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最終章 マスメディアはどうあるべきか
 
中島「アンデルセン童話の「裸の王様」の話があるが、メディアというものは、「王様は裸だ」と言うのが役割がある」として、「NHKの前の会長が『政府が右と言ったんだから左というわけにはいかない』と政府広報のような局の位置づけがされたことがあったが、メディアはその逆であり、政府が『右だ』と言っているときに、『左の可能性がある』と言う、『王様は裸なんじゃないか』と言うのがメディアの健全な姿勢であることを、何度も確認していくことが重要」
 
堤氏「若い人たちが『テレビ、新聞は嘘ばかりだからネットがあればいいや』と言う人が多いが、それは逆。スピードや視聴率を追いかけてしまうことはあるが、テレビや新聞では、インターネットにはない深堀りした報道をしたり、いろいろな角度から見たり、現場にいって当事者の声を聴いたり、そうしたメディアの役割はこれからますます大きくなる」
 
人間が一番「自由」になるのは「問いかけているとき」である。番組をつくるとすぐ答えを出したくなるが、そうではなく「答えがない」「問うべきことがある」というように視聴者に投げかける、そういう番組がこれから重要になってくるのではないか。
 
インターネットとは違う役割が、テレビや新聞にはある。自発的な欲望に応えてくれるインターネットと同じように作り方をテレビがしたら終わり。
 
伊集院氏は「自分は極端なことを言うけど」と前置きして次のように語った。
「民報は、視聴率競争があり、スポンサーの意向があるから、自分の局は、どう偏っているかをきちんと表示する。このニュース番組は、このスポンサーの下でやってるのでこのジャンルにさいては否定的なことはいいませんと例文表示する。で、NHKはつまらなくていい。過度におもしろくしようと考えるのはやめる。」
 
最後に、次の朗読で番組を結んだ。
「未来へ、或いは過去へ、思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら、孤独ではない時代へ──真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて。
 画一の時代から、孤独の時代から、ビックブラザーの時代から、二重思考の時代から、ごきげんよう」(『1984年』)

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なお、ウィンストンのその後。
 
日記を書いていたことが、当局に行為を見つかり、恋人のジュリアンとともに“思想犯”として収監される。
そして“矯正”することを名目に「101号室」で拷問にかけられ思考をコントロールされ洗脳される。精神が破壊され、党への忠誠心を植え付けられ、最後は恋人手のジュリアンを裏切ることで「更生」したと見なされ釈放される。
ウィンストンは、「2+2=5」と考えられるようになり、「二重思考」が完成した──ビッグ・ブラザーを敬愛するように作り替えられたことで。

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NHKEテレ「100 de 名著」のプロデューサーの秋満吉彦氏は「100deメディア論の企画自体は2年前から温めてきました。理由は、自らが属するメディア業界の信頼が足元から揺らいでいると感じられたから。そして、今こそ私たちは自分たちの仕事自体を謙虚に問わなければならないと思ったからです。ぜひ一人でも多くの方にご覧いただけたらと思います」とツイッターに書いている。

 
「メディア論」について、非常に掘り下げた番組だったと思う。製作した人たちの意気込みが伝わってくる感じがする。
 
今の、メディアの役割をもう一度考える上で大きな一石を投じた番組だったといえよう。
今回だけでなく、せび続編を期待したい。

「第3章 メディアと空気」
 
社会学者の大澤真幸氏(59)が選んだ名著は山本七平著の『「空気」の研究』だ。
『「空気」の研究』は1977年(昭和52年)に出版された。

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“空気”とは『空気を読め』の“空気”である。その“空気”をカギにして日本社会を論じたものだ。
 
 
山本七平(19211991)氏は評論家で、クリスチャンの家庭に生まれ、太平洋戦争に赴きルソン島で軍隊経験をして九死に一生を得た。マニラの捕虜収容施設を経て日本に帰国した後、出版社“山本書店”を経営し、日本人論を中心に評論活動を行ってきた。
イザヤ・ベンダサンというペンネームで発表した『日本人とユダヤ人』(1970)300万部のベストセラーとなった。そんな山本七平が文藝春秋社から1977年に出したのが『「空気」の研究』である。
 
