TABIBITO

自然に 素朴に 明日をみつめて

日記

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最近、2つの本を読んだ。どちらも、大変興味深い内容で楽しく読めた。
昔も今も、共通することが多かったり、日本の一昔前と現代と、ひとつの糸で繋がっていて、時として未来を予見しているようなこともあるのだなと思った。
 
 
ひとつは学習院大学文学部教授の鈴木健一氏著の『江戸諸國47景 名所絵を旅する』である。
 
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ダイブで有名なのが道頓堀だが、2003年に18年ぶりに阪神タイガースが優勝した際には、約5300人が道頓堀川に飛び込み、男性1人がおぼれて死亡したという。道頓堀川にかかる戎橋の欄干から水面までの高さはおよそ5.4m。さらに水面から底までの深さ派、戎橋直下付近で深さは3.4mになるそうだ。
 
しかし、日本では、そのずっと昔から、ダイブの“名所があった。清水の舞台である。
「清水の舞台から飛び下りる」──決死の覚悟で思い切った物事をするという意味のことわざだ。
1633年に3代将軍徳川家光によって再建された清水の舞台は、京都観光の定番コースのひとつで、その高さはなんと約12mもあり、ビルなら4階建ての高さとなる。道頓堀川の高さの倍以上、しかも、落ちる先は「水」ではなく「地面」なのである。
 
清水の舞台は、釘を一本も使わずに組み上げられた木造建築で、今でも能、狂言、歌舞伎などの伝統芸能の奉納の際に使われる立派な檜舞台だ。
 
この『江戸諸國47景』を読むと、実は、この舞台から実際に飛び降りた人数が『清水寺成就院日記』という書(昨年、復刻版が発刊された)によって記録されているという。それによれば、江戸時代の1694年から1864年の間に、実際に飛び下りた事件は235件で、未然に引き留められたものも含め234人が飛び下りに挑戦しているのだそうだ。
 
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中には、2度も挑戦した猛者までいた。挑戦者の生存率は85・4%で、意外に多くの人が助かっていることには驚く。
その当時は、舞台の下に木々が多く茂り、地面も軟らかな土だったからだそうで、今ではそうはいかないようだ。
 
なぜ、こんな高いところから飛び下りたのか。その目的は自殺ではなく、庶民の間では清水の観音様に命を預けて飛び下り、命が助かると願いが叶うという信仰があったのだという。
 
挑戦した男女比は、7対3で男性が多く、最年少は12歳、最年長は80代だったという。年齢別では10〜20代が約73%を占めた。
 
彼らの願いもそれぞれで、奉公先の旦那様の病気平癒を祈って、という健気な女中もいれば、恋人と会う時間が欲しいと願う恋する乙女も。なかには「若気の至り」と答える者までいて、保護した清水寺の僧たちも呆れ顔だったに違いない。
 
東北地方から四国まで飛び下り希望者は全国から参詣した。これは、街道が整備され、旅を庶民が楽しめるようになったことも大きい。

なお、清水の飛び下りは明治5年(1872年)に京都府によって禁止令が出され、飛び下りの風習はなくなったという。
 
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もうひとつ。和歌山県日高郡日高町にある道成寺(どうじょうじ)に伝わる「道成寺説話」についてのお話し。
『桃太郎後日噺』(安永6年〈1977年〉刊)の一場面にまつわるストーリー。
 
「桃太郎が鬼が島から連れ帰った赤鬼の息子鬼七(きしち)は意外にも意気な男になった。下女のお福と深い中になるが、それを妬む猿の告げ口によって露顕し、追放された鬼七とお福の二人は煙草やを営むことになる。そこに鬼七の許嫁鬼女姫(きじょひめ)が現れる。お福は嫉妬の角を生やし、鬼女姫と激しく言い争う。それに恐れをなした鬼七は寺に逃げ隠れる。」

小さな子どもたちに人気の桃太郎の話に、こんな大人向けの後日談があるとは知らなかった。しかも、成敗された鬼が主人公になるのだからおもしろい。
 
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この絵は、左上が角を生やし蛇に化身してしまったお福。その右側が、けしかける猿。さらに、その右が、寺に逃げ込み、僧侶と話す鬼七だという。鬼七の着ている着物の模様は金棒で、「鬼に金棒」にかけているという。本来は敗者だった鬼の子が意気だったという、桃太郎のパロディである。
 
