元亨元年)に四条櫛笥に妙顕寺を建立、その後、南朝および北朝のために祈願するなどした。

不思議なことに、この本土寺には1278年(建治4年)の銘がある重要文化財の梵鐘があるが、この鐘には、
「大日本下総国印東庄六崎大福寺」
 「右 志者 為令法久住/利益人天也 住持小比丘膽阿/一聴鐘声 當願衆生 脱三界苦 得見菩提/建治四年三月十一日/大勧進沙弥妙円/上総国刑部郡大工中臣兼守」と刻まれている。つまり印東氏の領地であった印東庄の寺にあったものである。
もっとも、この鐘には本土寺が1482年(文明14年)に「日瑞得求之」と日瑞上人代に入手したことが追刻してある(以下)。
「下総州勝鹿郡風早庄平賀長谷山/本土寺推鐘 右 高祖/以来相當第十番師/日瑞得求之 奉施入/檀那設楽助太郎大伴継長半合力/願主真行坊日弘 其外/結縁諸人滅罪生善/乃至法界云云」

つまり、日朗上人、日像上人が持ってきたとかいうものでないのは明らかであるが、この鐘が本土寺にはいるにあたって、小金大谷口に給地を得ていた千葉氏有力被官の六崎氏、さらに鐘に追刻された檀那である「設楽助太郎大伴継長」が関係しているのは間違いない。設楽助太郎大伴継長は千葉氏被官、鎌倉府奉公衆の名族設楽氏の流れをひく上総国山口(大網白里町)の領主で、他に銅製透彫りの華籠も寄進しており、また日瑞上人が開いた海潮寺の外護者でもある。
そして、その設楽氏は、佐倉設楽氏と同族で、佐倉設楽氏は日朗上人門下九老の一人の日傳上人に帰依し、臼井城下に暁慶山妙傳寺という末寺を建立するほどの実力をもち、本土寺とも強いつながりがあった。

この鐘の「印東庄六崎大福寺」から本土寺への移転の経緯は、鐘の銘文以外の証拠もなく推測するしかないが、廃寺となった六崎大福寺の梵鐘を惜しむ何者かが、地元の有力者に売ったか、なにかがきっかけにせよ、大きくは日朗上人に縁ある人々のリレーによったものと思う。

そのほか、日朗上人、日像上人という本土寺ゆかりの高僧を偲ぶものは、今や平賀忠晴の屋敷跡に建つという像師堂の佇まいくらいしかない。

参考サイト:「さわらび通信」 
       http://homepage1.nifty.com/sawarabi/

秋の本土寺

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本土寺は、松戸市の北小金にある、日蓮宗の古刹である。このあたりは、平賀という地名が残っているが、もとは平賀家の屋敷がこの本土寺が創建される前に、本土寺がある場所にあったという。1269年(文永6年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、1277年(建治3年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。

そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、谷山土寺、栄山門寺(池上本門寺)、興山妙寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。

一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。

さて、小生柏に旧陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機「秋水」の実験隊員だった方々の話を聞きに行く途中、久しぶりに本土寺へ寄った。境内は、まだ紅葉が本格的でないためか、あまり人がおらず、逆にゆっくり散策できた。

長い参道を抜けると、目に入ってくるのが赤い仁王門である。「長谷山」の扁額が掲げてある。ここももみじに映えて、赤い門が美しい。

本堂に上がる前に、見落としがちであるが、「翁の碑」がある。この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の1804年(文化元年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものである。ラグビーボールを大きくしたような変わった形をしており、「翁」と刻まれている。
碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれているそうだが、字がうすくなって判読できない。「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」というのは読めた。

実は寺も含めて、江戸時代には俳諧の趣味が、経済力をもった町人などを中心にはやり、この寺でも句会が催されている。小林一茶も出てきているそうだ。この本土寺のほかに、北小金の水戸街道にちかい妙典寺にも句碑がある。妙典寺は、やはり日蓮宗であるが、中山法華経寺の末寺である。

(「翁」の碑)
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そして、本堂に参り、順路にしたがっていくと、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家から武田の名跡を継ぐために武田を名乗り、小金三万石の領主となった。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまう。結局、武田家を存続させようとした徳川家康の思ったとおりにはならず、再興武田家も信吉の代で絶えてしまった。息子が小金三万石の領主になったため、その生母秋山夫人の墓が、甲斐とは離れた小金の本土寺にあるのである。

