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森川天
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唐津焼発祥の地とされて有名な古窯跡で
唐津市北波多地区の岸岳山麓に保存される
飯洞甕窯跡や帆柱窯跡など岸岳周辺の古窯
がありますが・・・


長崎県諫早市にも、これら岸岳古窯と同時代
操業していたとされる唐津系古窯跡が有り
古唐津を産した窯では最南端に位置します。


窯場の規模が小さく、確実な伝世品も確認に
至って無いので、広く知られるまではいかず、
一部の古陶磁愛好家や郷土史家の間にて知ら
れるのみでした。




諫早市土師野尾(はじのお)町に、僅かながら
土師野尾焼窯跡の遺構が残されています。



土師野尾焼ハラタラ窯跡の遠景
       (白い民家の右側付近)

イメージ 8




地元に於いては、古い時代からその存在は
知られていたものと推測されるが・・
研究機関に報告されたのは、1927年に
陶芸研究家「金原陶片」氏によって報告され
のが発見の年とされています。




正面の草木に掃われている部分に焼成室
3室の窯床が残っており、窯は2段傾斜構造
に築かれ、急勾配の窯床の方は26.5度傾斜
で造られいたそうです。

イメージ 9




イメージ 1
20年前の様子


築窯構造は岸岳の古窯と同じく割竹型の
階段状連房式登窯で、焼成室床幅1.2mで
7〜8室ほどの規模であったことが確認
されました。






土師野尾焼ハラタラ窯出土の三耳壺陶片

本来は施釉陶器であったろうと思われるが
地名から示されるように、土師器や須恵器
に観られる土質と似たようにも思え・・

その土質からか、釉薬が上手く着床せず
流れ落ちたのか、焼締陶のようなあがり
なっている。

窯勾配が大きいので、火勢いの所為かも。

イメージ 4




内面に観られる叩き当て木の痕。

ハラタラ窯は壺甕や擂鉢などの比較的
大きめの生活雑器焼成していたよう
です。
平底造りの片口には、石を用いて叩き成形
の内側当てと、したものも確認される。

イメージ 5







ハラタラ窯の西側後方にある小山の麓には
中道窯(ちゅうどうかま)が築かれいました。

土師野尾焼中道窯跡遠景
      (画像中央部の電柱付近)

イメージ 10




イメージ 2
H24年頃の様子




此方も窯規模や構造はハラタラ窯と同様
の造りで、出土品の内容から小物の生活
雑器で茶碗・皿などを焼成していたもの
推測されています。

イメージ 11





発見当初は慶長三年(1598)に
諫早領主の龍造寺氏が朝鮮より帯同した
陶工により、始められた窯場であると
考えられていましたが・・

昭和52年の発掘調査の結果では
それより以前の西郷氏の時代には操業して
いたことが、炭素磁気測定調査により判明
したとの事です。

イメージ 3





土師野尾焼・中道窯の灰釉茶碗(青唐津)

高台造りなどの造形からみると調査結果
操業年代に多少の疑問も感じるが・・・

イメージ 6

イメージ 7


釉薬の剥離した陶片が多く観られる
その土質ゆえか、操業も永くは続か
かったようで・・


その後にこの土師野尾の窯場から移動した
と考えられる窯場は確認されて無いようで
ある。




地域的に考えると、唐津港より積出され
事など無かったように思える肥前陶を
指して唐津と呼ぶも、疑問だが・・・

いつの頃からか、肥前の土もの陶器全般
を指して、そう呼ぶようになった。




唐津焼を生産した窯場としては最南端に
位置する「知られざる窯跡」
土師野尾焼古窯跡紹介でした。





  • 顔アイコン

    森川天様へ
    最初の壷を拝見すると。これが唐津焼?となりますが。
    灰釉茶碗の高台辺りを見ると。ああ、唐津と感じるのですが。やはり唐津は深いと感じます。勉強になりました。ナイスです。有難うございます。

    不あがり

    2016/9/6(火) 午後 1:48

  • 顔アイコン

    地名から考えて、もともとは土師器や須恵器を焼いていたのでしょうか。
    そこに、だんだんと唐津焼の技法が導入されるようになっていった窯なのでしょうか、、、?
    そちらには、いろいろと古い窯跡があるんですね!
    ナイス紹介!

