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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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マッカーサーとは何者か
        〜「詭動の達人」は詭弁家でもあった
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高知大学名誉教授 福地惇
 
イメージ 3マッカーサーは、米国陸軍士官学校を彼の前後に適う者とてなき最高得点での首席で卒業し、元帥まで上り詰めた出世頭、紛うかたなき優秀な職業軍人であった。『孫子』の「計篇」はこう言う。
「兵とは詭道なり。故に能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれを近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離つ。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勢にして先には伝うべからざるなり」
 
「詭道」とは、敵の意表を突く行動、つまり謀略・詐術・惑乱戦術を駆使して優勢を占め、敵を打ち負かす道理のことである。兵学の用語だが、もちろん政治にも完全に適用できるのである。
マッカーサーはさすがに軍人、「詭道の達人」であったと私は感銘する。だが、日本的な武士の情けを知る武士ではない。ましてや人徳豊かな大政治家とは言い難い。完全武装解除されて抵抗力を剥奪された敗戦国に対して、一介の武弁に過ぎないのに善人・大政治家ぶってワンサイド・ゲームであること明瞭な第二の戦争=占領国管理統治を楽しんだ、としか私には思えない。
彼は敗戦国の小間使い的政治家を巧みに使嗾した。時には聖人・英雄風を吹かせて恩を着せ、宥(なだ)め賺(すか)し、時には威圧をかけて脅迫して己の目的をのませ、見事に敗戦国を自分好みに改造した。
そればかりか、敗北国民に敗北者根性を尊崇させる目的を持つ思想戦争を「詭道」を以て強力・巧妙に遂行した。天皇陛下の下、恩忍自重して神妙にして従順だった日本政府はじめ国民は見事に「詭道の人」の餌食となったと言ってよい。時の政府がGHQに対応する唯一の国家機関であった以上、占領期間中の我が国の政府首脳部の政治責任は、敗戦責任に劣らず重かったというべきだろう。
 
イメージ 5かかる「詭道」の最高司令官に対抗できる大政治家はいなかった。たとえいたとしても「詭道の人」はその団結を許さなかった。分断して上手に統治した。砲弾以外の“武器”はいくらでもある。公職追放、言論統制、思想改造、教育改造、労働運動の扇動、共産主義者のスパイ的活用等々。
丸腰の敗戦国政府を操縦し、「戦争に懲り懲りの」日本国民を誑(たぶら)かすのは赤子の手をひねるようなものであったろう。日本人は「十二歳の少年」である。その集大成ともいえるのが、国家の基本法である憲法を日本人製と詭弁して下賜したことである。
吉田茂は「負けっぷりをよくする」などと腑抜けた戯言を吐いたが、潔さというものは日本の古武士には通じても米国の軍人には日本人の脆弱性としか映らない。1951(昭和26)年4月、トルーマンに解任されて離日する際、マッカーサーは「日本国民は、勝者に媚びる国民である」という侮蔑の言葉を吐いている。
 
