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最近PC不調と私事雑用増加につき、ブロク活動に時間が取りにくくなりました。
またヤフーブログは以前より使い勝手の悪いところもありましたので、このブログは停止することに致しました。 いつも訪問して下さり、記事を読んでいただき、まことに感謝しております。 お気に入り登録してくださった方や、友だち登録してくださった方々には、申し訳なく、もっと続けたい気持ちもありますが、 パソコンの扱いも、さほど得意な方ではなく、記事作成にも時間がかかり、また独自のテーマも最近は少なくなっておりますので、このへんで停止させていただくことに致しました。 長らくこのブログに親しんでいただき、本当にありがとうございました。 なお、以前より他社のブログを開設しており、今後はそちらで記事を書くことに致しました。よろしければ、ご訪問ください。 小さな自然、その他いろいろ |
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南京虐殺の絵
これを聞いた正しい歴史を知る日本国民は「よく言った!」と思ったことでしょう。
しかし、それもつかの間、藤村官房長官は記者会見で「南京での日本軍の非戦闘員の殺害、略奪行為などがあったことは否定できない」と言ったのです。しかもその根拠として村山談話の政府認識を踏襲したのですからいつもの通りであります。
と言い切る政治家はいない。そういう意味でも日本の政治家というのは情けない限りであります。心ある国民はこういうところをみているのだ。
そういう意味でも河村市長の南京市の共産党幹部に面と向かって言ったことは評価できるものであります。
たとえ政府見解がそうであっても、もはや南京虐殺などあったという日本人の方が少ないはずです。
いまだに信じているとしたら左翼団体、日教組のような偏った人たちくらいでありましょう。
いや、彼らも“ない”ことはわかっていて嫌がらせや日本をおとしめるためにやっているのでありましょう。
南京虐殺など冷静になってみてみればあり得ない話ばかりであります。
南京虐殺があったという証言の多くが東京裁判にあります。
マイナー・ベイツ南京大学教授は強姦している日本兵の現場を見たと言い、その中には大学教授の夫人もいたという。その日本兵は5回にわたって強姦したそうで、それを見ていた教授は5回目でやっとその兵を女から引き離したというのであります。しかしいくら男女の相思相愛であっても、立て続けに5回は並ではない。しかも5回までしっかり観察していたこの教授も並ではない。
この教授は一人の婦人が代わる代わる17人の日本兵に強姦されたとも証言し、9歳の子供や76歳の老婆まで犯されたそうであります。20歳そこそこの日本兵が支那の枯れ果てた婆さんを襲うとはこれまた並ではない。誰が聞いても嘘が過ぎるのであります。
ジョン・マギーというアメリカ人の宣教師は東京裁判の検察訊問で、女を脅迫していた日本兵がマギーの姿を見て銃剣を捨てて逃げたと証言しました。
これなどは帝国軍人からすると一笑に付すような話であります。
支那兵であれば逃げるのに邪魔になれば銃を平気で捨てて行くのですが、日本兵にとって銃は天皇陛下からの貴重な預かり物であるので捨てて逃げることは絶対にあり得ないことであります。
東京裁判には南京での膨大な証言が記録されていますが立証は何一つされていないのです。
写真を撮ったと証言してもその写真一枚すら提出されないのです。
揚子江に流れ着いた遺体は明らかに軍服でありました。これは支那の公刊戦誌に多数の溺死者が出たと報告されており、溺死では虐殺の根拠にならないのです。
南京の街路には軍服が一面に脱ぎ捨てられて、支那逃亡兵が武器を持って庶民の中に紛れ込んだのは明白でありました(便衣兵)。そういう状況で日本兵が女を追いかけてズボンを脱いだというが、そんな日本兵がいるわけがない。万一いたとしたら便衣兵にすぐに射殺されていたでありましょう。
日本軍は南京占領後におこなったのは日本と支那の戦没者の慰霊祭でありました。
「敵にはあれどわが武士道」と言って支那の無名戦士の墓を作って慰霊したのです。
その後、南京市の復興工事を進めたので支那の避難民たちは安心して南京市内に帰ってきました。
