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ベトナム戦争時に「タイハンメンホ(大韓猛虎)」などの名でとても怖れられた部隊があります。
韓国陸軍の通称猛虎師団と追加派遣の通称白馬師団です。
なぜ怖れられたかが問題なのです。
行くところ行くところの村々でレイプ、虐殺、強奪の限りを尽くしました。
ベトコンには軍服などないので、村で誰がベトコンなのか見分けるのは至難の業で、米軍でも尋問に苦労したところです。
韓国軍はただ村の男達を適当に集めては殺し、「ベトコン○○名を射殺」と米軍に報告されてこれが世界に報道されていました。しかしこの処理作業を終えるや兵隊たちの本当の目的であるレイプが堂々と行われたのです。
家庭の蓄えは「敵の戦略物資」として強奪し、家に火を放ちました。
残虐行為の詳細も調べましたが、女性の方も含めいろんな方に読ませるにはあまりにむごいので控えます。
自分は大丈夫だという方は1例として「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」を検索してみてください。
その村ではたまたま虐殺の直後に米軍が入ったので、韓国軍のあなりに酷い、そして卑劣な態度が記録されています。 被害者の数はとても難しいですが、wikipediaによれば、30万人(少なくとも9000人)が虐殺され、レイプ被害の数は全く不明です。多くはレイプの後に殺されました。
ただ、混血児(ライタイハンと呼ばれる)の出生が朝日新聞で2千人、釜山日報で3万人あり、ベトナム人にとっても韓国人との混血は言い憚れるので、本当はさらに多いとの見方もあります。
ソンミ村事件のように、残虐行為は米軍にもありました。
ただ大きく異なる点は、アメリカには自浄能力があり、韓国にはないのです。
「武勲」をたてて韓国に凱旋して英雄として社会に、そして家庭に迎えらたことでしょう。
いまこの下手人たちのうち、士官だった者は陸軍の上層部にいる筈です。
韓国はベトナムに対して補償どころか、謝罪もしていません。
ベトナムがなぜもっと主張しないかは分りませんが、韓国人とは違うということだと思います。
このことをご存知の方も、そうでない方もおられるでしょう。
そうでない方のために、この記事を書きました。
幸いにも今はネットの社会ですので、
さらに伝え継いでいってほしいです。
後世にまでしっかりとです。
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。 「自虐的政府見解」の成立過程
高知大学名誉教授 福地惇
政府が侵略戦争を認めた代表例は、戦後50周年の日、1995(平成7)年5月15日の「村山談話」だと思われているが、実はその根は深い。
その後も「戦後政治の総決算」を謳い文句にして登場した中曽根康弘首相は社共両党から執拗に攻められて、昭和の戦争は「侵略戦争」だったと衆議院予算委員会の場で答弁させられた。1985年10月のことだ。「村山談話」はその10年後なのだ。
中曽根内閣から「自社さ連立内閣」までの10年間は、反日左翼主導による「自虐的政府見解」の強化課程であり、「民主連合政府」への前進過程だったのである。
「(第2条)いずれもアジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権は求めるべきではなく、またこのような覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対する」、
「(第3条) 善隣友好の精神に基づき、かつ平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流促 進」を銘記した。だが、その後のシナ共産党政権は着々と「覇権」を追求し、軍事力を増強し、日本に対する「内政不干渉」や領海・領土の侵犯行為を常態化し てきたのである。
「双方は過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は1972年に日中共同声明及び1995年8月15日 の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国 側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方はこの基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる」とは注視すべき文章で ある。
「歴史カード」を切って、シナ共産党政権は「日本解体」の内堀、外堀をほぼ埋めることに成功したということである。その後の歴代首相の日本国家の尊厳と独立主権を軽視して恥じない発言の集積は、目も当てられない体たらくだ。
簡単に列挙しておこう。
1998年10月、小渕首相は、来日した韓国大統領金大中に植民地支配の痛切な反省とお詫びを表明して、ご丁寧にも「日韓共同声明」に書き込んだ。先に示した「日中共同宣言」はその1ヶ月後のものだ。