秋山夫人の墓を過ぎて、少し下り坂になり、菖蒲池に出る。その周りを半周すれば、日像菩薩をまつる像師堂のある場所となる。像師堂の近くに、稲荷と、1804年(文化元年)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑があり、

表に、今日庵元夢の「世は夢のみな通ひ路か梅の花」

裏に、藤風庵可長の「秤目にかけるや年の梅椿」     とある。

(秋山夫人の墓)
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本土寺は6月頃はあじさい、春には菖蒲も美しい。広い菖蒲池は、春から夏にかけてが良いだろうが、清々しい。そして、秋は紅葉である。今回、その菖蒲池の周辺と、瑞鳳門の辺にわずかに、紅葉がみられた。11月下旬くらいは、もっと鮮やかになるであろう。また、来るのが楽しみである。

(瑞鳳門)
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本土寺のHPは以下URL


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現在は柏市になっている旧沼南町大井という場所は、旧沼南町でも比較的早くから開けた地区である。それは、手賀沼・大津川の水運をバックに、商業活動が早くから行われてきたためとされる。また、手賀沼は、本来風光明媚だったところで、手賀沼に面した我孫子などには志賀直哉をはじめとする文人や芸術家が多くすんだ。

この大井といえば、手賀沼八景、「大井の晩鐘」の福満寺。ここの住職は、なかなかユニークな人物。
福満寺は、相当な古寺であるのだが、このお寺の正式名称は教永山積善院福満寺という。ご本尊は阿弥陀如来で、天台宗の寺である。奈良時代に尊慶によって開山されたと伝えられるが、確か以前発掘で唐三彩か何か出ていたと思う。

福満寺は山門からして、古色蒼然としている。1728年(享保13年)に建てられたというが、鐘楼を兼ねた楼門造り山門で、「教永山」の扁額の文字が鮮やかである。山門は、香取神社の隣にあるのだが、神仏混交の昔は福満寺と香取神社は一体だったらしい。
しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。将門伝説は、市川大野にもあるし、このような手賀沼周辺にもある。
下総では北へ行くほど将門に同情的なものが多く、市川でも本八幡あたりに南下すると、将門を調伏する側の伝説(菅野様、八幡の藪知らず)が出てくる。また、成田山は将門を調伏するための祈祷を行った寺として、将門に同情的な地域の人は成田山には参詣しないという風習も残っている。

福満寺の近くにも、将門伝説の遺跡がある。それは、伝承によると、平将門が藤原秀郷に敗れてなくなった後、その妾であった車ノ前が遺児とともに大井の地に隠れ棲み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂をたてて、菩提を弔ったというものである。実際、車ノ前の墓と伝えられる五輪塔が、福満寺の裏にある。すなわち、福満寺南側の境外地の妙見堂の跡地に、その五輪塔はある。車ノ前が生前将門の菩提を弔うために妙見菩薩を祀る堂をたてたものが、現在の妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年2月21日には将門の命日と称して妙見講を行っている。

そのほか、福満寺境内には、高城氏の家臣であった日暮玄蕃の供養塔とかあり、またそれについての「解説」などあるが、ちょっと荒唐無稽なので、ここでは述べない。
そのほか、福満寺境内には、「これいったい何?」と思う位、ごてごてと、いろんなものがあるが、住職の人柄を思えば、まあ仕方がないかと思ってしまう。

さて、手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の父常重が、その叔父常晴から1124年(天治6年)に相続し、1130年(大治5年)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝が領有した。当時、源義朝に千葉氏はしたがっており、つまり千葉氏は主筋に良いようにされたわけだ。千葉氏も未納分を返して権利を主張したが、義朝の方に分があったらしい。常陸の源義宗が相馬郡を領有して、さらに複雑な事態となり、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは1180年(治承4年)の頼朝挙兵後である。千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配したが、下総相馬氏は南朝につき、主力が奥州へ移ったため、衰退。戦国時代には、大井辺りも日暮玄蕃の主家である高城氏の領有するところとなった。

前述したように、大井は手賀沼、大津川の水運の拠点で、古くから商業活動も営まれていたようである。商業、流通は、物と同時に、人の行き来も伴うものである。そのため、大井は旧沼南町では、比較的開放的なところがあるのかもしれない。

静かな夕暮れに、「大井の晩鐘」は聞こえるだろうか。

(参考サイト)「薔薇の古城」   http://mori-chan.cocolog-nifty.com/dai2/
       なお、福満寺山門の写真は、上記ブログ筆者、森-CHANより借用した
        