イメージ 4私はこの「詭道の達人」は、己の日本占領政策が国際法に違反することを自覚していたと推測せざるを得ない。『回想記』は、まさに彼が日本人をいかに欺き、愚弄したかを、いみじくも自ら暴露している真に貴重な記録である。マッカーサーは、事実を曲げた甚だ矛盾した発言を平気でなし、自分の功績を誇大に喧伝するアリバイ証明的言辞を多発している。
以下にいくつか引いてみよう。
「日本政府が降伏条項を受諾した後、その実行に当たるのは私の仕事になった」と、ポツダム宣言と降伏文書の条項を執行するのが任務だと自覚している。だが頭隠して尻隠さずで、「私たちはポツダム宣言の諸原則によって、日本国民を奴隷状態から解放することを約束している。私の目的は、武装兵力を解体し、その他の戦争能力を消滅させるのみ必要な手段を取ると同時に、この約束を実行することである」と強弁するが、ポツダム宣言は「吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず。(中略)日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし」と謳っているのであって、マッカーサーはこの条項を逆さ読みして占領政治に都合よく活用したのである。
さらに、「改革は日本人自身によってはじめられねばならない。東京在任中、この考えは常に私と幕僚たちの指針となった」と記してもいるが、「占領の課題」なる章には、「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上、如何なる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった。私の権力は至上のものであった」と言い放ち、「占領目的」なる章の冒頭に、「私は五年以上もの期間、日本改革の仕事に取り組むことになった。私の考えていた改革案は、結局全部実現した」と誇負している。
しかも改革推進の法的根拠は、米国統合参謀本部が彼に訓令した「最高司令官の権限に関する通達」だという。国務省や統合参謀本部の通達は、本国政府が現地司令官に示した政策方針でありその心得である。それは、我が国の与り知るところではない。マッカーサーは内達を法的根拠として『無条件降伏』した敗戦国を自らの思うように改造して何が悪いのかと言っているのである。しかし、連合国と我が国が取り交わした約束は、ポツダム宣言と降伏文書以外にないのであって、ポツダム宣言は「有条件」の国際協定である。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 細川隆元氏は昭和天皇と対談をしたことを本にしていますが、対談の後で入江侍従長といろいろ陛下についてお話しされていて、そのお話に陛下のお人柄がうかがえるエピソードがいろいろあり、その中から印象に残ったものをご紹介します。

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 ヨルダンの日本駐日大使はシャモート氏という人だった。この人が本国にかえることになった。
入江侍従長  それが離任帰国というので夫人同伴で拝謁したわけですね。シャモートは一応お話ししておったんですよ。そのうち陛下がお話しかけになったら、婦人は泣いて泣いて大変なんです。もう天皇陛下にお目にかかれないって泣いて泣いて、宮殿の竹の間を出るときに・・・・・・。それまで夫人は午餐、園遊会、新年と陛下のお誕生日にもお目にかかっているんですよ。だけどお話をしみじみするのは、午餐の時とお別れのとき。
 陛下が、長い間勤めてくださって、日本のこともよくわかって下さっていたのに、とうとうお別れしなければいけないことになって。とおっしゃったら、ワァーッと泣いて大変なんですよ。そして、いよいよ竹の間を出るときに、こうやって、もうこれで見納めだという・・・・・・。そして千草の間という次の間に下がったらば声を上げて泣いてね。
シャモート大使もつり込まれて一緒に泣いて泣いて帰っていったんですよね。
そういうのが非常に多うございまして、ある時、ハンガリーの大使がお別れに来たら、その奥さんが泣いたんです。今度はまたフィンランドが泣いたんです。それで陛下に、一生懸命おやりになったので、ああやってみんながお別れを惜しんでよろしゅうございましたね、と申し上げたら、陛下が、
「いや、あれは東洋の血が入っているからだ」
とおっしゃるんですね。ハンガリーのハンはフン(匈)でしょう。フィンランドのフィンも同じですね。フン族、匈奴の血が入っているとおっしゃるから、東洋の血が幾らかは入っているかもしれないけど、だいぶそれは古いことで、もう効き目はないでございましょうが、と申し上げたんですがね。
細川  なるほど()
入江  私はこの役をやっていて一番幸せだと思うのは、そこに立ち会えることですね。泣いて泣いて、お別れを惜しむというのは、本当に嬉しいです。
 それがさっきからおっしゃっているファーとした、二千年ですよ、やっぱり。
細川  そうそう。
入江  前の式部官長の人に聞くと、クーデターでその地位についたというような人がくるでしょう。もうすごいんですって、威張って。ところが、陛下に30分ほどお目にかかって、帰るときには、もうすごく穏やかな雰囲気になっている。
細川  なるほど・・・・・・。
入江  ああいう境地があったかということに気がつくんじゃないでしょうか。
細川  そのとおりですね。
           中略
細川  しかし入江さん、くどいが「陛下、侍従長の着ておられますあのワイシャツ」という話・・・・・・。
入江  いや、あれがまた陛下なんですよ。
細川  「それは知らんから知らん」って。そういう方なんですね。見てないから知らんと。普通なら「何だ、それは」というでしょう。
「あ、見とらんから、知らん」
普通なら、「何だ。あ、そうか。あ、なるほど、少し変わっとるな」というでしょう。「見とらんから知らん」でおしまい。
入江  いや、いいですねえ。ワイシャツを気にするようになっちゃあ、ダメですよ。
細川  それを凡人は下着まで気にするからね。
入江  ダメですねえ。
細川  やっぱり偉いですね。
入江  それだからぼくは、陛下のおそばへ出て四七、八年になるんですが、言葉は悪いけど、全然退屈しないの。
細川  ああ、そうかもわからんね。
入江  毎日、面白いのね。むっちゃくちゃな楽しさがあるの。
細川  普通だったら、ベタッとしていつまでも、それはどこから買って、幾らだったとか。              中略
あれが別の国の国王だったらすぐ「俺にも2着ばかりつくってくれ、タダでな」と、こういうところだ。
入江  そうすると国はおかしくなる。
細川  そうそう。そのとおり。けだし名言です。
わしは初めて空気の味がわかった。吉田さんの 、「臣茂」という気持ちだって自然に出てくるんですね。相手が元首であろうが、なんであろうが、臣茂。あそこに吉田の良さがある。誰がなんと言おうとね。
入江  あれは、あのとき、ついそういう気持ちになって出ちゃったんでしょうね。
細川  そうです。それを新聞が悪口書いてね。何だ、何が臣だ。臣という言葉はもうなくなっとるはずだなんて言う新聞はバカですよ。
 