    [ Dr.K ]

    2016/9/6(火) 午後 2:43

  • 奥が深いですね。

    yos*io_*mae*a

    2016/9/6(火) 午後 5:14

  • 顔アイコン

    唐津に焼き締め?
    と思ったのですが、施釉陶器だと言う事で納得です。
    日本の場合でしたら須恵器ー焼き締めー施釉陶器の様な順番に成るんでしょうが、朝鮮半島では、この焼き締めの陶磁器が殆ど見ないんです。
    大陸から来た人が焼き締め陶を焼いていたのかと一寸吃驚しましたが口縁には施釉の跡が残ってますね。
    朝鮮半島の陶工は最低クラスの人でした。
    秀吉の侵略以前に半島から逃げて日本に来ていても不思議ではないです。
    日本軍が上陸後〜走る様な早さで奥深く入っていた時の案内人が現地にはいて陶工たちがそうだったと言う話があります。

    引き上げの段階で、彼らはすすんで日本にやってきたという解釈も
    ありますね。
    なんとて、日本に行けば優遇されるんですから!
    徳川時代に成って、帰りたい人は帰っても良いと成った時に、誰も
    手を上げる人は居なかったという話も聞いています(笑)

    [ pada ]

    2016/9/6(火) 午後 6:46

  • 陶片が色々と往時の窯の姿を伝えているんですね。
    きっちりと資料を検証して、窯の歴史を残しておく。
    唐津焼の産業遺産としての魅力が深まりますね。(^ ^)

    [ don*uk*0624 ]

    2016/9/6(火) 午後 7:13

  • 顔アイコン

    唐津には創世期から小規模な窯が結構あったのですね。
    伝世品や陶片がないとわからないですね。
    やはり色合いからすると甕や壷が用途のようですね。
    ナイスです。

    [ ことじ ]

    2016/9/6(火) 午後 7:59

  • > 不あがりさん

    釉薬の抜けた黒いあがりの壺で、口造りが
    比較的厳しいロクロ使いから須恵器みたいな
    雰囲気が感じられますよね。
    ここの窯場もまた独特の土で、唐津っぽく
    無いんです。

    [ 森川天 ]

    2016/9/7(水) 午後 7:13

  • > Dr.Kさん

    遺構が発見されていないようですが、地名は
    昔のままですので、須恵器や土師器が造られて
    いた土地だと思います。
    窯跡とは直接の関係は無さそうですが・・・

    [ 森川天 ]

    2016/9/7(水) 午後 7:29

  • > yos*io_*mae*aさん

    ありがとうございます
    こんな所、興味の無い方にとっては何でも
    無さそうな道路脇の茂みです。

    好きなればこそ、あれこれ資料を探し出して
    訪ね歩きです。

    [ 森川天 ]

    2016/9/7(水) 午後 7:33

  • > padaさん

    そうなんですね
    この壺、口縁に焼台を重ねたか、伏せて焼いたか
    一部分に釉薬が残っています。

    諫早の地名は天文〜天正の頃は伊佐早荘だった
    そうで、百済25代・武寧王の流れを汲む渡来
    氏族の西郷氏が領主だったそうで、秀吉の九州
    征伐に参戦しなかった理由で、龍造寺が命を受
    け、侵攻した後、諫早としたそうです。
    薩摩の西郷隆盛も分家筋に当たるそうです。
    やはり、大陸とのつながりが有りますね。

    [ 森川天 ]

    2016/9/7(水) 午後 7:49

  • > don*uk*0624さん

    何にも知識が無い頃、陶片を手にして遊んで
    いたら、現代に作られた陶磁器(安物)ばかり
    ですが、貧祖に見えるようになりまして、
    古い時代の焼きものをもっと知りたい欲が芽生え
    まして、あれこれ資料をむさぼるようになって
    しまいました。

    [ 森川天 ]

    2016/9/7(水) 午後 7:54

  • > ことじさん

    唐津を産した窯は小さなものまで入れると
    200とも300とも云われています。
    ですが、殆どは古い時代に消滅したようです。
    陶片は最高の教科書です。
    古陶磁の再現を目指している陶芸家にとって
    は陶片が師匠となるわけですね。

    [ 森川天 ]

    2016/9/7(水) 午後 7:58

  • 顔アイコン

    唐津にはいろんな窯があったのですねー!

    [ 夢想miraishouta ]

    2016/9/8(木) 午後 6:26

  • > 夢想miraishoutaさん

    そうなんですよ。
    土師野尾焼なんて、耳にする事も無いかなって
    思い、記事にしてみました。

    [ 森川天 ]

    2016/9/8(木) 午後 7:21

  • 顔アイコン

    40数年前に地元の中学生が調査した新聞記事が載っていて窯跡見学に行きました。(当時営業で長崎を担当していた) 土師の尾窯跡懐かしいです。当時でもあまり陶片は無かったように記憶しています。

    [ ryu*ing*ma ]

    2016/9/12(月) 午後 0:45

  • > ryu*ing*maさん

    その当時でしたら、まだ発掘調査跡の窯床が
    見れたのでは・・・
    この土師野尾窯が日の目を見たのは、近隣の
    草尾寺のご住職が陶片を見つける度に保存して
    いた事に始まるようですが、寺の関係で多分
    「現川焼の研究」著者で諫早・安勝寺の
    正林陶城住職(当時のご住職)の友人だった
    金原京一(金原陶片)氏に繋がっていったの
    ではと推測しています。



    今では、爪の先程の陶片も見当たりません。

    [ 森川天 ]

    2016/9/13(火) 午前 9:29

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