守山の中世城郭

名古屋市守山区の中世城郭のブログ

守山城について 2

 
 
4.城郭域について
  
本丸が守山城址碑のある丘だとすれば四面1重の堀とはどこを指すのかですが、
通常、堀の内側は城郭域と認識されていたと見るべきなので、東西32間南北28間の大きさの本丸周りということになり、本丸を取り巻くような形状で空堀が形成されていたと見るべきだと思います。
また、本丸がいつ削り取られたのか定かではありませんが本来東西南北約50メートルあったはずの本丸が、現状のごとく3方が削り取られているのかについて、近世の宅地化の影響により、現在も残る南側の約100メートルの空堀以外の3面の堀を埋めるために3方をほぼ同じ量削られたのではないかと考えます。  
 
 
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本丸を囲む「四面1重」の堀だとすれば、丘陵の山頂部にポツンと本丸があったということになりますが、それにしては、推定本丸(城碑のある丘)に隣接し現存する約100メートルの堀は1辺だけがいかにも長すぎます。
後世になって必要もないのに掘ったとは考えにくく、当時から存在したものだと思われます。
この堀について、東端は近年になって道路建設のために埋め立てられたと思われ、城碑の真南で途切れています。
その道路は、鳥羽見地区に下る坂道で城碑や堀の東側を通っていますが、昭和12年の地形図にはその道のやや東側に丘陵底部から城碑方面に向かって湾曲しながら続く窪みと、現状よりやや東にそれた道が確認出来ます。
その窪みの延長線は、現存する堀の延長線と交差します。
 
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以下の地形図(左)は、現在の守山城址碑付近の標高データを表計算ソフトで加工したものです。
東西130メートル、南北100メートルで、データ数は160(16×10)ありますので、1つのデータの面積は75平方メートルです。これにそれぞれの標高を乗じると、標高0メートルからのこのエリアの体積は約27万立方メートルということになります。
そこで、現状の城址碑の最も高いところと同じ標高の28メートル四方の本丸があり、且つ現状と同じ深さ(標高20メートル)の空堀を周囲に巡らせていたと仮定、データ修正した上で同様の計算をすると、現在のこのエリアを構成する体積と同じ数値になります。
これにより、三方の空掘と本丸の削り取られた土砂の量は一致するということになりますので、推定本丸の土砂を用いて周囲3方の空掘が埋められた可能性が高いことが判ります。
 
 
<守山城址碑付近地形図 (東南方向から)>
 
 
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以上のことから、守山城は現在の城碑を中心として、四面の堀、その内、南側の東西、東側の南北の2辺はそのまま延びて、現在の堀の北側一帯が城郭域で、少なくとも2郭を中心に構成されていたと推定できます。
  
 
<参考 明治17年地籍図と現在の都市計画図との比較>
 
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明治期の地籍図では、空堀や岸切等高低差のないところ(平地)が、藪や林、山神社になっていますが、上図「守山城城郭図」で示した宝勝寺東のグレーの点線部分は、宅地や新開(新しく畑にしたところ)になっていて、少なくとも地籍図からは空堀等があった形跡が伺えません。
 
さて、ここでこれまでの推論を補強する物的根拠を今2つご紹介します。
 
 
①守山城跡碑建立経緯
 
  先にご紹介したとおり、守山城跡碑は大正5年5月に愛知県により現在の場所に建てられておりますが、その時の建立経緯を示した当時の公文書が「もりやま」第24号(守山郷土史研究会2004年発行)に掲載されています。
 東春日井郡から守山町長あての大正5年3月18日付けの文書で、文中に
 「守山町の旧城跡の本丸と称する小高き一区域あり。松栗等繁茂す、碑は其の樹下に建つるを可とす」
とあります。
大正時代はまだ宅地化も進んでいなくて、推定本丸もかなり当時の面影を残していたでしょうし、「本丸と称する」との表現とはいえ、本丸の場所が明示・特定された文書としては、現存する最古の文書だと思われます。
 
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②尾張名所図絵(天保9年〜12年、明治13年)
 
江戸時代に描かれた尾張名所図絵のなかに守山城址の矢田川対岸にある長母寺の図絵があります。南方から見た鳥瞰図ですが、遠方に守山城址や宝勝寺が描かれています。
 なにぶん、江戸時代の絵ですので、かなりイメージ的なところはあるとは思いますが、宝勝寺の北側に現在より規模が大きい丘陵があったようで、ここが守山城址とされています。
 ここからも、少なくとも江戸時代までは、一般的に「守山城址は宝勝寺とは別の場所である」と認知されていたと見ることが出来ると思います。
 
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5.宝勝寺は城郭域だったのか?
 