今の時代では「KY(ケー・ワイ)」と言われるように、「空気を読まないのはけしからん」という風潮があるが、この本の中で山本氏は、「空気を読むこと」に対して批判的に書いている。
当時の日本でも、多くの人がその場の“空気”をとても気にかけていることに山本は注目し、空気が日本人の意思決定にどの様に働きかけるかを考察した。
 
太平洋戦争の終末期、航空機の援護のない中で沖縄を目指し、昭和204月に坊ノ岬沖にて撃沈された戦艦大和について考察している。2,700人以上もの犠牲者を出した、そんな無謀な航海の背景に“空気”の言葉があった。
 
小沢治三郎中将の証言に『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う。』との記述がある。
また当時の連合司令長官の豊田福武(18851957)は戦後、様々な日本軍の作戦の無謀を社会や評論家から非難されたが、それに対して『本作戦の無謀を難詰する世論や史実の論評に対しては、私は当時、ああせざるを得なかったとしか答うる以上に弁疏しようとは思わない』と述べている。
 
海軍のトップにすら “ああせざるを得なかった”としか言わせるものがあったのは空気の支配があったからだと山本は分析する。

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『「空気」の研究』の中で、日本には“抗空気罪”という罪があって、それに反すると、最も軽くて“村八分”に処せられ、その罪は軍人・非軍人や戦前・戦後に無関係に科せられるとして、「空気」は日本に存在する「大きな絶対権を持った妖怪」であり、「一種の超能力」かもしれないと述べている。
 
さらに、空気の「超能力性」は、一切の科学的手段も論理的論証をも無駄であり、いざというときそれらが一切消し飛んで「空気」に決定されることになるかもしれないという。
 
「空気」とは絶対明示的に語られない。「自分で感じて」「自分で解釈する」というもので、推測するしかないものである。それ故に、人はそれぞれに受け取り方が違う。空気を読め、とか言うが、それはおおよその方向性は合ってたとしても、全く同じではない。
 
従って、責任の所在が曖昧となる。過去の例では、東芝の不祥事や製造メーカのデータ改ざん等の件は、“トップだから責任を取った”ということで、空気に飲まれて吸収されてしまい厳密な意味での責任は曖昧なまま終わってしまう。
 
昨今、話題となっている「忖度」も「空気」を読む結果から起きるもの。「忖度」自体は、本来悪くないのだが、「空気」が明示されていないものだから、推測するしかなく、「忖度」という形をとらざるを得ない。
 
中島氏の「KYのような圧力が強くなった社会を『ひな壇芸人』化する社会とよんでいる」という話が興味深い。最近よく見る、バラエティー番組で、芸人が何段かのひな段に座って、それぞれが役割を果たしあっている。そこには“微妙で高度な空気の読み合い”がある。それが、大学生や高校生の人間関係などにも反映している。「今、自分はこういうキャラを演じた方がいいのではないか」というようなある種の強い空気の読み合いをやっている、そんな社会になっている。
 
しかも、日本のバラエティーにはテロップが出る。そこに強い空気があって、そこで笑わないと自分はおかしいのではないかと思う。これが報道番組などになってくると、社会を空気に支配させるお手伝いをしていくことになるのではないか。
 
「空気」は多様性を認めない。それ以外のことは言いにくくなる。空気は、異論や反論があるということを前提としない。世の中に反対する人がいるから、その根拠を示さないといけないとか、反論・説得しなければいけないとか、空気にはそれらが絶対にない。違うものを受け入れない。民主主義の原則である、少数派の意見にも耳を貸す、ということもない。
 