2005年4月、アジア・アフリカ会議50周 年のバンドン会議で、小泉首相は世界に向けて村山謝罪談話を継承すると宣言した。郵政民営化で小泉の人気は高かったが、これもマスコミの工作が功を奏して いたのだ。郵政民営化は日本国民のためのものというよりも、旧敵国の金融勢力を肥やすためのものであることは、知る人ぞ知る事実であろう。
しかし、国政政治家としては絶対失格の発言をした幹事長を頂く民主党が衆議院議員総選挙で自民党に圧勝し圧倒的第一党になって政権を掌握した。当時のマスコミは政権交代、政権交代の大合唱で、新しくなれば日本はよくなるとの改革・革新・進歩教そのものだった。政治家や彼らを支える日本人民衆の頭の程度はまさにここまで劣化した証拠というべきだろう。
私は日本解放運動の前線指揮者を務めていると言ったようなもので、シナの大官は腹の底で大笑いしたことだろう。
このような最高指導者たちが、日本国家運営の衝に立ち続ける。 北方四島、竹島、尖閣諸島など我が国固有の領土が侵略、占領の危機に瀕しているにも拘らず、日本人民衆は催眠術にかかったように何の反応も見せなかった。(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
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中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和47(1972)年にアジア諸国を歴訪した際、偶然、入手した秘密文書と言われる、中国共産党 「日本解放第二期工作要綱」なる文書が、一部で話題になったことがあります。これには、かなり細かく色々な計画がぎっしりと説明してあり、これについて中国は一切コメントしていません。もしこれが嘘ならば、日本に対して何らかの批判を行うはずであるのに沈黙していることは、これがほんものであろうと言われています。
その中の解放工作の任務という所では、
日本の平和解放は、下の3段階を経て達成する。
イ.我が国との国交正常化(第一期工作の目標)
ロ.民主連合政府の形成(第二期工作の目標) ハ.日本人民民主共和国の樹立・・天皇を戦犯の首魁として処刑(第三期工作の目標) 田中内閣の成立以降の日本解放第二期工作組の任務は、上の第ロ項、即ち「民主連合政府の形成」の準備工作を完成することにある。
とあります。工作主点の行動要領という所では、
第1.群衆掌握の心理戦
第2.マスコミ工作 第3.政党工作 第4.極右極左団体工作 第5.在日華僑工作 第1.群衆掌握の心理戦
駐日大使館開設と同時になされなければならないのは、全日本人に中国への好感、親近感を抱かせるという、群衆掌握の心理戦である。好感、親近感を抱かせる目的は、我が党、我が国への警戒心を無意識の内に捨て去らせることにある。 1-1.展覧会・演劇・スポーツ
中国の書画、美術品、民芸品等の展覧会、舞劇団、民族舞踊団、民謡団、雑技団、京劇団の公演、各種スポーツ選手団の派遣を行う。 などと書いてあります。まあ、この他にもいろいろ工作の方法が詳しく書かれているのですが、当時の中国関係のイベントや様々な事象が、この文書に出てくる工作に非常に当て嵌まっていることに驚きます。
また次のような部分もあります。
第2.マスコミ工作
大衆の中から自然発生的に沸き上がってきた声を世論と読んだのは、遠い昔のことである。次の時代には、新聞、雑誌が世論を作っ た。今日では、新聞、雑誌を含め所謂「マスコミ」は、世論造成の不可欠の道具に過ぎない。マスコミを支配する集団の意思が世論を作り上げるのである。 こうした中国による工作は、ずっと日本へ仕掛けられてきたと考えられます。戦後あまりにも日本はこういう外国からの間接侵略というものに無防備だったのではないでしょうか。もちろん直接侵略にも、無防備だったのですが、これはまだしも日米安保がありました。そして今や、この間接侵略は、日本解放の三段階と言われるうちのロ.民主連合政府の形成(第二期工作の目標)まで達しているという段階ではないかと考えられるのではないでしょうか。 |
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中野剛志氏のショックドクトリンに関する解説を紹介します。「鳴動する政局の本質と日本の行方」[桜H23/5/7]のなかのお話らしいです。
【中野剛志】戦後教育で改造された日本人 カナダのジャーナリスト・ナオミ=クラインが書いた『ショック・ドクトリン』という本がある。
ショックドクトリンとは、新自由主義的な構造改革のことである。
これが、処方される時期は、必ず、恐怖政治や大自然災害、戦争、テロのような恐怖が人々を襲った後である。
サッチャーはフォークランド紛争のあと、サッチャー改革で、労働組合を弾圧した。エリツィンは、議会を制圧したあとに、市場原理主義的な改革をした。中国は天安門事件のあとに、市場自由化をした。イラクはアメリカに占領されたあとに、徹底的な小さな政府、ほぼ完全な貿易自由化、徹底的な民営化をさせられ、そこにアメリカの軍需産業が入って乗っ取った。クラインの本は、そういう新自由主義のショックドクトリンというやり方を暴露した本である。
