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			<title>海鷲よ甦れ</title>
			<description>軍艦旗を降下し、焼いたあの日、天皇を大元帥とする日本海軍は歴史の幕を閉じた。しかし、軍国主義は、戦後また甦り、戦争の悪夢が遠い昔のことではなくなった。今こそ、戦争の犠牲となった海鷲たちの無念を晴らす時だ。
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(ソビエト赤軍合唱団　Soldaty V Pohod (Off We Go))
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			<title>海鷲よ甦れ</title>
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			<description>軍艦旗を降下し、焼いたあの日、天皇を大元帥とする日本海軍は歴史の幕を閉じた。しかし、軍国主義は、戦後また甦り、戦争の悪夢が遠い昔のことではなくなった。今こそ、戦争の犠牲となった海鷲たちの無念を晴らす時だ。
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(ソビエト赤軍合唱団　Soldaty V Pohod (Off We Go))
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		<item>
			<title>足利学校孔子廟にある提督手植えの月桂樹　</title>
			<description>&lt;div&gt;先日、天気は小雨が降っていたが、それほどでもなく、体調も良かったので、久しぶりに足利まで行ってきた。足利といえば、世間の人はフラワーパークに行く人が多いが、駅から歩いて行ける距離の場所で、史跡がいくつかある。足利の人はは、足利尊氏は逆賊だという皇国史観のねじ曲がった考え方から、戦時中など肩身の狭い思いをしたらしい。軍隊では足利出身だというだけで、古参兵から殴られたり、足利尊氏と関係のある寺などは、逆賊の寺と言われたりしたそうだ。&lt;br&gt;
足利にある史跡で、有名なのはなんといっても足利学校である。足利学校自体が国の指定史跡で、国宝になっているものも含め、貴重な書物も沢山所蔵している。ちかくにある鑁阿寺も、国の史跡である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜足利学校の門＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373168/82/65061682/img_0?1528833190&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;375&quot; width=&quot;500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;足利学校は、日本最古の学校といわれるが、その歴史が明らかになるのは室町時代の1439年（永享11年）関東管領であった上杉憲実が、鎌倉円覚寺から僧快元を招いて初代の庠主として経営にあたらせ、書籍を納めるなどして学校を再興してからというが、遠くフランシスコ・ザビエルなどの宣教師たちの記録にも出てくる、当時としては有名なアカデミックな場所であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実は、この足利学校に海軍の「有名人」が植えた月桂樹の木がある。「文」の象徴である足利学校と「武」の海軍とでは余り頭の中で結びつかないが、別に軍人だからといって、こうした場所に植樹してはいけないという法もあるまい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜足利学校の玄関附近で＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373168/82/65061682/img_1?1528833190&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;375&quot; width=&quot;500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;学問といえば、儒学が中心だったのは、江戸時代もそれ以前もあまり変わるまい。儒学といえば勿論尊崇されていたのは孔子であり、東京では湯島聖堂などが有名であるが、やはり足利学校にも孔子廟がある。&lt;br&gt;
孔子廟は、聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟である。足利学校では江戸時代前期の1668年（寛文8年）に足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営された。&lt;br&gt;
扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王の書である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜足利学校の孔子廟＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373168/82/65061682/img_2?1528833190&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;375&quot; width=&quot;500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ところで、この孔子廟の入口をはいり、向かって左側に、東郷平八郎が植樹した月桂樹があり、廟堂をはさんで向かって右側には伊東祐亨、上村彦之丞が植えた月桂樹がある。この三人が植えた月桂樹の横にたつ立札には、それぞれの当時の官姓名と日付が書かれている。その日付は、どれも日露戦争後の1906年（明治39年）12月23日である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜東郷平八郎の手植えの月桂樹＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373168/82/65061682/img_3?1528833190&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;375&quot; width=&quot;500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは、三人が足利学校の孔子廟において、孔子とその高弟を祀る釋奠（せきてん）に参加した折に、日露戦争の勝利を記念して植樹したものである。&lt;br&gt;
足利学校事務所によれば、その釋奠という式典で使う釋奠幕の前で撮った記念写真があるそうである。&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜伊東祐亨の植えた月桂樹（左）と上村彦之丞の植えた月桂樹（右）＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373168/82/65061682/img_4?1528833190&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;375&quot; width=&quot;500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;東郷平八郎は、連合艦隊司令長官として日本海海戦でバルチック艦隊を破った日露戦争の立役者であり、伊東祐亨は東郷と同じ薩摩出身で、大本営にあって海軍軍令部長、日露戦争当時元帥になった、上村彦之丞は第二艦隊司令長官であるが、実質的に日本海海戦の勝利をもたらした。それぞれが日露戦争当時の海軍を代表するような人物である。それが揃って、足利学校で植樹していたのだから面白い。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/65061682.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 May 2012 20:38:41 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>非理法権天～日本国政府と別の見解を中国（大陸）に言う愚かな市長</title>
