TABIBITO

自然に 素朴に 明日をみつめて

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全249ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

千葉県香取市で花菖蒲を観に行ったのに続いて、またもや千葉県に。
今度は、松戸市の本土寺に紫陽花を見に行った。

イメージ 1
 
紫陽花の名所と言えばすぐに思い浮かぶのは鎌倉だが、この本土寺は、“北の鎌倉”と呼ばれ、鎌倉を上回る50000本以上の紫陽花が咲き乱れる、“あじさい寺”として知られている。

イメージ 2
 
本土寺は日蓮宗の寺院で、もと源氏の名門平賀忠晴(ひらがただはる)の屋敷跡に建立され、鎌倉時代の1277年(建治3年)に、日蓮の弟子日朗を導師として、領主の曾谷教信(そやきょうしん)の協力により領内の地蔵堂を移して法華堂として始まったという。その後、日蓮聖人より「長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)」の寺号を授かったとされている。

イメージ 3
 
イメージ 4

この本土寺は、東京都・池上の「長栄山本門寺」や、神奈川県・鎌倉の「長興山妙本寺」とともに「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹とされ、歴史に刻まれてきた。

イメージ 5
境内には国指定重要文化財である梵鐘をはじめ数多くの伽藍が立ち並ぶ。

イメージ 6

これだけの広い敷地の中で紫陽花を見るのは初めて。色とりどりで、見事である。

イメージ 20

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

地蔵と紫陽花。
イメージ 13

五重塔と紫陽花。

イメージ 12

今の時期は、紫陽花と花菖蒲だが、春には桜、秋には約1500本のもみじが寺を彩る。

イメージ 14
 
しかし、花菖蒲については、毎年5000株の花菖蒲が咲くのだが、昨年から、スギナ等の雑草根の侵食をうけたため、花の勢いが良くないということで、今年はすべての苗を掘り上げた上で、根本的な抜根作業を行うこととなったとのことで「お詫びとご報告」があった。来年には復活をめざすという。

本来なら、今の時期、ここにたくさんの花菖蒲が咲いている。

イメージ 15
 
ただ、私は先日、花菖蒲については佐原でたっぷり見てきたこともあって、40種類にも及ぶ多彩な紫陽花を見ることができて十分満足している。

平日だったが、天下がいいせいもあってか、午後から、だんだんとお客さんが押し寄せた。

イメージ 16

イメージ 17

ただ、先日の佐原の花菖蒲のときもそうだったが、この日も梅雨の中休み?で天気が良く、もう少しお日様が隠れてくれていればよかったと思った。

イメージ 18

イメージ 19
 
やはり、紫陽花は、しっとりと雨の方が似合う気がする。
 
紫陽花は、英語名で「ハイドランジア」と呼ばれるらしいが、それは「水の器」という意味だそうだ。紫陽花は常に体内に水をたっぷり蓄えていることから名付けられという。

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23
 
紫陽花は葉が大きく、数も多いため、他の植物に比べて水分が葉から発散する蒸散(じょうさん)が多いため、多くの水分を必要とするらしい。
 
雨が降ると生き生きして見えるのもそのためなのだろう。

イメージ 24

池にスイレンもきれいに咲いていた。

イメージ 25

イメージ 26

紫陽花でもいろいろな種類がある。

イメージ 30

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 31

これは紫陽花ではないのか?

イメージ 29

イメージ 32

イメージ 33

イメージ 35

イメージ 34


花菖蒲に紫陽花の名所を訪ねることができて、今年の梅雨は、少しだけ晴れやかな気持ちで過ごせるような気がした。

イメージ 36



開く コメント(0)


千葉県香取市散訪の続編。
 
水郷佐原あやめパークのあとは、佐原の古い町並みを歩いた。

イメージ 1

佐原は、江戸時代に、幕府が水害対策と新田開発や水上交通の整備という利水を目的に、江戸港(現在の東京湾)に流れ込んでいた利根川の流れを変える東遷事業を行ったことで、水運業が盛んになった。これによって、小野川沿いなどが物資の集散地として栄え始め、小野川には物資を陸に上げるための、「だし」と呼ばれる河岸施設が多く作られた。
 
イメージ 2

現在でも町中を流れる小野川沿いとその周辺には商家などの歴史的な建造物が建ち並ぶ古い街並みが残っており、当時の面影を残している。

イメージ 3
 
”北総の小江戸”、”水郷の町”と呼ばれ、商家町の歴史的景観を残す町並みは1996年、関東地方で初めて重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。2009年には佐原の町並みが平成百景に選ばれ、2018年には、佐倉市(城下町)・成田市(門前町)・銚子市(港町)とともに日本遺産に認定された。

