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11月2日付「毎日」夕刊の「特集ワイド」に「陸上イージスは必要か」と題して、2019年度予算の概算要求で2352億円を計上し、秋田と山口の両県に配備する計画の米国製の陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入について検証している。

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昨年11月の日米首脳会談で、トランプ大統領が「日本が大量の防衛装備を買うことが好ましい」などと安倍首相に伝えると、翌月には陸上イージスの導入が閣議決定された。
 
記事では「すんなり決まった防衛システムだが、その一方で歴史的な米朝首脳会談が実現し、朝鮮半島では緊張緩和を目指す動きが進んでいる。それだけに陸上イージス艦は必要なのか、との疑問がつきまとう」として、軍事ジャーナリストの田岡俊次氏は「自衛隊にとって陸上イージスの配備は本来の計画になく、政治主導で押し付けられた」と指摘する。
 
田岡氏によれば、防衛相が、今後10年程度の防衛力の在り方を示す2013年決定の「防衛計画の大綱(防衛大綱)」と、それに基づいて5年ごとの装備品の購入を決めた「中期防衛力整備計画(中期防)」にも「陸上イージス」の記載はなかった。そこにあるのは、「弾道ミサイル対応のイージス艦4隻を8隻にし、PAC3は射程の長いものに換装する」ことなどだという。
 
18年版「防衛白書」の「解説」コーナーで「イージス・アショアを導入すれば、わが国を24時間・365日、切れ目なく守るための能力を抜本的に向上できる」と記していることについても、田岡氏は疑問視する。
 
記事の説明では、「大気圏内で迎撃できるSM3は1発約16億円と高価なため、各イージス艦に8発しか積んでいない。また、低空で迎撃するPAC3は全国に16隊、自主発射機32両(教育部隊を除く)あるが、半径20キロ以下しかカバーできない。さらに配備する陸上イージスでは、1発40億円とされる改良型『SM3ブロック2A』を、秋田と山口に各24発の計48発配備するが、対する北朝鮮の弾道ミサイルは数百発と防衛相は言う」とする。
 
田岡氏は「陸上イージスを配備したところで、1基に24発では『抜本的向上』にはなりません」と防衛相の説明は誇大広告と断ずる。
 
米国の要請をのんだ「政治主導」で導入を決めたためか、必要性の説明に無理がある。

配備予定地の自治体や住民への説明で防衛省は「現状のイージス艦では、整備・補給で港に入るため隙間の期間が生じることが避けられず」とか、「現在のミサイル防衛用のイージス艦4隻では常時警戒態勢を続けるのは困難だから」と、「陸上イージスが必要」と説き、「防衛白書」の「解説」にも同じことを書いている。

たしかに艦艇の4分の1は定期整備のためドックに入っているから、可動は3隻、うち2隻を常に海上に出し続けるのは無理があった。だからこそ「大綱」「中期防」はミサイル迎撃用ミサイルを積むイージス艦を8隻にすることを決めた。現在の「こんごう」級4隻に加え「あたご」級2隻は新型の迎撃ミサイルを運用するように改装し、さらに2隻を建造中で、7番目のイージス艦「まや」は7月に進水し、20年就役の予定、もう1隻は21年に完成し、8隻態勢となる。


地上イージスは、契約締結後6年で1基配備となるというから24年か25年になるというから実際に2基使えるようになるのは、ずっと先のこと。
しかし、「解説」ではそのことは触れていないし、住民に対しても「近く8隻になる」ことを言わず「現在の4隻では苦しいから陸上イージスが必要」とごまかして、自治体や住民に対して説明している。
 
 
陸上イージスを配備する候補地について、BMD導入の初期に官房副長官補を務めた柳沢協二氏は、「2つの候補地を聞いた時、ぴんときました。秋田は米軍のインド太平洋軍司令部のあるハワイ、そして山口は米空軍基地のあるグァムに向かうミサイル経路のほぼ真下に位置します」と、米国の防衛に重点を置いていると話す。

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価格についても、陸上イージスは米国から購入するわけだが、悪名高い、「有償軍事援助(FMS)」で調達されるため、米側の「言い値」での取引になりかねない。すでに、昨年11月の参院予算委員会で、小野寺五典防衛相(当時)は陸上イージス1基の導入費用を800億円と説明したが、防衛相は今年7月、導入費用の見積もりを約1340億円と変更した。さらに、2基の配備後30年間の維持・運用経費も含めると約4664億円に上るとの試算も明らかにした。
 
記事中では、そこまで書いていないが、これには前述の迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」(1発約40億円)は含まれておらず、1基当たり24発で、2基で48発を買えば、計約1900億円となり、一部の用地買収や整地、建設費なども含めば7千億円に達するのではないかといわれている。
 
日本防衛にとってデメリットばかり、しかも誰が見ても「ハワイとグァムの防衛のため」としか考えられないいうのに、ぼったくられるように、税金7億円を差し出す日本って、いったい……。
 
しかし、本当の‟ぼったくりが始まるのは、配備を決定してからのこれからである。
田岡氏は「日本政府が配備を決定し、後戻りできなくなるのを見すまして、米国が値上げしてくるのがいつものパターン。この先もいつ値上げされるか分からない」と懸念する。
 
安倍政権になり、米国からの調達は増え、8月に発表された19年度概算要求に計上されたFMSの新規契約額は18年度予算の1・7倍となる約6917億円となった。
 
数百発ともいわれる北朝鮮の弾道ミサイルは確かに脅威だが、柳沢氏は「『脅威』とは戦う『能力』と『意思』の掛け算」だと説き、「北朝鮮に『能力』はある。だったら相手に戦争の『意思』をなくさせるのが『政治の役割』です」と述べる。
 
そして、最後に柳沢氏は「もし米国と北朝鮮が戦えば米国が勝ちます。でも、戦場になるのは朝鮮半島や日本。日本は、その被害に耐えられるのか。大切なのは米国と北朝鮮が戦争をしないこと、一方、安倍政権は米朝の戦争を避けるよりも圧力に傾斜している。これでは『脅威』はなくせない」と主張する。


 
政府や防衛省は、イージスアショア配備について、「北朝鮮の弾道ミサイルなどの脅威に備えるため」と、「北朝鮮の脅威」を最大の口実にしていた。しかし、朝鮮半島で、3回に及ぶ南北会談、初の米朝首脳会談などによって、「対立」から「対話」へと流れが大きく転換し、朝鮮半島の非核化と平和に向けた歴史的な合意もかわされてきた。
 
防衛省は7月30日、「北朝鮮による弾道ミサイル発射の可能性が低下した」として、北海道と広島、島根、愛媛、高知各県に展開している航空自衛隊の地上配備型迎撃ミサイルパトリオット(PAC3)を撤収し、東京・市谷の防衛省にあるPAC3も所属施設に移動している。
 