			<description>&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img class=&quot;popup_img_640_480&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; src=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/5f/c5/aikokunohana1938/folder/764692/img_764692_38751715_0?20120223223435&quot; width=&quot;500&quot; height=&quot;375&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本人には理非をわきまえ、相手を思いやる徳性があると思います。　「非理法権天」といわれる所以があります。　それを旗印としたという楠正成さんが、そういう偉い人かどうかは分りませんが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;正しいと信じたことを言うのは良いですが、既に証明されている事実がないと言ってみたり、勝手な自分の考えをあたかも日本国民全体の意思であるかのような主張をするのは、おかしなことです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ナチス・ドイツが毒ガス室を使って、大量なユダヤ人虐殺を行ったのは、事実です。　これをネオナチは毒ガス室などなかった、ナチはユダヤ人を殺していないなどと言っていますが、出鱈目なのは明らかです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;南京事件しかり。　二十万人、三十万人などと、みみっちい数字の争いよりも、いったい当時の中華民国の人口が何億人だったのか、南京というと勝手に地区を限定されるので言い方を換えて、江蘇省の長江周辺にどれほどの多くの民が住んでいたのかを思い起こしてほしいです。　もちろん、虐殺というのは惨たらしい殺害ですから、一人でも虐殺ですし、それが１００人以上なら大虐殺でしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;当時の陣中日誌や部隊の行動記録を見ると、やたら捕虜を「処断」という言葉がでてきますが、ジュネーブ条約で禁じられた捕虜への虐待、殺害が、当然ながら国際法上も決してなされてはならないことが、日本では兵隊まで徹底した教育がされず、捕虜が足手まといになるとすぐに殺害する傾向がありました。　しかも第10軍柳川兵団の軍規はかなり乱れており、上陸以降略奪暴行の限りを尽くしていました。　それを本来取り締まり、許さない筈の法務将校はわずかな人数しかおらず、逮捕も大勢のなかから偶然目についた現行犯のみですから、どうしようもありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;小川関治郎という法務官の陣中日誌には、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「１２月２６日&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;○松岡憲兵大尉午後六時頃来部打合せ、某少佐事件に対し同大尉は曰く　上官を脅迫し強姦し掠奪物を内地に送り暴行数度に及ぶが如き幹部の者を不問に付するが如きは不公平なり　若し隊長に於て適当の処置を為さざる場合には自分は今後兵の事件を検挙せざるべしと&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;○地××××、殺人、強姦、脅迫事件を受理し勾留訊問を為す　又　吉×××（少尉）岡××（少尉）殺人事件に付き勾留訊問を為す&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;愈明二十七日正午に杭州に向け出発の命あり　吉×××事件は十二月十七日金山に於て支那人間に稍々不穏の挙動ある如きことを聞き直ちに部下数十名を引率し支那人部落に至り射殺斬殺を為したる事実にして　その間上官に十分連絡せざるのみならず一つの好奇心より支那人を殺害せんとの念に基くものと認めらる」&lt;br&gt;
とあり、第十軍が軍隊としての体をなさず、部下の将校が上官の将校を脅迫したり、婦女暴行や略奪を何度も繰り返していたことを軍当局である憲兵大尉が嘆いているのが分かります。　こういうことがたくさんあった、だから数十万の中華民国の民間人が日本軍によって殺害されたのです。　しかし、蒋介石が率いる国民革命軍は、北伐の頃は威勢が良かったのに、1937年頃は日本軍に押されきゅうきゅうとしていました。点と線を守るので精いっぱいだったようです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;1937年中華民国の首都南京は国民革命軍を率いていた蒋介石が脱出してしまい、唐生智が指揮をとっていたものの、既に指揮命令系統は乱れ、蒋介石の命令も伝わらず、全軍に戦意を喪失した兵や脱走兵も多く、結局攻防戦の後に落城します。それで、大量の捕虜が出ましたが、これを「処断」していったのが実態です。「処断」は簡単で、重機関銃一丁あれば、三分間で100人くらいは出来たといいますから、これを100人で同時に実行したら10万人を30分で殺害できた理屈です。だから、ごく短時間で多くの捕虜や非戦闘員が殺害された、それも南京を取り巻いている部隊は多かったので、現場に近くない場所では何事もなく、柳川兵団以外の部隊は、格別軍規が乱れていた訳でもないので、南京周辺にいてもそういう事実を知らない部隊も多かったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ところが、最近の大都市の市長のなかで、やたらに、南京事件はなかったなどとネオナチかそこらのネトウヨ並の妄想を話したり、宣伝までしてわざわざ中国（大陸）と摩擦を起こす市長がいるかと思えば、メールをチェックして組合活動を調査するなどと職員の人権を殆ど無視した意地悪市長がおり、困ったものです。無断でというのは、コンプライアンスに触れるし、業務用のメールは、ふつう仕事でしか使わないちゅーの！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;彼らには、殆ど協調性がありません。　だから、自分の盟友や自分を支えてくれた人とも、すぐに仲たがいをしています。また、大人物なら、少々部下が原則と外れたことをしても仕事さえやっていれば目くじらを立てることもないでしょうが、およそ意地悪じいさんが自分の家族などにするようなアラさがし行為におよび、ひんしゅくを買っています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そんなトンチンカンな市長さんたちがいて喜ぶのは、日本を弱体化しようとたくらむ北朝鮮かどこかしかないでしょう。あるいはアメリカのCIAかな？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;＜以上、「愛国の花　花ちゃんブログ」より許可を得て転載＞&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/64786584.html</link>
			<pubDate>Thu, 23 Feb 2012 22:35:01 +0900</pubDate>
			<category>地方自治</category>
		</item>
		<item>
			<title>[転載]他人の土地は自分の土地～自民党の発狂した言い分</title>
