岡崎京子の部屋

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久しぶりに文芸誌「文学界」を買ってきた。

理由は3月号が「大特集 岡崎京子は不滅である」の掲載をしているから。

ついに文藝春秋社の純文学誌が、こんな特集をする時代が来た。

岡崎京子のマンガは文学性が高いし、マンガが代表するサブカルと文芸の垣根は年毎に低く,低く

なっていることは今更言うまでも無い。

河出書房新社が230ページまるごとの「文藝別冊岡崎京子」を出版したのが2002年3月

だった。

あれから16年が過ぎて、あの「文学界」が岡崎京子特集号を発行した。

岡崎の代表作である「リバーズ・エッジ」映画化があって、この特集号発行となったのだろうが、

この16年間に、サブカルと文学の垣根は、簡単にまたいで行き来できるほどの低さになった

象徴でもあろう。

何よりうれしいことは、岡崎京子ファンであるわくわく亭にとって、「岡崎京子は不滅である」

の声が、ますます大きくなっているという事実である。

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岡崎京子原画展

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「岡崎京子展・戦場のガールズ・ライフ」が世田谷文学館で1月24日から3月31日まで

開催される。300点余りの原画も展示されるらしい。

岡崎ファンのわくわく亭としては見逃すことはできません。

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ロック vs 小津安二郎

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岡崎京子さんの作品を論じるのに「ロックvs小津安二郎」という面白い表題がついた。

ロックンロールが彼女の主要作のBGMというか、基調音として流れている点については、前回の

記事「岡崎京子のパンクロック」に書いたが、彼女がエッセイの中で、小津安二郎がくりかえし撮った

日本的な家族、家庭の風景と美意識を、ドラマの起きない静止的な空間ととらえて、彼女が絶大な

支持をした躍動するロックンロールの世界の対極に据えようとしていたのを読んで、小津映画のファン

であるわくわく亭としては、この表題で記事を1本書く動機になった。


岡崎さんは、どこかで、フランス文学者であり映画評論家でもある蓮實重彦さんに小津安二郎の

映画を推奨されたらしい。蓮實さんには「監督小津安二郎」の著書もあるくらいで、並々ならぬ

小津映画礼讃者である。

岡崎さんには『思想の科学』という、お堅い社会科学系の雑誌(鶴見俊輔、鶴見和子、丸山眞男、

都留重人らによって戦後創刊された。いま「ダイジェスト 1946〜1996」が刊行されている)

に寄稿したいくつかのエッセイがある。

「やってくるのはエンドマーク」(1998・10)

「家の中には何かある」(1998・12)

「カッコイイのが勝ち」(1990・2)