イメージ 4
 
また、佐原はもう1つ、伊能忠敬が住んでいた地としても有名である。
伊能忠敬は現在の九十九里町小関の出身で、18歳の時に佐原の伊能家に婿養子に入り、商才を発揮し伊能家を建て直した。49歳で隠居すると、単独で江戸へ出て測量を学び、その目覚しい才覚を発揮させ、55歳から日本全国の測量を行って、幕府の支援と弟子達の力も合わせて17年の歳月をかけて日本地図を完成させた。

現在でも伊能忠敬ゆかりの家が現存しており、記念館と共に佐原を代表する見所の1つとなっている。

イメージ 10

伊能忠敬旧宅の中から桶橋の方を眺める。

イメージ 11

伊能忠敬が江戸に出るまで住んでいた旧宅は、国の指定史跡となっていて、旧宅前にかかる桶橋は、かつて対岸の水田に水を送る大きな「とい」であり、そこから流れ落ちる音から「じゃあじゃあ橋」とも呼ばれている。

イメージ 12

イメージ 13

蜷川家具店。明治8年(1933年)築。映画「君の名は」に出てくる「中川精肉店」のモデルになったともいわれている。

イメージ 14

イメージ 15
 
昼は、お蕎麦を食べたくて小堀屋本店に。元々醤油醸造を営んでいたが、天明年間の火事をきっかけに、江戸時代後期の1782年に蕎麦屋を開業したという。現在の建物は、明治25年(1982年)に建てられた。たいへん歴史を感じさせる。

イメージ 5

まだ、昼前だというのに、お店の前に行列ができていた。普通は並ぶのが苦手な私だが、今回は、このお店の名物である「黒切蕎麦」をどうしても食べてみたくて、めずらしく並んだ。

黒いというのでどれだけ黒いのかと思ったら、運ばれてきた蕎麦を見て、確かに真っ黒といっていい。
しかし、見た目とは違って、のど越しがよく、とてもおいしい。普通の蕎麦に比べて、かすかに甘みがあるような感じもした。

黒切蕎麦は、そば粉に日高昆布を練りこんでいるため黒いのだそうだ。

 
イメージ 6

こちらは小堀屋別館。昭和初期に建てられたもので、旧千葉合同銀行佐原支店だったという。

イメージ 16

旧三菱銀行佐原支店。大正3年(1914年)に川崎銀行佐原支店として建てられ、その後、三菱と合併した。

イメージ 20

中村屋乾物店。明治25年(1892年)築。

イメージ 22

福新呉服店。明治23年(1895年)に建てられた。

イメージ 17

正文堂書店。明治13年(1880年)に建てられたものらしい。今は「いも」という看板があり、さわら十三里屋という佐原名産のさつまいもを使ったスイーツなどを販売するお店が入っている。
イメージ 18

「いなえ」明治時代の商屋を改装した甘味喫茶や雑貨などのお店とギャラリーなどが入る複合施設。

イメージ 19

イメージ 21

香取街道沿いの円城寺本店。

イメージ 24

とにかく、同じところを何度も回っても飽きない。ちょと裏側に入ってみるとまた新しい発見もある。

イメージ 25

イメージ 26



この地域では、毎年「佐原の大祭(さわらのたいさい)」が年に2回も盛大に開かれる。夏は710日以降の金・土・日の3日間行われる八坂神社の祇園祭、秋は10月第2土曜を中日にした金・土・日の3日間行われる諏訪神社の秋祭りで、その両者をまとめて「佐原の大祭」と呼んでいる。

関東3大山車祭りの一つとされ、およそ300年の伝統があり、200426日、佐原の山車行事が国の重要無形民俗文化財に指定された。
 「佐原の大祭」では、夏祭りに10台、秋祭りには14台、合計24台の山車が町中を練り歩く。 

その一端を、八坂神社の敷地にある「山車会館」で見ることができる。

イメージ 9

展示されている山車。こちらは源義経。

イメージ 7

こちらは太田道灌。

イメージ 8

8月には関東でも有数の歴史と規模を誇る「水郷おみがわ花火大会」が開かれている。


なお、この地域での建築物の改築や修繕については、「香取市佐原地区歴史的景観条例」に則っている。この条例では町並みを「伝統的建造物保存地区」と「景観形成地区」に分けて、建物の改築等を行う際には、前者は許可が、後者は届出が必要となる。また、建物の修繕を行うにあたっては、助成率に応じた助成金が支給されるという。
建物の改築にあたっては、街路沿いの景観を守るために、「高さは3階以下」、「構造は伝統的建築様式を基本とする」、などといった一定の規制が設けられている。
 