ところが、地上型イージスを2基配備配備先の候補地とされている秋田県や山口県では、電磁波の健康への影響や、テロ攻撃の標的になることへの不安ともに、「北朝鮮情勢が変わっているのになぜ必要なのか」という疑問と不安が住民の間で噴出しているという。
 
政府と防衛省は、国民に説明すべきである。本来、自衛隊が必要としていないのに、トランプ大統領が買えと言ったから、地元の反対も押し切って導入しようなんていうことなら、潔く配備を中止すべきである。
 
秋田での説明会は6、7月に続いて三度目だが、当然ながらこの間、「西日本で大変な災害があったのに、なぜ兵器に大金を使うのか。被災者に税金を使うべき」との声も上がったという。
 
最近、歴史作家の堀口茉純氏著の「絵ではスゴイ」(PHP新書)を読んだが、その中に、非常に興味深い江戸の政治の一端が書かれていた。

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江戸時代、4代将軍。家綱の時代の明暦の大火によって江戸城下町の6割が焼失し、死者が10万人にものぼったという。江戸城の天守閣も主要な建物はすべて類焼してしまった。幕府は、その再建のためたくさんの人夫を動員して土台までつくった。あとは、その上に天守閣を築くだけだったが、家綱の後見人だった、会津藩主・保科正之が「天守はもはや無用の長物」と主張し、当時の幕閣たちも同意し「特に実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理を割くくらいだったら、城下の復興・再建にあてよう」という英断を下したと伝えられている。
 
そもそも天守は、戦になったときに物見や武器庫、籠城の際の拠点として使うための建造物であって、日常的な使い道はなかった。ただ、巨大な天守を持っているということはも巨大な軍事力・権力の証となっていたのである。家康、秀忠、家光の三代の時代では、天守をあげる必要があったが、四代・家綱の代になって内乱状態が沈静化する中で、しかも、江戸城下が未曽有の災害で壊滅しかかっている非常事態に、天守をあげて、軍事力や権力の誇示をする必要があるのか、との賢明な判断で、天守を築かなかったのである。
 
そのため、江戸城には、現在も天守閣がない。

 
西日本を始めとした各地の豪雨災害、熊本や北海道の地震被害、さらには今後、南海トラフ大地震や首都直下型地震なども起きることが予想されている中で、今の政府が、まずは平和のための外交努力にこそ本腰を入れるべきである。そして、やれイージスアショアだ、やれオスプレイだ、やれF−35Aステレス戦闘機だ、と米国のいいなりとなって、実用性のない高額装備品を次々と“爆買い”することよりも、差し迫った災害対策と減災のためにこそ予算を回すべきではないだろうか。
 
 
 
 
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ふわっとして、優しくて、色彩豊かに、これ以上ないほどにかわいく、子どもたちを描く作家。
おそらく誰でもが1度は、この作家の絵を目にしたことがあるのではないだろうか。
 
絵本作家のいわさきちひろ(1918〜74年)である。
 
そのいわさきちひろの『生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。』展が、JR東京駅構内の「東京ステーションギャラリー」で、7月14日から9月9日まで開催され、私も最終日の前日の土曜日に観に行ってきた。

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会場は、自動券売機から長蛇の列ができて、会場の階に上るエレベーターもかなりの時間待つほどの混雑ぶりだった。お客さんはほとんど女性で、若い人から年配の方まで、幅広い年代に親しまれていたことが伺える。
 
今回の展覧会では、没後40年を超えてもなお人々に親しまれ続けている画家、絵本作家・いわさきちひろの生涯に焦点を当てて、新出の資料も交えた約200点の展示品を通して彼女の技術や作品の背景を振り返るというものだ。
 

構成は4部に分けられて、タイトルはちひろの言葉からとったものである。
 

「第1章 私の娘時代はずっと戦争のなかでした」
冒頭では、終戦までの揺籃期のいわさきちひろを追い、画家としての原点と感性の形成を探る。少女期に彼女が経験した出来事や事物が立体的に再構成され、彼女がいかなる時代で育ち、何に出会い、何を吸収したのかを振り返ることができる。

 
「第2章 働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい」
第2章では、ちひろが誇りとしていた家庭生活と作家活動の両立の様子を追いながら、同時代における文化史における彼女の位置づけを探る。プロレタリア美術に連なる紙芝居や幻灯、まとまって見られる機会の少なかった油絵やポスターなど、これまであまり掘り下げられていなかったちひろ像に迫る。
 
「第3章 私は、豹変しながらいろいろとあくせくします」
2章を踏まえた第3章では、作品の魅力を分析的に考察。いわさきちひろといえば子どもや花の絵、といった多くの人が抱く定型の印象をより細密にし、座って描いたか、立って描いたか、どんな道具や素材を、いかなるスピードで操作していたかなどとともに、彼女の絵における「線」の現れ方など、画面に凝らされた技術に焦点を当てる。
 
「第4章 童画は、けしてただの文の説明であってはならない」
最終章では、明るく輝く水彩画の数々によって、ちひろの開放的な色彩の魅力を示す。また、2017年に開催された「高畑勲がつくるちひろ展」の成果を踏まえ、原画の拡大によってちひろの作品の中に没入する空間を作り出しす。絵本を読むときの距離感覚と展示空間の融合と、みずみずしい彩りがフィナーレを飾る。映像番組「黒柳徹子さんと『いわさきちひろ』」のダイジェストも上映されていた。

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今回の展覧会の展示物の解説パネルや、「黒柳徹子さんと『いわさきちひろ』」の映像、さらに、ミュージアムショップで購入した書籍などを見て、読んでみて、ちひろの、あのふわっと優しい絵からは想像もできないような、“壮絶”ともいえる波乱の人生があったことがわかった。
 
長年のファンであり、現在、2つのちひろ美術館(東京・安曇野)の館長も務めている黒柳徹子さんは、『いわさきちひろ』のビデオの中で、ちひろの魅力をこう語る。
「ちひろさんのようにうまく子どもを描く人はそうはいない。誰が見ても、かわいい、と思う。うちの子と同じって、子どもそのもの。神様からすごい力を与えられて、子どもの絵を描きなさいと言われて、必死で55年の間に描いたんだって思います」
 
ちひろの足跡をたどると、まさに、逆境を乗り越えて必死で描き続けた55年間だった。
 

いわさきちひろは、1918年(大正7年)12月15日、陸軍築城部の建築技師の父親と女学校教師の母親の下に、3人姉妹の長女として福井県武生町(現・越前市)で誕生し、幼少期を東京で過ごした。
「ちひろが見当たらないときは、地面に描かれた絵をたどっていくと必ず見つかった」というエピソードが残っているほど、幼き日のちひろは絵を描くことに夢中だった。
 