転載元転載元: 日本の感性をよみがえらせよう

伊勢神宮について

新田均皇學館大學教授の論文(平成一八年)から、転載します。伊勢神宮の由来について、非常にわかりやすい説明です。

伊勢神宮とパルテノン神殿の違い

しばらく前までは、伊勢神宮といえば、どんな神様が祀られているか、どこにあるかは言わずもがなで日本人なら誰でも知っていたことです。

伊勢神宮の一番大きなお祭りは、二十年に一度の式年遷宮ですが、かつては式年遷宮が行われるたびに全国のニュースになっていました。しかし、前回の平成五年の時は、ほとんど扱われることもなく、伊勢地方のお祭りのような扱いになってしまいました。

そういう中で、最近伊勢の神宮について多くの日本人が知る機会を得たのは、一昨年に行われたアテネオリンピックで、伊勢市出身の野口みずきさんが伊勢神宮のお守りをつけて走り、女子マラソンで優勝した時です。抜け出すときにお守りに触ってスパートをかけたというのは有名な話です。

アテネオリンピックが始まるときに、パルテノン神殿が映し出されました。パルテノン神殿に祭られていた神様は、ギリシャの神々の中でゼウスという最高神の娘アテナという女神様です。つまり、アテネも女神様の神殿があったところで、日本の女神のお守りを持った女性がそこで勝ったということです。伊勢の神宮も女神を祭る神殿ですし、アテネのパルテノン神殿も女神を祭る神殿ですが、二つの神殿には大きな違いがあります。

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伊勢の神宮が祀られるようになったのが西暦でいうと三世紀末、三百年前後のことで、以後こんにちまで絶えずお祭りされています。一方パルテノン神殿も紀元前よりはるか前の古代からありますが、西暦五世紀頃にギリシャではキリスト教徒の侵入がありまして、アテナの神像は取り除かれて、キリスト教の教会に変わってしまいました。
それから十世紀間はキリスト教会でした。十五世紀中頃から、今度はトルコが攻めてきて負けて占領され、十五世紀中頃からイスラム教の寺院にかわってしまいました。
更に十七世紀後半になりますと、ベネチア人が攻め込んできて、トルコ人がパルテノン神殿に立てこもったので砲撃を受けて、今あるああいう状態になってしまったのです。つまり石造りのあの神殿は今や廃墟にすぎません。