しかし工法や材質の基準は緩やかであり、例えば瓦については「黒色または鼠色の日本瓦」であればよいなどとなっている。また、街路の奥にある住宅部分に関しては制限が無いため、現代風に改築される例が多い。
 
歴史的建造物と古い町並みを残すことはたたいへんな事業だ。これだけの街並みを保存してきたのには、その地域の人々の苦労があったことだと思う。
 
いずれにしても、これだけのまとまった歴史的建造物が見られるところはなかなかない。しかも、ただ昔のままの姿で建物が建っているというだけではなく、その多くが、お店の営業をしていることで「生きている町並み」となっていることが、平日でもたくさんの観光客が来る強みなのだと思う。
これからもぜひ、その「活気ある生きた古い町並み」を残し続けてほしいものだ。

今度は、ぜひ佐原の大祭のときにでも訪れたい。

イメージ 23



開く コメント(2)

先週の平日に、千葉県の香取市を訪ねた。

香取市は、千葉県の北東部に位置し、北は茨城県と接している。西に15キロほどで成田空港があり、東に行けば太平洋の鹿島灘だ。市の北部には東西に利根川が流れ、その流域には水田地帯が広がる。
香取市は、元々は「佐原市」であったが、平成の大合併によって2006年に香取郡栗源町、小見川町、山田町と合併し、香取市になった。
 
今回の目的は2つだった。一つは、「水郷佐原あやめパーク」のあやめを見に行くこと、もうひとつは、佐原地区の古い町並みを探索することだった。
 
まずは、水郷筑波国定公園内にある水郷佐原あやめパークだ。
「あやめ祭り」(5月25日〜6月23日)の最中で、平日だというのに、たくさんの人が訪れていた。

イメージ 1

約8ヘクタールもある広い敷地の中に、島や橋・水面などを配置し、昔懐かしい水郷の情緒が味わえる。

イメージ 2

イメージ 21



毎年月に「あやめ祭り」が行われ、江戸・肥後・伊勢系など400品種150万本の花菖蒲がパーク一面に色とりどりに咲き乱れる。
しかし、この日はまだ「4部咲き」であった。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

サッパ舟と呼ばれる小舟が観光客を乗せて園内をめぐる。風情がある。

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

花菖蒲は、日本の野山の湿原に自生していたノハナショウブを、江戸時代の初め頃の300年くらい前から改良されてできあがった花である。

イメージ 9

各地で「あやめ祭り」や「菖蒲祭り」などが盛んだが、どこでも2〜3週間に渡って行われるので、花菖蒲の花は、結構長い期間咲いているのか?と思ったりするが、実際には、1輪の花の命は3日ほどだという。
一つの茎で2〜3輪の花が咲くため、一つの茎で1週間ほど花を見られる。それらが交互に咲いているので2〜3週間ずっと咲いているように見えるのである。
 
萎れた花は摘んでしまわないと後の花が綺麗に咲かなくなるらしく、お客さんがいなくなったあとの「あやめ祭り」の舞台裏では、広大な園内をくまなく回って「花ガラ摘み」という大作業が行われている。

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13


池のところどころに色とりどりのスイレンも咲いていた。

なお、7月から8月にかけては「はす祭り」が開催され、約300品種のハスを見ると事ができる。

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

ところで、「蓮」(ハス)と「睡蓮」(スイレン)の違いというのはどこで見分ける目のか。一般的に、蓮は、水面より高い所に花や葉をつける。それに対して睡蓮は、水面に浮かべたように低い位置で花を咲かせる。
蓮は、葉の形が丸くなっていて、睡蓮の方は、葉の形状が真ん中から切れ目が入っているのが特徴となっている。また、睡蓮には班入りの葉や紅い葉などもあるが、蓮の葉には、緑色のものだけしかない。

イメージ 17

イメージ 18

ちょうど訪れた日は、夏のような晴天だったが、ひまわりやチューリップなどの花は晴天がいいが、花菖蒲は、紫陽花と同じように、雨の日の方が鮮やかに見える気がする。

やはり日本独特の「梅雨」という時期にマッチした花といえる。

イメージ 19

花菖蒲は、咲き始めは花が小さめで濃い色をしているが、花びらが徐々に大きくなっていくにつれて花の色が薄くなっていくという。わずか3日の短い開花期間だが、花が変化していくので、「花が芸をする」とも言われてきた。
 