ちひろの青春時代は戦争ととともにあった。女学校に入った1931年(昭和6年)、12歳のときの9月に満州事変が起こり、女学校を卒業した1936年(昭和11年)、17歳のときには、日中戦争が本格化していく。
 
14歳でちひろは、洋画家・岡田三郎助に師事し、絵を学び始め、すぐに頭角を現し始め、17歳になると朱葉会女子洋画展に入選。女学校を卒業したちひろは本格的に絵の道へ進むことを望んでいた。しかし、両親からの激しい反対によって、断念せざるを得なかった
 
さらに、ちひろに縁談が舞い込み、望まぬ相手との結婚を承諾しなければならなくなった。
1939年(昭和14年)、20歳のちひろは、4月に結婚。夫の転勤に従って旧満州・大連に渡った。しかし、この2年後、その結婚は衝撃的な結末を迎える。
 
1941年(昭和16年)、ちひろ22歳の3月に、夫が自殺をし、遺骨を抱えて帰国することになる。帰国後の世間の風はさぞ冷たかったことだろうと想像できる。

12月に日本は米英に宣戦布告し泥沼の太平洋戦争が始まり、ちひろの周りの日常の世界は、急速に色合いを変えていった。
 
1944年(昭和19年)、25歳のちひろは、女子義勇隊に同行し、書道の教師として中国東北部に渡るも、現地は書道などできる状況になかった。偶然、勃利方面の部隊長が、ちひろの書道の教え子の伯父にあたる森岡大佐で、ちひろを宿舎に引き取り、戦火の悪化を見越して、3か月後に日本に送り返された。


1945年(昭和20年)5月25日、ちひろが住んでいた中野区の家が空襲に遭った。焼夷弾が雨のように降る中で、妹と一緒にバケツで家に水をかけるものの火は消えず、ちひろは水をかぶりながら命かながら逃げ惑う体験をした。
大切にしていた絵本も、描きためていた絵も、かわいがっていた猫も、全てが一瞬にして燃えてしまった夜だった。 


そして、長野県松本市に疎開し、26歳で終戦を迎えた。
 
望まぬ結婚で夫と死別、戦争で家も焼かれて、日本の敗戦と、人生のどん底にあったちひろだったが、太平洋戦争が日本の侵略戦争であったことを知り、自身の戦争体験から、「二度と戦争を起こしてはならない」と決意し、平和な日本と世界を強く願った。

ちひろは、後年こう語っている。
「戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動を受けました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました」

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そして、1946年(昭和21年)1月、疎開先の長野県・松本市で、日本共産党の演説会を聞いた。宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の訴えに感銘し、勉強会に参加するなどしたうえで、3月に、自らすすんで日本共産党の一員となった。そのとき27歳だった。
 
自分が、好きな絵の勉強を続けさせてもらえず、結婚を強いられた時代背景、そして第2次世界大戦の意味。さまざまなことを熟考した末に、「新しい世の中を作っていきたい」と決心した。
 
その年、好きだった絵で生きていく決意をし、本格的に絵を学ぶために、疎開先の長野から東京へと単身で宿泊先も決めぬまま上京した。
 
日本共産党宣伝部・芸術学校に入校したちひろは、文も絵も描けることから才能を見いだされ、記者として人民新聞社に採用され、神田のブリキ屋へ嫁いだ叔母を頼りに、下宿をさせてもらいながら、取材に挿絵にと奮闘する。
 
1947年には、翻訳本『わるいキツネその名はライネッケ』で初めて、1冊丸ごとの挿絵を担当。さらに、アンデルセン『お母さんの話』の紙芝居の絵を任され、この作品が文部大臣賞を受賞したことからちひろの仕事は軌道に乗り、画家としての独り立ちを果たす。
 
1949年、ちひろは、共産党の活動で知り合った後に衆院議員となる7歳半年下の松本善明(ぜんめい)と出会った。

「僕は世の中でいちばん苦しい人たちといっしょに歩いていこうと決めたんです」という善明の純粋さに打たれたちひろは、自分が年上であること、過去に不幸な結婚を経験していることを悩みながらも、残りの人生を善明と共に歩むことを決意、1950年(昭和25年)に結婚する。ちひろ31歳、善明23歳。
善明は司法試験の勉強に取り掛かり、ちひろは筆一本で新婚生活を支えた。
 
あまり知られていないが、1952年ごろからヒゲタ醤油の広告の仕事を手掛けるようになり、1954年には朝日広告準グランプリを受賞した。ヒゲタの挿絵は約20年間つづいた。

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1951年(昭和26年)4月に、長男・猛を出産。しかし、夫は司法試験めざして勉強中で、ちひろは必死に絵を描き生活をささえなければならなかったため、生後1か月半の息子を、長野県の母に一時的に預けることになる。
3人で暮らせるようになるまでの辛抱だと、ちひろは東京で仕事にまい進しながらも、時々長野へ猛に会いに行った。

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この時期、限られた時間にいとしいわが子の姿を脳裏に焼き付けたからだろうか、ちひろは後々「10カ月と1歳の赤ん坊をモデルなしでも描き分けることができる」と言われるほど、赤ん坊の絵で定評を得ることになった。
 
1951年、善明は初めて受験した司法試験で見事に合格を果たしたことで、猛を引き取り3人で暮らすこととなり、ちひろと善明は初めての家を建てることにした。
こうして1952年の春に完成したアトリエ兼住居が、ちひろが亡くなるまでの22年間を過ごしたついのすみかとなった。
 

後に、ちひろは次のような言葉を残している。
「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」(1972年)


自身の戦争体験から、「二度と戦争を起こしてはならない」と強く決意し、平和な世界の実現を願ったちひろ。その思いは、その後のすべての作品の根底に流れているものだった。

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戦後も、ちひろは“戦争と向き合った。
1955年11月1日〜1975年4月30日と約20年間に及んだベトナム戦争では、100万人以上のベトナムの人々が犠牲となり、そのおよそ半数が子どもだったといわれる。平和を愛し、子どもたちを愛するちひろには居ても立っても居られないほどだった。
 
1967年に、反戦運動が広がるなか、ちひろは被爆した子どもたちの詩と作文に絵をつけた、絵本『わたしがちいさかったときに』を描いた。ちひろにとって、初めて戦争をテーマにしたこの絵本だった。
 
そして、ちひろはベトナム戦争をテーマに描いた絵本を2冊出版している。
1冊は絵本『母さんはおるす』(1972年)、同じ年、もう1冊は、『戦火のなかの子どもたち』(1973年)だった。

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絵本『戦火のなかの子どもたち』は、日本にある米軍基地から、ベトナムの子どもの頭上に日々爆撃機が飛び立ってゆく現実に心を痛めたちひろは、ベトナムの子どもたちに思いをはせて、この絵本を描いた。
 