日本兵は感謝されても悪く言われる筋合いはないのです。
村山よ、河野よ、藤村よ、日本政府よ、謝罪するなら我が英霊たちに謝罪せよ。
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コメント(8)
サイタニのブログからの転載です。皇室が男系を維持しながらも、2672年、今上陛下で125代続いてきたことは、日本民族が、皇統を維持して歴史を継続しようという意志を持っていたからにほかなりません。そこに民族の意志がなければ、続くはずはなかったと思います。日本民族が、天孫降臨の神話から由来する万世一系の天皇を中心として戴いて、その国柄を守っていくことを美しいと感じ、誇りとしてきたからこそ、民族全体でこの国柄を守り抜いてきたのだと思います。竹田恒泰著 「皇族の真実」より
皇室が2000年続いた理由
それにしてもよくこれほど長い間、一つの王朝が続いてきたものである。もちろん何度か王朝が交代したのではないかという学説も主張されているが、最も新しい時代の王朝交代説は古代飛鳥時代の第二十六代継体天皇で、仮にこのときに王朝交代があったとしても、それ以降は学説的にも王朝交代は主張がないため、日本の皇室は最短でも1500年間は続いていることになる。
まして、継体天皇の王朝交代説には強い批判があり、学会では継体天皇は応神天皇の五世孫であると認める方向にあることは既に記した。万世一系の起点を明らかにすることがこの本の主旨ではないので、この議論にはこれ以上立ち入らないことにするが、日本の皇室は最短で1500年、最長で2665年、大まかには約2000年程度、続いていると考えてよい。そして、これは世界の歴史に類を見ない長さである。世界史上、400年以上続いた王朝はほとんどない。まして1000年以上存在した王朝は日本の皇室を除いて皆無である。
しかも驚くべきことに、天皇家は極めて困難とされる男系継承によって2000年続いてきた。世界史上数々の王朝が成立しては消えていったが、その多くは王統を女系にまで広げておきながらも日本の皇室より長い歴史を刻んだものはない。
現代では、皇統を男性に限ることは皇統の維持を困難にすると考える人もいるが、天皇家が存続してきたのは、むしろ皇統を男系に限ってきたからではないだろうか。それにより不要な争いが回避されてきたとみることができる。もし 天皇家が女系継承を認めたなら、皇室は間もなくいくつかの系統に分かれることになる。
つまり、女性天皇の配偶者が仮に鈴木さんだった場合、「鈴木王朝」が成立したと観念することができ、皇統に属する女系の家と、皇統に属さない男系の家が並立することになる。時代が下ることでその系統はさらに分かれ、そうなった場合、何百年か経過した後に、かつての水戸学のような学問が再興され、「皇統に属する女系と皇統に属さない男系ではどちらが天皇家としてふさわしいか」といった議論が起こらないとも限らない。
つまり天皇家は男系を守ることによって、長い間唯一絶対の存在であったことになる。万世一系であるがゆえ、天皇家に苗字はない。名前を付けてほかの朝廷なり豪族と区別をする必要がなかったのだ。このことは皇室の凄みを何よりも明確に表わしているのではないだろうか。
それを可能にしたのは女系の天皇を認めてこなかったからにほかならない。通常世界の王家には苗字がある。苗字を付けなければ、どの時代のどこの王家か区別がつかないのだ。ヨーロッパ各国にしても中国にしても、彼らの歴史は王朝交代の歴史であった。例えば中国の王朝といっても無数にあるため、明朝とか清朝などと呼称により区別する他なく、ヨーロッパでも、ハプスブルク家やブルボン家などと、王家には必ず名前があったのだ。
ではなぜ皇室はこれほどまでの長い間存続してきたのだろうか。その答えは高松宮宣仁親王が生前によく語っていたことが最も的確であると思われる。これについて寛仁親王殿下がお話しになった記事があるので次に引用する。
「私〈寛仁親王殿下〉は伯父様〈高松宮殿下〉をずっとお手本にしてきたところがあって、こういう言い方は申し訳ないんだけれど伯父様を水先案内人と心得てやってきました。