一方伊勢の神宮の建物は、大きな御正殿よりも周りの別宮をご覧になると分かるかと思いますが、この伊勢の神宮の原形は何かといいますと、稲作の始まった弥生時代に稲を貯蔵しておいた高床式倉庫です。もともとその大切な稲を収めていた高床式倉庫が神殿に変わっていったのです。石に比べると木で作られた実にもろい建物ですが、依然として神様が祭られていますし、それをお祭りする神主がいるし、それを信仰する人もいます。

こう考えると、ギリシャの神殿とは、似ていても信仰が生きているという点で、決定的に違うのです。伊勢の神宮というと誰でも思い浮かべるものは、天照大御神様をお祭りしている皇大神宮と、豊受大神を祭っている豊受大神宮の二つだと思いますが、実際は、伊勢の神宮とは伊勢志摩地方に百二十五社ある神社群をさしています。その百二十五社の上にこの両方の御正殿が存在する形になっています。たまたまですが、この百二十五という数字は、現在の天皇陛下の代数と同じです。


天孫降臨と三大神勅

この伊勢の神宮がどういうふうにしてここにお祭りされることになったのかといいますと、その起源は日本の神話に遡ります。古代の日本人の世界観というものは、渡部昇一さんも言っておられますが、古代のヨーロッパのゲルマン人と同じように、世界を縦に見ていました。天にある高天の原、地上にあります葦原の中つ国、地下の根の国の三つがある、という世界観を持っていました。

この高天の原の中心になっておられましたのが天照大御神ということになります。最初葦原の中つ国を支配していた神様は大国主命で、根の国は天照大御神の弟である須佐之男命です。少し複雑ですが、根の国を支配している須佐之男命の息子、または子孫が葦原の中つ国を支配していた大国主命となります。

天上の高天の原から見ますと、葦原の中つ国には神々はたくさんいますが、非常に乱れていました。そこで、『日本書紀』によれば高御産巣日神、『古事記』によれば天照大御神が、御子孫を葦原の中つ国に遣わせて、その方を中心に葦原の中つ国に秩序をもたらせて、高天原と同じような状況の国をこの地上に作ろうということで、天孫降臨ということになります。

つまり天照大御神の御子孫が日本の国に天降ってこられたということです。ですからこの「天」は天照大御神の「天」です。「孫」は天降ってこられた瓊瓊杵尊という方が、天照大御神から見て孫にあたるので天照大御神の御子孫がこの日本の国に天降ってこられたということで、”天孫降臨”というのです。

ただし、天降ってこられたのは日本の中心になる大和ではなく、九州です。この天孫降臨の時に、天照大御神が地上に天下っていく御子孫に授けた言葉、神勅が三つありました。三大神勅といいますが、それが伊勢神宮の出発点になります。これは『日本書紀』に記録されていますが、一つは、「天壌無窮の神勅」。この神勅には、「日本国は天照大御神の子孫がずっと中心になって治めていく国で、そのことは天地が変わらないのと同じように永久に変わらない」ということが述べられています。天皇陛下の位の始まりを意味する言葉です。

二つ目は、「宝鏡奉祭の神勅」です。天照大御神は天降っていく瓊瓊杵尊に三種の神器を授けられました。八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。いずれも天皇陛下の位を象徴するものとなっています。

天照大御神が天の岩戸に隠れられたという話は有名ですが、神々が困って何をしたかといいますと、岩戸の前でお祭りをしました。これが神道のお祭りの原型です。その時に榊を立てて鏡と勾玉を作ってかけました。この時作られたのが八咫鏡と八尺瓊勾玉です。その天照大御神が再び御出現するきっかけをつくった宝物を瓊瓊杵尊にお渡しになりました。