このころ、ちひろはすでに体調を崩し、入退院を繰り返す中で、焦りながら、必死になって執筆していたという。
 
『戦火のなかの子どもたち』を書き上げて1年後の1974年、ちひろは他界する。
ちひろの死の8ヵ月後、1975年4月にベトナム戦争が終結した。
 
絵本の最後にちひろはこう書いている。
「戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。こどもは、そのあどけないやくちびるやその心までが、世界じゅうみんなおんなじだからなんです。」
 
高畑勲監督は、『火垂るの墓』を制作するときに、この絵本『戦火のなかの子どもたち』を若いスタッフに見せて想像力を高めたという。
 
黒柳徹子さんはビデオの中で次のように語っている。
 
「ちひろさんが、本当に書きたかったのは、あの『戦火の中の子どもたち』みたいな、ああいうものなのかもしれないと思いますよね。子どもをかわいく、かわいく書いて、こんなかわいい子どもたちを泣かさないでって、それがちひろさんにとって一番大きなものになったのかなと思います。こんな幼い、こんな無垢な、こんなかわいい子どもたちを、どうかお願いですから誰も傷つけたりしないように、どうか平和でお願いしますと。」
 

ちひろの壮絶な人生と苦悩、それと、ちひろの描く優しく、どこまでもかわいい子どもたちの絵──この両者が最後は重なっていく。そして、ちひろが絵に込めて最も言いたかったことが何かがわかったような気がする、そんな展覧会だった。
 
東京では終了したが、同展覧会は、11月16日()から12月25日()の期間で京都、2019年4月から5月の期間で福岡を巡回する予定だという。
ぜひ、多くの人たちに見てもらいたい展覧会だ。

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15日、終戦から73年を迎え、平成最後の「終戦の日」となった。
全国各地で戦没者を悼む催しが開かれ、東京・日本武道館では政府主催の戦没者追悼式が開かれ、天皇陛下が、お言葉で「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」と新たな表現で戦後日本の歩みに思いを巡らせ、先の大戦への「深い反省」を2015年から4年連続で表明した。
 
一方、安倍晋三首相は不戦の決意を示したものの、アジア諸国に対する加害責任や反省について6年連続で言及をしなかった。

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全国戦没者追悼式での天皇陛下のおことば
 
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 戦後長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。


 
「東京新聞」16日付の「お言葉を読み解く」で、「戦後日本肯定的に捉え」と題して、近現代史研究を通じて交流のある作家の半藤一利さん(88)が次のように語っている。引用したい。

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「戦後長きにわたる平和な歳月に思いを致し」とは、戦後の日本の歩みを肯定的に捉えている。70年余の平和は戦争の惨禍の上に成り立っている。それが軸であり、今の人々に忘れないでほしいということだろう。
 『戦後レジーム(体制)からの脱却』を掲げた安倍首相が改憲を進めようとしているが、そうした風潮への憂慮をいくらか示したとも思う。
 陛下のお言葉は199年のお言葉でそれまでの『深い悲しみ』が『つきることのない悲しみ』に変わったり、94年に『尊い命』が『かけがえのない命』に変化。2015年には『深い反省』が加わった。表現の変化は、戦争について知れば知るほど思いが深まったことによるものだと言える。
それ以外の例年ほとんど変わらない部分も、何度でも繰り返し国民に伝えていきたかったのではないか」
                   (以上 引用)
 
 
天皇陛下は一貫して先の大戦の歴史と向き合い、皇后さまとともに国内外で戦没者の慰霊などにあたられてきた。
国内外で戦没者を慰霊する旅に出かけ、沖縄、長崎、広島、硫黄島、念願だったパラオ、激戦地ペリリュー島、フィリピンなど訪れ犠牲者を追悼している。
 
天皇陛下はご自身の戦争の体験からも、悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない、平和への思いを風化させてはならない、という強い思いを込めて、ここまでこられたのだと思う。
 
 
私ごとになるが、お盆で墓参りに行ったときに、たまたま実家から出てきたという両親の若い時の写真を、兄弟で一番先が長い(?)のではないかということで末っ子である私がもらった。

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この写真は、私の父が昭和17年(1942年)9月に召集令状が来て、満州に出征するときに記念に撮られたものだ。肩に日の丸の寄せ書きをタスキ掛けしている。母の手には、まだ生まれて間もない最初の子が抱かれている。このときの父や母の気持ちはいかばかりだっただろうか。
 
終戦後、父は運よく帰還したものの、写真にあった最初の子は、すでに病気で亡くなっていた。しかし、その後は4人の子どもを授かり、今で言えば、かなりの“高齢出産となったが、私も世に出ることとなる。もし、戦争が続いていたら、私は生まれていなかったかもしれない。
 
父は、すでに10年以上前に他界しているのだが、生前、酒を飲んで軍歌を歌うものの、戦争については語ろうとしなかった。唯一聞いたのは、「工兵」について話したときに、満州で工兵として任務にあたっている中で、すぐ目の前で爆薬が爆発して仲間が吹き飛んだという話だった。

そんな父だったが、脳出血で倒れてしばらくたった2003年のイラク攻撃の際に、テレビで、米英が発射したミサイルがイラクの施設に打ち込まれ、花火のように爆破される映像を見て、普段穏やかだった父が、血相を変えて「戦争はやってはだめだ絶対だめだ」と叫んだ。

そのとき、戦争を語らなかった父の胸の内を見た気がした。
結局、詳しい話を聞くことができないまま、亡くなった。
 
ただ、戦争体験者として、生きてきた父の最大の結論は「戦争はやってはだめだ」ということである。
 
先月2日に81歳で亡くなった、落語家の桂歌丸さんも、「戦争は絶対だめです」と言っていたが、多くの戦争体験者は、異口同音で、同じように語る。

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その痛切な言葉と思いは、冒頭の──
「戦後長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願う」
──との天皇陛下のお言葉に通じるものがあると思う。
 
そして、戦争体験者たちの「戦争は絶対だめ」という思い──それを具現化しているのが、平和憲法なのではないだろうか。
 
しかし、戦後73年が経過し、戦争体験者が高齢化し、減少してきている中で、その平和憲法=憲法9条を変えようという動きが強まっている。
あれよあれよという間に、防衛費が6年連続で増大し続け、来年度の概算要求では、5兆4000億円にものぼっている。そして、安倍首相が自民党総裁選を前に、憲法改正を「いつまでも議論だけを続けるわけにはいかない」「自民党としての憲法改正案を次の国会に提出できるよう取りまとめを加速させる」と改憲に強い意欲を燃やしている。
 
この秋がひとつの正念場といえる。
戦争体験者も、戦後生まれも、みんなが「戦争は絶対だめ」の声をさらに大きくひろげことが大事になっている。

74回目の終戦の日も「…平和な歳月に思いを致す」日となるようにしたいものだ。

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「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などについては、「そんなことはなかった」「捏造だった」という声が大きくなり、メディアで「南京大虐殺」について取り上げれば、すぐにネットで叩かれ、「日本会議」関係の団体や政治家からも圧力を受ける。