			<description>&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/5f/c5/aikokunohana1938/folder/764692/img_764692_38467201_0?20111207080117&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_640_480&quot; height=&quot;375&quot; width=&quot;500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;世の中には困ったちゃんが、大勢いますが、政党ではまさに自民党がそれ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;本当に、こんな政党が長い間、日本の政界を牛耳ってきたのですから、信じられません。　報道によれば、自民党は47年間も、衆議院の土地を勝手にタダで使っていました。　要は、よそのうちの土地に、車をずっと留めている不法占拠者です。　ほんとに、馬鹿じゃないの？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「自民党の衆院土地の使用『許可なし』　衆院事務総長&lt;br&gt;
&amp;nbsp; &lt;br&gt;
　自民党が党本部のある東京・永田町の衆院の土地１３２０平方メートルを無償で使っている問題で、衆院の鬼塚誠事務総長は５日、『過去に自民党の本部用地として使用許可が行われた事実は確認できなかった』と述べた。衆院予算委員会で村越祐民氏（民主）に答えた。 &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　無償使用について自民党は『衆院が認めている。議員や官庁が駐車場として使うなら合理性はある』（石原伸晃幹事長）と説明している。村越氏は自民党が宣伝車を止めるなど『占拠してきた』と質問で指摘。鬼塚局長は『今後土地管理の適正化を図る』と答えた。 &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　国有財産管理を扱う安住淳財務相は『自民党にも問題があるが、衆院は長年この問題に対応してこなかったなら財産を管理する資格があるのか』と答弁した。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;朝日新聞社　2011年12月5日23時6分&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これに対して、自民党の石原幹事長は、「車を止めていただけ」と答え、自民党内部からは何が悪いのかと言う声もでているそうです。　また、自民党のコンプライアンス室の橋爪雄彦弁護士は「賃貸借契約はなく、従って賃料も発生しない」と言っていますが、無断で土地を使用しているから、賃貸契約がないのは当たり前です。　まさに、発狂した言い分です。　まったく、国有地に勝手に車を止めていい道理がどこにあるの？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;みてみぬふりの衆議院事務局も、大いに問題があり、政官の癒着の卑近な例かもしれません。　しかし、管理人がポン助だったとしても、賃料を払わなくていいわけがありません。　ざっと16億円くらいにはなるそうですから、それをタダで踏み倒すなら、自民党は国費をドロボーしていることになります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;他人の土地に勝手に車を止めたら、普通なら不法侵入で、刑事も民事もアウトです。　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;普通、この手の返済は3倍返しです。　16億円の3倍は、48億円。　自民党には、48億円きっちり国民に返してもらいましょう。　そして、その上で解党すべきです。　こんな政党、日本に存在する資格なし。&lt;/div&gt;&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/myblog/rss2/scrap_item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9haWtva3Vub2hhbmExOTM4LzM4NDY3MjAxLmh0bWw-&quot;&gt;転載元: 愛国の花－花ちゃんブログ&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/64454560.html</link>
			<pubDate>Wed, 07 Dec 2011 08:03:05 +0900</pubDate>
			<category>政党、団体</category>
		</item>
		<item>
			<title>市川国府台の赤レンガ倉庫</title>
			<description>&lt;div&gt;市川の国府台で「赤レンガをいかす会」（代表：吉原廣氏）という団体が、戦後に県の血清研究所が使用していた赤レンガの旧軍武器庫を保存すべく、その見学会を開催していたので行ってきた。&lt;br&gt;
それについては、以前工兵隊の発電所と聞いていたので、当ブログでもそう書いていたが、そうではなく現存するものは教導団の頃に設置された可能性のある武器庫だという。&lt;br&gt;
実は、1970年（昭和45年）に解体されたもう一つの赤レンガの建物があったそうだが、それは現存するものより大きく、あるいはそちらが発電機を置いていた建物か。&lt;br&gt;
いずれにせよ、現存する赤レンガは出来た頃より、血清研究所が使用していた頃にいたるまで、倉庫としてしか使われていないらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;＜外観＞&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/1784954/58/64106458/img_0?1317649057&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;338&quot; width=&quot;450&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
なるほど、実際に中に入って見ると木造の梁や柱があって、すくなくとも今残っているものには発電機を設置したような跡はみられない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この赤レンガ倉庫が設置されたのは、明治時代であることは間違いないが、時期は特定できていない。発見された棟札には「起工明治三十六年三月六日　竣成仝三十六年三月三十一日」とあり、工期は25日間であったことがわかる。つまり1ヶ月たらずで出来たことになるのだが、これが建物全体か、のちに屋根を直した際のものかが不明である。&lt;br&gt;
この棟札の件は県血清研30年誌に掲載された、当時の職員の佐藤寛三氏の「思い出」に書かれ、その後棟札自体が発見されたことで、1903年（明治36年）に建物ができたと考えられたが、市川市立博物館所蔵の1901年（明治34年）印刷の「野砲兵第一連隊及び第十六連隊兵営の図」に第十六連隊武器庫として、同じ場所と思われる位置に同様の倉庫が一棟だけ描かれているというのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;野砲兵第十六連隊は、国府台に設置されていた下士官養成の教導団がその役割を終えて1899年（明治32年）に廃止された後に設置され、この倉庫が出来た後のようだが、1904年（明治37年）～1905年（明治38年）日露戦役では、旅順要塞攻略戦、奉天大会戦に出陣している。既に国府台にあった野砲兵第一連隊、野砲兵第十六連隊に続いて､1908年（明治41年）に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年（大正8年）には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;野戦で使用する砲は砲身だけでなく、移動するための車輪、照準その他の附属物があり、その保管には赤レンガ倉庫は決して大げさなものではなかったのだろう。勿論、砲兵といえども小銃の類も使っただろうから、それらもいくらかは入っていただろうが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;＜二階内部＞&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/1784954/58/64106458/img_1?1317649057&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;338&quot; width=&quot;450&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