そして草薙の剣は須佐之男命が八岐大蛇を退治した時に尻尾から出てきたものですが、これも加えて三つを持って天降りなさい、といわれたわけです。天照大御神は鏡をわたされたとき、「これを私だと思って祭りなさい」といわれました。これが「宝鏡奉祭の神勅」です。これは「あなたが降っていってこれから秩序をもたらそうとする地上の国は、私が天上で神々を治めているのと同じ秩序をもたらそうとするわけですから、あなたも私と同じような気持ちで神々の子孫を治めなさい。常にその気持ちを忘れないようにしなさい」ということです。

もう一つは、「斎庭稲穂の神勅」です。「斎」は「神聖な」という意味で、神聖な田んぼの稲の神勅という意味です。簡単に言うと、天照大御神は、天上界で田んぼを作って稲を育てているのです。そしてその稲で別の神を祭っているのですが、その神聖な田んぼで獲れた稲を瓊瓊杵尊に授けました。これは、これであなたの国民を養いなさい、という意味であるといわれています。

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この「宝鏡奉祭の神勅」と「斎庭稲穂の神勅」が伊勢神宮の起源になります。三種の神器と稲を持った瓊瓊杵尊は九州の高千穂に天降ってこられて、そこから三代にわたって九州におられます。日向三代といわれます。瓊瓊杵尊、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、別名山幸彦、そして鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の三代です。

瓊瓊杵尊からすると曾孫にあたる方に神倭伊波礼毘古命という方が出現なさいます。この方が、これまで先祖は九州を一生懸命開発なさいましたが、もともと御祖先である天照大御神に命じられたことは、日本国をしっかり治めよということだったので、九州の端にいたのでは、日本国を治めるに相応しくない、中心に移動しよう、と考えられました。そこで大和まで進出されます。これが第一代の神武天皇です。
つづく 



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蛮社の獄で有名な渡辺崋山は、非常に才能のあった人のようです。
まずは画人として独自の画風を確立した一流の画家であり、写実的な肖像画は当時もかなり人気があり、多くの人物を書いています。『一掃百態』という風俗画集では、江戸の人々の風俗や職業の生態を描き、、大名行列や露天の小商人の動作などを軽妙なタッチで活写しています。

一流の画家としてだけでなく、後には田原藩の家老に抜擢されて、さまざまなトラブルの交渉と解決、藩政改革、国防理論と、手腕をふるいました。
 
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 渡辺崋山像。崋山の弟子、椿椿山によって崋山の死後12年後の嘉永6年(1853年)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。
 
渡辺崋山は、田原藩の江戸詰め勤務の渡辺定通の長男として生まれます。渡辺家は田原藩の上士の家柄でしたが、藩財政難と、父が養子であったために家禄が削られ、しかも父は病気がちだったため、その医薬に多くの費用がかかり、一家は極貧の生活でした。日々の食事にも事欠くこともあり、弟妹は次々に奉公に出され、華山は年少の頃から、家計を助けるために画業を志し、絵を学び、初午灯篭や凧の絵を描く内職などをしながら、勉強に励みました。

華山の絵の才能は、谷文晁(たにぶんちょう)に入門してからは、大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となりました。更に学問にも熱心で、儒学もよく学び、18歳のときには昌平坂学問所に通いました。
一家の家禄も父の出世と共に回復してゆき、文政8年(1825)に父が病死して、三二歳で家督を継いだ時には、80石となっていました。その年には、藩の取次役にも就任しました。

天保元年(1930)藩主康直が幕府より日光祭礼奉行に任じられると、康直の見栄を張るなど様々な浪費で、藩財政はさらに悪化し、藩政改革の必要に迫られ、康直は天保3年(1832)、崋山を年寄役に任じて改革を行なうことにしました。

華山はまず、田原藩のトラブルの解決を図りました。この頃、田原藩では領民が難破した他国船の積荷を奪った事件や、他国の商人が巧みに介入して藩領で新田開発を企てるなど、 様々な問題をかかえていました。崋山はこれらを交渉をもって解決しました。また藩主康直は姫路藩からの養子でしたが、康直の長女と若くして急死した前藩主の異母弟元信の男子を結婚させて次期藩主とするように、康直や姫路藩と交渉し、前藩主の血筋を残しました。