「南京大虐殺」をテーマにした講演会や戦争展の企画には、会場として公共施設は貸してもらえない。学校教育の現場でも教科書から「南京大虐殺」は書き換えられ、歴史認識は変えられていく。マスコミも、「『朝日』のようにならないように」と“空気をよみ、政権に“忖度して、この重大な問題に向き合おうとしない。

 
そんな中で、513日深夜(14日未明)に放送された、日本テレビNNNドキュメント」の「南京事件Ⅱ──歴史修正を検証せよ──」は、真正面から事実と向き合おうとし、歴史の真実を検証しようとした。まさに、ジャーナリズムとしての矜持を感じさせる番組だった。

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NNNドキュメントでは、2015104日に「南京事件 兵士たちの遺言」と題して、放映され話題となったが、それに続く「続編」という位置づけだ。
 
今回の番組のタイトルについては、4月末の放送予告では当初、「焼却された機密文書()」と案内されていた。70年以上も前のことであるが、現在の政権で大問題となっている、森友・加計学園や自衛隊「日報」などに関する公文書の国家・官僚らによる隠ぺい・改ざん・廃棄と本質的に共通したものがあるというよう。
 
主な内容は以下のようなものだった。

 
まず、番組は、「現在の防衛省が置かれている一画に、かつて陸軍参謀本部があった」(新宿区市谷台)というナレーションら始まる。敗戦が決まった19458月に、この建物の裏手から3日間にわたって煙が立ち上ったという。
 
それは軍の公式記録を焼却する煙だった。敗戦で戦争責任を問われかねない記録を連合軍が来る前に葬ることを政府が決定したのだった。
 
ところが、終戦からおよそ50年が経過した1996年に防衛庁の敷地内から大量の灰や焦げた紙の束が発見された。それらは、焼却されたはずの日本軍の記録だった。
現在では台紙に貼られ、市ヶ谷台史料として保管されている。
 
その燃え残りの中の1枚には「大日本帝国参謀本部」と書かれた印紙が貼られていた。これは日中戦争の秘密書類である。
 
そこには「敵国首都南京ヲ攻略スベシ」と書かれていた。中国に派遣された日本軍が、当時の首都南京へと攻め込んだ南京攻略戦。その記録の一部が焼け残りの中にあった。つまり、南京戦の記録のほとんどが焼却処分されていたことが今回明らかになった。

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「支那事変日記帳」と書かれた古い革張りの日記帳。これは、福島県から南京戦に参加したある上等兵が戦場で書き綴った古い革張りの「陣中日記」である。燃やす記録に代わるかのように日記は訴える。
 
「捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス」「年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ッテ見タ」
 
それは、南京虐殺、南京事件などともよばれる、中国人への残虐行為を記した「一次資料」だった。
 
同様の加害行為を認めた兵士たちの日記は、コピーも含めて30冊以上が確認されている。そして、生前に記録されていた兵士たちの肉声。
 
一斉に機関銃がダダダダダーツと。あとは銃声で聞こえない阿鼻叫喚。すごかったですよ」(歩兵第65聯隊 第四中隊少尉)
 
「あの頃はおれらも悪いと思わなかった。命令だよ。俺らは軍隊だから」(歩兵第65聯隊歩兵砲中隊 上等兵)
 
「戦争は残虐だのかわいそうだという頭はなくなってしまう。自分がいつ殺されるかわからない」(歩兵第65聯隊 第二機関銃中隊)
 
公式記録の焼却によって封印されていた、これらの事実。しかし、南京事件は、一部で否定されている。現職の国会議員の中からも異論を唱える声がある。
 
一方、被害を訴えている中国側は、30万人が殺害されたと主張している。
 
81年前、南京で何が起きたのか。
番組では、兵士たちの日記や証言について4年間にわたり、国の内外で取材を続けてきた。
次第に明らかになってきたのは、1937年、12月16日、17日の2日間に渡った捕虜殺害の詳細だった。あの夜、揚子江の岸辺で何があったのか。公式記録が失われた中、一次資料と兵士たちの証言から、事実の重みを検証していく。
 

南京事件における中国人への残虐行為が記されている、加害行為を認めた兵士たちの日記はコピーを含めて30冊以上が確認されている。元兵士たちの肉声も残っている。

福島県出身の小野賢二さんは地元から南京戦に参加した兵士たちの陣中日記などの資料を集め、福島県の歩兵第65聯隊を中心とした元兵士たち、200人以上から話を聞いてきた。もう生存している人は、今ではほとんどいないという。

 
陣中日記。番組では陣中日記に記されている内容について検証を重ね、戦後70年の節目だった2015年に南京事件を放送した。多くの部隊が手柄を競った南京攻略戦。
駿灰などに上陸した上海派遣軍。当初の作戦任務は、居住していた日本人の保護だった。しかし、12月、日本軍は南京に迫っていった。中心部は高い城塀で囲まれた巨大な要塞。日本軍がとった作戦は、いくつもの舞台による完全包囲作戦だった。山砲兵第19聯隊は、歩兵第65聯隊などと、隊を組んで、揚子江沿いを遡っていった。この包囲作戦で、中国兵や多くの民間人は揚子江を渡れず取り残され、捕虜となった。
 
そして、前述した12月16日、捕虜5000名の機関銃による射殺が行われた。
 
放送後の視聴者の反響は大きく、知らなかった、良かったなどの声が寄せられた。しかし、ネット上では事件そのものを否定する意見が見られた。南京事件は無かったとの主張もあり、現職国会議員でもそういった主張をする人がいる。
日本政府の南京事件に関する公式見解は、外務省ホームページによると、「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」などとしている。


戦後になるまで日本人のほとんどは南京事件を知らなかった。

当時は新聞などが触れてはならない理由があった。「新聞紙法」などがあり、新聞や雑誌は検閲が行われており、軍にとって都合の悪い記事は掲載されなかったためだ。終戦を迎えると、戦時中の写真や映画ニュースフィルムの多くは焼却処分された。
 
しかし、毎日新聞社が密かに保存していた。「不許可」とのハンコが押された写真には、後ろ手に縛られた中国人捕虜の姿が写っていた。そして、捕虜を銃剣で突き刺す日本兵の写真。「南門前の激戦の跡」と記された写真は、南京陥落後に撮られたものだが、いくつもの死体が横たわっていた。
残虐な写真や軍の機密に触れるような写真は掲載「不許可」とされ、事実は国民に伝えられることはなかった。

