今日は死ぬのにもってこいの日だ

ポジは誰にでもある。ネガは自分でつくる。___ゴダール

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____本多は午後ベナレスに着くと、ホテルに荷を解いて水浴びをして、すぐ案内人の手配をたのん
だ。長い汽車旅行の疲れにもめげぬ、ふしぎな若々しい心はやりが、本多を一種陽気な不安の状態に置い
ていた。ホテルの窓外には、息苦しい西日が充ちていた。その中へ身を躍らせてゆけば、すぐにも神秘を
手づかみにできそうな気がしたのである。

 さるにてもベナレスは、神聖が極まると共に汚穢も極まった町だった。日がわずかに軒端に差し込む細道の両側には、揚物や菓子を売る店、星占い師の家、穀粉を計り売りする店などが立ち並び、悪臭と湿気と病気が充ちていた。ここを通りすぎて川に臨む石畳の広場へ出ると、全国から巡礼に来て、死を待つあいだ乞食をしているらい病者の群が、両側に列をなしてうずくまっていた。

たくさんの鳩。午後五時の灼熱の空。乞食の前のブリキの缶には数枚の銅貨が底に貼りついているだけで、片目は赤くつぶれたらい病者は、指を失った手を、剪定されたあとの桑の木のように夕空へさしのべていた。あらゆる形の不具がおり、しゅじゅが跳びはねていた。肉体は共通の符号を欠いた、未解読の古代の文字のように並んでいた。

それは腐敗や頽落によってそうなったのではなく、ねじくれ、歪められた形そのものが、そこから、依然肉の生々しさと熱さを以って、忌まわしい神聖な意味を吹き出させているようだった。血や膿は、夥しい蠅によって、花粉のように運ばれていた。蠅はみな肥え、緑金に輝いていた。川へ下りてゆく右側には、色あざやかな聖紋を描いた天幕が張られ、僧侶の説教を聴いている人々のかたわらに、布に包まれた屍が横たえられていた。

すべてが浮遊していた。というのは、多くのもっとも露わな、もっとも醜い、人間の肉の実相が、その排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、天日のもとにさらされ、並みの現実から蒸発した湯気のように、空中に漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。

千五百の寺院、朱色の柱にありとあらゆる性交の体位を黒檀の浮彫であらわした愛の寺院、ひねもす読経の声も高くひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、訪う人、死んでゆく人、死んだ人たち、瘡だらけの子供たち、母親の乳房にすがりながら死んでいる子供たち、、、、、、これらの寺でらや人々によって、日を夜に継いで、喜々として天空へ揚げられている一枚の騒がしい絨毯だった。
 

広場は川へ向かって斜面を作り、行人が自然にもっとも重要な水浴階段(ガート)、十馬犠牲(ガサシュ
ワメド)のガートに導かれるようになっていた。創造神ブラーマが十頭の馬を犠牲に捧げたと伝えられて
いるところである。そこに水嵩もゆたかに湛えた黄土色の河こそはガンジスだった!カルカッタで、真鍮の小さな薬缶に恭しく納められ、信者の額や生贄の額へわずかづつ注がれていた聖水は、今目前の大河になみなみと湛えられていた。

それは神聖さの、信じられないほどの大盤振る舞いなのであった。
病者も、健やかな者も、不具者も、瀕死の者も、ここでは等しく黄金の喜悦に充ちあふれているのは理
(ことわり)である。蠅も蛆も喜悦にまみれて肥り、印度人特有の厳粛な、いわくありげな人々の表情
に、ほとんど無情と見分けのつかない敬虔さが漲っているのも理(ことわり)である。

本多はどうやって自分の理智を、この烈しい夕陽、この悪臭,この微かな瘴気のような川風のなかへ融け込ませることができるかと疑った。どこを歩いても祈りの唱和の声、鉦の音、物乞いの声、病人の呻吟などが緻密に織り込まれたこの暑い毛織物のような夕方の空気のなかへ、身を没してゆくことができるかどうか疑わしい。

本多はともすると、自分の理智が、彼一人が懐に秘めた匕首の刃のように、この完全な織物を引き裂くの
ではないかと怖れた。要はそれを捨てることだった。少年時代から自分の役割と見做した理智の刃は、すでにいくたびかの転生の襲来によって、刃こぼれのしたまま辛うじて保たれていたが、今はこの汗と病菌と埃の人ごみの中へ、人知れず捨ててゆくほかはなかった。



    __________________________


http://blogs.yahoo.co.jp/mote_bello/52753759.html


世界の完璧な”混沌”を一番良く知っているのはインド人?
多神教の、ヒンズー教の、、、、、

”混沌”に理智は役立たない?
理智は捨てるしかない?

愛も善も正しさも、、、、、
理(ことわり)とは”混沌”のこと?