藩政改革としては、2人扶持の支給や格高分合制という人材登用制度などを新 たに取り入れました。特にこの人材登用制は、有能な人材であれば家格にかかわらず重く登用するという先進的なものでした。

また、崋山は農政学者・大蔵永常を招聘して、殖産興業に努め、当時諸藩で有力な財源となりつつあった商品作物として、甘藷(サツマイモ)、櫨(はぜ)、椿などの農産物の育成を奨励しました。さらに鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながりました。

天保7年(1836)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや、『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。
 
華山が更に必要と強く感じたのが、国防という問題でした。

田原藩は遠州灘につき出た渥美半島にあり、天保三年に海防を重視した華山は海防掛かりを兼務しました。日本は鎖国が続き、幕府をはじめ人々は太平の夢をむさぼって、”井の中の蛙”になっていました。ところがロシアの日本探検船団がしきりに日本本土をねらっていたのです。

華山は海防を担当したことで、オランダの学問を勉強し、シーボルト門下の高野長英、小関三英といった蘭学者と交流しました。

華山の蘭学研究は世界の地理、風俗、歴史、兵術など多方面にわたる本格的なものでした。兵書を取り寄せ西洋の火器を中核とした軍事組織を日本に移植しようとしたのです。

オランダ商館長ニーマンからいろいろな知識を学んでいます。鎖国以来二百年も平和が続いている国など、世界には日本以外にどこにもないこと。ロシアは支那領の満州や蝦夷諸島(北海道、クナシリ)をねらっていること。大名や旗本の供廻りなどが人と金を無駄に使って人材の育成を妨げていること。そういうことに幕府の為政者が無知であることを心のそこから憂えました。

また華山は、西洋文明の進歩の基本要因として「物理の学」をあげ、日本には科学的精神が欠如していることを指摘しました。こうして華山の学識や知見を慕っていろいろな人が集まって来ました。長英らのほか、江川英竜、川路聖謨(としあきら)、遠藤勝助、立原杏所と言った洋学者や知識人たちでした。華山はこうした洋学者のリーダー的な存在となり、彼らは学問のサークル的な集まりであり、飢饉対策の救荒作物についても話し合いました。この会合に出席したことのある藤田東湖は、華山のことを「蘭学にて大施主」とよんでいます。華山を中心に、やがて国防について議論する場となって、幕臣であった江川や川路は、幕府の海防政策での助言を受けています。

『鴃舌小記』『慎機論』『西洋事情書』『外国事情書』といった華山の著書や草稿は、日本の危機を訴えようとしたものです。鴃舌というのはモズの声、”野蛮人のことば”と言った意味です。そのなかで華山は「世界の五大州のなかでアジアを除く諸州はことごとくヨーロッパ人の所有に帰した」と書き、そのアジアの中でも独立できているのは、ペルシャと日本のみ、「されば誠に心細きことに御座候」。しかも道に置かれた肉のようにトラやオオカミがねらっていると警告したのでした。
こうした華山の研究や忠告に対し、憎しみをもって不当な敵意をいだいたのが、幕府の目付鳥居耀蔵です。この人物は、政敵や論敵に遺恨をいだき、讒言で陥れることが多い人物でした。また、鳥居の実父が大学頭を務めた儒者の林述斎であったことから、儒学以外の学問を排斥する傾向が強く、華山が昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受けた人間であるにもかかわらず、蘭学研究をしていることに、裏切り者という意識を強くもち憎しみを覚えていたという話もあります。また蘭学者が国政に口を挟むことも気に入らなかったようです。
鳥居は手下を使って華山の身辺を探索し、風説をねたに”事件”をでっち上げました。

一、華山は『鴃舌小記』を表して蘭人の幕府批判を紹介し、高野長英、小関三英らと徒党を組んで外国事情を詮索して、当今のまつりごとを中傷した。
一、無人島渡航を計画し、漂流にかこつけてあわよくばアメリカへ渡らんとした。
一、長英は『夢物語』と題して日本と外国との政治人情の善悪を評する著作をあらわした。