この話しの元となっている「原型」の説話は次のようなものだった。
 
「熊野参拝に出向いた若くて美男の旅僧が、宿の娘に恋慕される。僧は女から逃れたが、女は追いかけ、大蛇と化して日高川を渡った。僧は道成寺の釣り鐘の中に身を隠すものの、蛇は鐘に巻きつき、その執念の炎で中にいた僧侶を焼き殺す。」
 
僧の名は古くは賢学とされ、のちにこの男女は安珍・清姫として知られるようになるという。
 
こんな興味深い逸話やこぼれ話がいくつもあり、楽しく読める1冊である。
 
 
 
 
もうひとつは、文芸・文化評論家の小野俊太郎氏の著作『ウルトラQの精神史』だ。
 
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円谷プロの空想特撮シリーズの第1弾として1966年にテレビ放映された伝説的ドラマ「ウルトラQ」。その後に続くウルトラシリーズの草分けともいえる伝説的なドラマである。
 
たしか、私は子どもの時、「ウルトラQ」を再放送で見たが、わくわくしたが「怖かった」という印象だ。しかし、大人になってみて、非常に中身の濃いドラマであることに気づいた。

番組が放送されてから50年が経過した。
この本は、その全28話を分析し、その意味を問い直す作品論である。

ウルトラQはその後に続くウルトラマンのようなヒーローは登場せず、怪獣や異常現象に立ち向かうのはあくまで人間である。
怪獣に人間社会が襲われ、最後にヒーローが登場して怪獣と戦い、やっつけて地球を救うという、わかりやすさはなく、子どもたちには少しわからない内容も多かったのではないかと思う。
 
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著者の小野氏は、「何かのきっかけで、当たり前と思える常識世界がバランスを失い」「急ごしらえの戦後社会の矛盾が飛び出してくる」として、「それこそが『ウルトラQ』が描こうとした現実であった」と指摘している。

高度経済成長の社会に現れた大気汚染などの公害、人口急増、巨大な団地郡……さまざまな社会的矛盾や歪がテーマとなり、人間の心の奥底の闇までが怪獣に変わった。
 
第11話「バルンが」では、工場や自動車など様々な騒音に溢れた大都市東京が舞台。そこに、ガソリンから電気まですべての燃料やエネルギーを吸い込む風船怪獣バルンガが出現する。政府はその対応として送電を停止し、電話も通じない東京は、いきなりランプだけの生活となる。騒音に包まれる東京ですべての経済活動が停止し、つかの間の静けさを取りバー戻し、「こんな静かな朝はなかった」とバルンガを肯定する。人間の兵器や武器による攻撃も、さらには台風もエネルギーとして摂取してしまうバルンガを、結局は人類は退治できないことが明らかとなる。
バルンガは恒星のエネルギーを求めて最後は、太陽に向かう。ナレーションが「明日の朝輝いてるのが太陽ではなく、バルカンなのかもしれない」と語る。
 
第17話の「8分の1計画」では、人口が増えすぎた過密都市東京の事情から人間を8分の1サイズにする縮小するという計画。人間を縮小することで、過密都市で暮らすスペースをつくるという計画に登場人物の由利子が「非人間的」と抗議するが、係員は「人口対策にどこの国でもやっていますよ」と応じる。由利子は、縮小化を求める人々とともに、縮小装置のある部屋に向かうエレベーターに乗ってしまう。縮小化された由利子は、S13地区にいて「103924」という市民番号を付けられていた。現在のマイナンバー制度の先駆けである。
由利子は不法入居者として留置場に入れられ、波乱の逃走劇を展開するが、最後は夢だったということで終わる。


第19話の「2020年の挑戦」という話は、見事に未来を予見した作品といえる。
2020年とは、現実の世界では、今話題の2度目の東京オリンピックが行われる年なのである。
この、「2020年の挑戦」では、怪獣としては人気の高いケムール人が登場する。
若者が次々と目の前で次々と消失する。その仕業は、2020年の未来のケムール星に住むケムール人だった。ケムール人は長寿を手に入れただが、肉体が衰えていくことを嫌悪する。そこで、1966年の地球から、若者を誘拐し自分たちの肉体と交換していくという方法をとるのである。今も「高齢化社会」を理由に年金カット法が国会で強行されたが、まるで、2020年のケムール人は高齢化社会に悩む、現在のわれわれ日本の姿を現すかのようだ。
 
