|
国際派日本人養成講座からの転載です。
■1.二人のインドネシア人■ 大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。 1950年8月に成立したインドネシア共和国の首相モハマッド・ナチールはこう語る。 もう一人、日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、義勇軍設立と幹部教育に尽力し、独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。 オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。...もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国は、オランダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。 インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。 ■2.日本軍にびっくり■ ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部のジョグジャカルタの高校生だった。当時のほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。 1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。町が急にあわただしくなってきました。 それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っておりましたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われていました。しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。ジョグジャカルタでは戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまいました。 インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。 それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア人ははじめて自由というものを感じました。大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。インドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。 ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、さらにびっくりしました。 ■3.画期的な教育政策■ 日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。 しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけた。第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。 日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。 これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・ ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。 日本軍は行政機構への現地人登用を進め、ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。そして権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。 教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、ナチールはインドネシア人としての自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。また日本軍からインドネシア語の外に地方語の教育も勧められていたので、バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。 ■4.熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない■ 半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平が赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、インドネシアとは関係の深い外交官だった。 姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。 日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。 次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。 そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。 インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。 ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。 ■5.「青年道場」■ ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから希望者は集まれ、というビラが貼り出された。日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、絶好の機会だと思って、すぐ応募した。 数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為に、ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」に派遣された。 青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。 訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。 訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。 ■6.日本軍の率先垂範教育■ 青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。 実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。 ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。 私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。 土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。 同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会っています。 ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。 そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげられると思います。 ■7.「ムルデカ17805」■ ナチールは独立後の首相となり、またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。独立は自らの力で勝ち取るものであり、そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、見事に奏効したと言える。 この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、ナチールやルビスに伝わったのである。 日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。 この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1〜2千名の日本兵が、独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地にもインドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手厚く葬られている。 インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、現在上映中の映画「ムルデカ17805」に描かれている。ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。 我々の父祖の世代が、どのような思いでインドネシア独立に身命を投じていったのか、この映画を通じて偲ぶことができる。 |
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
さて目を転じてJAXAですが、資金面でも人員数でもNASAのほぼ1/10なので、あとを追って同じことをやっていたら余り意味がないし、注目もされません。
ハヤブサの企画は(結果的に)大成功でしたし、日本の宇宙ステーション補給機HTVは平行して飛んでステーションのロボットアームを使ってドッキングするという従来の追突方式よりも安全で正確な方法を打ち立てました。
他にも例えばレアメタルがピンチになると、廃棄物から有用資源を再利用する「都市鉱山」の構想や海水からのウラン、リチウムなどを採取する技術が出てきます。
原油の充分な確保が難しくなると、海藻からアルコールを取ったり「オーランチオキトリウム」という藻から油を獲る研究がスタートするなど、日本人の研究にはこういうガッツがあるのです。
オーランチオキトリウム
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Aurantiochytrium_limacinum_SR21.jpg/250px-Aurantiochytrium_limacinum_SR21.jpg
日本の周囲を見渡せば、うんざりするような、閉塞するような気持になります。
しかし、本当に一生懸命考えたら、必ず何か妙案が出るはずです。
考え付いた人に「そんなのは駄目、問題外」と言ってしまえば、そこまでです。
昔から三人寄れば文殊の知恵というくらいで、大勢で考えれば尚更です。
現に日露戦争の勝利は陸海軍だけでなく、国民こぞって英知を出し合った賜物なのですから。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
素晴らしいニュースです。世界的バレリーナ誕生の瞬間です。若い人達みんな頑張れ! それぞれの道で。
【ローザンヌ共同2012.02.05】
若手バレエダンサーの登竜門として知られるローザンヌ国際バレエコンクール最終選考が4日、スイス西部ローザンヌ市内で開かれ、神奈川県厚木市の高校2年生菅井円加さん(17)が審査員の評価で1位となり優勝した。
今年は30カ国から226人が応募し、日本人は19人が本選に出場した。最終選考に残った21人のうち、日本人は5人だった。 入賞者には世界の名門バレエ学校に1年間入校が認められるほか、留学中の生活費支援として1万6千スイスフラン(約133万円)が贈られる。
(AP) http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/02/0205sugai/%7E/media/kodawari/2012/02/0205sugai/Z20120205GZ0JPG000006001000.jpg?mh=1024&mw=640
http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/02/0205sugai/%7E/media/kodawari/2012/02/0205sugai/Z20120204TTREU02285G3000000.jpg?mh=1024&mw=640
菅井さんはコンテンポラリーダンスでも優勝した(ロイター)
世界的に活躍する熊川哲也さんや吉田都さんを輩出したコンクールです。 今回審査員を務めた吉田都さんは「出場者の中で一番安定していた。これからの成長が楽しみ」と満点の評価を付けた。「すごく質の高い演技だった。特にコンテンポラリー(現代舞踊)では音楽をうまく使い、体のコントロールもダイナミックで、審査員の誰もが『おおっ』とうなりました」と打ち明け、「終わった後、『すごく楽しかった』と話していたのが印象深いとも。
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20120206-890597-1-Y.jpg 6日成田空港に着いた菅井さん バレエダンサーの世界的登竜門、ローザンヌ国際バレエコンクールで1位になった日本の高校2年生・菅井円加さんのパフォーマンスが公開。※菅井さんの登場は32分20秒ごろと1時間16分10秒ごろから。 |
|
画期的な望遠鏡が開発されます。
東京大学宇宙線研究所などが、ニュートリノ検出器のスーパーカミオカンデがあることで知られる岐阜県神岡鉱山内にトンネル(直径4メートル、長さ3キロ)を2方向に掘ってつくる。トンネル内で2方向に分けたレーザー光を往復させ、宇宙から来る重力波による空間のひずみを光によってとらえる仕組みです。
宇宙の始まりを解き明かすと言われる「重力波」。その初検出を目指す大型望遠鏡の愛称は一般公募から「かぐら(KAGRA)」に決まったと発表されました。
KAMIOKA GRAVITATIONAL TELESCOPE(神岡重力望遠鏡)の略です。
1月20日に着工式が行われました。 総予算は約155億円。2015年秋に試験観測をはじめるという。
重力波は、アインシュタインが提唱した一般相対性理論で予想された時空の歪みが伝搬する波動現象です。しかし、彼自身、この重力波の効果はあまりに小さすぎて、実際には検証が極めて困難であろうと思っていたそうです
完成すれば既に外国に存在する観測施設の精度を越え、日本が世界に先駆けて検知すれば凄いことです。
科学の歴史を大きく飾る先陣争いに勝て!
二番目なんか駄目だ!
重力波のイメージ
物体が存在すると、それだけで時空にゆがみができます。さらにその物体が運動をすると、 この時空のゆがみが光速で伝わっていきます。これが重力波です 世界の研究機関が初検出を目指しています。検出には重力波の微小な振動をとらえる必要があり、検出装置は)望遠鏡というより、超高感度の補聴器のようなものだということです。 http://gwcenter.icrr.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2011/02/LCGT-650x624.jpg
