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森川天
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さて岸岳古窯祉の二番目の紹介は



佐賀県東松浦郡北波多村に所在する
飯洞甕窯跡です
(※現在は唐津市に編入されている)



ここは、岸岳古窯祉の中では唯一整備されて
おり、自由に見学が出来るようになっている




国道202号沿いの徳須惠地区から2Km程
岸岳に向かって行った山麓に位置する



鮎帰り池を右に見ながら、登って来ると
「唐津焼 発祥の地  岸岳古窯跡」 

と、書かれた看板が、目に飛び込んでくる



正面のガードレール後方が飯洞甕下窯跡
になる

イメージ 1



森川天が初めて訪れた頃は、まだ砂利道で
農道そのまんまでしたが、写真の映り具合が
不味かったので、後年に撮り直した写真です


後年になって、綺麗に舗装され観光の見学者
増えたようです



佐賀県史跡第五号の岸岳古窯跡について

イメージ 2




「飯洞甕下窯・飯洞甕上窯・帆柱窯」
の事を説明している看板ですが


今は新しく作り替えられて、いるかも




岸岳の窯跡は調査の結果「割竹式登り窯」
呼ばれる築窯技法で、竹を縦に割って
伏せたような構造を有した登り窯であった
ようです



連房式の登り窯としては、最古の窯構造
そうです



この撮影アングルは以前に岸岳庵さんも
アップしていましたね



タイトルは、「盃の里帰り」だったような・・・





奇しくも今、氏のブログにてその盃が紹介
されていますねぇ


イメージ 3

昭和31年の発掘調査の後、周囲は
鉄条網にて、簡単に仕切られていましたが、
その後に整備直しにて頑丈な金網に変更し、
安全に保護されるようになりました




これにより監視の目が無くとも、見学者は
自由に見学が出来るようになりました




下窯跡から上窯跡を見ると50メートル
程の距離です

イメージ 4






上窯は農道の造成の際、殆どが破壊され
上部の数室分が残されています

イメージ 5

窯体の部分を道路が横切って造成されています






上窯跡が再調査された後に、訪れた時の写真です

イメージ 6

周辺では極小片の陶器が確認出来ますが、
資料にもならないような微細なものです






岸岳飯洞甕窯の製品は、
福井県の一乗谷に築かれていた朝倉氏の
屋敷跡からも出土品が確認されております




それにより、岸岳の窯場にて焼成された
製品が室町時代末に生産された事を証明
する資料になると、考えられています。









  • 顔アイコン

    エレトップ森川店様へ
    驚きました。こんな所なのですね。どんどん開発が進み。
    砂利道だった所が舗装され綺麗になるのは良いのですが。
    大事な文化遺産まで無くなっていくようで寂しい気もします。私は決してそこまで行ける者ではありませんので。唐津焼の発祥の地を見せて頂いた事でも大満足しております。行った気分になりました。ナイスです。有難うございます。

    不あがり

    2013/3/17(日) 午前 4:46

    返信する
  • おはようございます。
    かなり綺麗に整備されているのですね。良いことかもしれませんが、風情には少し欠けるでしょうか?ただ、開発により道路にされてしまうよりは良いのでしょうか?文化遺産の保存は難しい問題ですね。

    [ ひがにゃん ]

    2013/3/17(日) 午前 9:46

    返信する
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    唐津陶始源期について、それらを訪れる時、話題に上る時にいつもそのことを考えます。室町後期、なんでしょうか?一乗谷、壱岐等の断片的な実証もありますが、それらを論破することも可能な、ある意味突っ込みどころが満載なもので…。

    室町末期の岸岳周辺はそれこそ戦乱の渦中にあり、波多氏はそれらに対処するのが精一杯であり、かつ波多氏のインフラを持ってして窯場の整備や全国流通をはかっていた、というのは僕にはとても無理があるように思えます。やっぱり秀吉の力をもってはじめてなし得たのでは?と。なので僕は始源期は朝鮮攻め以降、なのかなと思っています。

    この辺、エレトップ森川店さんはどう思われますか?長くなってすみません…。

    [ mstmrtrsp ]

    2013/3/17(日) 午後 6:43

    返信する
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    不あがりさん

    農道の造成工事は古い時代に行われたものと、思われます

    アップした画像から少しでも古窯跡の雰囲気を感じて
    もらえれば、嬉しく思います

    [ 森川天 ]