これら3篇で、岡崎京子は、まず「やってくるのは…」で小津安二郎の描いた「家庭」とはなにか、

「家庭」にはドラマは起きない、起きたなら「家庭」ではなくなってしまう、と論じる。

ついで「家の中には…」では家庭には家庭を守るためのルールがあって、外のルールとは別物。

ルールとは何も起こしてはならない、家族は仲良しでなくてはならない、平和をみださない、というもの

で、パパもママもこどもたちも犬までが、ホームドラマに呪縛されている、という。

そして、そうしたルールに守られた何も起きない「家庭」と対決する外部の危険な自由が

ロックンロール(岡崎京子はロケン・ロールと表記する)であり、

「カッコイイ」ロケン・ロールが勝つ、と宣言するのである。

とてもわかりやすい、岡崎さん自身による、彼女の作品が何を描きたいかの解説になっている。

以下、もうすこし詳しく説明しよう。

                ―――――――――――――――

岡崎京子にとって、日本の「家庭」とは何事も起きない空間であり、起きてはならない予定調和の

世界であり、何事も起きないようにするためのルールで守られた閉塞的なシステムだという。

それを美しく映像化したのが小津安二郎の世界だという。

その家庭というシステムを映し出す小津映画は、まるで「家庭」という空間、時間に対する

「フェティシズム」である、という。

たしかに『晩秋』の原節子は「静謐で清冽に、うつくしい」

しかし、原節子は「逃げない。何処から?家庭から、システムから」

そして原節子は「快楽に身をゆだねない。永遠の処女。エクスタシーはこない」

それでも映画のエンドマークはやってくるし、家庭の中でみんな死にゆくだろう。

ただ一度だけ、『晩秋』の中で、原節子が夏の鎌倉海岸を、こころ密かに好きな人と自転車で

疾走するシーンがある。快楽の笑顔がある、こぼれる満開の花のような絶対の笑顔だ。

あのまま、「家庭というシステム」から遁走してしまえばいいのに、と岡崎京子は思う。

そして、そのシーンを観るたびに、なぜか岡崎はぽろぽろ泣けてしまうのだそうだ。

             ――――――――――――――――――

岡崎京子の作品では、ほとんどの女の子たちの家庭は、離婚家庭であり、父親はあっても外に

愛人をつくっているし、姉妹はシングルマザーであったりする。壊れた家庭というより、

こわれる定めにあるシステムの中で育っている日本の少女たちである。

彼女たちにしてみれば、小津安二郎が映像化した日本の家庭は、鎌倉にある有形文化財のような

モノで、そのはるかの過去に造形された文化財へのフェティシズムに思えるのだ。

それは、「“セックス、ドラッグ&ロケン・ロール”というヤツから遠く離れた場所にあるものです」

という。

たいくつな「家庭」世界で、がまんしながら生きると言うことは、立派だといえば立派だけれど

時間が均一にながれていて速度がかんじられない、生きているのか死んでいるのかわからない、

面白くない世界だという。

ロケン・ロールはその世界を震撼させる。

大きな音でスピーカーを鳴らし、パパやママを不安にさせる。

お家の時間軸を狂わせ、「家庭」の秩序が狂う。だからパパとママは怒る。

ロケン・ロールと家庭はこうしていつも対立する。

「でも勝負はあり。カッコイイ方が勝つ。ロケン・ロールの勝ち。だってパパとママはマジメな

フリして実はこそこそセックスしてるんだもん。ダサイのは、負け」

と岡崎京子は結論するのである。

               ――――――――――――――――――――

しかしだよ、岡崎京子さんの描く男女は性欲を、まるで食欲のように処理しているけれど、

まだ未熟な性から、成熟した性の過程をとびこして、狂暴な性へと進んでしまう。

性に満たされるどころか、性は虚しい表情を帯びており、セックスをするかれらは喪失感に

さいなまれるばかりだ。

そうして、そこから疾走して逃げ出した、遁走したはずの、小津安二郎的な古典的で調和した

風景に後ろ髪をひかれているような、アンビバレントな悲しげな表情を見せているのではないか。

岡崎京子さんが、原節子さんが自転車で疾走するシーンを観て、ぽろぽろ泣けてしまうのには、こんなと

ころにワケがあるのではないだろうか。

それでいいのではないですか。

あんなレトロな退屈な世界も悪くない。そればっかりだと胸焼けするが、

またロケン・ロールばかりでも胃もたれするから、気の向く日には

とりかえてみることで。

それでいいのではないですか、岡崎京子さん。

                    

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ギャグマンガの帝王であり、マンガ評論家として夏目房之介と並んで双璧とされる(わくわく亭の褒め過

ぎもギャグのうちであります)いしかわじゅんのマンガ評論集『漫画の時間』(晶文社)を八重洲古書館

で手に入れた。1995年11月の発行である。

いしかわじゅんはNHKBSで放送する「BSマンガ夜話」では常連の評論家をつとめている。

この評論集には100のマンガ作品を取りあげており、およそ90何人かのマンガ家を論じている。

(つまり同じ作者の複数作品を取りあげているケースもあるということだ)

いしかわじゅんが俎上にのせるほどのマンガ家は誰か、いま読むに値する作品はどれか、マンガ読書案内

として、あるいは現代マンガ事典として役立つと思って買ったのである。

まずは、いしかわじゅんは岡崎京子をどのように見ているのか、どのように評価しているのか、

聞いてみたいところである。

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                  ☆   ☆   ☆

彼は1980年代にセックスを大胆に描いた4人の女流マンガ家をあげている。

内田春菊、原律子、桜沢エリカ、そして岡崎京子である。

とくに桜沢エリカと岡崎京子の描線は、マンガ界に多大な影響を与えており、確実に大きな

流れを作ったと認める。

「形だけ真似たできの悪い亜流がいっぱいいる。それは、それだけ、彼女(たち)の存在感が強かった

ことの証明だ」

1980年代のあるとき、彼の事務所が主催するパーティーに、まだ駆け出しでエロ本のカットなどを

描いていた時代の岡崎京子が彼のアシスタントのおつれとしてやってきたことがあった。

彼女は初対面であり業界の大先輩である、いしかわじゅんのパーティーで、まったく気後れすることもな

わがもの顔でのし歩いていた。

「若い男と抱き合っている。ほかの男とキスしている。ショートカットの少女は、そのころから、

キュートで傍若無人だった。

 ああ、はるか遠くまできてしまったなあ、と最近の岡崎京子を見るたびに思う。

しかし、それは最初からわかっていたことだった、とも思う。

彼女には、最初から、才能があったのだ」

まことに率直でフェアな岡崎京子の第一印象である。

初対面から、その後の彼女の急成長に目を見張ったいしかわじゅん達の心境が端的に書かれている。

そして、岡崎京子という人は、彼女の作品に登場する、たとえば「東京ガールズブラボー」のサカエ

のキャラクターにそっくりな部分があるようだとわかるのだ。

岡崎京子さんは、自分を描いている、ということ。

彼女の代表作のひとつとなった「リバーズ・エッジ」についての、いしかわじゅんの評価はすこぶる

高い。

「今では、彼女の特質はすでに〈絵〉にはない。岡崎京子の優れているのは、彼女の存在自体に

よっているのだ。

彼女は、いいわけをしない。後ろを振り返らず、自分の描くものをストレートに表現する。

(略)確かなものは、唯一、河原でみつけた死体、そして〈死〉だけだ。

奇妙な連帯感、そして喪失感。それらを、岡崎京子は、特別の解説もなしに、どんどん並べていく。

その圧倒的なドラマ。

ぼくはただ、唖然として見ているだけだ」

いしかわじゅんは正直な評論家である。

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岡崎京子さんが「リバーズ・エッジ」から「ヘルタースケルター」へと進化してゆく過程で、