そんな空気がどうして日本で生まれたのか。山本はそこに“臨在感的把握”があるとした。

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臨在感的把握とは何かプラスアルファの力があって、それがモノや記号の背景に宿っているという感じ方で、これが空気をつくるうえでの一番のスタートポイントとなっていると山本は解釈した。
それは、もともと日本人が持っている「ここは縁起が悪いから踏んではいけない」「ここは清めないと何かやどっているかもしれない」などのように「モノに宿る魂」を感じる感性や、民族的伝統などが、現代のわれわれの感性に生きているという。
 
それが「空気」の醸成にどうつながっていくのか。例えば「不沈戦艦大和は」というと、普通の艦船以上の、何かわが国の生命力の拡大になり「これは戦争負けるわけにはいかない」という気持ちになっていく。経験的なもの以上の何かがあるという特別な雰囲気をつくりだす。
 
キリスト教の場合は、天など遠いところに神がいるという捉え方なのに対して、日本では、日常風景の中、自然の中に神様が宿っている「アミニズム」であり、そのことが「空気」との関係も影響を与えているのではないか。さらに、儒教も入ってくることも関係があって、上下関係、人間関係の中にも組み込まれ、上から言われたことは従順にやっていかなければならいという、言われたことで空気がつくられていく。
 
昭和天皇が崩御した後、「自粛ムード」でテレビがすべて黒くなって、音楽もなく全部粛々した放送になった。それに対して文句も言えないムード。あれもダメ、これもダメと自分でどんどん下げていく。それは政府が命令したわけでもなく、空気そのものだった。
 
そして空気は、一緒にいないと醸成されないし、本来、その場、その場のモノだが、マスメディアが出てくると、空気の場は一気に国民レベルに広がってしまう。
1877(明治10)の西郷率いる士族軍と官軍(明治政府)との戦いである西南戦争でマスメディアが世間の空気の醸成に大きく働いた。
 
その戦争が起きるまで西郷隆盛は全国的に人々から信望があったため、明治政府は、“西郷危うし“となれば全国が西郷を応援するのではないかと危惧し、政府は世論の動向を気にした。その当時、日本にはマスコミが本格的に活動する時代となっており、政府によるマスコミがはじまった戦争でもある。
 
そこで行われたのは、マスコミに露骨なレッテル貼りだった。「官軍=正義 仁愛の軍」、対する西郷軍は「士族軍=賊軍 残虐人間集団」という図式を人々に流した。
一方、西郷さんが率いる士族軍が賊軍&残虐人間集団という図式を流布し、新聞は、「捕虜に火柱を抱かせ焼き殺した」など西郷軍の悪逆非道を書き立てた。
 
「このような形で西郷軍を臨在感的に把握し、その把握を絶対化すれば、神格化された『悪』そのもの、いわば『悪の権化』になってしまう。従って、当初は西郷側に同情的だったものも、すべて『もう、そういうことの言える空気ではない』状態になってしまう。というより、おそらく、そういう空気を醸成すべく、政府から示唆された者の、計画的キャンペーンであったろう。」
 
一方で新聞は、官軍が、たとえ賊軍であろうと、負傷者を救護したいと訴えたという美談を伝えた。
 
「ここに、両端の両極よりする2方向の『空気』の支配ができあがるのである。こうなると、人々はもう動きが取れない。言いかえれば、双方を『善悪という対立概念』で把握せずに、一方を善、一方を悪、と規定すれば、その規定によって自己が規定され、身動きできなくなる。さらに、マスコミなどでこの規定を拡大して全員を拘束すれば、それは支配と同じ結果になる。すなわち完全なる空気の支配になってしまうのである。」
 
この西南戦争については、教科書でも“不平士族の反乱”というように表現されているが、明らかに曲解されている。武士が身分を失ってやぶれかぶれの争いであるかのようなプロパガンダがされているが、実際は、藩閥政治という明治政府に対する批判であり、江戸幕府を倒してみんなで平等な新しい政治体制をつくろうというのに、なんで薩摩や長州の一部の連中が政治を独占しているのか、それっておかしいじゃないか、という武装蜂起だった。これは政府にとって都合が悪い。そこで、レッテル貼りをする、ステレオタイプ化する。
 
