ミニ曳山合戦絵巻

角館のお祭りとキン肉マンの激闘を精巧に再現!!

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宇喜多が作った「角館のお祭り」のミニ曳山を紹介するコーナーでござる!!
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◎武田信玄(1521年〜1573年)
1521年に武田信虎の長男として誕生。幼名は太郎で、元服後は晴信と名乗る。1541年、暴君だった父を駿河へ追放。武田家を継ぎ、破竹の勢いで領土を拡大して行く。領地統制にも優れ、手中に治めた領国を発展させた。外交面でも抜かりは無く、北条家・今川家と対等の三国同盟を築く。後顧の憂いを無くし、上洛準備を進めるも、主義主張の異なる、越後の上杉謙信と激しく対立。川中島で五度に渡り合戦を繰り広げる。特に第四次川中島の合戦における、「八幡原の一騎討ち」は有名である。今川義元の死後、三国同盟が破綻。合戦に至るも、今川勢力圏を吸収の上、北条家とは和解し安定を取り戻す。やがて中央で勢力を伸ばす織田信長に対しての、包囲網の中心勢力になる。そして将軍・足利義昭に呼びかけに応じた信玄は、1572年、遠江に侵入し西上戦を開始。その年の12月、三方ヶ原にて徳川軍を蹴散らす。だが持病が悪化した為、志し半ばで夢は挫折。1573年に信濃伊那郡駒場で没した。戦国最強クラスの武将であり、「甲斐の虎」の愛称で広く世に知られている。

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◎上杉謙信(1530年〜1578年)
1530年、長尾為景の子として誕生する。幼名は虎千代。当初は仏門に入れられていたが、周囲から推され、兄との争いを制し越後国主になり、内乱を鎮め越後統一を果たした。以降は長尾景虎し、信濃の村上氏や小笠原氏を助け、甲斐の武田信玄と対決する。両軍は5度に渡って川中島で合戦を繰り広げるも、決着は付かなかった。又、その間に北条憲政を保護し、上杉姓と関東管領の地位を譲られる。名を上杉政虎→輝虎→謙信と変えた。武田信玄との争いが一段楽すると、北条打倒の関東出兵を敢行。それは十数回に渡って行われた。武田・北条・今川の三国同盟と対峙する厳しい状況が続いたが、今川義元の死を機に同盟が破綻。一時は激しく対立していた北条家とも同盟を結ぶ。しかし矛盾が多い北条氏との同盟は瓦解し、再び敵対関係に戻る。晩年は台頭著しい織田信長との対決が大きな課題となる。石山本願寺とも和解した謙信は、1577年(信長が派遣した)柴田勝家の4万の大軍を手取川にて撃破。再度の上洛や関東出兵も視野に入れるが、1578年、脳溢血で倒れ春日山城中にて49歳で没した。無類の強さを誇った謙信は、「越後の龍」「軍神」「聖将」「毘沙門天」などと崇められた。

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◎伊達政宗(1567年〜1636年)
1567年、伊達輝宗の子として誕生。幼名は梵天丸で、元服後は藤次郎政宗と名乗る。1584年に家督相続。父の死後、積極的に領土拡張に乗り出す。1589年、芦名氏を滅ぼし会津地方を制圧。南東北一帯に広大な勢力圏を築き上げた。しかし圧倒的な軍事力を誇る、関白・豊臣秀吉の前には抗し難く、1590年、小田原征伐に参陣し支配下に降った。領土削減後、再起の機会を伺うも、一揆扇動の疑いを持たれ冷遇が続く。秀吉死後は徳川家康に接近。関ヶ原の合戦では、奥州にて西軍・上杉軍と交戦。徳川方の勝利に貢献した。しかし「百万石のお墨付き」は反故され、仙台62万石に抑えられる。1601年に仙台城建設に着手。検地や治水工事を行なって仙台藩の基礎を築いた。その後スペインと同盟を画策。幕府転覆を模企てるも頓挫。徳川幕府への忠誠へと傾く。大坂の陣では徳川方として活躍。将軍・徳川秀忠や家光より厚い信頼を得て、指南役として「天下の副将軍」と呼ばれる。1936年江戸桜田屋敷にて死去。和歌・書・茶・能の素養は一流で、桃山文化を仙台でも開花させる。幼少の頃に右眼を失明し、その武勇からも「独眼竜」と畏怖された。現代では多くのファンから親しまれている。

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◎武蔵坊弁慶(?〜1189年)
伝説色の濃い豪勇の法師。武蔵坊と称し、源義経の家来として活躍した。「義経記」によると、熊野・別当氏の子で鬼若と名づけられ、比叡山の西塔で修行する。山を抜け出したのち播磨国の書写山(姫路市)を焼いた。洛中に出て他人の太刀を奪い取り、千本目に義経の太刀をねらったが果たせず、義経と君臣の契約を結び、以後は彼に従い源氏再興の為、平家との戦いで獅子奮迅の活躍をする。しかし平家を滅亡させた後、源氏の棟梁である源頼朝は弟・義経を、危険人物と見なし追討を画策。執拗なまでの頼朝の追撃を受けるも、奥州へと落ち延びた義経一行。しかし1189年、奥州にて保護してくれていた藤原氏にも裏切られる。衣川での最後の合戦における弁慶の、主君・義経を守るべく無数の弓矢を受け止め、壮絶な立往生を遂げた「弁慶の立ち往生」は有名である。上記は歌謡曲「船弁慶」「橋弁慶」、歌舞伎「勧進帳」「弁慶上使」などに、英雄的人物として描かれている。

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◎八幡太郎義家(源義家/1039年〜1106年)
平安初期の代表的武将。源頼義の長男として生まれ「天下第一武勇の士・武威天下に満ち」その武力は神に通じると賞され、武将達の鏡と仰がれた。特に東北の戦乱に関わり、前九年の役では安倍貞任・宗任らと対戦し打ち破る。神懸かり的な奮戦で「八幡太郎」と崇められる。この名称は「陸奥話伝」にて伝えられ、奥州人が最初に呼んだものとの解釈がされている。後の後三年の役では、奥羽の豪族・清原氏の内紛の鎮圧に乗り出し、力を発揮した。しかし朝廷から私戦とみなされ恩賞を賜れず。しかし私財を部下達に分け与えその武功に報いたとされ、そのため多くの武士が朝廷に背いても、源氏の恩に報ずるといった考え方が後世まで息づいたとされる。

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