2016年に生きるわれわれにとって、テレビでは、毎日のように豊洲移転問題、東京オリンピック施設建設問題などが報じられているが、2020年に向けて解決すべき問題はそれだけではなく山積みになっている。それが予言されているように見える。
 
最初に書いたように、ウルトラQでは、怪獣をやっつけるヒーローは登場しない。
人間社会が自分で起こしたことは、人間社会が責任をもって解決せざるを得ないということなのだ。だからこそ、後で、後世に生きる人々がとんでもない被害を受けたりすることにならないように、今から、偉い人たちは、しっかり先を見据えて、まっとうな政治をやってほしいものだ。
 
そして、現代において「怪獣」を生み出すのも、「ヒーロー」を生み出すのもわれわれ有権者1人1人に責任があるということも肝に銘じなければならないだろう。 
 
 
以上、2つの本はお勧めである。
今年は、例年に比べても人里に多くのクマが出没し、毎日のようにヒトが襲われたというニュースが流れ、死者まで出ている。
民家に入って、食べ物を物色しているクマの映像を見るのも、珍しくなくなってきた。
 
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「週刊金曜日」11月18日号「本州の山とその周辺はいまや飽和状態 ツキノワグマが里に下りてくる!」という記事。
 
「クマは危険な動物」と思われがちだが、基本的には臆病で、わざわざヒトを襲うことは稀である。ふつうは、森の中にヒトが入ってきたら、クマの方から去っていったり、身を潜めて隠れているものだった。しかし、嗅覚がとても優れているクマだが、目はそれほどよくはないため、ヒトが風下から近づいた場合は、ヒトの存在に気がつかず、出会い頭にびっくりして、焦ってしまい、人身事故につながるケースが起きやすいといわれる。また、食べているときも夢中になりすぎて、周囲の警戒を怠ることがある。さらに子連れのときには、本能的に子グマを守ろうとして、ヒトに襲いかかることもある。
 
 
先日、東京都の青梅市にもツキノワグマが出没した。10月に青梅市内の飲食店に現れ、店内を荒らした末に2頭が捕殺された。11月にも1頭が捕殺されている。
今年の春以降、北海道と九州を除く全国各地で出没が確認され、秋田県ではクマによって4人が殺害される痛ましい事件まで起きている。
 
なぜ、クマが人里に出没するのか。秋にクマが人里に現れると、「山の実りが少なく、餌不足だから人里に降りてきたのだろう」と語られることが多い。
しかし、青梅市で捕殺された2頭のツキノワグマについては、ともに5〜6歳程度の成獣で、?せているどころか肥えていたという。そうなると「山の餌不足」だけでは説明がつかない。
 
記事によると、「昨今のクマ出没報道では『クマの主食はブナの実だ』との話がたびたび登場する。『ブナ豊作の翌春は、クマの出産ラッシュとなる』とも言われている。そして、そのブナの実が不作だと『クマは餌を求めて人里に下りてきて、畑や人家を襲う』というのだ。この3つの話がセットされて語られることも多い」という。
 
そして、その『ブナ主食』説に疑問を呈して、ブナは毎年実が生るわけではなく、豊作になるのは不定期で、そんな宛てにならないものを主食にしていたら、クマはとっくに絶滅していてもおかしくないとする。
 
さらに専門家たちによって主張されている、クマの行動範囲が山の外側に向けて広がり、山の中心部にはクマはいなくなったとする「ドーナツ化現象」説についても、実際に調べてみると、ドーナツの穴の部分にもクマは生息し、ブナの実を食べていることが発見された。
 
春から夏にかけて人里に出没した体長1メートル以下のクマの実体を探ってみると、いずれもクマ社会における「弱者」たちであることがわかったという。

決して「山に餌がない」わけではなく、餌はあっても、そこにはクマ社会で上位に君臨する強いクマたちがいて、下位にいる弱い小型の個体や、オスグマによる子殺しから逃れようとする親子グマは、生きるために山を下りるしか術がなくなる。
 
そして、それらのクマたちは、人里には畑や果樹園など豊富な‟“非常食があることを知っていて、クマにとって人里は、お手軽なコンビニエンスストアのような存在となっているという。
 
クマ社会の弱者であればあるほど、人里近くに安住していたほうが植える心配がない。その結果、人里や市街地では、必然的にクマが頻繁に目撃されることになる。今では、クマの目撃報告がなかった、茨城県や相模原(神奈川県)、青梅市(東京)などの地域にまで現れるようになった。
 