残されていた、南京戦に参加した兵士たちの「陣中日記」を集めてきた小野賢二さんは、200人以上から直接聞き取りを行ってきた。
 
 
大量の音声や動画を調査することで、2日間にわたった捕虜銃殺の詳細がわかってきた。
 
番組では新たにわかった情報を現地・南京で検証した。従軍していた新聞社のカメラマンが撮影していた写真などを手かがりに、捕虜が虐殺された場所を特定した。
 
1937年の東京朝日新聞によると捕虜の数は14777人、日本兵も食料に事欠く中、捕虜にはほとんど食事が与えられなかったという。自分の小便を飲んだと証言した元兵士もいた。1度目の銃殺があったとされる1216日、捕虜たちは揚子江の近くの海軍倉庫まで連行された。
 

連行に関わった元兵士は逃げようとした捕虜を後ろから射殺したと語った。現在、海軍倉庫のあった場所は巨大な造船所になっていて海上から近づくことはできなかった。陸から現場近くまで近付いた。

「今晩はお客さん(捕虜)が来て、お客さんを処理するだと。そして、“ピー”という将校の合図で一斉射撃をダダダダダダと始まる。」(歩兵第65聯隊 第三機関銃中隊 下士官)

 
番組では、兵士たちの証言を元に81年前、19371216日の捕虜銃殺の状況をCGで再現した。
 
午前中に日本兵たちは倉庫の壁に機関銃を打つための穴を開け始めた。等間隔に機関銃が外部からは見えないように設置された。本部と連絡を取るための電話も引かれた。揚子江上には海軍の軍艦が停泊していた。
やがて夕方暗くなると後ろ手に縛られた捕虜たちが歩かされてきて、揚子江側を向いて座らされた。そして、将校が「ピー」と笛を吹くと、機関銃の一斉射撃が始まった。
 
「撃ちっぱなし。ダダダダダダダと。重機関銃は1分間に600発撃てる。15分〜20分くらい撃ちましたかね」(歩兵第65聯隊 第三機関銃中隊 下士官)

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銃撃が終わると銃剣や刀を持った兵士たちが遺体を突いて歩いた。遺体は揚子江に放り投げられた。
「最初の何十人は流れますが、何百人、何千人は流れない。(川が)詰まっちまった」(歩兵第65聯隊 第三機関銃中隊 下士官)
 
翌日も海軍倉庫での捕虜銃殺は続き、同じ17日、下流の河川敷でも捕虜銃殺が行われていたという。


歩兵第65聯隊 第二中隊 伍長は当時の様子をスケッチに残していた。前日と異なり17日の銃殺現場には幕府山の麓を回るように向かったと証言している。17日に銃殺現場となったのは幕府山下の大きな河原だった。

 
「とにかく1万(人)も集めるっていうんだから相当広い河原だったね。有刺鉄線か何かを周囲に張ったんじゃないかな。」(歩兵第65聯隊 第一大隊本部行李係二等兵)
 
そして、有刺鉄線の外側にはいくつもの機関銃がセットされた。
 
「機関銃を載せて高くして、砂を積んで盛って…」(歩兵第65聯隊 第一機関銃中隊 二等兵射撃手)
 
機関銃を隠すために柳の木の枝やシートなどが被せられ。
 
やがて捕虜が連れてこられ、合図と同時に一斉に機関銃が撃たれた。
機関銃の相撃ちを防ぐために、二つの炎が灯されて、炎と炎との間を狙って撃ったという。
 
「一斉に機関銃がダダダダーッと始まる。あとはもう銃声で聞こえない阿鼻叫喚」(歩兵第65聯隊 第四中隊 少尉)
 
 ※「阿鼻叫喚」とは、人々が苦しみ泣き叫ぶような、非常にむごたらしい状態のことをさす。
捕虜銃殺の様子をスケッチしていた伍長は、こんな光景を目撃していた。
 
「このときの撃たれまいと、人から人へと登り集まるさま。即ち、人柱は丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした」(歩兵第65聯隊 第中隊 伍長)
 
また、別の兵士も……
 
「一丈(3メートル)背丈くらい、上へ上へと撃たれないように登っていって、一丈くらいの高さになっていた」(歩兵第65聯隊 第一大隊本部 一等兵)
 
銃撃が終わると、前の日と同じように銃剣や刀を持った兵士が突撃した。
 
「生きているのも死んでいるのも構わず刺した」(歩兵第65聯隊 第12中隊 下士官)
 
このとき、生き残っていた捕虜に刀を奪われて、斬られた日本兵もいたという。
 
「あの場合にすればやっぱり気違いだったと、天皇の軍隊として、これから何時間後に殺す人間を引っ張っていく時に、別に気持ち悪いとか恐ろしいという気はなかったのだから今になっては考えられない」(歩兵第65聯隊 第一大隊本部行李係 二等兵)
 
「何万という捕虜を殺したのは間違いない。」(山砲兵第19聯隊 第三大隊 上等兵)
 

このような証言があるにもかかわらず、あれは虐殺ではなかったとする声も挙がっている。

民間人の服で変装する兵士「便衣兵」が武器を隠し持っていたから射殺されたと指摘しているのだ。

 
伍長が描いたスケッチには捕虜を収容した時の様子も描かれていた。元兵士は捕虜は降参して手を挙げてくるし、軍服のボタンを取って武装解除してくると語った。日本兵は武装解除した捕虜の武器を積み上げて燃やしたという。

その後、数日間は捕虜として監禁したのちに銃殺した。抵抗していない捕虜の殺害は国際法違反に問われる。

虐殺ではないと否定するもう1つの理由に「自衛発砲」との主張がある。

12月17日に捕虜を解放する目的で揚子江岸に連行したが、船に載せようとしたときに対岸から銃声が聞こえたことで、捕虜たちが暴動を起こしたため、やむを得ず自衛のために発砲したとの主張だ。
 
ネットを中心に広がる「自衛発砲」説は、そのほとんどが近年に発行された本からの引用だった。
それらの情報のルーツを遡ると1970年〜80年代に出版された本の引用だった。さらに遡ると1964年に出版された「郷土部隊戦記」という1冊の本に行き当たる。それは、南京へ派兵された第65聯隊の地元・福島県で出版された本で、南京事件と部隊の関係を否定する内容だった。
 
番組は南京での捕虜虐殺を否定する「自衛発砲」説の自衛発砲説の原点を求めて歩兵第65聯隊の地元・福島県の会津若松市へ向かった。
郡山市にある陸上自衛隊郡山駐屯地防衛館には、歩兵第65聯隊の機関銃の写真が保存されていた。
 
南京戦当時の組織図には自衛発砲を主張する両角聯隊長の名前があった。自衛発砲説を主張する「郷土部隊戦記」の元になった新聞連載記事があった。
本が出版される2年前の1962年の地元紙「福島民友新聞」で、両角聯隊長が取材に応じ、題字も両角聯隊長が書いていた。これが初めて自営発砲を世に伝えた記事だ。
 