赤レンガ倉庫といっても、舞鶴の海軍の赤レンガ倉庫などと比べるとかなり小ぶりである。幅は7.7ｍほどしかなく、長さは20.69ｍである。それが２階建てで高さは9.78ｍ、一棟のみ。レンガの積み方は、レンガの長手と小口を交互に積むフランス積みで、明治でも早い頃にはやったもの。旧軍施設では、猿島要塞など少数しか残っていない。1890年頃にはイギリス積みというレンガの長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式が一般的になった。ちなみに、千葉市の鉄道連隊の材料廠は、イギリス積みの変形で端部のみ長さの違うレンガにするオランダ積みである（以下参照）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;http://www.shimousa.net/tetsudourentai/tetsudourentai_no1.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.shimousa.net/tetsudourentai/tetsudourentai_no1.html&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今の国府台の赤レンガ倉庫は、旧血清研の時期にいろいろ改変がされている。例えば一階東側中央の出入口は、旧軍時代のものではないそうだ。一階は血清の冷蔵に使用され、ウレタンが部屋の内側全面を覆う形にされている。二階も多少は改変されているようだが、ほとんど旧軍時代のままになっている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;本来の出入口である西側（江戸川側）にある出入口から急な階段を二階にあがると、むき出しになった天井が古い日本家屋と違い、直径25cmほどの梁の上に筋交い状に細い柱が屋根に向かい三角の形をつくっているのに気付く。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これはトラスというもので、両側の壁に組み込まれた二重の桁によって支えられている。阪神淡路大震災の際に話題となった耐震構造でも、日本建築に筋交いを使うことで強度を高めるということが言われたが、こういう構造は屋根の重みを松の直径40cmくらいの大きな木などの太い梁を使わなくても支えられるのだという。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;窓も古いままで、窓枠の内側に少し窪みがある。元は外側に観音開き扉があったのだが、蝶番が残っているだけで失われている。窓には嵌め殺しの鉄格子があり、内側には、金網戸とガラス戸がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;＜窓の外側＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/1784954/58/64106458/img_2?1317649057&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;338&quot; width=&quot;450&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;＜窓の内側＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/1784954/58/64106458/img_3?1317649057&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;338&quot; width=&quot;450&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
窓に嵌めこまれた鉄格子は、現地で組み立てたのではなく、工場で組み立てたのをレンガを積む過程でレンガに穴をあけて嵌めて行ったもの。だいぶこみいった作業であった模様。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;なんと、面白いことに旧軍時代の「兵器係」「使役兵」といった壁への小さな貼り紙が残っており、軍帽か何かを掛けて使ったのではないかと思う。札を掛けた、出社カードのようなものではなかろう。&lt;br&gt;
南側の天井の梁に近い場所にフックがあるのだが、何を掛けたものか、これは使用目的が分らない。詳細な見取り図か何かないと、はっきりしない。だれか覚えていれば幸いであるが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;＜旧軍時代の名札＞&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/1784954/58/64106458/img_4?1317649057&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot; height=&quot;338&quot; width=&quot;450&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;人の記憶は、年とともにあいまいになる。言葉も昔歌った歌でさえ。小生が戦後復学した学生の頃に歌った「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本ではイールズ声明反対闘争が盛り上がるなかで歌われた。この歌は戦争直後の1947年、プラーグ国際青年祭コンクールで入選し、「全世界民主青年歌」とともに愛唱されたというが、その一方の、「全世界民主青年歌」を学生の頃よく歌っていたかといえば、あまり記憶がない。戦後ですら、記憶が薄れている。戦時中の詳細なことは尚更分らなくなる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;話が横道にそれた。この赤レンガ倉庫は、いずれ創設の時期などが明確になってくると信じるが、歴史の証言者が高齢となり、次々に鬼籍に入ってしまう中、保存の決定とさらなる研究が急がれる。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/64106458.html</link>
			<pubDate>Mon, 03 Oct 2011 22:35:36 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京、海南島フィールドワーク報告集会（於神戸）のお知らせ</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;神戸・南京をむすぶ会の方より、以下の案内があり、転載するものです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;＊＊＊&lt;br /&gt;
南京、海南島フィールドワークに、２１名のメンバーで行ってきました。第１５回目の訪中で、神戸・南京をむすぶ会と兵庫在日外国人教育研究協議会の共催によるものです。以下のようにインターネット報道されています。&lt;br /&gt;