大事なのは不確かなこと極まりない「推定生息数」に頼った対策ではなく、観察や管理が大変困難ではあるが、クマの生息数を正確に把握することが必要ではないかとしている。
 
「これがわからない限り、極端な大量捕殺に走ればクマはその地域から消滅してしまうし、中途半端な捕殺では『害獣』扱いされるクマが今後も人里や市街地に現れ続けることになる」として、「人間にとってもクマにとっても不幸しか生み出さない」と結んでいる。
           
 
 

 
もうひとつ。「東京新聞」1120日付に「山の変貌 憂えるマタギ  北秋田・阿仁地区を訪ねる」という記事。
 
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今年5、6月に、タケノコ採りの男女4人がツキノワグマに襲われて亡くなった秋田県を始め、東北地方で、古来から伝統と信仰を受け継ぐ狩猟集団「マタギ」について書いている。
その本家とされる阿仁マタギの里(秋田県北秋田市)を取材している。
 
マタギハ道なき道を1日30〜40キロも歩き、冬は深い雪をかきわけて獲物を探す。どんな天候でも、暗闇でも帰還する能力は、「頭にGPS(衛星利用測位システム)が入っている」と称される。並みの登山家ではついて行けない。
 
1、2週間も歩き回った末、クマを見つけても条件が整わずに撃てないことも多い、鈴木さんは「クマは山神さまからの授かりもの。伝統狩猟だからするので、肉や毛皮がほしいわけではない」と言う。
 
クマの被害が相次いだ2016年度、秋田県では10月末までに過去最高の468頭が捕獲された。そのうち449頭を奥山でなく、住宅地や畑に出たクマを罠で捕らえる有害鳥獣駆除が占めている。
 
男女4人が命を落とした鹿角市の事故現場の一部は休猟区だった。マタギの伝統文化を発信してきた阿仁猟友会前会長の松橋光雄さん(74)は「昔のクマは人間を見て育ち、人里に近くに来るクマが増えている。人間の怖さを植え付けておかないとだめだ」と警鐘を鳴らす。
 
阿仁地区では周辺で多くの足跡やフンが見つかるものの、この十数年大きな被害は出ていない。マタギたちは「阿仁は春熊猟の際に銃でクマを追い立てているので、人間の近くに来ないのでは」と口をそろえる。
 
マタギに詳しい田口洋美・東北芸術工科大教授は「今起きていることは、人間の撤退に原因がある」とし、次のように指摘している。
 
「中世、古代には、現在都市がある場所にシカやクマがいた。そこを農地として開拓し、人間の居住域を山のほうへ押し上げる中で、狩猟は農作物を動物から守る抑止力だった。今、農耕の力が弱くなったところからほころびが出始め、動物が元いた空間に戻りつつある。変わったのはクマではなく、我々なんです」
 
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クマの出没が、何が原因で、どうしたらヒトとクマが共存できるのか──何か方法がないものか、ヒトはもっとよく考えてみるべきではないか。
でなければ、先住民を追い出して土地を奪い、土地を追われた先住民が元の土地をうろうろしただけでただ撃ち殺すだけ、というのでは、どこかの政府と同じことになってしまう。
 
クマの受難は、ヒトの受難なのである。
 
 
浅草寺の東の二天門のすぐ前にある「アミューズミュージアム 布文化と浮世絵の美術館」で開催している「BORO 美しいぼろ布展〜人間はどれだけ貧しくてもおしゃれをする〜」を観てきた。前にも、「BORO」は一度見に来た。
 
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すでに前に記事にしたこととかなり重なるかもしれないが、あらためて、日本の古くから伝わる良き伝統に、胸が熱くなる思いがした。
 
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2階の第一展示室は「BORO」、3階の第二展示室は「民具倉庫」、第3展示室は「黒沢明と田中忠三郎の『夢』の跡」で、ここまでは、前回観たときとほぼ同じだが、第4展示室が「美しいぽろ布展〜人間はどれだけ貧しくてもおしゃれをする〜」となっている。
 
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会場には、本州の最北端、青森の山村、農村、漁村で使われてきた“ぼろ”と呼ばれた衣服や布が多数展示されている。これらは、青森県むつ市出身で、青森市在住だった民俗学者である故・田中忠三郎さんのコレクションである。田中さんは、1933年生まれで、日本の江戸から昭和期にかけての古い衣類や民具、縄文土器などを長年に渡り研究し、収集・保存してきた方であるが、2013年3月5日に79歳で喉頭がんでお亡くなりになっている。
 