ミルトン・フリードマンという新自由主義のイデオローグは、2005年にハリケーンのカトリーナがニューオリンズを襲った時に、「子供たちが被災し、ばらばらになり、学校が破壊されてかわいそうだ。今こそ教育を抜本的に改革する時期だ」と言って、公立学校を全て民営化し、家庭にバウチャーを配って選ばせるようにした。これは、竹中平蔵がいつも言っているものである。
これは日本でも起きていることであり、橋本政権が六大改革をやったのは、阪神大震災、地下鉄サリン事件の後である。小泉改革が激しくなったのは、同時多発テロや金融危機のあとである。 昨年突然TPPが出てきたのも、その前に、尖閣問題やロシアの北方領土問題などのショックがあった。ショックがあるときには、なぜか必ず新自由主義的な構造改革に乗っ取られる。 これをクラインは、このように説明している。 CIAがテロリストや敵を捕虜にしたあと、その人格改造をするために、ショック療法をやる。それと同じ発想である。先ず孤立させる。仲間から話して独房に入れ、水攻めか電気ショックかわからないが、ショックを与えて、記憶を消滅させる。人間は孤立させ、見捨てられた状態にして、ショックを与え、記憶を消滅させると、実に改造されやすくなる。これはCIAだけでなく、ソ連のボルシェビキも、ナチスも知っていた。 今回の震災でも同じことが起きる。被災地特区といい、あるいはもとに戻す復興ではなく創造的復興案などといい、実験場にしようとする。また今こそTPPという議論もある。 もっといえば、菅首相の振る舞いが、戦後世代の典型である。戦後生れというのは、まさに敗戦と原爆で、ショックドクトリン、ショック療法をやられて、その後に戦後教育で改造されている。1990年代以降、構造改革のような新自由主義的改革が加速した。90年代、戦前戦中派が引退して、戦後のショック療法を施された世代が世の中の中心になり始めたころから、急に構造改革が増え始めた。いわば過去の記憶を消去され、ショック療法を施された世代が、この復興を見て思うことは、戦後の連想である。すなわち日本は敗戦して、焼け野原になったけれども、復興して立ち直って、実は良くなったじゃないかという、今もそれができるのじゃないか。完全にショックドクトリンだ。 |
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
ハワイ王朝の悲劇は聞いたことがあり、アメリカという国が陰謀の国であるという一面をはっきり見せている気がしました。アメリカによってハワイ王朝は滅亡し、本来は王位継承者であったカイウラニ王女はその後、白人に弄ばれるような悲劇の生涯をおくられ、当時の白人の人を人と思わない、有色人種を侮蔑したやり方には憤りを感じました。
日本はまだ国力がなく、ハワイ王朝を助けることはできませんでしたが、なんとか出来る限りのことをしようという正義の気持ちは強く、アメリカの武力によるハワイ併合に、東郷大将の艦隊を差し向けました。
さくらの花びらさんの記事では、このときの感激をハワイの人は忘れず、人々の間で、日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたそうです。
強くて正義感ある国、日本、これは昔の話です。
マレーシア元上院議員 ラジャー・ダト・ノンチック氏も言っています。
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた 中略
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに 本当の日本人を 知っている 私達には 今はいつも 歯がゆくて 悔しい思いがする 誇りを取り戻す1881年3月のことです。
ハワイ王国のカラカワ王は世界一周旅行の途上で日本の横浜港に到着しました。 日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民」を演奏して出迎えたのです。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流した。
カラカワ王は日本人通訳を連れて密かに明治天皇との会見を願い出たのです。特別列車で皇居に向かう途中、港も鉄道も白人ではなく日本人が運用されているのを見て感激しました。これはハワイでは白人がいたるところで独占していたからでした。
カラカワ王はこのような心づくしと独立した誇りある日本を見て、日本と同盟を結んで白人支配から独立しようと思ったのでした。
明治天皇と会見したカラカワ王は、日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本に対してハワイの人口減少を日本人移民の実現したいこと、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族の山階宮定麿親王との婚約を申し入れました。 明治天皇もこの申し出には驚かれ、即答せずに後日返答する旨を伝えました。