 
宝勝寺については、本丸とする考えや城郭域の一部に過ぎないとする意見が様々ありますが、少なくとも本丸ではないと考えます。
宝勝寺の南端や西端は切岸になっていますが、現在では、城郭につきものの堀や土塁らしきものは一切確認できません。
 
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廃城後の明和4年、守山城址の南を流れる矢田川の氾濫等による流路変更が城域の特定に少なからず影響を与えていることは先に述べたとおりですが、これにより宝勝寺の西側、南側の地形は大きく変貌しています。  
 
この氾濫は名古屋東北部、西部を中心に溺死者2000人に及んだ何百年に1度のかなりの洪水だったようですが、その状況について「守山市史」に次のように記載されています。
 
「明和4年7月10日10日より12日にかけて大雨、矢田川は八合八勺の出水、12日夜、猪子石、守山、比良、大野木の堤が切れ、また長母寺北の山がくずれて瀬ちがいとなり、寺は孤立し、守山村大門・秦江など砂入りとなった。」
 ※秦江(はだえ):旧地名で現在の鳥羽見1丁目あたり
 
尾張名所図会では、
「抑々当山(長母寺)は矢田川の中にありて、もとは川筋当寺の大門前を流れしが、明和4年の山つなみに当山真中を押流して、自らなる川筋となり、寺の後を流れ、門前は平州となれり。されば往時にはたがいて1山分れ、左右に相対す」
 
また、高力猿猴庵の「猿猴庵随観図会」では、
「当初の山抜けしは、矢田川の水はばみて木ケ崎と森山の間を押し通る、見性寺と長母寺の間に城松といふ大木、これ山田二郎が城内物見の松なりしが、此度の水に金屋坊村の辺にながれ着く」と図会に描かれています。
 ※見性寺:かつて宝勝寺の直ぐ西にあった寺。
 
<猿猴庵随観図会>
 
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この「猿猴庵随観図会」は、被災後の守山城周辺を描いた貴重な図会ですが、宝勝寺の西側が削り取られていて、木の大きさからして10〜15メートルほどの断崖で、断面が露出しています。
断面の上部は木が生い茂っていますが、守山城時代は、城からの見通し確保のため、木が取り払われていたと思 われます。
 
 
以下は、現在の地形図ですが、宝勝寺の西側から長母寺まで続いていた丘陵が矢田川の出水で断ち切られたときに、現状の宝勝寺の西側の切岸はこのときに出来た可能性があることが判ります。
また、南側の切岸も濁流の影響を少なからず受けていると考えられます。
 
 
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現状では、完全に消滅しているため全く根拠はありませんが、守山城址と長母寺の間の丘陵にやや低い箇所があって、そこを濁流が乗り越え、そこから決壊したのでしょうか? 
長母寺の丘陵周辺をかつては「木ケ崎」といいましたが、
「守山市史」に木ケ崎から見た景色について
「木賀崎縁起によれば木賀崎八景として次のようにある。(中略) 児峯夕照 (意味)不詳 (中略)この詩句が宝永4年の作とすれば河の流域の変わった明和四年より六十年前の風景といえよう 」
 
この児峯とは、もし守山城址と長母寺の間を指すのであれば、少なくとも長母寺から見下ろせるような低い峰であった可能性があります。
 
守山市史で守山崩れに関連し次のように記述しています。
  「宝勝寺の墓地に塁のあとが存し、そこが本丸に通ずる大手門であって、今竹林となっている堀あとに橋がかかっていて、清康の殺されたのは、その付近であったろうといわれている。(道木松四郎氏談による)」とあります。
この道木氏は、守山城址近くに住んでいた方だそうですが、既に30年ほど前に亡くなっており、仮にそこに大手門があったとすれば、その手前にある宝勝寺境内は城内というより侍屋敷だった可能性があります。
 
因みに「信長公記」によれば以下のように弘治元年、信長の弟信行によって守山城下の町が焼き払われたとあります。
「・・・末森の城より守山へ懸付け、町に火を懸け生城になされ」
また、「古今消息集」には天文21年、信長が大森平右衛門に対し、知多郡(現:南知多町)篠島の商人が守山との自由通行を許可した文書が収録されています。
現在、守山城址周辺の地名を「市場」といいますが、当時は守山城を中心に城下町が形成されていたようでして、旧瀬戸街から守山城の間、南は、矢田川川岸までのエリアに市場や町場があったと思われます。
 
 
 
つづく

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