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身体の存在というか知覚・感覚その射程の限界が精神性とか
個性の限界と重なり合うのであって
たとえば、身体はネットワークを構成するサブストラクチャーに位置し
ネットワークは、意味を成すと同時に意味を為さない「同期」的な軸を形成している。
このときの意味を為す方向性は身体の向き(姿勢、スタイル)によって促され
そのため精神性は後追い、軌跡をたどることで形づく
ここから個性も発揮される。

本来は精神性と身体性を二分割する視線は便宜的なものでしかなく
それは、個と集団の関係性にも当てはまる。
個や集団が核心ではなくネットワークのつながり具合が核なのであって
まして集団組織を維持する力関係を問題とするのは誤りにすぎない。
つながり具合とは、意味を為すと同時に為さない
いわばPCを構成する機械的な側面ハードと運用面のソフトに類する。

関係づかせることを可能とさせるものが、累積することで
人類の文化的な発展があるかのように錯覚するが
関係づかせないものも同時に為しているのであって
その組み合わせは、身体の存在、性質に大きく左右される。
そしてそこから人間的な意味を知覚、選択、個の意思が浮かびあがるにすぎない。

・・・とかおもうこの頃

理解する態度

物事を理解する態度は、
説明・説得を目的として、分析・証明が主になるものと
相手(他者)と同じ位置に、もしくは相手の身になるというような態度、
一方は強固な主体性によって選択判断される近代的自我によって発露するものであり
もうひとつは、異質な他者を受け入れようとする関係性に意をおくもので
主体なるものが「われーなんじ」という関係性によって成立しているにすぎず
個人の存在は自我が成立する以前の関係性(社会性)によって、おおきくうながされている
ということに根拠をおく態度
その二つが交互に入れ替わっているとおもわれる。

所詮、哲学的な知もこの枠組みから逸脱することはできず、
目的、状況によって態度が豹変するw
切迫した状況では、そのことに当人は気づかないこともしばしばあるだろう。

知識体系を研鑽したところで、哲学そのものは発現せず
ただの雑学王を大量生産するにすぎない。

哲学の本が読まれなくなったのは、社会時勢に即したテーマに富んだものが
少ないからであり、古典研究にすぎない分析が主になっているためとおもわれる。
人は生きている人に関心があるのであって、古典研究でさえ温故知新という目的が
なければ続くものではない。
生きた人に向かわないテキストが面白いわけもなく
当然、面白ければ関心を向けて見るだろう。

古くは他者理解、個の生きがいをテーマとした実存哲学という派閥があるがw
その巨頭といわれるハイデガー、ヤスパースにさえ不協和音が奏でられていた。
どちらかといえばハイデガーは分析よりの知であり
ヤスパースは他者理解を目的とした知的研鑽にむかっている。
ヤスパースは元々精神医学を専攻していて、精神病患者を理解しなくてはならないという動機から
人間そのもの(他者・他我認識の問題)へと関心を深めたようだ。
一方、私観にすぎないが、道具連関から人間の特殊性を導き出そうとした現存在分析の
無数のテキストを編みこんだハイデガーは、他者は所詮、解体される客体に
終始せざるをえないテキストの限界があったように思われる。

(だからといってナチス協力者としてハイデガーを弾劾することに
結びつけるのはいかがなものか?)
脱構築があたかも操作可能なもののように展開したポストモダンはお笑いだが
意味がズレていくのは、他者の身体と共にある(自他共に許すというような態度の可能性)
地平性に求められるような気さえする。

二項対立という地平を解体し、新たな地平を見据えようとしていたらしい知性
しかし、意味は身体という特殊な地続きな状態の中で
気ままに再構成、生起しているかのように見える。
個性、個体、主体、われ、他我の境目も恣意的にさえ見える。
そこには原点に赴く視点すら並列な生起のひとつにすぎず
歴史性を重視した解釈よりも知覚的な感覚を重視する方向性が
生じている。
 

近代と機械化

ポストモダンが近代化に対する反省を含めての超克
という姿勢であるなら
機械化の過程について、改めて考察を加えなければならない気がする。
特に近代化した言語といわゆる古語の比較
日本では自然という概念が明治以降、西洋から導入した知的体系によって
浸透したという説があるが、そういう考察も必要だろうが
基本となる文章構成の変化に注目したほうがよいような気がする。
もしかするとドイツ語の分離動詞の変化とかで
機械化による人の物の見方の変化が検討できるかも・・・と思う昨今w

意味の分岐・・・雑感

優れた聖人の逸話には、同時に多くの人の話を聞き取れたとしたものがある。
しかし、その同時というのも所詮チャート分岐のような意味の図式化があり
意味が分岐するポイントが定式化していて、ただ素早く平行線上にすでに
想定済みの答えに向かって作業を繰り返しているにすぎないようにも思える。

十代の頃はよく〜ながら行動をするが、音楽を聴きながら、TVを見ながら
本を読みながらと五感をフル稼働させる試みに埋没することも多い。
だが、意味を充分に読み取っているかといえば、そのほとんどは『気づかず』
通り過ぎていく風景のような意味合いに還元され、受容されているにすぎないと
おもわれる。
そして、その風景は既知のものでしかない。

最近、感覚受容器を鋭敏にさせたり鈍化させたりする薬物が社会問題になっている。
これは、体に大きなダメージを負わせるが、それだけではなく
意味に『気づけない』人間を形成する危険性が非常に高いものであるとおもわれる。
とくに、言葉によって成立する文章の意味の流動性は、
際限もなく、あれこれと結びつきながら、意味を成していくが
その成す行為の本体は、人間でいえば身体の関わり方であり
身体の構えによって、大きくみえる意味が異なってしまうようにおもわれる。

あらかじめ用意された答えに向かう作業が、機械的に効率のみ求められると
意味は社会に還元されなくなり、独断専横を目論む輩に都合の良い状態となる。
民主社会の本来の意味は、新たなる意味のつながりに気づくことのようにおもえるが
薬物が蔓延すると気づけない群集に落ちて社会は混乱昏迷を増す。
意味のつながりは、身体によってなされるのであるから
常に、本来は一度きりの出来事でしかない。
まったく同じ内容を繰り返すDVD再生、機械的作業とは異なるものなのだ。
この意味で薬物依存とは、人間を意志なき機械化させるものでしかない
ということに気づくべきではないだろうか・・・とおもった。

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