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中山法華経寺は、千葉県有数の日蓮宗の寺院であり、多くの古文書があることでも知られる。特に、『立正安国論』『観心本尊抄』をはじめとする日蓮上人の真筆遺文77点が収められている。総武線に乗っている人であれば、西船橋駅と下総中山駅の間で、下総中山駅に近づくと山手に大きな木立に包まれた寺があるのを気付いている人も多いであろう。それは中山法華経寺であり、下総中山駅自体、中山法華経寺への参拝客のために作られたようなものである。

この中山法華経寺は、創建当初一寺でなく、ルーツを鎌倉時代に遡る二つの日蓮宗寺院がもとで、富木(とき)常忍が館内に建てた、持仏堂を原形とする妙蓮山法華寺(現在中山法華経寺の奥之院である正中山若宮奥之院)と大田乗明の館址があったという本妙寺の二寺が後世に統合したものである。すなわち、遺言により富木常忍の跡を継いだ日高(大田乗明の子)が、本妙寺を拠点とし、法華寺の貫主を兼ねて、法華・本妙寺両山一主制が形成され、さらに1545年(天文14年)に両寺が合併統合して、中山法華経寺が正式な寺号となった。

富木常忍とは、日蓮の最も古い壇越の一人であるが、富木五郎源胤継という因幡国富城郡出身の武士で、文官としての能力を買われて千葉氏に招かれ、千葉頼胤の被官となった。下総の地で、常忍は葛飾八幡の別宮若宮八幡の別当で、下総国八幡庄谷中郷若宮戸の領主になっていた。日蓮上人は『立正安国論』をもって執権北条時頼に諫暁したが省みられず、1260年(文応元年)、かえって鎌倉松葉ヶ谷で焼き討ちにあい、鎌倉を逃れ身を寄せた先が下総国八幡庄の富木常忍の屋敷であったといわれる。
日蓮上人は、破邪顕正のために、舌鋒鋭く腐敗した幕府や堕落した人々を批判し、法華経に拠って国難に立ち向かうべしと説いたが、権力側からの攻撃も激しいものがあり、伊豆や房総の小松原、龍口と数々の法難に遭っている。

富木常忍と日蓮上人は、1253年(建長5年)には出会っていたらしく、富木常忍は1253年(建長5年)12月9日付けと推定される書状『富木殿御返事』を日蓮上人から受け取っており、そのなかで日蓮上人が富木常忍の屋敷を訪れる旨の記述があり、既に富木常忍が館内の持仏堂で日蓮上人の教えをうけていたことがわかる。

この持仏堂で日蓮上人は初めての百日間の法輪を転じ、奥之院は「最初転法輪の聖蹟」と呼ばれた。その後、常忍は蒙古来襲で主君を失い、現世来世の平安を祈願して釈迦仏の造立を祈願し、1277年(建治3年)に常忍の子、日頂上人によって開眼供養が営まれた。

富木常忍の子日頂上人は、常忍の管理下にあった真間堂(後の弘法寺)にあって、教団の指導にあたったが、日蓮上人入滅後に布教方針をめぐって常忍と対立、1292年(正応5年)から1294年(永仁2年)の2年間、下総を去って日興上人を頼り富士山麓に移った。日頂上人が去った後、常忍は館内に建てた持仏堂を妙蓮山法華寺と号し、自らも日常と改めて、法華寺の初代貫主となり、日蓮遺文をまとめることによって教団指導者としての権威を高めていった。特に大田乗明は、日蓮上人から度々書状を送られ、常忍に次ぐ有力壇越であった。この大田乗明の館は、現在の中山法華経寺の五重塔や本堂のある八幡庄谷中郷中山にあり、後に子の日高上人によって本妙寺とされ、法華寺とともに、中山法華経寺の基礎となった。

1299年(永仁7年)、「日常」と改めて下総の日蓮宗教団の指導者となっていた富木常忍は若宮で亡くなり、遺言によって日高上人が後継者となった。跡を継いだ日高上人は、大田乗明の館内の持仏堂に住み、ここが本妙寺となった。そして、法華寺の貫主を兼ねることによって、法華・本妙寺両山一主制が形成され、ついには1545年(天文14年)の両寺合併統合により、中山法華経寺が正式な寺号として称されることになる。