そして、その空気づくりに初めて活動しだしたマスメディアが最初から利用され、空気が増幅されて、超大型の空気がつくられた。
 
言葉の力によってコントロールされている。言葉に臨在感が宿る。言葉の辞書的な意味よりももっと強い力を持ってしまう。そのスローガン的なものとして今日でも使われている。

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「忠君愛国」「八紘一宇」「ぜいたくは敵だ!」「一億玉砕 一億総特攻」「欲しがりません勝つまでは」「もはや銃後ではない」「一億総中流」「一億総白痴化」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「『NO』といえる日本」「失われた10年」
 
「一億総中流」などは、みんなが中流だと思い込むようになり、「空気」が共有されて、実際には中には貧しくても金持ちでも「自分は中流だ」と思い込む。「一億総玉砕」も本当は、誰も玉砕する気はないのだが、「やめましょう」と言えなくなってしまう。
 
そして、これらの言葉は臨在感の支配であって、言葉に臨在感がなくなった瞬間にあっという間に別のものに乗り替える。戦争末期「1億玉砕」だったものが、戦後は「民主主義」や「アメリカ」になってしまう。すっと乗り替える、その構造が「空気」の支配なのである。
 
「アベノミクス」も臨在感で、臨在感があるから成功したように見え、事故循環していると指摘する。
スローガンを政治家が掲げたときは「本当にそうか」と疑うことが重要で、いつの間にかその気にさせられてしまうことのないようにも気づきましょうというのが、山本の言いたいことだと
 
「1億総活躍社会」「排除します」「まっとうな政治」印象的な言葉、言葉がつくる空気に影響される。
 
マスメディアは空気を拡大しているが、そのマスメディアも空気を読んでいる。
 
そして空気が変わるスピードも早くなっている。IT技術の進化、そしてSNSの力が大きくなっていることがある。短く、瞬間的に消費されるメディアなので皮膚感覚的な空気を作る。しかし、それは、一つの空気から他の空気に移ることが早くなっているだけで、メディアは、パンパンにはちきれそうになった空気を調整弁のように少し抜く役割を果たしている。
 
山本は『「空気」の研究』の中で、空気に対抗するものとして“水”を挙げている。単なる比喩ではなく、水とは“話に水を差す”の水。山本は“水とは通常性(常識)”と捉えている。
水と空気とが一体化したのが日本人の意識構造。水は空気を一瞬冷ますだけで、その水も次の空気を生みだす。水も新しい空気を準備する新しい「水」が見つかっていない。
 
本当はメディアは「水」でなければならないはず。
「他にこういう視点があるよ、こういう見方もあるよ」と示し、空気の成分・中身を見せる。マスメディアにはそうした役割があるといえる。

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「第4章 メディアの未来」
 
アメリカでトランプ大統領が就任した直後、就任式(2017年1月20)に集まった聴衆の数でホワイトハウスとメディアが揉めた。メディアが「オバマ大統領の就任式(2009120)のときより少ない」と報道すると、トランプ大統領は「ウソだ!150万人はいた」と反論し、ショーン・スパイサー大統領報道官(当時)も「不正地名報道だ。過去最大の人々が集まった」とした。それに大してメディアが疑問を投げかけると、なんと、ケリーアン・コンウェイ大統領顧問は「それはオルタナティブ・ファクトの(もう一つの真実)です」と言い放った。

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権力がメディアの報道を『フェイクだっ!』と非難するという中で、そんな時にアメリカでベストセラーになったのが1949年に発表されたジョージ・オーウェル(George Orwell19031950)著の『一九八四年』だ。この本を推すのが作家で文芸評論家の高橋源一郎氏(67)