この本に収めた4篇、とくに「私は貴方のオモチャなの」と「3つ数えろ」は意味のある

注目作品だと思う。

セックスとバイオレンスが「リバーズ・エッジ」以後顕著な特徴になってゆくが、彼女がモチーフ

にしているロックミュージックが、ニューウェーブからパンクへ、さらにロック初期の衝撃的な

パフォーマンスへと遡ってゆくのが興味深い。

「東京ガールズブラボー」には79〜80年代に流行したニューウエーブのロックがふんだんにBGM

として流れているが、それに飽きたらないのか、70年代の暴力的な耳をつんざくロックの源流へとさか

のぼりながら、この2作は描かれている。

                  ――――――――――――――

白状すれば、わくわく亭はロックについては、ビートルズくらいまでしか聞いていない。

だからロックについて何かを言う資格はないのだけれど、岡崎京子さんの本はロックぬきでは

論じられないのではないか。

的はずれなことを書くかもしれないのだが、その点はあらかじめ断っておこうとおもう。

まず、「私は貴方のおもちゃなの」だが、英語のタイトルもつけてある。

「Iwanna be your dog」である。これはイギー&ザ・ストゥージズという元祖パンク・バンドといって

もよかりそうなバンドのヒット曲である。

イギーはミシガン大学の学生でバンドをはじめ、上半身裸になり、肉体に傷をつけるなど過激な

パフォーマンスをやり、耳をつんざくようなメタリックギター演奏をやってみせた。

かれらにつづいてイギリスではセックスピストルズのようなスキャンダラスで過激なステージを

みせるバンドが成功する。

ロック「Iwanna be your dog」をマンガのタイトルにつけたときに、岡崎さんは女の子が

好きな男に犬のように鎖をまかれ、人間性をふみにじられ、男の仲間3人からも弄ばれても

なおかつ「これですこし大人になった。これがあたしの21歳の夏の物語です。それでも

あたしは貴方をアイスのだ。なんちて」といわせる。

セックスと愛することとの間にある深い断絶、セックスは暴力でしかない。まるでマゾの世界

に落ちかけている女の子の無知で不毛の「愛情」への幻想。

もう救いようがない。

そうして「落ちていく」女の子の「セックス」を描くのが好きであると、

岡崎さんはエッセイに書いている。

イギーのロックの訳詞の一部を載せてみる。


何も考えず貴方の犬になる


貴方のその指先が

胸元で踊るとき

世界の終わりの音楽が

耳元で鳴り響く


枯れかけた花 遠い夏

失くした未来 愛の痕

降り積もる雪 空の色


何も考えず貴方の犬になる


割れたレコードに耳を当て

壊れた歌を拾い集め

軋むベッドに身を委ね

世界の終わりを望んでる


枯れかけた花 遠い夏

失くした未来 愛の痕

降り積もる雪 空の色


何も考えず貴方の犬になる


はげしいメタリックギターの騒音としか聞こえない大音響とイギーの血だらけの裸体、

そして彼の狂犬のごとき咆哮が、この詩を絶叫する。

そういえば、「でっかい恋のメロディー」の中で、古本屋の色っぽいお姉さんが中学生の

男の子に言うではないか。

「世界は喪失、欠如、不在、消失にみちているわ。そして暴力。それだけで世界はぱちんと

はじけそうよ」ってね。

           ―――――――――――――――――――――――

「3つ数えろ」と聞いたなら、

おじさんであるわくわく亭は映画の題を思い出すよ。

レイモンド・チャンドラー原作「大いなる眠り」をハンフリー・ボガード主演で映画化した

邦題が「3つ数えろ」だった。

しかし、岡崎さんのは1980年代のロックバンド「ソニック・ユース」の曲の中の詩

からとったものだそうだ。

若い徹底的にワガママな男女が、結婚する。男は性的不能者で、女性に暴力を振るうときだけ

「回復」する。若妻はその性向をしっているから、町で女の子を誘い込んできて、夫のオモチャとして

与える。かれらはついついバイオレンスがすぎて、殺人を犯してしまう。

3人も殺しておいて、庭の歌壇に埋めてしまう。

そして、彼らは破滅もしないで、ともに長生きをする。

ここにも愛の不毛と喪失が、いやというくらい残酷に描かれる。

救いようがないよ。

かれら主人公達はどこへいこうとしていたのか。

「ヘルタースケルター」の世界しかないでしょう。 


岡崎京子さんにとってロックは予定調和的な日本の「家庭・家族」への絶対的なアンチテーゼだった。

ロックと家庭は相対峙する概念だった。

そのことを、彼女が書いているエッセイから紹介しよう。

                     〈つづく〉  

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