このような、はかなく可憐な美しさが、昔から日本人の心を引き付けてきたことは間違いない。

イメージ 20

                         (つづく)



開く コメント(2)

平成最後の満月

今日(19日)は、平成最後の満月。

イメージ 1


新元号が「令和(れいわ)」に決定したが、その由来は万葉集からとのことだ。
 
さて、「万葉集」では「月」を詠んだ歌が159首あるという。
 
万葉集では、ほととぎすを詠んだ歌は154首、花の中では、萩の花を詠んだ歌は137首で、これらと比べてみても、月の歌がいかに多いかがわかる。
 
万葉集の中で、月を詠った代表的な一首が次のもの。
 
「天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」
 
作者は、三十六歌仙の柿本人麻呂で、万葉集を代表する歌人であり、この和歌も、万葉集巻七の冒頭に置かれた有名な一首である。
 
現代語に訳すと次のようになる。
 
「天(空)の海に雲の波が立ち、月の舟が煌めく星の林に漕ぎ入って隠れていくのが見える」
 
「天」を「海」、「雲」を「波」、「月」を「船」、「星」を「林」に見立てて詠んだもので、大自然のスケールの大きさを感じさせるものがある。

イメージ 2
 
ちなみに今夜の海(天)は、波()がじゃまして、船()が隠れてばかりだった。

やっと姿を現した、平成最後の満月。

イメージ 3



開く コメント(0)

「日本経済新聞」10日付に「防衛費GDP比1.3% NATO基準で試算 米などとの協議で活用」と題した、一見すると不可解な見出しの記事があった。


イメージ 1

日本はこれまで国内や周辺国による防衛費拡大への懸念を抑えるため、防衛費を対GDPで1%以内におさえてきた。19年度予算の防衛費は5兆円超で過去最高を更新したものの、GDP比では0.929%と1%以内に収まっているとしてきた。
 
しかし、岩屋毅防衛相が9日の衆院安全保障委員会で、防衛費を北大西洋条約機構(NATO)の算定基準で試算すると、対国内総生産(GDP)比で最大約1.3%になるとの認識を示した。
 
日本の防衛費は表向き「GDP比約0.9%」だが、これまで組み込んでいなかった(旧軍人の恩給費、国連平和維持活動(PKO)、海上保安庁予算などk関係経費を合算した場合には「安全保障に関連する経費の水準は今後5年の間に1.1〜1.3%程度になる」と初めて言及した。米国による防衛予算の増額要請を踏まえて、「『NATO基準』の適用で理解を求めていく」という。
 
2018年末に閣議決定した19〜23年度の中期防衛力整備計画(中期防)に沿って最新鋭ステルス戦闘機「F35」の追加取得など防衛装備品の調達費用が増えることなども考慮した。
 
トランプ米大統領は日本を含む同盟国に防衛予算を増額するよう求めている。NATO加盟国は「GDP比2%の目標」を掲げているが、18年は米国は3.39%、英国が2.15%、ドイツは1.23%だった。「日経」のグラフでは、上記の計算方法でいけば、1.3%の日本はドイツを超えている。

イメージ 2

 
政府は「従来の防衛費とNATO基準で算出した防衛関連費を2本立てで採用する」としているが、要するに、日本国内向けには「GDP比1%枠を超えていませんよ」、一方で米国向けには「GDP1%を超えてもっと増やすように頑張ってますよ」と使い分けるということだ。
 
防衛費という重要な予算にかかわる問題で「2枚舌」を使っていいはずがない。
しかも、実態としては、米国からの要求に応えて次々と米国製高額兵器を、米国政府の対外有償軍事援助(FMS)に基づく後年度負担で次々と購入している。その残高は、19年度の年間の防衛費予算5兆2574億円を超える、5兆3613億円にまで膨らんでおり、結局は、その莫大なツケは、日本の国民の税金で払うことになるのである。
 
日本が防衛費を「1%枠」に抑えてきたのは、戦前の軍部の暴走によって引き起こされた戦争の教訓から、戦後の憲法に書き記された「戦争放棄」「戦力不保持」の平和主義の原則が歯止めとなってきたといえる。
 
朝鮮戦争勃発直後の1950年(昭和25)ポツダム政令により警察力を補うという名目で、警察予備隊が創設させられ、52年保安隊に改編、さらに54年自衛隊となった。
その後、さまざまな論議がされてきたが、自衛隊は「専守防衛」に徹することが義務付けられてきた。
そのことは、非核三原則、武器輸出原則禁止、自衛隊の海外派遣の禁止等とともに、防衛費の野放図な拡大を抑制するために「防衛費GNP1%枠」の原則が堅持されてきたのである。
 