中でも伯父様が生前よくおっしゃっていたのは、皇族というのはいにしえの昔から国民に守られてきたんだ、ということです。 京都の御所を見てもそのことがよく分かる。あそこはどこからでも侵入できるし、外国の城のような大きな濠もなければ、高い塀もない。ところが長い年月、泥棒が入るでもなくずっとあのままの佇まいで在りつづけているわけです。伯父様は、そのことを見ても皇室がいかに国民によって守り育てられてきたかが分かるとおっしゃっていました。私もその通りだと思います。」
(寛仁親王殿下「皇室と日本人」『文嚢春秋』93年7月号) また、皇居や御所が過剰に警備されていることに対して、高松宮は喜久子妃殿下に次のように語っていた。
「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文嚢春秋』98年8月号)
多くの王は軍事力によって守られていた。高い城壁に深い堀を巡らし、軍事要塞に住むことによって安全が保たれていた。軍事力によって守られる者は軍事力によって倒される運命にあったわけだ。しかし、軍事力を持たずに、国民によって守られてきた日本の皇室は軍事力によって抹殺されることはなかったということになろう。
そして皇室が国民に守られてきたのは、天皇と国民の間が強い信頼関係で結ばれていたからにほかならず、それを可能にしたのは、例外はあるも歴史的に 天皇は政治に関与せず、主な御役割は民の幸せを願うことであったことによる。
天皇に「私」はなく、民全体の幸せのためにあり続けてきたのだ。そのことは、天皇の御日常が質素であり続けたことからも察することができよう。世界中の王宮が賛沢の極みであることと、1000年以上 天皇の居所として使用された京都御所が質素の極みであることを比較すれば容易に理解することがでる。
皇室が長年存在してきたことはその他にもたくさんの要素があると思うが、日本の歴史を通して皇族方の担ってこられた御役割もその重要な要素の一つであることは、本書を読んでいただいて理解していただけたことと思う。
とにもかくにも、これほど長い歴史を持つ皇室が、現在もしっかりと存在していることは、私は日本人として大変誇りにしており、途中で廃絶させることなく大切に継承させてきた先人たちに、最大の敬意を表わさずにはいられない。
そして 天皇とは男系によって継承されるものであり、男系によって継承されてきた 天皇こそが「万世一系の天皇」である。なぜ先人たちが男系継承にこだわってきたかについては既に述べたのでここでは繰り返さない。
しかし、もし男系でない天皇が誕生したとしたら、それは「万世一系の天皇」とは似て非なるものであり、その時点で「万世一系の天皇家」は断絶したことになる。したがって、皇統は絶対に男系によって継承されなくてはならないと断言して結語としたい。
※「皇族たちの真実」はここで終わらせて頂ます。最後までおつきあい頂きありがとうございました。今日感じましたのは、私20何年前に奈良にある歴代の 天皇御陵を御参り(みささぎ巡拝)させて頂いた事がありました。 それは、天皇陛下、御皇室の大切さを、有難さを知りたくて御参りさせて頂きました。(本を読んでも解らなかったからです。)あれから、皇居の奉仕活動に偶々何回か参加させて頂き間近に 今上陛下」、美智子妃殿下を拝見させて頂き感動した事を覚えています。 マッカーサーが 昭和天皇にあって私は紳士を見たと感動して玄関まで送ったと言われていますが、やはり普通の方ではないのではと思います。 また 、皇族の子孫竹田の宮様の講演も偶々聞かせて頂きこれも奈良の 天皇御陵を御参りさせた縁ではないだろうかとこの頃感じている次第です。
時間が取れたらもう一度すべての天皇御陵(みささぎ巡拝)を御参りさせて頂こうと思っています。よろしかったら皆様方も行かれませんか。
素晴らしいですよ。(御陵に御朱印?がありまして、全ての御陵を廻られて御朱印を掛け軸にされておられる方もいます。(サイタニ)
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
福地先生の論文も次回で最終回です。真の日本国へと歩を進めるためにも戦後のマッカーサーの呪縛や吉田茂の欺瞞を打ち破ることこそその”カギ”であります。
「敗戦国体制」の本質の露呈=平成不調の真因
高知大学名誉教授 福地惇
