|
吉田松陰、幕末の志士の魂 「楠木正成公(くすのきまさしげこう)」
生きつづける心
嘉永(かえい)四年(一八五一年)若き日の吉田松陰は江戸への旅の途中、
生まれて初めて楠木正成公のお墓に詣でたのでした。
常に 天皇陛下を守るため命をかけて戦いぬいた、この勇猛果敢な武将を、
これまでどれ程したい、尊敬してきたことでしょう。今、その人のお墓の前に立ち、
松陰は胸があつくなるのを止めることができませんでした。
今、松陰は目の前にはっきりと、千早城にこもり、全国の幕府軍を相手に戦った 楠木正成の戦を思い描くことができたのです。
……………………
「大変だぁ!赤坂城が落ちた!」
時は元弘三年(一三三三年)の冬、松陰の時代より約五百年昔です。
ここ千早城は、下から攻め登るのは大変です。しかし 天皇陛下側について兵を
挙げた楠木正成を討つため、全国の幕府軍が城のまわりを取り囲んでいました。
赤坂城は正成のもう1つの城です。
そこへ正成がやって来ました。
「あ、お館様!赤坂城が落ちたというのは…」
「本当じゃ。だが、この千早城は落ちぬ。」 「しかし、まわりは敵ばかりじゃ」 「確かに敵の数は多い。だが、ほとんどが仕方なく幕府についている者達じゃ。
帝(天皇陛下)をお守りするために兵を挙げた我らが、ずっと持ちこたえれば、
必ず 帝(みかど)側について兵を挙げる武将がたくさん出る。」
「すると、どうなるのじゃ!?」
「世の中が、ひっくり返る!」
兵達の顔に赤みがさし、目が輝き始めました。、おれ達がここでふんばれば、
世の中が変るかもしれないのか…!、
正成が言いました。
「よいか!この城は、どんなことがあっても落とさせぬ!敵の数を見て気を
のまれてはならぬ。この城を支えるのは、一人一人の気力と心じゃ。我らが
楠木一党は、身命を賭して(命をかけて) 帝のお心にお応え申し上げる!」
「おおー!」
正成は鎌倉時代の終わり頃、河内の国(大阪府)の赤坂水分(あかさかみくまり)
の里にある楠木館(くすのきやかた)に生まれた。父はこのあたり一帯を治める
豪族で、多聞丸(正成)をりっぱな楠木一族の跡取りにするため、歓心寺という
お寺で学問をさせ、幼い時から武芸を習わせ、又、戦の仕方の学問を学ばせた。
多聞丸は聡明な少年に成長し村では「知恵の多聞さま」と呼ばれた。正成が
楠木一族を率いるようになると、自ら村々や市を見て回り、良い事をした者には
ほうびを与え、悪い事は厳しく取りしまったので、村々はよく治まり、市も大変
盛んになりました。人々からは「楠木のお館様」と呼ばれて慕われるように
なりました。
しかしこの時、日本の国全体では、人々の生活は豊かではありません。
国の政治を行っていた鎌倉幕府の北条氏は、自分が楽しむことにばかりお金を
使い、政治をなおざりにしたために世の中が乱れていたのです。
幕府軍のどのような攻撃にも千早城は屈することはありませんでした。
楠木一党の結束は固く、わずか千に満たない兵力で何万という幕府軍を相手に
戦いぬいたたのです。
…………………
ふと松陰は我にかえりました。すでに夕日が雲のふちを金色に染めておりました。
「正成公……あなたの体は滅びても、あなたが命をかけて 帝をお守りした
、その深い忠義の心は五百年の時をこえ、私しの中に生き続けている。
これまで、どれ程多くの者達があなたの生き方に心打たれ、心奮い立たせた
ことだろうか。私も……もあなたの心を己が(自分の)心とし、この国を守るため
……命をかける!」熱い涙が、とめどなく流れました。
この言葉どおり、後に松陰は、日本の国を守るため命をかけることになるの
ですが……。
これから、この松陰やたくさんの人々に大きな影響を与えた楠木正成という 人物について、お話していきたいと思います。
続く
楠木正成
後藤久子著より抜粋
|
全体表示
[ リスト ]





大楠公の忠誠は、後の水戸学の礎にもなりました。
十五代将軍慶喜公の大政奉還も水戸学があってこそです。
傑作
2011/9/26(月) 午後 10:04
カマちゃん様
ほんとですね。大楠公は後の世まで、影響を与え続けているという事実、まさに七生報國、楠公の精神がいろんな人へ移って、生き続けているということですね。
傑作
2011/9/30(金) 午前 0:45 [ kakinoki ]