_____彼は社会的に重要な人間ではない。正真正銘の一個人である。


                          (ルイ・フェルディナン・セリーヌ『教会』)




カミュが『異邦人』から『ペスト』に進んだように、サルトルもこの『嘔吐』から『自由への道』に進ん

だ。個人から社会へと。

でも原点はあくまでも個人。

『嘔吐』を何十年ぶりかで読み返してみようかなと。

<私たちは現実的なるもののまっただなかでいやおうなく生きることを強いられているわけだけれども、しかし現実性___世界のたしかなかたち___は、じつはそれほど自明な前提なのではない。

いや、現実がもっているみせかけのたしかさが自明であるほどかえってうつしだしてしまう測り知れない闇のなかに、私たちの生の直接性が、生活の全体が、混沌のままに投げ出されているのであって、

そこから逆に光をあてるなら、私たちの生き死には、あたえられたみせかけの「自然」性によってまさに扼殺されつづけているのだといってもよい。



対象化しうるものとしての生をもちうるのは人間だけであって、むろんそれは人間がただひとつの意識的な存在であるからだというのは常識に過ぎないが、しかしみせかけの自然性をひきかえに購うことによっ

て、いつも認識(対象化されない認識)こそが私たちの生の直接性を殺すのである。いきいきとした愛憎やどこまでも飛躍していく思考のちからを削ぎ、自然性という虚構の場へ押さえ込んでいく、この意識に

よる生の扼殺は、さらにひとまわり大きな虚構の闇によって解体させられないがぎり、のりこえなれない。なぜなら習慣のなかでは、意識による生の虚構化はむしろ「自然」のようにしてあらわれるからであ

る。フォークナーの文学表現はもっとも基本的な意味で、自然という名前でよばれるこのような虚構の解体であり、のりこえの企てなのではなかったろうか。

おおかれすくなかれフォークナーの人物たちはドン・キホーテのパセティックな貌をもっているが、しかしドン・キホーテを真に批判しうるものはけっして明晰さのうちにはない。まさに生き死にそのものの

涯てもない暗闇のなかにひそむちからだけがよくこの道化としての騎士に拮抗しうることを、深く見ぬいていた眼の産物にほかならないのである。>



                     「フォークナー 吊るされた人間の夢」__岡庭昇




我々の日常生活の「建前」と「本音」というのも、まさに「見せかけの自然性」と、「生の直接性」のことをいうのではないか?

そして「生の直接性」「本音」は、「建前」「見せかけの自然性」によって扼殺されつづけられている。

そうした現実の虚構性は非常に手強く、虚構化された生の回復はもうひとつ大きなドン・キホーテ的な虚構によってでなければなされない。

kさん、昨夜はもう記事を書かないと書きましたが、今朝、読みかけの『カラマーゾフの兄弟』に、今の僕のために書かれたような言葉に出会い、まさに運命と感じ、ブログは続けてゆかねばと思いました。
 
長老ゾシマの言葉。
 
 
____われわれがここへ来てこの壁の中に閉じこもっておるからというて、そのため俗世の人より神聖だという理屈はありませんじゃ。それどころか、かえってここへ来たものは、そのここへ来たということによって、自分が
俗世の誰よりも、また地上に住む誰よりも、いちばん劣ったものと自覚したわけになるのじゃ・・・・・・僧侶はこの壁の中に長う住めば住むほど、ますます痛切に、このことを悟らねばなりませぬ。
 
もしそうでなかったら、このようなところへ来る必要がのうなってしまいますじゃ。自分は俗世界のだれよりもいちばん劣ったものということばかりでなく、さらに進んで自分はすべての人にたいして罪がある・・・・・・人々の罪、世界の罪、個人の罪、いっさいの罪にたいして責任があるということを自覚したら、そのときはじめてわれわれの隠遁の目的が達せられるのですぞ。
 
 
____何人もわれとわが心をたえず確かめ、怠りなくおのれに懺悔をされるがよい。またおのれの罪を恐れることもいりませぬ。いったん罪を自覚したら、ただ悔い改めさえすればよいので、決して神様に約束などしてはな
りませぬぞ。
 
 
 
 
 
 
こういう氏の発言も快哉を叫ぶ者として是非我がブログに載せとかなければならない。
 
 
____私は、もの分かりのいい中年がむかむかするほど嫌いなのです。その濁った目が、その干からびた唇が、その艶のない頬や首のたるみが、その肩を揺する笑い方が、そのねっとりとした温和な口調が、そのどっしりと安定した腰が、その成熟した・寛大な・清濁併せ呑む表情が、殴り倒したいほど嫌なのです。
 ぐれるとは、こうならないこと、こうなることを警戒すること、こうなってしまう自分を恥じることです。つまり、ものわかりのいい温順な中年になることを拒否すること。
あえて青っぽい未成年に留まること、人生の理不尽を凝視して溜息をついている・発育不全の・気持ち悪い人間に留まることです。
 
 
 
 
そう!
 
常に未熟者として、分からない者として、気を付けていかなければならない。
 
常に答える者としてでなく、問う者としてでなければならない。
 
 
人に教えられることはないにもないことを、常に、肝に銘じていかなければならない。
 
 
知識は恥なのだ!

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