我が国としては明治維新後まもなく、米国と対抗する力のないため、明治天皇はカラカワ王に特使を派遣して婚姻の議は「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に辞退されたのでした。
しかし、移民については1885年に実現しました。ホノルルに到着した日本移民のために歓迎会が催され、カラカワ王自身も参加し、日本酒を振る舞い、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会でもてなしたのです。
しかし、ハワイの米国人たちはカラカワ王の動きを 封じるために新憲法を起草し、白人武装集団の圧力のもと承認の署名を行うようカラカワ王に突き付けました。この中には王の政治的行為は全て議会の承認を必 要とし、多くのハワイやアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣でカラカワ王に署名させたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。 1891年、カラカワ王が病死すると、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。 女王は選挙権を貧しい島民にも与える憲法改正を発表し、イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって女王支持のデモを行いました。
しかし、白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出しました。
米国公使スティーブンスは「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」というデマで訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」と言ってホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」の海兵隊を上陸させて女王を退位させたのです。
ここにハワイ王国は消滅し、ハワイ共和国が樹立され、頃あいを見て米国は併合しようとしました。
しかし、ここで思わぬことが起きました。
「浪 速」の艦長は東郷平八郎です。後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督であります。東郷平八郎は、「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行してい る。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と宣言しました。この市民の中には米国市民も入っていました。
「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿を現しました。ハワイ共和国大統領から「建国一周年」を祝う礼砲を要請してきましたが、東郷艦長は「その理由を認めず」と拒絶しました。するとホノルル軍港の各国軍艦も東郷にならいました。世界の新聞は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えました。
ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。・・・
浪速
金剛
かつて日本という国は強くて正義感ある国でした。
しかし、現在の日本はどうだろう。
1月14日、我が領土である北方領土に視察した玄葉外務大臣は自国領土であるのに遠くから眺めるだけで島に近づくこともできず、以前の前原外相の北方領土視察も遠くから見ているだけでした。同じく1月4日、尖閣諸島付近ではチャイナ漁船監視船が接続水域に入ってきました。尖閣付近では頻繁に起きていますが、我が国は注意をして様子をうかがっているだけであります。
竹島は韓国が我がもの顔で構造物を作り続け、日本政府は韓国や在日に気づかって「不法占拠」とも言えず、それが更なる挑発行為となり、ついには韓国日本大使館前に従軍慰安婦像を置く行為にもつながっているのです。
戦前が全ていいというわけではありません。戦前にも幣原喜重郎のような軟弱外交もありましたが、やはりその時も多くの日本人の犠牲を伴ってきた歴史的事実があります。
国の護りというのは自分たちの「手」と「命」で護らねばなりません。自国の護りを他国に依存する愚行は戦前にはありません。
きっと自衛隊の中にも東郷提督に劣らぬ立派な方はいるであろう。ただ、今の日本はそういう人物が表に出てこられない土壌があることが残念であります。
かつて日本には東郷平八郎のような堂々とした立派な提督がいたことを誇りに思い、今のダメな日本を変えて行こうじゃありませんか。
小野田寛郎元少尉の著書のこの一文をこの記事の最後としたい。
「私は戦場で三十年、『生きる』意味を真剣に考えた。戦前、人々は『命を惜しむな』と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は『命を惜しまなければいけない』時代になった。何かを“命懸け”でやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。・・」