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1949年に『一九八四年』が発表された当時、この本は近未来、しかも暗い未来社会、いわゆるディストピア(ユートピア=理想郷の反対 暗黒世界)を描いたものとして話題になった。それが2016年にも再びアメリカでベストセラーになったのだ。
高橋氏は「怖いくらい世界を描いた小説だが、これ以上のものはないんではないかと思うし、付け加えるものはない」と絶賛する。
 
ジョージ・オーウェルはイギリス植民地時代のインド(ベンガル地方)に生まれた。
ビルマ(現在のミャンマー)で警察官などをし、その後パリやロンドンを放浪しジャーナリストとして活動し、1933年に最初の著作、『パリ・ロンドン放浪記』を発表。その後、転機となったのがスペイン内戦(19361939)で、共和国軍に国際義勇兵として参加した。しかし、弾圧を受け、更に負傷してフランスに戻り、スペイン内戦体験を下に『カタロニア讃歌』を発表する。
その後、父親の故郷のスコットランドの孤島ジュラの農場に引きこもり、晩年に書き上げたのが『1984』だつた。その翌年、1950年に結核が悪化したためロンドンで亡くなる。
 
スペイン内戦とはナチスやイタリアの支援を受けた軍部の反乱と、対する共和国側は、主に、社会主義・共産主義。その紛争にオーウェルは共和国軍に国際義勇軍として参加した。
しかし、オーウェルは共和国軍内部の内ゲバを見て、なんで敵と戦うより見方同士でたたかっているのか、と矛盾を感じて共産主義に幻滅した。
 
しかし、この小説は社会主義、共産主義を糾弾するというものではなく、もっと幅広い、もっと怖い全体主義的な国家のことを批判している。むしろ、出版当時より、今の方が評価が高くなっている予言的な小説で、今われわれの暮らしている世界と照らし合わせるとあまりに似ていてぞっとする。
 
オーウェルが創造した1984年とはどういう世界なのか。
世界の国々は1950年代の核戦争を経て、1984年には、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国に統合され、この3国は絶え間ない戦争状態にあった。

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物語の舞台はオセアニア。この国は一党独裁国家で、最高指導者は“ビッグ・ブラザー”と呼ばれる人物だ。しかし、その人物は実在するかどうかも定かではなく、実際には党のトップのごく小数のエリートが国家の権力を握り、国民を監視・統制していた。
 
国民の大半は「プロール」とよばれる労働者階級で生活はきわめて貧しかったが、党が彼らに与える、扇情的な映画や音楽、ポルノなどの娯楽によって、モノを考えず、体制に従う“無害な存在”とさせられていた。ヒエラルキーの中間にいるのが「党外郭」とよばれる一般党員で、当局からの厳しい監視下に置かれ、乏しい配給に甘んじながら、党の権力維持のために働かされる存在で、主人公のウィンストン・スミスもその一人だった。
 
ウィンストンの仕事場はロンドンにある中央省庁で、報道や教育、娯楽、芸術などを統制する「真理省」に所属していた。彼の仕事は、党にとって都合の悪くなった記録や新聞記事などを当局の指示に従って改ざん、抹消することだった。

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「日ごとに、そして分刻みといった具合で、過去は現在の情況に合致するように変えられる。このようにして、党の発表した予言は例外なく文書記録によって正しかったことが示され得るのであり、また、どんな報道記事も論説も、現下の必要と矛盾する場合には、記録に残されることは決して許されない。」(1984年』)
 
そして、党が国民に求めるのは「二重思考」という特殊な思考方法だった。それは……

「入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認めること。打ち消しあう、2つのことを同時に報じ、その2つが矛盾しあうことを知りながら、両方とも正しいと信じること。忘れなければならないことはなんであれ忘れ、そのうえで必要となれば、それを記憶に引き戻し、そして、直ちにそれを忘れること。」(1984年』)
 
例えば、“戦争は平和”とか“自由は隷属なり”とか“無知は力なり”などである。このような、巧みな手法で人々から考える力を奪おうとする党に対して、ウィンストンは、なんとか理性を保とうとする。
 