これは要するに、洋学嫌いの鳥居が、華山や長英をおとしいれようとして弾圧した事件でした。鳥居は彼らを一斉検挙しました。世人が鳥居耀蔵のことを鳥居妖怪(耀甲斐)と呼んだほどのこすからい陰謀家だったのです。

この事件を歴史では「蛮社の獄」と呼んでいます。長英たちは、自らを蛮学社中」と称していたからです。蛮学とは洋学、オランダの学問のことです。

長英はいったん身を隠したのち自首し、三英は自害しました。華山は北町奉行所で取り調べを受け、ひとまずは釈明が受け入れられました。奉行所もこれが鳥居が仕掛けた陰謀であろうとうすうす感じていたからでしょう。

ところがまだ出版もされていない『慎機論』と『西洋事情』の書きかけ草稿が家宅捜索により、新たな証拠として提出され、有罪とされてしまいました。投獄された華山には画家の友人や門弟などの支援者から救援運動がおこされ、そのため田原に送還、蟄居を命じられました。

しかし華山は藩主に迷惑のかかるのを恐れ、天保十二年(1841)十月十一日、腹を切って自刃しました。四十九裁でした。

この蛮社の獄を機に、洋学者は研究をしりごみし、日本の科学は停滞しました。

ところが「蛮社の獄」の翌天保十一年(1840)にはアヘン戦争があり、幕府はあわてて海防の準備にとりかかります。華山や長英の警告どおりの事態が起きてきたのでした。
 
参考

渡辺崋山 - Wikipedia

蛮社の獄 - Wikipedia

 
石井英夫 「渡辺崋山」


 
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                     (米国政府の初期の対日方針)                     
 
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
 
米国政府の日本占領目的
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
イメージ 2トルーマン(左写真)が1945829日付でマッカーサーに通達した「米国政府の初期の対日方針」(上記写真)と題する文書がある。同文書は初めに「日本国に関する米国の究極の目的」を示している。
曰く、「日本国が再び米国の脅威となり、または世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」。また「他国の権利を尊重し国際連合憲章の理想と原則に示されたる米国の目的を支持すべき平和的且つ責任ある政府を究極において樹立すること、米国は斯(か)かる政府が出来得る限り民主主義的自治の原則に合致することを希望するも、自由に表示せられたる国民の意思に支持せられざる如何なる政治形態をも日本国に強要することは連合国の責任に非ず」(第一部))と言明する。
 
そして最高司令官の権限は、「日本国における唯一の連合国の為の執行権者」(「極東委員会・対日理事会付託条項」の「乙・連合国対日理事会」五)だと規定している。
さらに、占領目的は次の主要手段により達成せらるべしとして、①日本国領土の制限、②完全武装解除、非軍事化、軍国主義者の一掃、③民主主義的及び代議的組織の形成奨励、④平時需要に限っての自力経済の機会付与、等を列記する。ただし、これら諸条項は、明らかにポツダム宣言に明記してある事項であるから、正当である。
 
「初期の対日方針」が言明するように、米国政府の日本占領の「究極の目的」は、日本国が再興して米国の脅威にならないように、当面は非武装化して自主的に非軍事的国家へと改造させることであった。そのために日本国を「軍事占領」したのである。
連合国総司令部(GHQ)の占領行動とは、「主要連合国の為の軍事行動」である。占領期間は国際法規上では依然として「戦争状態に在る」のだから、それはその通りなのだが、大日本帝国を降伏させるためにポツダム宣言を受諾させた以上、この国際協約が明記した降伏条件=占領条件は、当然戦勝国の行動をも国際法的に拘束したのである。
 