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
天皇を中心に戴く日本の国柄は、自然発生的なものであり、民族の文化というべきものです。制度などではありません。古来より日本民族と共に続いてきたものであり、時代の変化の中で、政治制度はいろいろ変わりましたが、天皇を中心にした国柄という点では、全く変わることなく続いて来ました。
日本人にとって、天皇は制度ではなく、日本という国が持つ個性としての形であり、国柄であったのです。人間ならば、その人の個性を人柄というふうに言いますが、国の個性は国柄です。国柄は、その国と切っても切れない国の本質というべきものであり、これを失ったら、その国ではないというものなのです。天皇とは、日本にとって、そういうものなのです。だから制度ではなく、天皇の国柄、天皇の国体というべきなのです。
「天皇制」という言葉を使っている人がいます。また、ある意図をもって使っている人もいます。
しかし、日本人として、この「天皇制」という言葉は使うべきでないでしょう。
『天皇制という呼称を使うべきではない理由』という谷沢永一氏の著書があります。
ここから一部抜粋して記事とさせて頂きます。・・・・・
世には、皇室に反感を抱いている方もある程度は見かけます。
その方々の信念を尊ぶこと決してやぶさかではありません。
単に見解の相違として袂を分かつのみに終わります。
しかし、皇室を敬愛することひとかたならぬ人なのに、事情をご存知ないものだから、胸中に崇信の念を持ちながら、「天皇制」という呼称を無意識で、何の気なしに使っておられる方々が少なくありません。
「天皇制」という言葉はもともと日本にはない言葉であります。
この言葉をはじめて使ったのは1922年(大正11年)11月22日、コミンテルンが日本の労働者階級に呼びかけた次のような挨拶でありました。
「武力干渉と天皇制の政府とに対する日本の広範な労働者大衆の益々高まりゆく憤激の結果であった」
このソ連のコミンテルンというのは、世界共産主義革命の実現を目的とする共産主義者の国際組織であり、日本に対しては天皇を否定し”制度”にして解体することを目論んでいました。
そして、大正12年3月15日の日本共産党の秘密会議で討議された革命運動の行動綱領にはじめて「天皇制」と書き込まれたのであります。
この呼称を共産党は決して外部に漏らしませんでしたが、昭和8年前後の一時期だけ非合法のプロパガンダに用いましたが、さっぱり効果はなかったのです。
共産党員でない日本の一般国民は、昭和20年10月20日の『赤旗』第一号に「我々の目標は天皇制を打倒して」と記されるのを見るまで「天皇制」という言葉があることも知らなかったのです。
我が国は日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく)以 来、「天皇制」という不敬な呼び方を使ったことはありませんでした。日本人が言い出したのは昭和の戦後以降であります。使わせようとしたのは共産主義者や 左翼の我が国体破壊を目論んだ連中でありました。それを何も知らない国民は自然と使うようになってしまったのであります。
こ れを見てもわかる通り、この「天皇制」という言葉はソ連共産党が指導して、世界革命を目指すコミンテルンによる造語であり、共産主義の天皇抹消の闘争目標 である「天皇制打倒」、「天皇制廃止」と言いきる時に使われた言葉であり、天皇陛下を罵り、辱しめ、貶め、いやしめ、憎むための言葉であります。
天皇陛下は制度によっているものでもなく、機構に属しているものでもありません。我が日本の国体そのものであります。ゆえに「天皇制」という呼称は事実に即していない間違いであります。
しかし、保守の振りをした転向者は、この「天皇制」は使うことは間違いではないと言います。決して惑わされることないように注意したい。
我が国の皇統が確立して以来、天皇という尊称は揺るぎなく一貫して続いているのです。
『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、『続日本紀』、いずれも等しく、天皇(すめらみこと)、または天皇(てんのう)と読み慣わしていました。
北 畠親房は『神皇正統記』の冒頭に、「大日本者神国也。天祖(あまつみおや)・・・・」と記し、皇統一系、皇胤一種である伝統は唐天竺(からてんじく)より も優れた文化を保持している事実を強調しており、天皇を崇敬することは日本人として途絶えぬ本性であったわけであります。
天皇陛下を、そして皇室を「天皇制」などと天皇抹殺を意図した共産党、コミンテルンの悪意に基づく呼び方は二千年を通じてどこにも見当たらないのであります。
我が国は天皇陛下と申し上げる以外、他に呼称はあり得ません。
真っ当な日本国民はこの言葉の意味することを理解し、断じて「天皇制」という言葉を用いるべきではありません。
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