黄緑色で90°に広がる線形のものがKAGRA (よろしければもう少し詳しい説明です)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人類は、太古よりつい最近まで可視光でしか自然を観察できませんでした。しかし19世紀に入って電波やX線が発見されると、遠くに一瞬で情報を伝えたり、人体や物質の中の様子が観察できるようになりました。
そのため今まで全く未知だった世界への扉が開かれ、人類の知識の増大・世界観の変化に大きく役立ちました。
その後も赤外線・紫外線やガンマ線など、次々と新しい「観測手段」が発見されるごとに、未知なる世界が人類に解き放たれています。これらはすべて「波動現象」を利用した情報伝達による自然観察と言うことができます。
従って電磁波と同じ「波動現象」である「重力波」も、この歴史にならって新しい観測手段となり人類に未知なる世界を垣間見ることを可能にするであろうと期待されるのです。
科学者たちが期待しているものは、
|
|
歴史学者の村井節(みさお)氏は、人類文明が東西の二つの文明に分かれて、800年ごとに高調期、低調期の波を交代させながら、繰り返していることを史実によって立証した人です。先日ある冊子を読んで、初めて知りましたが、この村山氏の論を中心に近代のことが書いてあった文章を要約して紹介しつつ書いてみました。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/44/857334d3219c6307ed8b43eceaa7f548.png村山節代表作『文明の研究―歴史の法則と未来予測』は絶版
東の文明とはアジア地域の文明で、メソポタミア文明地域以東、日本までの諸文明であり、西の文明とは、エジプト、エーゲ海域以西のもので、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、北米に至る文明であるそうです。
すなわち紀元前3600年〜2800年の原始エジプト文明(西)、紀元前2800年〜2000年の古代メソポタミア文明(東)、紀元前2000年〜1200年のエジプト及びエーゲ海文明(西)、紀元前1200年〜400年の古代アジア文明(東)、紀元前400年〜紀元400年のギリシャ文明・ローマ帝国文明(西)、400年〜1200年アジア極東文明(東)、1200年〜2000年のヨーロッパ文明(西)という東西の交代がありました。その転換に要する期間はそれぞれ百年でその転換期には大きな事件や民族の大移動や戦争動乱があり、混乱の時代です。
東西文明の相違は、西が自然との対決、自然を支配する物質文明であり、物事を分割し分析して支配する科学を得意とする文明であり、対決と競争、利潤優先、物質優先の価値観です。東は、自然との共生、親和の精神文明であり、融合、調和、道義、の優先、物事の統一的全体的把握を得意とする価値観の文明です。
そしてこの文明法則に従えば、2000年を転換期として、ヨーロッパ文明から、新アジア文明に移行することになるはずです。
1200年から2000年において、ヨーロッパではルネサンスがはじまり、羅針盤の発明から、大航海時代が始まります。コロンブスのアメリカ大陸の発見、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見という地理的発見をきっかけにした中世の暗黒時代からの脱却であり、、それはまた、西洋の植民地主義の始まりでもあります。
アジアはどんどんヨーロッパの植民地になっていきます。スペインのフィリピン征服1570年、列国による東インド会社設立(イギリス1600年、オランダ1602年、フランス1604年)、英によるシンガポール領有1819年、インド併合1858年、ビルマ併合1886年、仏印の成立が1886年です。
アフリカは、ベルリン列国会議(1885年)でバターを切り分けるように分割され、1914年における大陸の独立国はエチオピア、リビアの二国のみとなりました。
アジア、アフリカが欧米列強に呑み込まれようとし、植民地化の矛先が中国や朝鮮に向けられていた時期に、日本は日清、日露の二大戦争を戦って独立を保持し、中国、朝鮮の植民地化を防ぎました。特に日露戦争は、民族国家独立への夢をアジアやアフリカに与えました。
インド独立の戦士で元首相のネールは、自伝で、「日本の勝利は私の熱狂を沸き立たせ、インドをヨーロッパへの隷属から、アジアをヨーロッパへの隷属から救い出すことに思いを馳せた」と回想しています。英国の文豪H・G・ウェルズの言うように、「アジアは、絶望的にヨーロッパに立ち遅れて、どうしても取り返しがつかないという考え方を、日本は完全にふっとばし、帝政ロシアとの戦争でアジア史に一大エポックを創り、ヨーロッパの尊大と思い上がりに終止符を打った」(『世界文化史概観』)のでした。
ネールだけではありません。トルコ独立の父、ケマル・パシャ、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、マレーシアのマハティールなど優れた指導者たちも、独立の夢を等しく抱いたのです。この夢を実現させるために立ち上がらせる衝撃を与え、民族国家を建国させたのが、大東亜戦争でした。
イギリスの東南アジアの拠点シンガポールが日本軍によって陥落した報に接したド・ゴールは、「アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した」と日記に書き記しました。数百年にわたる西の東に対する植民地支配は、日本軍の一撃によって崩壊したのです。同じアジア人である日本人によって白人が駆逐されたことは、アジアの人々にとって驚きであると共に、自らに大いなる自信と希望をもたらすものでした。
大東亜戦争が終わった直後、東南アジアへは、イギリス、アメリカ、フランス、そしてオランダと、植民地の宗主国が舞い戻ってきましたが、かつて支配に従順だった有色民族は、独自の兵力を持ち、もはや宗主国の支配には甘んじませんでした。一斉に民族独立の戦いに立ち上がり、1946年にインドネシア、フィリピンが独立、1947年にインド連邦、パキスタンと独立が続きました。明治維新以来の日本のアジア非植民地化の精神は、戦後これらアジア諸民族に継承され、やがてその民族主義はアフリカへも広がって行きました。
タイの元首相ククリット・プラモートは、「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供たちはすくすく育っている。今日、東南アジアの諸国民が米国と対等に話ができるのは誰のおかげか。それは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」と語っています。
そしてイギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、「第二次大戦によって、日本人は、日本人のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である」と記しています。
日本は、第一次大戦のパリ講和会議で国際連盟規約第二十一条に人種差別撤廃を提案したが受け入れられませんでした。しかし、大東亜戦争、第二次大戦後、1948年の国連総会で「世界人権宣言」が採択され、日本が永年努力してきた人種差別撤廃が実現したのです。
2000年から始まる新アジア文明の時代に、日本の役割は何であるか、多くの世界の国々が日本に期待しているのではないでしょうか。日本人の中にも、左右を問わず、世界を指導する原理は日本の中から生まれると述べる人も出てきています。日本は極東にありますが、それはまた西の端に近いとも言えます。東と西の文明を結び合わせることのできる和の原理を有する国でもあります。
日本人は、まず自分たち日本の精神文化を、自らの中にあるものを、掘り起こすことが必要です。その日本独自の精神文化によって世界に貢献する事ができるのだと思います。
|