（複数のメーリングリストに投稿しています。重複して受け取られる方には申し訳ありません。）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;また、「南京・海南島フィールドワークノート」（Ａ４版、８８頁）を５６０円で販売しています。購入希望者は、送料８０円とあわせて６４０円分（８０円切手８枚）を神戸・南京をむすぶ会事務局（〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1　神戸学生青年センター内）にお送りください。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;また、以下のように報告集会を開きます。ご参加をよろしくお願いします。&lt;br /&gt;
●報告集会の日程&lt;br /&gt;
日時：２０１１年９月３０日（金）午後６時半&lt;br /&gt;
会場：神戸学生青年センター&lt;br /&gt;
※午後８時？から、小陽春で懇親会の予定です。&lt;br /&gt;
※懇親会の方は、事前に参加のお返事をよろしくお願いします&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なお、同じ団体の活動を報じたものとして、新華社の日本語版に以下の記事があった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;a href=&quot;http://jp.xinhuanet.com/2011-08/15/c_131050567.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://jp.xinhuanet.com/2011-08/15/c_131050567.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「８月１５日、南京各界の百人余りと日本の友人が中国を侵略した日本軍が行われた南京大虐殺で殺害された同胞記念館で和平集会を行って、中国人民抗日戦争勝利６６周年を記念し、南京大虐殺に見舞われた３０万人の同胞を悼んだ。和平集会に参加した日本団体は日本銘心会・南京第２６回友好訪中団、神戸・南京を結ぶ会第１５回訪中団、長崎日中友好希望の翼第９回の訪中団となる。」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ご参考まで。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/63962880.html</link>
			<pubDate>Fri, 09 Sep 2011 23:17:27 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>「青年よ団結せよ」の歌の動画</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373168/75/63674275/img_0?1311177248&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_209_290&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;人の記憶は、年とともにあいまいになる。学生の頃に歌った「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本ではイールズ声明反対闘争が盛り上がるなかで歌われた。東北大から火が着いた運動は、東京にもすぐに広がり、レッドパージ反対の広範な運動が展開された。ところで、この歌は戦争直後の1947年、プラーグ国際青年祭コンクールで入選し、「全世界民主青年歌」とともに愛唱されたというが、その一方の、「全世界民主青年歌」を学生の頃よく歌っていたかといえば、あまり記憶がない。そういう歌があることは知っていたが。ただ、いつしか「青年よ団結せよ」の歌は歌われなくなり、「全世界民主青年歌」はあとあとまで歌い継がれていった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところで、以前花ちゃんが「青年よ団結せよ」の動画を作ったが、アメリカの会社の方からYouTubeに申し立てがあり、今はその当初の作を見ることができない。なんでも、その動画のなかでドイツの飛行機が飛び立ち、ソ連軍が砲撃するシーンか、ソ連の戦車が走っているシーンが、その会社の著作権が主張させるところのものであり、ブロックされているのだそうだ。代わりの動画は、アップされているが、前の方が迫力があった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;おかしなもので、YouTubeの動画で「Объединяйся, молодежь!」とロシア語で検索すると花ちゃんの動画と関係ないのがいくつか出てくる。本家本元のロシアでは、「青年よ団結せよ」の歌の動画は存在しない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;新しいバージョンの花ちゃんの動画&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;同様に、「エルベ河」（Встреча на Эльбе）の歌も、YouTubeでは日本の歌声喫茶のは沢山出てくるが、ロシアのものは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「コムソモールの歌」にいたっては、日本もロシアも殆どない。自動音声のものと、合唱ではわずかに中国バージョンがあった。「共青団員之歌」と字幕にあり、いかにも古めかしい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;古い時代を懐かしんでばかりはいられない。青、白、赤の旗、「青年よ団結せよ」の歌、そうしたものが、やがて自分の周りにはなくなった。その後の自分の人生は、全く方向の違うものとなった。それは、天の配剤のような偶然だろうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/63674275.html</link>
			<pubDate>Thu, 21 Jul 2011 00:54:08 +0900</pubDate>
			<category>洋楽</category>
		</item>
		<item>
			<title>講演会「新『防衛計画の大綱』の問題点と日本のゆくえ」</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;以下の案内がありました。よろしければ、どうぞ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;---&lt;br /&gt;
&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;輝け！日本国憲法のつどい
新「防衛計画の大綱」の問題点と日本のゆくえ

と　き　2011年5月13日（金）
　　　　午後6時開場、6時30分開会
ところ　さいたま市民会館うらわホール
講　演　新「防衛計画の大綱」の問題点と日本のゆくえ
　　　　講師  山田 朗さん（明治大学教授）
入　場　無料
主　催　平和憲法を守る埼玉の共同センター埼玉憲法会議

&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;2010年12月17日、民主党政権のもとで初めての日本の安全保障政策である「平成23年度以降に係る防衛計画の大綱について」（以下、新「防衛計画の大綱」）と、その具体化である「中期防衛力整備計画」が、閣議決定されました。&lt;br /&gt;
　「防衛計画の大綱」は1976年に発表されて以降、今日までに3回改定され、「専守防衛」を実施する「基盤的防衛力」構想をうたう一方で、軍事力を強化し、自衛隊の米軍への軍事協力を拡大し、海外派遣の拡大をすすめてきました。&lt;br /&gt;
　今回の新「防衛計画の大綱」では、その「基盤的防衛力」構想が消え、替わって、新たに「動的防衛力」構想が登場。自衛隊の海外派遣の本格化が打ち出され、周辺諸国から「再び戦争をする国になるのでは…」との危惧を抱かれています。&lt;br /&gt;