筆者がこれまで展開してきた議論は「日本国憲法」のよさを無視する時代錯誤的な「天皇制軍国主義」擁護者だと反発する人々も少なかろう。
戦後の大宰相が言う通りに「象徴天皇制」と「民主主義」が国民を活き活きとさせ、「非軍備の平和主義」で軍事経費を最小限に抑制できたが故に、世界を瞠目(どうもく)させた戦後復興、高度成長、経済大国化があったと確信する人々が多数派だと思う。
だが、世間の常識は、「敗北主義意識」も上に咲いた徒花だと筆者は思うのである。
朝鮮戦争の勃発と「朝鮮特需」以降、1991(平成3)年の米ソ冷戦体制の終焉までおよそ40年間にわたる東アジアの政治・軍事情勢は、巨大な軍事力を誇る宗主国アメリカが、「再軍備」を渋って「一国平和主義」に閉じこもる日本を擁護してきた歴史がある。日本を下手に刺激して共産陣営へ追いやることは米国の世界戦略上、最悪の選択肢であった。そのお陰で、米国の政治的軍事的庇護(「核の傘」なる用語が頻繁に使われたことを想起)のもと、恰(あたか)も「敗戦国体制」と「一国平和主義」が正しかったかのような錯覚に日本人をして陥れてきた。
第二に国内的局面では「教育勅語」の精神を柱にした教育で成長した愛国心を持つ多くの国民が、国土の壊滅状態から祖国を一刻も早く復興させたいと一心不乱に努力した結果である。
吉田茂以降の歴代保守政権・政府与党および左翼系諸野党は、国際環境がもたらした僥倖と国民の高い能力、真面目な努力から始まった経済の高度成長に気をよくして、肝心の正当な国民国家への復帰努力を蔑にしてきた。惰性的に「敗戦国体制」を護持し、「敗北主義イデオロギー」を国民に注入し続けたことで、世代交代が進むにつれて「負の遺産」は積み重なり、国政の紊乱(びんらん)や外交の脆弱さ、軍事の奇形さ、ひいては教育の混乱、治安の悪化等々をもたらし、我が日本を滅亡の淵に立たせようとしている。
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昭和天皇の御製で、一番忘れてならないのは終戦直後の四首連作の御製でありましょう。これについての、夜久正雄氏の文章を引用したいと思います。
爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
外国(とつくに)と離れ小島にのこる民のうへやすかれとただいのるなり
右(上)の四首の歌は、終戦当時の御製で、昭和四十九年の末に亡くなられた木下道雄先生の『宮中見聞録』にかかげられている。
木下道雄先生は今上天皇(昭和天皇)の侍従として側近にお仕えした方で、宮中の見聞を通して天皇様のお心をお伝えする素晴らしい文章を残しておられる。
その第一が「鹿児島湾上の聖なる夜景」と言う文章であり、第二が「荒天下の分列式」である。ともに陛下の「無私」のお人柄を伝える世間周知の名文である。第三に――価値の上の順位をいふのではなく、時間的の先後から言って、――第三に、私は前記四首の終戦当時の御製を書き残してくださったことを、木下先生の文章のおかげとしてたたえたい。 前記の四首の御製のうち最後のお歌は、ほとんど同じ歌が「折にふれて」と題する次のお歌として当時の新聞に発表された。
折にふれて
海の外の陸に小島にのこる民の上安かれとただいのるなり
しかし、「爆撃に」にはじまる三首の御歌は、木下先生の『宮中見聞録』以外に見ることができないのである。(中略)
木下先生がいつこの御製のあることを公表されたのか、正確には知らないが、私がこの御製をうかがったのは、『今上天皇御製集』の謹編者の青山新太郎氏からであった。昭和38,9年ではなかったかと思う。青山さんが木下先生からうかがったと言ってこの御製を伝えてくださった時の感動を私は忘れることができない。 青山さんが昭和四十年に刊行された『今上天皇御製集』は、当時までに発表された御製を網羅したものであるが、同時に、前記「爆撃に」「身はいかに」の二首の御製を「終戦後の御製」としてかかげている。その時は「国がらを」の御製は発表されなかった。青山さんが木下先生からうかがったのが、前記二首だけであったからであろう。
そして昭和四十三年一月一日の『宮中見聞録』の発行となったのである。
木下先生はこう書いておられる。
「昭和二十年八月十五日、終戦のときにも私は会計審査居にいたから、当時の陛下の御様子を語る資格はないが、当時お詠みになったお歌を後で拝見させていただいたので、四首ここに載せさせていただく」