イメージ 3米国政府は「初期の対日方針」に続き96日付で「連合国最高司令官の権限」をマッカーサーに通達している。そこでは、「天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官として貴官に従属する」とマッカーサーに独裁者的絶大権力を付与し、さらに「我々と日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである」(第一項)と明記されている。これは降伏条件そのものの無視に等しい。ただ第三項には「ポツダム宣言に含まれる意向の声明は完全に実行される」とあるもので、米国政府部内に見解の乱れが存在していたかもしれない。
翌、昭和2117日には国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)が策定した『日本国統治制度の改革』(SWNCC228文書)が通達された。これは、別名『改憲訓令』と呼ばれる文書で、憲法改正の必要性を強調したものである。そこにはポツダム宣言に掲げられた日本国占領政策に関し、「最高司令官は日本国政府当局に対し指示しなければならない」が、「最高司令官は先に列挙した諸改革の実施を日本国政府に命令するのは最後の手段としての場合に限らなければならない」と権力行使に対する抑制を指示している。
 
以上の点から、米国政府のマッカーサーへの諸指令・訓令についてはーいくつか見解の乱れがうかがえるもののー、基本的にはポツダム宣言の精神を踏まえて策定されており、我が国の「民族自決権」「國體の良い面の保持」を最低限認めていた事実は確認できる。
イメージ 4米国政府はマッカーサーに対し、「明治憲法を破棄して旧体制を根本解体せよ」とか「平和的で民主的な憲法を制定せよ」などといった指令は出していないと解するべきであろう。
しかるに吉田茂内閣以降の歴代内閣と有力政治家、法学界や歴史学界、言論界、知識人層の圧倒的多数は、「終戦の詔書」の決意を放擲(ほうてき)し、ポツダム宣言で日本は「無条件降伏」をしたとの立場を墨守してきたマッカーサーの詐術と欺瞞に満ちた占領政治、それに阿諛迎合(あゆげいごう)した輩によって終戦の詔書の精神はあっという間に棄損され、「敗北主義者」が我が国の上から下まで覆いつくしてしまったのである
 
イメージ 5講和条約を締結し、独立主権を回復した後に設置された内閣憲法調査会(昭和31611日、第三次鳩山一郎内閣に設置)は8年に及ぶ議論の末、昭和3973日に池田勇人首相(左写真)に両論併記の最終報告書を提出したが、その中でポツダム宣言受諾は「無条件降伏」だと判定されているこれがその後一貫して政府見解になった訳で、現在の初等中等教育の社会化や歴史教科書は、無条件降伏したと説明している。しかるべき学術文献や教養図書の多くも、何の躊躇もないままポツダム宣言受諾は無条件降伏だと書いている。左翼が憲法調査会の作業を保守反動の轟動と叫び、「憲法改正」に繋がる策動だと大いに攻撃したことは本質的には大きな問題ではない。無条件降伏だとして「終戦の詔書」の精神を放擲し、國體を解体してしまえば左翼も保守も同じ穴の狢(むじな)というほかないのである
なぜそうなってしまうのか。
マッカーサーの占領政治の強力に戦後日本の政治は完敗したのである。完敗というよりも戦後日本の政治は、抵抗する意思を自ら投げ捨てたために、マッカーサーを完勝させたのである。
マッカーサーは「日本人は勝者におもねる民族」だと言ったが、まさにその政治的脆弱性に付け込んで日本の歴史を負の評価で真っ黒に塗りつぶし、反対給付として正の評価で占領政治を輝かせたのである。いささか感傷を込めて言えば、マッカーサーは我が国の光輝ある「國體」を破滅し、国民の愛国心を解体して、マッカーサー・ギフトの国家改造を完遂させた
大東亜戦争の敗北に“戦後の敗北”を重ねられた日本国民の一人として看過できないのは、戦後歴代政府、国会、憲法学界、歴史学界が、<日本無条件降伏論>に何の反駁もしないまま諦念を慫慂(しょうよう)したことである。またマッカーサーの狙い通りに「敗北主義」を国民に植え付け、「國體」の壊滅を合理化し、「敗戦国体制」を護持し続けたことであり、占領政策に屈服したのみかこれを賛美して「完敗の事実」を自ら隠蔽したことである。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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