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「PHP」8月号の「未来の道しるべ 今、この人に聞きたい」は、「人が人でなくなる。それが戦争です。──戦争は人の心も破壊する」と題して歴史作家の半藤一利さんが自らの戦争体験を寄稿している。

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東京の下町、向島区(現墨田区)に生まれた半藤さん。
対米英戦争がはじまったのは11歳の、小学校2年生の時だった。平穏だった暮らしも、このときを境に激変した。
 
昭和18年に中学校に入学。翌年、学徒出陣でゼロ戦の弾丸を作る軍需工場で働くようになった頃には、すでに母親と3人の弟、妹は母の実家の茨城へ疎開し、東京にいたのは父親と半藤さんだけだった。ちょうど数え年で15歳だった半藤さんは「15歳以上の男子は、いざとなったら国に尽くすべき」と疎開の対象からはずされたのである。
 
軍需工場に通い出したのと同時に、敵機による東京への空襲がはじまった。
そして昭和20年3月9日の夜11時半頃に父親の声で飛び起きて表に出ると、すでに南の深川方面は火の海となり、次から次へとB29が低空飛行で焼夷弾を落としていった。半藤さんの家にも焼夷弾がさく裂し、家に火がつき、裏の油脂工場からも柱のような火が吹きあがった。
 
「焼夷弾、恐るるに足らず」「逃げるな。絶対に火を消せる」とのお上の言葉を信じ、半藤少年は火を消そうと必死だった。そしてこう語る。
 
「しかしね、そんなのみんな嘘っぱち。焼夷弾の火というのは、とてもじゃないが、バケツの水程度で消しおおせるものじゃありません。この世に『絶対』なんていうものはないのだと、このとき身をもって知りました。以来、私は、『絶対』という言葉を一度も口にしなかったし、文字にしたことはないんです。」
 
真っ黒な煙と炎が迫り、大人たちの「逃げろー!」の声に半藤少年も走った。
途中、右へ行けば隅田川、左に行けば中川にぶつかる分岐で、とっさに左を選んだ。
「これも人の運でしょう。右の隅田川へ向かった人は、誰も帰ってきませんでした」
 
しかし、中川に着いても、そこもまた地獄だった。平井橋の半ばで火に囲まれ、行くも戻るもできなくなった。たまたま救助にやってきた船に助けられたものの、今度は、船の上から川でおぼれかけている人を助けるうちに、引きずりこまれて、川に落ちてしまった。
 
「川のなかは真っ黒でした。そして、そこには炎に追われて飛び込んだ大勢の人がもがき苦しみ、うごめていていました。阿鼻叫喚とは、このことです。誰もがワラをもつかむ思いで、見知らぬ人の足や背中にすがりつく。私は、それを振り払うようにして、必死に水面に上がろうとしました。」
 
何度も水を飲み、もはやこれまでとあきらめかけたところで、水面に顔が出たところで、船の上から、誰かが襟首を引っ張り上げてくれ半藤少年は助かったという。
 
「川べりには逃げ場を失った人がまだたくさんいた。赤ん坊を抱いたまま、どうすることもできずうずくまる母親の姿もありました。そんな人々を、渦を巻いたような真っ赤な炎が次々と襲っていきました。
 女の人の髪が一瞬にしてチリチリに焦げて、からだは炭俵のように燃え上がって崩れ落ちていく……。私は、そんなようすを、ただ茫然と船の上から見ていました。感情が麻痺して、何も感じることができなかったのです。」
 
約10万人の人が犠牲になった東京大空襲である。
 
その後、半藤さんは「日本のいちばん長い日」など、多くの本を書いた。
「しかし、あの夜のことだけは、ずいぶん長い間、人に話すことも、書くこともできませんでした。生きのびるために、水中でしがみついてくるひとを払いのけた自分。目の前で火だるまになって焼け死んでいく人々を見ても、何も感じなかった自分……。正直に言えば、すべてを忘れたかったし、思い出したくなかった」
 
そして、やっと向き合えたのは、60歳を過ぎてからだという。
「戦争とは何ですか」と聞かれると、半藤さんは「人が人の心を失うことだ」と答えるという。
「非人間的になる、これが戦争の、本当の恐ろしさです。だからこそ、二度と繰り返してはなりません」
 
 
半藤さんは、東大文学部卒業後、文藝春秋社に入社し、その後「文藝春秋」「週刊文春」編集長、専務取締役など経て作家となった。一頃は「保守派の論客」ともいわれていた。
数年前の雑誌のインタビューで「私はまったく変わっていないのに、周りがどんどん右へと行ってしまった」と言っていた半藤さん。
さらに、最近のインタビューなどでは「今の状況が、戦前の戦争へと向かった時代と似てきている」と再三述べ、「戦争体験者が少なくなり、戦争の真実が忘れされようとしている」と警鐘を鳴らしていた。
 
そして、さらに、「歴史は小さな事件、小さな決断の積み重ねが重大事態へと発展した。それが戦争へと突き進み自国民だけで300万人以上の犠牲を出す結果となった」「そして一番怖いのは、こうした小さな事件の積み重ねと、多くの人がその時点で正しいと思った決断が、誰も望まない不幸な結果を生む危険というのは、いつの時代にもあるのだ、ということです」とも述べている。
今まさに、歴史に学び、「人が人でなくなる」悲惨な戦争を、二度と起こさないために、半藤さんの言葉を深くかみしめたい。
 
 

 
■半藤一利さんに関して書いた過去の記事
「閣議決定による解釈改憲──『ノー・リターン・ポイント(引き換えせぬ地点)』と『忍び寄る戦争への道』」
 
「『異なる言論に対する許容が極端に落ちている』(半藤一利氏)──『“非国民”にされる空気』と歴史の『ノーリターンポイント』」
 
 

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