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会場内のデザインや配置、装飾、特にファッショナブルな“BORO”マネキンなど、若い人たちも十分楽しめるセンスがあるものだと思う。
 
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寒冷地である青森では綿花の栽培ができず、農漁民の日常衣料は麻を栽培して織った麻布だった。また藩政時代を通じて農民が木綿を着用することは禁じられていた。したがって田畑での作業着から、赤ん坊のおしめ、長い冬の夜を過ごす布団まで、農民の身につけるものはすべて、麻布で縫い上げられた時代が長く続いたのである。
麻布をいかに使いこなし、着こなすのか──人々は、特に女性たちは知恵を使い、伝統を引き継いできたのである。
 
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1枚の麻布で寒ければ、何枚でも重ねていく。枚数を重ねれば防寒性が増すし、糸を刺していけば布地は丈夫になる。傷んで穴が空けば小布で繕い、また布と布のあいだに麻屑を入れて温かくする。
 
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“ぼろ”は、1人の一生だけに限らず、2代、3代、4代に渡って何十年、何百年と布を継ぎはぎし、重ね合わせ、受け継がれ、再生されて使わられていった。
それらの衣類は、まさに芸術といえる。この“ぼろ”が、今や「BORO」として世界共通語となり、ヨーロッパをはじめ世界中の芸術家から大きな注目をあつめているという。
 
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なんといっても、象徴的なのは、「ドンジャ」と「ボドコ」である。
 
「ドンジャ」(夜着)は、北国の厳しい寒さを凌ぐためのもので、冬の夜にこれを被って寝た。
表と裏に麻布と古手木綿をつぎたして、綴っている。中には「麻屑オクズ」が入っているという。
「投げれば立つよなドンジャ着て」という言葉があるというが、丹前のような形をしていて、長着物のようでもあるが夜は布団の役割を果す。
 
 
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本来の丹前や夜着は、表も裏も木綿布で中には綿が入って軽くて暖かいものだが、ドンジャには綿は使われていない。ボロ布が何重にも重なりあっているから、立つのである。相当に重たく、中には15キロのものもあるという。
北国の寒さ厳しい夜、囲炉裏の片隅でこれを着て座り、寝るときもこれを着て寝た。ひとつのドンシャに親子が裸でくるまって、寝る。素肌で寄り添い、体を温めあう。そこには、親子喧嘩や夫婦喧嘩はなかったという。日中に諍いがあっても、夜には自然に許しあう。
 
「ボドコ」(座布)は、着古した衣類の布、麻布、木綿布を継ぎ足して縫った、敷布のようなもので、「ボド」とも言う。
 
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ボドは、寝るときに、稲藁や枯れ草の上にこれを敷いて寝るという用途の他に、女性の出産のときに使われた。
当時は、「座産」で、ボドを下に敷いて、お母さんは天井の梁などからかけた紐を握ってからだを支えて「それけっぱれ、それけっぱれ」と、しゃがんだような姿勢で出産したという。使われたドボは、川で洗って乾かし、また使った。
 
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ボドは、祖父母や父母の使い古した着物の布を丹念に重ね、刺し縫ったもので、何代にも渡り、大事にされ、ボドを囲んで小さな命の誕生を見守り続けたのだ。
「『ボド』は、文字通り、何世代にもわたる母親たちの血と汗と涙、そして羊水にまみれながら引き継がれてきたものである。」とある。何代も前から受け継いだ布が何層にも重ねられた「ボド」は、生まれたての赤ちゃんに「あなたは一人で生まれてきたのではないよ」と伝えてくれるものである。
 
また、「女性のおむつ・腰巻き」、つまり下着までも展示されていた。夜に身に着けるものや、農作業用に着るものなど、TPOによって使い分けて身に着けていたという。
 
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古い小布を「ツギヌノ」と言い、それを使って、着物や肌着などの破れたり、擦り切れたところを補修することを「ツギする」とか「ボドツギ」と言った
「一寸四方、小豆を包む大きさがあったら大事にせよ」と代々親から言い伝えられ、人々はさまさまな布を、どんな小さなものもとっておいたという。
 