日本の防衛費は、1976年の「GDP1%以内」の閣議決定(当時は「GNP」=国民総生産だった)が86年に撤廃されたものの、その後もその枠を超えることはおおむねなかった。
 
ところが、安倍首相は、安保法制を成立させて以来、「安倍政権においてはGDPの1%以内に防衛費を抑える考え方はない」(17年3月2日、参院予算委員会)と述べ、さらに自民党議員からの「防衛費のGDP2%目標を掲げるべきとの提言」について「しっかりと受け止めたい」と答えている(18年1月31日、参院予算委員会)。
 
その背景には、アメリカからの防衛費増額要求がある。
 
すでに米国からは、これまでも、日本の政府に対して、「憲法9条改定を前提とした大幅な防衛費増額要求」があったが、とりわけ、集団的自衛権行使を認める2015年の安保法制の成立によって増額要求は、さらにエスカレートしてきているという。
 
その典型的な出来事が、昨年7月に北大西洋条約機構(NATO)首脳会議において、トランプ大統領が、加盟国の防衛費を2024年までに国内総生産(GDP)比2%とする従来の目標を4%に倍増するよう求めたことだ。さらに首脳会議では、「2%の目標達成」を再確認する共同宣言を採択、各加盟国が2%達成のため、年ごとに計画をNATOに報告する義務も課せられた。
 
日本に対しては「すぐに2%にすべきだ」とトランプ大統領や米側からの攻勢が強まっているという。これでさらに、憲法九条が改正されれば、米国側からの防衛費増額要求は、こんなものでは済まなくなるのは確実だろう。
 
日本は、敗戦直後から国の中枢にいる人物たちが「米国いいなり」のDNAを植えつけられ、さらには、今では表面的にはなくなったが、「年次改革要望書」で政策的に日本に米国の利益になるような施策の実現を迫り、さらに「日米合同委員会」によって軍事・防衛で米国の言いなりになる仕組みがつくられてきた。
 
日本の政府は、いつも、米国の要求どおりにしようとするが、それらの多くは日本国民の要求と矛盾する。だからダブルスタンダードとなり、「二枚舌」を使いわけるようになる。そこに、さらに他の第三国が加わると「三枚舌」になることだってある。
 
 
さて、この「二枚舌」は、防衛費の問題だけではない。
 
安倍首相は、「沖縄に寄り添う」「基地負担軽減に全力をあげる」と言っていながら、普天間地はそのままに、県民投票で反対が多数となったにもかかわらず辺野古新基地建設を強行している。
 
農産物の輸入自由化問題でも、安倍首相は、従来はTPPについて「聖域なき関税撤廃を前提とするTPPには反対する」と繰り返し表明、自民党は2012年の総選挙で「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない」とのポスターを全国に張り出し、北海道比例ブロックの選挙公報で、安倍首相の顔写真入りで「私たちの暮らしを脅かす『TPP』を断固阻止する!」との公約を掲げていた。しかしTPP交渉に参加、「農家の皆さまとの約束もあり、これ以上譲歩することはない」と明言したにもかかわらず、関税の引き下げや輸入枠の拡大を認めた。
 
さらに、安倍首相はトランプ米大統領との会談の際に、日米間の「物品貿易協定(TAG)」の協議に入ると発表。その後も、それは、あらゆる物品やサービスを対象にする「TAG」であり、包括的な「自由貿易協定(FTA)」ではないと言い張った。しかし、米政府側が発表した英語の正文には「TAG」の言葉は全くなく、安倍政権が否定する「FTA」そのものである「物品とサービスなどの貿易協定」と書かれており、ペンス副大統領などアメリカ政府の首脳も繰り返し「FTA」であると明言している。
 
普通は、国の指導者は、自国の国民の利益を優先するのが普通だが、日本は、それよりもアメリカの要求が優先される不思議な国だ。そして、米国政府とやりとりしたことが、自国民にはウソやごまかしでしか伝えられない、きちんとした説明ができないというのは、植民地か傀儡政権ということになる。到底“普通の国”の政府がやることではない。
 
「二枚舌」など使わず、米国政府に対して、おかしいことは「おかしい」と言える、できないことは「できない」と言える、そして、自国民に言うことと、米国政府に言ったことが一致している──そんな“普通の国”の政府にそろそろ変わってもらうべきではないだろうか。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全249ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事