    2013/3/18(月) 午後 7:28

    返信する
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    ひがにゃんさん

    たしかに、金網越しに見る遺跡は風情を損なうものですよね

    それでも、美濃や瀬戸などの大窯業地域の保存遺跡のように
    建物の中にあるよりは、まだ良しとします

    でも、この飯洞甕窯跡も屋外保存の為、次第に風化している
    ようです

    文化遺産の保存は難しいのでしょうね

    [ 森川天 ]

    2013/3/18(月) 午後 7:37

    返信する
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    mstmrtrsp さん

    確かに、ひとつ、ひとつを考えていくと、たくさんの矛盾が
    出て来るのですよね

    唐津焼の名称が世に出た頃とは、商業ベースに乗った頃であろうと考えます
    その頃を始源期と考えれば、それは文禄・慶長期だと思いますよ

    それ以前より、肥前で焼かれていた施釉陶器は存在したと考えますが
    穴窯での焼成であり、規模が小さく、遺跡の確認も出来ていないと
    考えます

    豊臣秀吉に波多氏が改易され、岸岳の陶工も逃げてしまったと記録されて
    いますが、
    所領を継承した寺沢氏は陶工も朝鮮から同行していたのでしょうかねぇ
    唐津藩を拝領する準備をしていたのでしょうか?

    森川店が不思議に思う事のひとつです

    [ 森川天 ]

    2013/3/18(月) 午後 8:59

    返信する
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    波多氏の改易は事実。
    …ですが、それに伴う陶工の離散があったのか、否か?伝承はありますが今後更に検証するに値する事項だと愚考します。岸岳諸窯→櫨の谷、大川原、椎の峰から長葉山に到る陶工の移動伝承についても然りです。

    元々日本史が好きなのでどうしても色々ひねくって考えてしまう質です。すみません。こうして唐津の事を色々考える事が好きだあるがゆえに、エレトップ森川店さんに問うてみた次第です。ご容赦ください。

    それと寺沢氏の唐津焼に関わる功績はもう少し評価されてほしいなぁ、と。

    [ mstmrtrsp ]

    2013/3/18(月) 午後 10:22

    返信する
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    おはようございます。
    一昨日から炎博覧会の時のパンフレットを取り出し北波多村の関係の資料をさがしていました。

    分厚いクリアファイル2冊分にびっしりと当時の無料の
    パンフレットが残っています。

    一通り見終わって、もう一度是非行ってみたいのが、飯洞甕窯のこの窯跡です。
    パンフレットA4の紙一杯に、この窯跡が載ってますが、知りたかったのは、この窯の前の道が砂利道かどうか?
    記憶では砂利道だった様に思っているのですが?
    確認はできませんでした。

    朝倉氏の屋敷跡から唐津と一緒に、初期伊万里が出て来た
    との記述が頭に残っていますが、その唐津とは、この窯の
    製品だったのですね!
    初期伊万里は、もっと以前から焼かれているとの説に目が行き此方の方はあまり気にしていませんでしたが、大いに
    参考になりました。
    ナイス!

    [ pada ]

    2013/3/19(火) 午前 6:38

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    秀吉の激怒によって波多氏に改易の命が下ったのが
    朝鮮半島から引き上げる船の中だったとか?

    岸岳城を囲むように古窯がありますが、朝鮮半島の奥の方から帰化した陶工が多かったのではないでしょうか?

    波多氏は朝鮮半島と昔から縁が有り、その関係で出兵には
    積極的ではなかったのでしょうね?
    そう思ってくると哀れです。

    [ pada ]

    2013/3/19(火) 午前 6:47

    返信する
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    mstmrtrsp さん

    先人により、研究された結果の定説のみに捉われず
    新たな真実を見出そうと検証する事は、とても大事で
    常にそうあるべきだ、と考えます

    不明な部分が少しづつ、解明されていくのが待たれて
    なりません

    [ 森川天 ]

    2013/3/19(火) 午後 6:57

    返信する
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    padapadatalentさん

    炎博のパンフレットが揃っているとは凄いですねー
    森川店はそこまで知恵が廻りませんで、何にもありません

    多分、その頃は砂利道だったような・・・
    この窯の製品や創始についてはさまざまな説があります
    現在、こうして見学出来る窯の遺構は慶長になってから
    再興されたものとの説もあるそうです

    秀吉の怒りの原因にも、さまざまな説がありますねー
    横恋慕だとか・・・

    波多家代々の墓地も、後の時代に破壊されてしまったそうで
    所在すら不明のままだそうで、いまだ謎とされています

    松浦党を率いていたリーダーのひとりであったとされる波多家の歴史
    は400年にも上るそうですが、永い年月に渡って交易があったの
    でしょうね

    [ 森川天 ]

    2013/3/19(火) 午後 7:41

    返信する

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