そして、前記の御製をかかげられ、その後に、
「鳥にたとえては甚だ恐縮であるが、猛鳥の襲撃に対し雛をまもる親鳥の決死の姿を、涙して想うだけである」
と記しておられる。この木下先生のお言葉には千鈞の重みがある。そしてこれが、前記四首の御製の出典なのである。(中略)
木下先生がこの御製を公表されたのは、重大な決心をされてのことであったろう、と、私は今になって思う。終戦当時の天皇様のお心もちをこれほどよく伝えるものはないからである。この御製は、今上天皇のお歌の中でもっとも重要なお歌であるし、日本歴史の中に記念すべき重大なお歌であると私は信じている。 明治三十七、八年の日露戦争の当時、明治天皇様のお心もちを全国民に知らせようとして、当時の御歌所長 高崎正風が、明治天皇様のお許しを得ないで、お歌を発表し、ために国民の士気大いにあがったという話は有名な話であるが、その時、もしおとがめがあったら切腹してお詫び申し上げる覚悟であったと高崎正風は語ったという。 私は、木下道雄先生もこのようなお心からこの御製を発表なさったのではないかと思う。木下先生にお会いしてこの御製の出典について私がうかがった時、先生は『宮中見聞録』に書いたとおりです。と言う意味のことを述べられてそのほかには一言もつけ加えることをされなかった。先生の覚悟と確信とがその無言の中に感得された。 さて、御製の謹解であるが、最初の二首――「爆撃に」のお歌と「身はいかに」のお歌と――は、連作の形で内容は二首相応ずる繰り返しである。
第一首目のお歌は「爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり」まで、一気に、しかし「爆撃に」(五音)「たおれゆく民の」(八音)「上をおもひ」(六音)「いくさとめけり」(七音)という字余りを含んで、強くありのままに詠みくだして、最後の句に「身はいかならむとも」(九音)という、これも字余りで、しっかりと重くとめておられる。作者は五七五七七という音調をととのえることをせずに、心におもうことを、堰を切った水の奔流するように、率直に詠んでおられるのである。短歌の定形をはみ出したその音調が、かえって作者のまごころの叫びとなっているので、一読一誦、忘れ難い感銘を与えられるのである。 「爆撃にたおれゆく民」に作者の心はとらえられていて、己れ自身をかえりみる余裕はない。国民の破滅を救おうとして終戦の決心をなさった時、その御決心はおのづから捨身のものであった。そういうお心の展開がうたわれたのである。
次のお歌は、これを逆に「身はいかになるともいくさとどめけり」と、己れを捨てて終戦の決断をくだされたお心を一気に述べられ、「ただたふれゆく民をおもひて」と深い同情のお心を後にのべられたのである。
第一首の最後の句の「身はいかにならむとも」という字余りの句の重い調子と、第二首の最初の句の「身はいかになるとも」という2・3・4音の調子とが、対照的で、作者の心の動きが、第一首の最後の句から転じて元へもどるというふうである。そしてその心は変わらない。くりかえしくりかえし思いを凝らしてなお変わらない、不動の御信念が音調となって詠まれているのである。
そして、そのお心を天皇様がつらぬかれたこと、それこそが三首目の歌に詠まれた「国がら」であると拝される。「国がらをただまもらむ」ということは天皇様が身はいかならむともと決心して国民をお守りくださるということにほかならない。天皇様はそう述べられたのである。天皇様は「国がら」を守りぬかれたのである。この天皇様のお心に感応して、天皇様のお心にしたがうことが、国民の側からの「国がら」である。天皇様が国民のうえを思いくださるお心を仰いで感奮する、その心の中に、日本の国の国がらはあるのである。だから、この心が大切なのであって、この心をまもりそだて、たやさぬようにつとめるのが、御製の研究であり、拝誦である。 最近PCの調子が悪くフリーズすることが多いので、更新がかなり滞ることが多くなりますがご容赦ください。家族のPCが使える時に、なるべく更新したいと思っています。
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