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神武天皇畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)
古来より、わが国の美称として、「豊葦原瑞穂国」と言ってきましたが、正式には、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)と言い、千年も五百年も悠久に続く、 稲穂の実る美(うま)し国という意味でもあります。
建国以来、我国は皇尊(すめらみこと・天皇陛下)による慈愛と和の国でした。
紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原神宮に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができます。
即位建都の詔
「夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に従う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当(まさ)に山林を披(ひ)き払い宮室(おおみさ)を経営(おさめつく)りて恭みて宝位(たかみくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし。」 「大人(ひじり)の制(のり)を立て」とは、正に天照大神から連綿とつづく「神の子」の自覚と、謙遜の徳を表わし、「苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば」とは、国民の利益になることが大前提とお考えであり、「民の為の政治」の原則を謳う詔です。
天皇政治下の民主政治であり、神武天皇の御心は歴代の天皇に受け継がれ、
第16代 仁徳天皇
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」 まず、国民がちゃんと食べるものがあるかどうか、ご飯の用意をするかまどの煙にも御心を使われ、そのかまどから立ち昇る煙を見られ読詠まれた御製です。 第56代 清和天皇 「災いは偶然に起きるものではない。みな朕の不徳の致すところからである」 肥後の国熊本地方で起きた洪水に際して、天災さえもご自身の不徳から国民を苦しめたのだと、心より反省なさっている大御心です。 第59代 宇多天皇 「天をうらまず、人をとがめず、神を責めず、朕が不徳の致すところである。」 「国を富ますはただひとつ、体を臣民にあわせるのみである。」 やはり、当時に起きた洪水や疫病の蔓延にお心を痛められての玉音です。 自分の考えを国民に押し付けるのではなく、あくまでも国民の立場になって心を合わせなければならないと話されている記録があります。 第122代 明治天皇 「罪あらば吾をとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」 大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製。 自分を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇陛下という存在なのだと、臣民は知るべきです。
聖徳太子は7世紀に、十七条憲法を制定しました。これは、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。
太子の憲法には、神話に伝えられ、大和朝廷に形作られた日本のお国柄と、それに基く日本の「公と私」のあり方が、よく表されています。 十七条憲法は、天皇陛下の統治を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」です。憲法は、第一条の「和を以て貴しとなし……」という言葉で始まり、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。
憲法第15条に「私に背きて公に向かふは、是れ臣の道なり」(第15条)とあります。これはシナの「公と私」をよく表す『韓非子』の「ム(わたくし)に背くを公と為す」によく似ていまが、意味は、正反対です。
シナが支配と搾取の国であるのに対し、わが国は「君民一体」の国柄だからです。
第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。天皇陛下が国民統合の中心であるということです。
太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。そして、国民は、天皇陛下を主と仰ぎ、一方、天皇は「民」を「おおみたから」つまり大御宝としています。
第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇陛下の言葉に従うように、記してあり、上記の十五条に、「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いて再確認されておられます。
現在の為政者、官僚に欠けている精神の最もおおきな課題です。
先帝陛下、香淳皇后陛下 先帝陛下におかれましては、昭和52年8月の記者会見で、昭和21年1月1日・「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」について叡慮を賜っています。 ●「日本の民主主義は戦後の輸入品ではない」(昭和52年8月の記者会見) 畏くも先帝陛下は終戦から國民を励まされると同時に、遠い未来を見据えておられあそばされておられたのです。