日蓮宗の檀信徒では日蓮聖人、日蓮大聖人と表記することが多いですが、ここでは一般的な日蓮上人と表記しました。

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先日、なくなった植木等さん。「牛乳石鹸、よい石鹸」のコマーシャルでお馴染みの「シャボン玉ホリデー」や「無責任男」シリーズの映画でわれわれを楽しませてくれ、あの競争の激しい、あくせくと働いた時代に生きる活力といっては大袈裟だが、なにか希望を与えてくれた。

あの「ハイそれまでヨ」はよく宴会などでも歌われ、小生もある高名な大学教授が歌うのを聞いたことがある。「あなただーけがー 生きがいなのー」とシンミリとしたムードで始まり、やがて「てなこといわれて、その気になって」と当時流行していたアップテンポなツイストのリズムに急に切り替わるところ、見事だったなあ。それを植木等さんは、実にスマートにやった。

「無責任男」シリーズでは、浜美枝さんとか美女が必ず同僚役などで出てきて、それに植木等さん演じる「無責任男」がダボラを吹く。だが、「無責任男」は本当は責任感の強い男、とても出来ないような仕事のノルマを自分に課して、やり抜いてしまうのである。その超人ぶりは、まあ映画だから出来ることだけれど、ちょっとうらやましかった。

あの「無責任男」のような、ハイテンションの人間は、普通いない。小生も、あれが植木等さんの地の姿に近く、そのまま演じているように、ずっと錯覚していた。しかし、あとで分かったのは、植木等さんは真面目人間で、あの「無責任男」とはかけ離れた人物。役柄でやっていたということ。
その真面目な植木さんは、もともと歌手志望で、そのためバンドを渡り歩き、フランキー堺さんの目にとまって、コミックバンドをやり始めたのだという。その植木さんでも「スーダラ節」を歌うときには、歌詞があまりに自由奔放というか、滅茶苦茶なので、こんな歌を歌っていいのか悩んだそうだ。その悩みを解決してくれたのは、浄土真宗の僧侶であった植木等さんの御父堂であった。以下、毎日新聞ニュースを引用。

「毎日新聞 2007年3月29日 0時49分

余録:植木等さん
 亡くなった植木等さんの父は戦前、労働運動や部落解放運動に身を投じ、また出征兵士に『戦争は集団殺人だ』と説く反骨の僧侶だった。その父が治安当局に拘束されると当時小学生だった等少年は父の代わりに僧衣を身にまとい、檀家(だんか)を回って経をあげた▲ある日檀家から帰る途中、近所のいじめっ子らが道に仕掛けた縄で転び、顔を強打して鼻血を流した。等少年は近くに潜む連中に仕返ししたい衝動を必死でこらえ、泣き声も罵声(ばせい)もあげることなく、血だらけの顔のまま静かにその場を立ち去った▲『衣を着た時は、たとえ子供でもお坊さんなのだから、けんかをしてはいけません。背筋を伸ばし、堂々と歩かねばなりません』。そんな母の言葉が等少年の頭にあった。家に帰ると母は何も言わず手当てをし、血が止まると等少年を抱きしめ『よく辛抱したね』と涙を流したという▲『まじめな苦労人がいったんライトを浴びるとすごくおかしくてインチキな人物になる』『まじめな人がひとたびカメラの前に立つと思いっきりはじけた』。植木さんの訃報(ふほう)を耳にした知人の多くは、デタラメな無責任男を求道者のようにひたむきに演じた見事な所作をたたえている▲もともとスーダラ節を歌うのがいやで悩んだ当人だ。だが『わかっちゃいるけどやめられない』と人間の弱さを認めるのは親鸞の教えに通じると説いたのはあの父だった。おかげで人をあざける笑いでなく、自らに潜む軽薄を風刺する新しい笑いが、高度成長期の日本人を元気にした▲『やりたいことと、やらねばならないことは別と教えてくれたのがスーダラ節だった』とは後年の回想だ。『無責任男』という時代の僧衣をまとい、堂々と自らのなすべきことをやりとげた生涯である。」

書かれているように、植木等さんの御父堂は、仏の道の分かった立派な人だ。植木さんも、その御父堂がいたおかげで、あの「無責任男」が演じられた。植木等さんの御父堂は、もともと歌ではのど自慢とかで鳴らしたそうで、そういう一面があったために、植木等さんが大学をでて芸能界入りするときも、寺を継いでほしいと思いつつも、しぶしぶ承諾したそうだ。

いつの間にか、「シャボン玉ホリデー」の出演者も鬼籍に入る人が増えた。かくいう小生も棺桶に片足入れている。植木等さんの御冥福を祈る。

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