　「新防衛計画大綱」の内容を知るとともに、いま私たちに何が問われているのかを考えます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/63145990.html</link>
			<pubDate>Wed, 27 Apr 2011 06:42:46 +0900</pubDate>
			<category>国会</category>
		</item>
		<item>
			<title>陸軍軍医学校跡から出てきた人骨について</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/370440/81/62908981/img_0?1300631385&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_570_648&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;陸軍軍医学校は、言うまでもなく、陸軍の軍医の教育・養成機関であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日本の陸海軍は黎明期より兵制が異なり、1870年(明治3年）の太政官布告で定められた兵制は、陸軍はフランス式（のちにプロシア式）、海軍はイギリス式であり、軍医の教育・養成においても違いがみられたが、陸海軍ともに軍医の養成の中心は軍医学校と呼ばれる機関であったことは変わりがない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;陸軍は明治の初め頃は、陸軍省軍医部に置かれた陸軍本病院（後の東京陸軍病院）が各鎮台の病院、各連隊医官を統括し、軍医部の責任者が軍医総監であったが、1879年（明治12年）～1885年（明治18年)までは陸軍軍医本部、1886年（明治19年）以降は陸軍省医務局が中央機関となった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;陸軍軍医の養成のための学校は、1873年（明治6年）の「軍医学校規則」では、「陸軍本病院ニ於テ学校ヲ設クル趣意ハ生徒ヲ教育シテ其器ヲ成サシメ而後軍医ニ任シ」とあった。&lt;br /&gt;
以降、その学校を閉校して、陸軍軍医の養成を東大に委託したり、1886年（明治19年）5月に復活させるものの、軍医校内の寄宿舎に衛生部士官を志望する帝国医科学生を収容、大学に通学させるなどの制度上の曲折があったが、日清戦争後には　陸軍軍医学校に生徒を召集し教育するようになり、1908年（明治41年）には軍陣医学の研究は、陸軍軍医学校で実施すること、学生の教育要綱についても明文化されていく。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;その基本的な位置付け、役割は、陸軍軍医学校令（1922年（大正11年）3月9日公布の勅令第五七号をもって制定され、1924年（大正13年）一部改正されたもの）では、&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「第一条 陸軍軍医学校ハ学生ヲシテ衛生部ニ必要ナル学術ヲ修得セシメ軍陣医学及軍陣薬学ヲ研究シ軍事衛生ニ関スル試験ヲ行ヒ併セテ陸軍衛生ニ関スル業務ニ従事スル者ノ教育ニ要スル図書ノ編纂ヲ為ス所トス 陸軍軍医学校ハ前項ノ学術ノ教育並軍陣医学校及軍陣薬学ノ研究ニ資スル為一般患者ノ診療ヲ行ヒ且軍隊ニ要スル細菌学的予防品及治療品ノ製造ヲ為ス &lt;br /&gt;
　第二条 学生ノ教育綱領ハ陸軍大臣之ヲ定ム &lt;br /&gt;
　第三条 学生ノ教育ノ実施ハ教則ニ依ル其ノ教訓ハ前条ノ教育綱領ニ基キ陸軍大臣ノ認可ヲ受ケ校長之ヲ定ム・・・」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;と記載されている通りである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところが、陸軍軍医学校は、毒ガスや細菌兵器の研究にもあたっていた。それは科学研究所や後に開設される陸軍習志野学校とともに、そういう化学兵器や細菌兵器を研究する機関の一翼となるとともに、研究者を養成するという役割を担っていたと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;軍医学校での毒ガス研究は、早くも1918年（大正7年）、軍医学校教官であった小泉親彦一等軍医（のちに陸軍軍医総監、陸軍軍医中将となる）を責任者とする化学兵器研究室にはじまる。そこで装置の予算化をおこなって、小泉軍医は毒ガスの実験をおこなった。小泉軍医は、工場で試作させた液体塩素を用い、研究室内の排気房内で、小泉軍医は自身が考案した防毒面を着装し、自ら実験台となって、日本最初の毒ガス実験を行ったのである。&lt;br /&gt;
機能不十分な房内で倒れた小泉軍医は、五○日余も病床に就いたという。同じ頃、シベリア出兵で毒ガス戦の装備を必要と判断した陸軍は、臨時毒瓦斯委員会を発足させた。小泉軍医もこの委員会の委員で、主に防毒の研究を進めており、前記のような防毒面を開発した。その小泉軍医考案の第二防毒面は、陸軍の制式兵器となって二万余がシベリアに送られた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;しかし、その後毒ガス研究は科学研究所第三部に移管されていき、そのあとを埋めるように次の目標として、小泉軍医は細菌兵器の研究に着目した。その立役者は、のちに七三一部隊の部隊長となる石井四郎であった。そして、軍医学校に防疫研究室が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「防疫研究室は国軍防疫上作戦業務に関する研究機関として陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。此新設に関しては昭和三年海外研究員として滞欧中なりし陸軍一等軍医石井四郎が各国の情勢を察知し我国に之が対応施設なく、国防上一大欠陥ある事を痛感し、昭和五年欧米視察を終え帰朝するや、前記国防上の欠陥を指摘し之が研究整備の急を要する件を上司に意見具申せり。爾来陸軍軍医学校教官として学生指導の傍ら余暇を割き日夜実験研究を重ねつつありしが、昭和七年小泉教官の絶大なる支援の下に上司の認むる処となり、軍医学校内に同軍医正を首班とする研究室の新設を見るに至りしものなり。」（『陸軍軍医学校五十年史』より）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;戦後になって、陸軍軍医学校に勤務していた看護婦の証言などあって、陸軍軍医学校に終戦時に人体標本が埋められたということであるが、前後する1989年（平成元年）には地下から62体の人骨が見つかっている。この人骨について旧厚生省は「七三一部隊」との関連は不明としながらも、「人骨は研究用の標本で、軍医学校が埋めた可能性が高い」という調査結果を公表していた。&lt;br /&gt;
また、その人骨には銃創痕や実験手術をした痕が、鑑定されていて、生体実験の犠牲になった人の遺体が標本化されていた可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;その発掘調査は、厚生労働省がこの2月21日から行っている。厚生労働省が調査するのは、都立戸山公園に隣接する国有地約３０００屬任△襦その場所は、1989年（平成元年）に現在の国立感染症研究所を建設工事中に大量の人骨が掘り出された場所の約250ｍ西に相当する。既に重機がはいって、掘っているのだが、偶然にも同所は江戸時代の尾張藩の江戸屋敷があった場所であるため、遺構を壊さないように慎重に調査が行われているそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;発掘調査だけでなく、関係者の聞取りは急務である。既に物故者も多くなっていると思うが、まだ関係者が生きているうちに、早急に関係者の証言を集めてもらいたい。発掘などで得られた証拠と証言の裏をとって、総合的に当時の軍がどういうことを隠れて行っていたのか、を明らかにしてもらいたい。&lt;br /&gt;