「12月17日に捕虜を解放しようとして思わぬ事態が発生」「たちまち大混乱が起こった」「いくら制止しても聞かず、恐怖を感じた兵は発泡するほかはない。部隊でも将校1人、兵6人が捕虜の群れに引きずり込まれて死亡した」
 
と書かれていた。
 
両角聯隊長は、この新聞記事が出た翌年の1963年に亡くなっている。
両角聯隊長が残したメモには「1217日に捕虜の開放を準備。同夜解放」と記されているが、その前の日の16日の海軍倉庫での出来事については全く触れられていない。
現場にいた兵士によれば、すでに16日に数千人規模での捕虜の射殺が行われているはずだ。
その翌日になってなぜ捕虜を解放しようとしたというのか。
 
また両角聯隊長のメモによれば自身は17日に南京入城式に参加していて、銃殺現場にはおらず、銃殺現場の責任者は第一大隊本部の田山大隊長だった。その田山大隊長の護衛をし、一緒に現場にいた上等兵の日記には、
 
1216日に2500名を殺す」
 
と記され、17日の日記には
 
「今日は南京入場なり。俺たちは捕虜の始末か。15千」
 
と書かれていた。
 
田山大隊長を知る兵士はこう証言している。
 
「内地に帰ってから大隊長から『あれだれはしゃべらないでくれ』と、箝口令がありました。田山大隊長ね。」(歩兵第65聯隊 第四中隊 少尉)
 
幹部たちは、戦犯になるのを恐れて捕虜の銃殺について箝口令を敷いたという。
 
「(捕虜)を解放しようなんて船もなしに、なんにもなくてですよ、偉い人はぬくぬくと言うなと思いました。戦後、あれ記事になったでしょう。捕虜を解放しろと言ったなんて。とんでもない詭弁ですよ」(歩兵第65聯隊 第四中隊 少尉)
 
「捕虜の開放は私も考えたこともないし1回もやりませんでしたね。戦略上、屠殺するしか他になかったのかなと」(歩兵第65聯隊 第三機関銃中隊 下士官)
 
 

元兵士たちは、「自衛発砲」説は、戦後になって幹部たちが責任回避のために作り上げた話だったというのだ。番組は、自衛発砲説の新聞記事を書いた記者を探すことにした。

南京の捕虜銃殺との関係を否定する新聞記事を56年前に書いた記者の阿部輝郎さんに会うことができた。両角聯隊長を直接取材し、初めて自衛発砲を世に伝えた記者だ。

 
「両角連隊長さん、大佐の方ですけど、その自宅に2回ほどお邪魔して、長いお話を15時間ぐらい、2日間聞いた」という阿部さん。両角聯隊長は記事の翌年に亡くなったため、直接話を聞いた唯一の記者だ。
 
「軍からは『殺せ』という命令が来ていたようです。江岸に連れて行って、船で逃がそうとしたところ、対岸から発砲があって騒ぎが発生した。暴動が押し寄せてきたので自営的に発砲した。そういう意味での自衛であって……」と元記者は、聯隊長から聞いた話を何度も繰り返した。
 
両角聯隊長が書いたとされるメモについて尋ねると、戦後、昭和30年代になって書かれたものであって、事件当時の一次史料ではなかったことを証言した。
 
阿部さんに、最近、南京事件はなかったとの説があることについて意見を聞くと、「あったと思いますよ。結局は、“虐殺”と言われても仕方がない事情があったんだろうと」と述べ、両角総隊長から自営発砲節を直接取材して記事にした阿部氏も、「虐殺があったことだけは認めて、謙虚に反省しながら進んだ方がいいのではないかと思っています」と語った。

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自衛発砲説のルーツを遡っていけば軍の責任者が戦後に言い出した弁明だった。そして、戦犯になることを恐れた弁明を一部の本やネットが引き写していたのだった。
 
“虐殺”などなかった、「南京虐殺は捏造だった」とする歴史修正の声、一方で、30万人もの命が奪われたという声──しかし、その当事者たちから話を聞くことは難しくなってきた。
 
最後に「だからこそ、重要な意味を持つはずだった公式記録。それを焼却されてしまったこの国、日本。今はもう、残り少ない記録と証言から一歩ずつその輪郭に迫るしかないのだ」と、視聴者に重く投げかけて番組は終わった。
 
 
 
 
 
前回の2015年の「南京事件 兵士たちの遺言」が放送されたときも、相当の反響があり、放送批評懇談会のギャラクシー賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞など、数々の賞を受賞している。一方で、放映から1年経って、産経新聞が番組の「検証」をして「裏付けのない虐殺写真」と噛みついたものの、日本テレビから即座に抗議・反論されるというやりとりもあった。
 
今回は、さらに、──歴史修正を検証せよ──」という副題がつけられ、内容でも兵士のインタビューや一次資料を分析した上で、CGによる捕虜銃殺現場の再現なども行って事実を検証している。スタッフの意気込みを感じる。
 
当時の政府や日本軍が、「連合軍が来る前に」と記録をすべて焼却してしまうとともに、兵士たちには箝口令を敷き、事実を消し去ろうとした。
 
 
記録を亡き者にするだけでなく、国民の間にも「南京大虐殺はなかった、捏造だった」という、ある種の空気のようなものをつくり、しまいに国民の頭の中からも消えさせようとしてきたと言っていい。
 
しかし、それに対して、今回の「南京事件Ⅱ──歴史修正を検証せよ──」は、それに抗して、堂々と、消し去られた事実を掘り起こし、事実を検証しようとした。
 
捕虜銃殺の現場にいた兵士の「あの場合にすればやっぱり気違いだったと、天皇の軍隊として、これから何時間後に殺す人間を引っ張っていく時に、別に気持ち悪いとか恐ろしいという気はなかったのだから今になっては考えられない」という言葉は印象的だった。
 
知らず知らずのうちに、人を殺すことに何の抵抗感も罪の意識も感じなくなってしまうような時代に、再び舞い戻ってしまうことのないようにしなければならない。そのためにも、戦争の歴史の真実と、日本兵が何をやってきたのかを事実に基づいて明らかにして、教訓としなければならないのである。そこのところが、昨今、あいまいにされ、なし崩しにされようとしている。

今回の番組が、その流れを変えるために一石を投じるものとなるよう期待したい。
 
なお、再放送が以下のように決まっている。せひ見ていない方にはぜひ見てもらいたい。

520()11:00〜 BS日テレ
520()5:00〜/24:00〜 CS「日テレNEWS24」
 
 
 

当ブログでも、過去にこの問題について何回も書いてきた。
 
「家に帰ればいい父、兄であった人たちが、ひとたび殺し、殺される状況になると壊れてしまう。人の魂まで壊すのが戦争だ」──元日本兵伝える南京大虐殺(「毎日」大阪版)
 