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もう一つ「裂織」という言葉。使い古されて、もうこれ以上使えなくなったボロ布をよみがえらせるという技だ。使えなくなったボロ布を細く引き裂いて、それを糸代わりにして織るのだ。
 
さまざまな色合いの布をまぜて織り、出来上がり生き帰った布は、明るい色のものが多いという。それは、雪国にとって明るい太陽の陽の光を求めたからではないかと言われる。
 
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ちくちくと針を動かして作る模様がとっても素敵な日本の伝統民芸「刺し子」で、その誕生は、今から約500年も前になる。
日本の「三大刺し子」と呼ばれるのが、青森県津軽の「こぎん刺し」、青森県南部の「南部菱刺し」、山形県庄内の「庄内刺し子」だといわれる。
 
「刺し子」とは、麻布を木綿の糸で刺し通し、綴っていく技のこと。青森では江戸の末期に刺し子の着物がつくられるようになったという。貴重な木綿糸の白色は、麻布の藍色に映え、女性たちのおしゃれ心をくすぐったという。
娘たちは、木綿糸が手に入ると一生懸命刺し綴った。娘たちが5〜6歳になると、針と糸を持たせて練習させて、15〜16歳になると一人前の刺し手になって、綺麗な模様の着物を作って、お嫁に行くときに2〜3枚を持っていくという。
 
そうした厳しい生活環境から生まれたものが、「こぎん刺し」であり「菱刺し」であり、“ぼろ”なのである。
 
「こぎん刺し」は、麻布を紺に染め、麻布の粗い目を白い木綿糸で刺し縫いをする、緻密かつ豪華でなものである。これは、青森県津軽地方に伝わる伝統的な刺し子模様のことを言い、江戸後期に始まったとされる。農家の人々は目の粗い麻布でできた着物を着て、農作業をしていたが、農家の女性はその着物の荒い布目を、防寒、保温の目的で、刺し子で埋め、補強した。しかも、農家の女性たちの美意識と工夫で数多くの美しい模様がつくられていったのである。
「こきん刺し」は、奇数の目を刺して、出来上がった模様は、縦長の菱形の繰り返しを主とした幾何学模様となる。柄の多様性を追求し、晴れ着用として、嫁入り支度に欠かせないものとなり、1897年(明治30年)頃には手の込んだ「こぎん刺し」が多く見られるようになったという。
 
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一方、八戸などを中心にした南部地方では、色鮮やかな「菱刺し」という模様を作り出した。「菱刺し」は、偶数の目を数えて刺し、出来上がった模様は横長の菱形の繰り返しとなる。菱刺しは、色糸や毛糸が使われて多様性を求めた華やかなものだ。
 
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しかし、女性の立場は厳しいものがあった。
田中さんが民具を求める旅の途中で、あるお婆さんからこんな話しを聞いたという。
 
「台所で泣くと『女は台所で泣くものではないわ』と姑から言われ、夜、寝床で泣くと『うるさい』と夫が怒る。我慢しろと言われるばかりで、女には泣く場所からなかった」
貧しい自給自足の生活で、人々が身にまとっていた「衣類のようなもの」から現代の衣服に至るまでの道のりは長い。
普段着、仕事着、晴れ着など、さまざまな衣服が、女性たちの手でつくられていた。
 
「衣服作りは婦女子にとって、日中の激しい労働を終えてから、睡魔と格闘しながら行う夜なべ仕事であった。
 厳冬の冬、板の間に座って針仕事をする主婦は、家族の者たちがみな寝静まった後、囲炉裏の残り火をかきわけ、その明るさと、わずかな暖で作業をした。
  素肌の片膝の上で麻の繊維を糸による仕事は言語に絶する苦痛を伴い、感覚のまったく失われた冷え切った膝を道具として使ったという。
木綿の衣服は暖かく柔らかい。藩政時代から禁制が解かれた明治に入っても、木綿の服はなかなか手に入らず、貴重品として扱われ、小布を継ぎ足して胴着とする程度であった。
  寒冷地帯には、何年かおきで凶作がやってくる。藩と大小の地主等による圧政、自然、風土との闘いは、まさに生地獄絵図そのままであったのではないかと想像する。」
 
同時に、そうした食べることもままならない厳しい状況、女性たちの置かれた過酷な条件の中でも、女性たちが心の豊かさを求め、「女として美しくありたい」という願いが文化を生み出したのだ。
 