小生としては、陸軍軍医学校―陸軍習志野学校―七三一部隊の連関の線が、どうつながっていたかが非常に関心のあるところである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;本件に関しては、常石敬一氏が代表を務める「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」が声明を発表している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;同会のHPには、その発掘までの経緯や発掘状況についても詳しく書かれている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;a href=&quot;http://www.geocities.jp/technopolis_9073/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.geocities.jp/technopolis_9073/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/62908981.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Mar 2011 07:10:32 +0900</pubDate>
			<category>行政</category>
		</item>
		<item>
			<title>被爆者を愚弄するイギリスBBC</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-34-36/mori_takeo1sou/folder/373147/69/62588469/img_0?1298668608&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_509_600&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;広島で被爆し、長崎に行って更に被爆した二重被爆者の故人をイギリスBBCが「世界一不運な男」などと愚弄する放送をしていたことが判明した。在英日本大使館が抗議したが、イギリス政府からはなしのつぶてだという。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なぜ、何の罪もない被爆者を馬鹿にするのだろうか。イギリス人にとって、第二次世界大戦は笑い話なのか。イギリス人は人権感覚が麻痺しているのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;被爆者が不運、不幸というより、世界一馬鹿な放送局がBBCであり、こんなロクでもないBBCなど潰れてしまえば良い。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;かつての大英帝国の殷賑をきわめた時代は、とっくの昔に去った。しかし、彼らの頭のなかでは、いまだにイギリスが世界の中心であり、日本などは中国の隣にある小さな島国とでも思っているのだろうが、そういうアジアの人間を見下してきたイギリス人の考え方が、今日の衰退のもとになっていることに気づいていないらしい。実際、国際金融市場でもロンドンの役割は、第一次大戦後大幅に低下している。しかも、現在欧州通貨はユーロの時代であり、近い将来ユーロ圏のどこかが、ユーロ不参加のイギリス・ロンドンにとってかわる可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日本も、別にイギリスなどと国交を断絶しようが、特段困ることもない。勿論、馬鹿な放送をBBCがしたからといって、イギリスと国交をいますぐ断絶する必要はないだろうが、日本政府は断固抗議し、国際的にこれを糾弾しなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;それは、唯一の被爆国という意味からも必要なことである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/62588469.html</link>
			<pubDate>Sat, 22 Jan 2011 00:44:17 +0900</pubDate>
			<category>その他国際情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>[転載]特攻隊志願者はこうして造られた！ー親友、安居所三君の場合！</title>
			<description>&lt;center&gt;&lt;img src=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/29/b5/biwalakesix/folder/1016287/img_1016287_20395338_0?20101126221007&quot;/&gt;&lt;/center&gt;&lt;br&gt;&lt;center&gt;&lt;img src=&quot;https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/29/b5/biwalakesix/folder/1016287/img_1016287_20395338_1?20101126221007&quot;/&gt;&lt;/center&gt;&lt;br&gt;Kamikaze 神風特攻隊に主観を置きました YouTube 動画 ...&lt;br /&gt;
&amp;copy; All Rights Reserved.image from Flickr掲載ページ&lt;br /&gt;
: &lt;a HREF=&quot;http://paranoids.sakura.ne.jp/youtube/search/Kamikaze/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://paranoids.sakura.ne.jp/youtube/search/Kamikaze/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【画像】1944年11月25日12時56分、空母エセックスに突入直前の山口大尉機（艦上爆撃機・彗星三三型）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学徒兵　許されざる帰還&lt;br /&gt;
～陸軍特攻隊の悲劇～  &lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://www.nhk.or.jp/special/onair/071021.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.nhk.or.jp/special/onair/071021.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://image-search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&amp;fr=slv1-tbtop&amp;p=%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://image-search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&amp;fr=slv1-tbtop&amp;p=%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
　&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
特攻隊志願者はこうして造られた！&lt;br /&gt;
親友、安居所三君の場合！&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