慰安婦の子の苦難」(「東京新聞」)──日本が行った戦争の犠牲になった人たちの苦難や痛みは消えず、その子や孫にも引き継がれていることを忘れてはならない
 

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日本アニメ界の巨匠である、高畑勲さんが肺がんのため5日、82歳で亡くなった。

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私にとって、高畑監督の作品として最も印象があるのは、なんといっても「火垂るの墓」である。作家の野坂昭如さん(2015年死去)の実体験をもとにつくられたという原作を、1988年に高畑監督がアニメ映画にした。 親を亡くした幼い兄妹が終戦間際から戦後の混乱期を必死で生きようとする姿を描いたものだ。
 
「火垂るの墓」のアニメ映画は、毎年、終戦記念日近くになると、テレビで放映されていたが、あれは、たしか我が家の長男が保育園の年長になり、長女がよくしゃべるようになった頃だった。「火垂るの墓」のアニメをテレビで観て、清太と節子のことが、その頃の我が家の長男と長女にそのまま重なってしまい、それ以来、「火垂るの墓」を観るたびに、号泣してしまうようになってしまった。
 
私の知り合いでも、「火垂るの墓は悲しくて、まともに見ることができない」という人が多い。
戦争の悲惨さをあそこまで描写し、心が動かされるアニメは他にないと思う。
 
 
「……『火垂るの墓』のような作品では、次の戦争を食い止めることはできないだろう、それは、ずっと思っています。情に訴えて涙を流させれば、何かの役にたつかというとそうではない。感情というのはすぐに、あっと言うまに変わってしまう危険性のあるものです。心とか情というのは、人間にとってものすごく大事なものではあるけれども、しかし、平気で変わってしまう。何が支えてくれるかというと、やはり『理性』だと思う。戦争というのはどんな形で始まっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になるんだと思う」(昨年4月7日に三上智恵監督とのトークイベントで)
 
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そして、もうひとつ、高畑監督という人物について、こういう方だったのかとインパクトを持って再認識するようになったことがあった。
 
2013年夏のスタジオジブリの小冊子「熱風」7月号に、「憲法改正」特集が組まれ、宮崎駿監督や、鈴木敏夫プロデューサーとともに、高畑監督が「60年の平和の大切さ」と題して、自身の岡山での戦争体験を語っていたのである。

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なにしろ、宮崎監督が、その後、引退表明の記者会見をした際に、「なぜ『熱風』で憲法改正を取り上げたのか」という質問に、「鈴木さん(鈴木敏夫プロデューサー)が、中日新聞で憲法について語った後(2013年5月9日の中日新聞で『平和をもたらした憲法9条をもっと世界にアピールすべきだ』と主張)、彼に脅迫が届くようになった」と明かし、「冗談だが、鈴木さんが刺されるかも、という話があり、知らん顔をしてるわけにもいかないから、僕も憲法について発言した。高畑監督にも原稿をお願いし、『3人いると標的が定まらないだろう』などと言っていた」という。
大手メディアでは、このやりとりがあったことをまったく取り上げなかったが、宮崎監督や鈴木プロデューサーにしろ、そして高畑監督にしろ、腹が座っているなと感じたものだった。
 
 
そして、その同じ年の12月3日には、高畑監督と降旗康男監督、山田洋次監督5人が呼びかけ人となった「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」を発足させている。その後、高畑さんは、国会前のデモにもプラカードを持って参加する姿がネットで映し出された。

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高畑さんは1943年に家族とともに岡山市に引っ越し、その2年後に9歳で、岡山空襲を体験している。その体験からも、二度と戦争は起こしてはならないと訴えてきた。
 
高畑さんが、2015年に出身地の岡山で講演した内容の一部とインタビューをまとめた「高畑勲さん死去 故郷・岡山で語った空襲体験『日本が戦争をしないために必要なこと』」と題した「KSB瀬戸内放送」の記事が4月6日の「Yahooニュース」にある
 
 

その中の、高畑さんの戦争に対する思いについて語っている一部を引用したい。

 

(講演の中で)
こんな戦争をやったって無駄だし駄目だし、やるべきじゃないし、あるいは負けると思っている人でも、一旦戦争になって、国が踏み切ってしまったら、日本人は日本人で団結したいためにそれまでの主張は無になる。

 
 

(インタビューの中で)
いざというときに、大きなことを為すときに、これはもっと自分になって、自分が戦争に行きたくなかったら「行きたくない」というべきだし。そういうことは空気を読んじゃいけないと思う。

 
 

──戦争しないために必要なことは?──
僕は、憲法第9条というものすごく難しそうな歯止め。これは世界的に見てこんな憲法を持っている国はないのであって、戦争をできないようにしているというのは素晴らしい知恵です。世界的に見て最先端の知恵です。

 
 
高畑さんは、沖縄に対しても強い思いがあった。
 
「日刊ゲンダイ」の9日付(7日発売)の「高畑勲監督の遺言」と題した記事では、高畑監督が、沖縄の基地の現状に強い思いを寄せ、高江の米軍ヘリパッド建設の中止を求めて米大統領へ送った公開書簡の賛同者に名を連ねたり、ヘリパッド建設の警備に警視庁が機動隊員を派遣したことを「違法な公金支出」だとした住民訴訟の原告団にも加わったと書いている。

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また、2015年12月に沖縄大学で講演した際には、辺野古の新基地建設について「許し難いひどい話」、沖縄県に米軍基地の負担が集中していることについて「後ろめたい」などと話し、「琉球新報」のインタビューでこう語っているという。
 
「沖縄と政府は裁判になっているが、(沖縄は)当然のことをしている。私としては全部支持する」
 
「日本は70年間、戦争をせずに済んだ。一方で沖縄を米国に提供して犠牲にし、日本は多額なお金を米国に提供してきた。米国は戦後、日本を軍隊として戦争に協力させたかったと思う。できなかったのは憲法9条を日本が持ち、それを支持した日本国民がいたからだ」
 
「沖縄が戦後ずっと大変な目に遭い続けてきたことが、日本に70年間の平和をもたらした。9条を日本国民が支持したから70年間平和になった、と簡単に言えないのではないか。『後ろめたい』とはそういうことだ」
 

 
「戦争はどうしたら食い止められるのか」「沖縄の基地をどうしたらなくせるのか」──その打開の方向を、一時の感情の高揚ではなく、理性の力で最後まで突き詰めて考えようとした高畑監督。
 
高畑さんは、「空気を読んで流れに乗ってしまいやすい」という現在の日本の状況を、戦前と似ていると言い、一方で、秘密保護法・安保法制に反対するママたちの集まりに参加した時に「ここに希望がある」と語ったという。
 
高畑さんのその遺志を、若い世代にどう繋げ、広げていけるのか──そこに日本の未来がかかっているといえよう。高畑さんには遠く空の彼方から見守ってもらいたい。
 
心からお悔やみ申し上げたい。

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