「かつて地球が太陽のまわりを回っていると信ずることは狂人のしるしだった。現在では過去は変更不可能だと信じることがそのしるし。最終的に党は、2足す25であると発表し、こちらもそれを信じなければならなくなるだろう。」(1984年』)
 
ウィンストンは、ひそかに手に入れた日記帳に思いのたけを綴っていく。
 
「自由とは2足す24であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。」(1984年』)
 
人々を絶えず監視し、思想犯とみなされれば、その存在自体が消される社会。そんな社会に対するウィンストンの絶望的な抵抗を描いている。
 
国家がやっていることは人々の思考の自由を奪うこと。疑問を持ったり、複雑なことを考えたりするのが人間だが、そういうことをできなくさせるためにいろいろな方策をうってくる。
 
その一つの仕掛けが「二重思考」だ。
 
その「二重思考」を国民に植え付けるためのしくみが、この国の次の省庁の機構だ。

平和省 戦争関連全般
愛情省 思想警察による逮捕、拷問
心理省 文化芸術の検閲、統制
    過去の記録の改ざん、破棄
潤沢省 慢性的な経済問題を扱う
 
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この仕組みの中で、国民は、おかしいものをおかしいとはいえなくなる。
「“おかしい”と思うのは思うのは、おかしな思想に侵されているからだ」となる社会。みんなが「そうですよね」と言えるものが「二重思考」だ。
 
3つの大きな国、オセアニアとユーラシアとが戦争をしている。イースタシアとは協定を結んでいて戦争はしていない。しかし、ある日突然、オセアニアはイースタニアと戦争をするようになると、「ユーラシアとは一度も戦争したことはありません」と変わってしまう。

新しい真実が提示されたら、それを認める。嘘とわかっていても認め、その後、「嘘だった」ということを忘れる、すると、まったく正反対の事実を事実として受け入れる。頭を変えていく。これが「二重思考」社会に順応することができるのてある。
 
そのことを昔の日本でもやってきた。太平洋戦争で日本は敗け、降伏して、それまで学校では、「鬼畜米英、天皇陛下万歳」と教わってきたものが、「アメリカはいい国、日本は民主主義の国だ」と先生に教えられ、それまでの教科書は黒く塗られ、「鬼畜米英、天皇陛下万歳」と言っていたことは忘れ、「自分は、昔から民主主義は大事と思っていた」と思うようになる。
 
旧ソ連のスターリンの時代にラヴレンチー・ベリヤ(18991953)という政治家がいて粛清を支えていた。スターリンの死後、フルシチョフの時代になって粛清された。そのとき、ソ連の大辞典に、「ベリヤは偉大な政治家」と書かれていたために、「ベーリング海峡」という差し替えのページが来て、「これに差し替えなさい」となった。
 
最近でも話題になったことがあるが、国会で安倍首相が「エンゲル係数が上がっているということは、社会が豊かになっていることだ」という趣旨の答弁をした。それまで家計に占める食費の割合であるエンゲル係数は貧しい世帯ほど高いとされていた。すると、ウィキペディアがその答弁のあった日に書き換えられて、「エンゲル係数が高いのは、単に貧しくなっているとはいえない」と書き足された。新しい事実がでたら、それに従って書き換えられるということが現実に起きていた。
 
しかも、今の森友・加計問題や自衛隊の「日報」の改ざんや隠ぺいも、この小説が描いている状況そのものである。
 
また、党は言葉そのものの統制も推し進めた。
英語から豊かな語意を次々と削除し、「ニュースピーク」(Newspeak)と呼ばれる簡略化した英語に置き換えられていった。「ニュースピーク」とは、言葉の数を減らし、一つ一つの言葉から意味をへらすというものだ。例えば“free”は自由という意味だが、それも削除される。自由と言う概念が亡くなれば、「自由になりたい」と言えなくなり、思えなくなる。
 