今の若い方には、後長く生きられて数年という特攻隊に、どうして次々死を覚悟し当時の若者たちが志願して行ったのか不思議に思われると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、今日は、当時中学４年生（今の高校１年生）だった私の親友、安居所三（やすいしょぞう）君が、どうして特攻隊を志願したかのいきさつをお知らせしたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安居所三君は、私の親友でした。&lt;br /&gt;
放課後、あるいは勤労動員の作業を終わってから、いつも、彦根からの琵琶湖岸の１本道を、一緒に自転車で家に帰りました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の家は、今は彦根市に吸収合併された、市の中心部から、自転車で約４０分の純農村でした。&lt;br /&gt;
安居君の家は、私の住んでいる集落から、さらに、自転車で約２０分のところにありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その頃は、中学３年生になると、陸軍、海軍の予科練習生（いわゆる予科連）の募集が始まります。&lt;br /&gt;
身体の柔軟な、中学３年生から仕込んで、戦闘機乗りに仕立てあげるためです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、皆，腹ペコで、次はぎだらけの制服をきていた私たちにとっては、腹一杯ご飯が食べられて、金ピカの七つボタンに、桜に、碇（いかり）の制服制帽に身をかため、腰に短剣を吊るした予科連生はあこがれの的でした。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
しかし、厳格な身体検査に合格しなければ、予科練生になれません。&lt;br /&gt;
担任の先生は、毎月１回、クラスの生徒を身長の順番に並べ替えます。&lt;br /&gt;
そして背の高い順番に、「ハイ、今月は、先頭からここまで」と、毎月数人ずつ予科連を志願させます。&lt;br /&gt;
彼らは、当初は約２年で一人前の飛行機乗りに仕立て上げられ、やがて特攻隊員として死んでゆくのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、クラスで小さい方から５～６番で身長が足りず、飛行機の操縦棹に足が届かないため番外です。&lt;br /&gt;
安居君は、背の高い方から数番目でしたが、母一人、子一人の家庭だったため受験を免除されていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、中学４年生になるとそうもゆかなくなりました。&lt;br /&gt;
毎月、毎日、特攻隊で死んでゆくのですから補充が大変です。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
軍隊は、各中学校長に、学校ごとに、今月は○○名受験させろと割り当てがきます。&lt;br /&gt;
校長先生は、各担任の先生に、何名受験させろと割り当てます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
割り当て人数を消化できない担任の先生は、今まで免除していた安居君に目をつけ、勤労動員の後で疲れている安居君を、校舎に呼び出して、連日受検を強制します。&lt;br /&gt;
私は、暗くなっても、校門のところで待っていて一緒にかえります。&lt;br /&gt;
そんなある日、特別遅くなっても帰ってきません！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やっと帰ってきたので、どうしたと聞くと、もうどうしようもなくなって、断りきれずに、受検することを承諾してきたというのです。&lt;br /&gt;
お母さんの反対をどう説得すると聞くと、黙ってハンコを盗み出して願書を提出するというのです。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
どうして、反対しきれなかったんだと聞くと、とても断れる雰囲気じゃなかったというのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の化学実験室は、座席が階段状になっていて、先生は一番低いところで実験をします。&lt;br /&gt;
各自が実験するほどの設備がないため、生徒は階段状の椅子に座って、高いところから見守る仕組みになっていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その一番低いところに、担任の先生と、相対して座り、担任の先生が、説得するのを、校長先生や、配属将校ど、全校の先生方が見守っているのです。&lt;br /&gt;
もう、最後は、担任の先生が気の毒になって、承諾してしまったとのことでした。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
それから数日後、彼ともう一人の受験生の送別会を安居君の家で開きました。&lt;br /&gt;
はじめは、大人しくしていた二人は、かき集めてきたどぶろくの力を借りて「何が目出たいんだ、あと２年足らずで、俺達は必ず特攻隊で死ななければならないんだぞ！そんな気持ちがお前らに分かるか」と暴れだし、襖や，障子などを打ち破り、やっとのことで皆で抑えつけました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、昭和２０年の７月、彼らは入隊してゆきましたが、８月には敗戦を迎え、幸い特攻隊で、死ぬこともなく帰ってきました。&lt;br /&gt;
　&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
卒業後、大阪の呉服屋さんに勤め、十数年経って、仕事で北海道にやってきて、しばらくぶりに当時の話になりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に、そのようにしてわずか１８～１９歳で死んで行った人々の多かったことか！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦争賛成！日本の自衛隊も、もっと海外へ、核武装、敵地攻撃論容認などと勇ましいことを言う人は、真っ先に、自分や、自分の子供が、２０歳前後には、ほぼ確実に戦死するよな状態を、望んでおられるのかどうか、しっかり、胸に手を当てて、考えてもらいたいものだと思います。&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;&lt;br /&gt;
明治時代のジャーナリスト長谷川如是閑氏は、「戦争絶滅請合法案（せんそうぜつめつうけあい法案）」を発表し、政府の高官、その家族が、真っ先に戦場に赴くべきことをのべました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さしずめ、小泉２世や対馬２世、麻生氏、安倍氏、中川昭一氏や、久間、小池百合子、石破、浜田氏など歴代防衛相や、ついでに元民主党の影の防衛相浅尾氏と、その家族が先ず敵地攻撃とやらに身を挺してもらいましょう！&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/myblog/rss2/scrap_item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9iaXdhbGFrZXNpeC8yMDM5NTMzOC5odG1s&quot;&gt;転載元: 軍事費削って！５秒に一人、飢餓で命を落とす子ら&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/62193230.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 Nov 2010 22:11:20 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
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