食べることもままならない中で、おしゃれをする。継ぎはぎがあっても、今でいえばジーンズのように、ファッショナブルであったり、スタイリッシュでもあったりと、ささやかなアピールがあったのである。
 
ポスターの写真もそうだが、モデルさんのこの写真は、おもしろい。
 
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これは鮭皮のブーツだ。ゴム長靴が高級品だった頃に、農村部で履かれていたという。足元をくるむ部分はすべて鮭皮で、麻糸で絡み縫いしている。底には背びれがついていて、それが氷の上を歩くときの滑り止めになっているという。
 
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針仕事そのものが、北国の厳しい自然と暮らしの中で苦痛さえ伴う中で、”ぼろ”を生かして、一針、一針に心を込めて、糸とともに人の絆をしっかり繋げながら綴っていく。
しかも、物を大事にし、無駄なく活用してである。
 
会場の各地に「もったいない」「物には心がある」などのスローガンのパネルが立てられていた。
 
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少しでも温かく、長持ちするように丈夫にしたいという切実な思いから生まれ、どんなに貧しくとも美しくありたいという願い──それが、世界もが注目する美の世界を生んだ。
北の最果ての地に生活していた一般の庶民、しかも働く女性たちが、「芸術家」──「アーチスト」だったのである。
 
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かつての日本では、生活に密着して、当たり前のようにやられてきた「再利用」。
現代では、「使い捨て社会」「大量消費社会」による環境破壊によって、「循環型社会」「エコ社会」と言う言葉が叫ばれるようになり、「MOTTAINAI」が見直されている。
その精神が、実用性、ファッション性と繋がったものがBOROなのである。
 
アミューズミュージアムの案内には、特別展について次のように紹介されている。
 
「『おしゃれ』は、とかく軽く論じられがちですが、『自分を少しでもよく見せて異性にアピールし、自分の遺伝子を残していこう』という気持ちは、人間のみならず鳥や動物なども含めた生き物としての本能に基づいているのではないでしょうか?継ぎはぎ布にかけられた膨大な手間。限られた資源の再利用(エコロジー)、刺し子の超絶技巧(テクニック)、愛情(エモーション)、経年美(パティーナ)。極めて今日的なテーマを示唆するBORO。BOROから受ける感動の本質は、見た目の継ぎはぎのレイアウトではなく、生き物としての粗末なぼろ布に現れた思いがけない美の世界。消費文化の対極のアートをご覧ください。」
 
 
──人間はどれだけ貧しくてもおしゃれをする──
 
おしゃれは社会を発展させ、人間を豊かにしていくものだ。貧しくても知恵を出しておしゃれをすることも大事だが、誰もがおしゃれができるように、文化的生活が保障される社会にしていくこともまた大事である。
 
そんなことを考えながらアミューズミュージアムの屋上から、浅草寺を眺めた。
 
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たまたま土手沿いの道を走っていたら、川の水面がまばゆくキラキラと光って見えたので、車を停めた。
 
光っていたのは水面だけではなかっった。 
 
河原には黄金色の秋景色がひろがっていた。
 
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都会の中でも自然が輝いている。
大阪に行った家族がおみやげを買ってきてくれた。
 
どこのおみやげかといえば、大阪府池田市にある「インスタントラーメン発明記念館」のチキンラーメンのセットだ。
 
 
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世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」は、この池田市で発明されたという。
 
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昭和33年8月25日に、安藤百福(日清食品創業者)が、戦後の焼け跡の屋台に、一杯のラーメンを求めて長い行列を作る人々の姿が脳裏から離れず、「もっと気軽にラーメンが食べられないだろうか」という思いからインスタントラーメン開発に踏み出したという。
 
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チキンラーメン開発の「5原則」は、
①安い、②あいしい、③簡単に作れる、④安全、⑤長期間保存できる
だそうだ。
 
 
従来は「安く、簡単に作れる」が一番だったのかもしれないが、今の時代、やはり、安全が第一なのではないだろうか。
 
 
ところで、この蓋つきのラーメンどんぶり。
チキンラーメンを作る(と言ってもお湯を入れるだけのことだが…)のに、なかなか便利そうなものだ。
 
ところが、我が家の娘が、シンボルキャラクターのひよこちゃんが「かわいい」とたいへん気に入って、暇さえあれば、くちばしを持って、開けたり閉めたりしている……。
 
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そのため、しばらくは使えそうにない。
 
 
 
 
 

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