国家にとって、何も感じない、何も考えない人をつくるということが究極の目的なのである。
 
小説の中では、国民を支配するのに大きな役割を果たしているメディアが出てくる。それは「テレスクリーン」とよばれる装置で、町の広場、役所の中、党員の各家にまで備え付けられたテレビのようなものだ。流されるのは国威発揚のニュースなど、党によって製作された様々な番組。

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しかし、その機能はそれだけではない。朝の体操の時間に少しでもさぼると、テレスクリーンから「もっと身体を屈めなさい」と怒声が叫ぶ。テレスクリーンは受信と発信を同時に行うことができ、こちらの行動も監視されている。
 
テレスクリーンから流される放送の中でも、特に重要なのが「2分間憎悪」だ。

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ウィンストンが勤める役所では、ホールに党員が集められ視聴する。
そこで毎回、耳障りなBGMと共にスクリーンに映し出されるのは、「人民の敵」であるエマニュエル・ゴールドスタインの顔だった。党に反旗を翻し行方をくらました反逆者、ゴールドスタインを醜悪にデフォルメされた映像が2分間に渡って流される。

会場にはたちまち、怒りが渦巻き、憎悪が沸き起こり、皆が憎悪で一体感を得る。席のあちこちから非難の声が飛ぶ。ウィンストンも気が付くとみんなと一緒に叫び声をあげ靴のかかとで椅子を激しく叩いている自分がいた。
 
「〈2分間憎悪〉の恐ろしいところは、それぞれが役を演じなければならないことではなく、皆と一体にならずにはいられないことだった。醜悪なまでに高揚した恐怖と復讐心が、敵を殺し、拷問にかけ、鍛冶屋の使う大鎚で顔を粉々にしたいという欲望が、スクリーンに見入るもの全員のあいだを電流のように駆け抜け、本人の意志に反して、顔を歪めて絶叫する狂人へと変えてしまうのだ」
 
そして、“2分間憎悪”のクライマックスに、ビッグブラザーの顔がスクリーンに映し出されると、聴衆は感激し、彼を讃える言葉をつぶやく──「戦争は平和なり 自由は隷属なり 無知は力なり」──。
 
この小説が書かれた時代は、まだ裕福な家に白黒テレビがあるくらいで、テレビは普及していない時代だった。しかし、そんな時代に、描かれている内容は、まさに今日のインターネットを予言していると言っていい。
インターネットでは、褒めるより、攻撃する方が人気があり、憎しみや嫌悪を増幅させることに向いているメディアともいえる。

堤氏が言っていたが、インターネットが世界に普及し始めたころは、民主的な、誰でも発信ができて、弱い立場の人たちがもつながれる、革命的なメディアと一瞬思っていたが、今ではコーポラティズム=企業が力を持ち過ぎることで押し流されようとしている。そうした危うさがある。
 
「1984年」の世界では、人々はビックブラザーに監視されるのを恐れていて、本心ではできれば一人になりたいと思っている。しかし、インターネットの世界は、「見られていないと不安になる」世界。必死になって見られたがっていて、“いいね!”が押されないかを気にする。
そこで引き出されてくるのは、われわれの「無意識」ということになる。
 
それは、つまりビッグブラザーが目標とした「何も感じない、何も考えない人」をつくることだ。
 
しかも、インターネットの世界は、すべてを教えてくれ、自分がこれから何をすべきかも答えを出してくれる。技術がすすむと、車に乗ったらここへ行けばいいと、何もかもAIが決める社会になる。しかし、そこでわれわれは自由一般を失うことになりかねない。普通に自由を行使した方が間違いも起こる。間違いを犯さなくなれば自由一般を失うことになりかねない。
 
テレビでは「毎分視聴率」を調べていくと、どういう番組が視聴率の数字を取るのかが見えてくる。つくっている側がおもしろいと思わなくても、視聴率が良ければそれでいい。視聴率だけが追い求められれば、いずれ心地良い光の点滅だけの番組を視聴者はただぼーっと見ているだけということになってしまうかもしれない。
 
 (続く)

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