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こころの旅路 (青い鳥を求めて)
「事実は小説よりも奇なり」と、よく言いますが私の場合も、表面の自分と実際の心は
かなりかけ離れたもので、一人の時は人生とは何なのか、幸福とは何かなど真剣に
悩みました・・・
私はもの心がついたころから、自分のむなしい心、確信のない不安定な思いに
悩みました
それは対人関係ではっきりわかりました。暗い、つまらない人間だったのです。
でも、つとめて明るく振る舞いましたが、その後はむなしい思いで一杯でした。
中学後半の頃から、そのむなしい心、暗い心を直すため、いろいろとその道を
探しました。
良い事をすれば心が変わり自信がつくだろうとチャレンジしました、確かに心は
明るくなり喜びました
しかし、それは高慢に変わりました、また、それは三日坊主で、良い事は長続き
しませんでした。
(良くない事はスムーズでした)
こういった事を何度も繰り返しました。
自己嫌悪、劣等感、性格テストでは下、うまく話せませんでした。(暗闇)
聖書も読みましたが、愛、聖霊は気分として考えてしまう等、疲れました。
新約聖書 ローマ人への手紙 1:21
ーというのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず
かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです
やっと重い腰を上げ教会へ行くことができました。(主イエス様に感謝、その頃、
イエス様をつらい時の心の友として自分なりに祈り、うめいていました)
教会は明るく、心なごむ所でした、聖書を教えていただき、そして祈っていただきました
神様から離れていたことを悔い改め、洗礼を受けることができました。
喜びました、もう義とされ、正しい者となった、罪から開放されたと思いました、、
しかし、それはつかの間でした、再び罪に、傲慢におちいりました、良い事も
また三日坊主でした
そんな自分が、教会に行っても駄目な自分が全くいやになりました
疲れ、つらい落ち込みの中、イエス様に思いを投げ出し祈りました、
そのとき、こころに光が射し込みました、聖書の御言葉が臨みました、
こんなどうしようもない者のために十字架にかかって下さった、愛なるイエス様に
より頼み、すべてゆだねたとき、自分ではなく、イエス様を信じ仰いだことに
気づきました
それはイエス様を信じる信仰でした、そしてそのとき、その信仰によって義とされる
ということを示されました。神の家族とされ、神様をおとうさんと呼ぶことが
できました。
そしてこの信仰を失わなければ、これからの弱さゆえの罪もゆるされ
(故意に行うのでなければ)
永遠に義とされるということも知ることができました、(過去の罪をゆるしていただくの
と同じように、将来の罪のゆるしも非常に重要でした、それほど弱いものでした)
そして思いもしなかったこと・・・こころの奥底に変わらぬ平安、イエス様の平安、義
光、力をいただくことができました。
これは、決して自分の力で、行い、で得ることのできないものでした。
はかないこの世の、一時的な平安ではなかったからです、それは神様からの恵み、
プレゼントだったのです。
そしてその変わらぬ奥底の平安(主の義)は愚かさゆえの苦労の時も、なぐさめ、
ささえ、励まし、欲へではなく、聖なる神へと導いてくださいます。
* 辛いとき、十字架を仰ぐと幸せになりました、不思議な文字です。
友なる、主イエス様にさらにより頼み、助けられながら、神様に喜ばれる道を
歩んでいきたいと思っています。
感謝します、きよい教会、希望なる主、憐れみに富みたもう愛なる、聖なる神様
新約聖書 コリント人への手紙 (第1) 13:13
ーこういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で
一番すぐれているのは愛ですー
新約聖書 マタイの福音書 1:21
ーマリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を
その罪から救ってくださる方ですー
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