日本人が誇りを失わないようにと・・・
昭和20年8月15日 宮城前(皇居) 一億総国民が涙した、『大東亜戦争終結ノ詔書』、玉音放送。 先帝陛下におかれましては、詔書の最後を次のように結ばれています。 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ(訳) 余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。 そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
この詔勅にこめられた陛下の日本国民への期待と激励と痛恨の想いを、いったいどれだけの臣民が、戦後、おぼえているでありましょうか。
親のこころ子知らずと申しますが、まさに、戦後日本の臣民は親不孝者であります。
「挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ』とあるが、この大御心は戦後、今日まで臣民は無視されてきたことがわかります。
確かに『総力を将来の建設に傾け』『世界の進運におくれざらんことを期す』という所だけは経済大國となった今日をみれば必死になってやってきた。
ところが、だれも『神州の不滅』など忘れ、『道義』も軽んじられ続けた。『志操』も捨て、『國体の精華』という言葉すら、殆どの国民が知らず、精神性を捨て去ってきました。
物質的な建設と、世界の流行に遅れるまいとする姿だけ肥大し、我欲にまみれ、精神にかわることを、捨ててしまいました。
『神州日本の不滅』『道義』『志操』『國体』という意識を、とりもどさないと、この先、國は亡国するかもしれません。
まっとうな民族意識と国家意識を、復活させることは可能なはずです。それが『国体の精華を発揚』するということです。
民族意識こそ、國家にとって民族にとって、最大最強の武器です。だから、戦後、連合国は、まず最初に日本の「民族意識」を失くさせようとしたのです。 神道指令、教育勅語廃止、で君臣の固い紐帯を、占領憲法によって軍隊を奪い、お国柄を無力化し、一旦緩急[いったんかんきゅう]あれば義勇公に奉ずる世界に類をみない精神力を発揮する「やまと魂」を封じ込めたのです。 彼らがもっとも恐れたのは、我国の軍事力は勿論、それを支えつづけた日本人の民族意識・臥薪嘗胆に代表される精神力だったことが、お解りいただけるでしょう。
日本人の精神力を骨なしにし、アメリカに魂を売らせることが、最大の武装解除を意味しました。
今度は中国、韓国、北朝鮮にも魂を奪われつつあります。
だからこそ、失いつつある日本の魂を取り戻さなければならない。
それこそ先帝陛下の大御心に報いることではないでしょうか?
私はこの記事を書きながら先帝陛下ががどんな想いで起草あそばされ、読まれたか、想像するだけで目頭が熱くなり、涙がとまりませんでした。
今一度、日本國臣民は、終戦の詔(みことのり)、「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」を深く胸に刻み、噛みしめて欲しいと願うのであります。
私たちは日本人です。 日本人は日本人の原点に回帰すべきです。 「誇り高き日本」へ・・・・・陛下の大御心の下(もと)へ・・・
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昨日は、パソコンの不具合がついに限界に達して、再セットアップをする羽目になりました。お陰で、今までブログに自動的にログインできていたのができなくなって、パスワードを思い出すのが大変でした。
しかも私はいろんなサイトで、似たようなパスワードを使っていたので、最近になって、サイトの警告に従って、パスワードを変更したのですが、変更したために新しいパスワードが思い出せないのです。あれこれ試して思い出せないので、再び新しいパスワードに変更しようとしたら、その手続きで、登録したメールアドレスが必要で、それがまた違っているというのです。もうお手上げ状態でした。 一晩たって、もう一度ログインを心当たりのパスワードで繰り返しているうちに、何とか適合するパスワードが見つかり、基本情報を見てみると、メールアドレスが、もう使わなくなった昔のプロバイダーからもらったアドレスのままでした。それを変更して、やっと一段落です。 とはいえ、再セットアップすると、なんとなく心機一転したような気もして、晴れ晴れとした気分もあります。それに今まで言語バーが隠れてしまって、文章を打ち込むたびに、ウインドウズキーとRとエンターで出さなくては出て来なかったのですが、これが何もしなくてもちゃんと出ているのが非常にありがたくてたまりません。 パソコンもなんとなく元の状態に戻ってくれて、さらに先日は、修理に出していたカメラが戻ってきました。やっと小鳥たちなどの姿が写せるようになりました。 去年11月くらいからカメラが故障して、それを年末に修理に出して、その間に、しょっちゅう庭に、ジョウビタキのオスが来て、窓から見るとかなり近くに止まっていたり、もう絶好のシャッターチャンスだというのに、手元にカメラのないもどかしさは、ほんとに残念でなりませんでした。 ジョウビタキの声はかすかなか細い笛のような声で、ヒッ、ヒッ、ヒッ、と聞こえてくるのです。この声を聞くと思わず、庭をそっと眺めてみるのですが、すぐに姿が見つかるときもあり、どこにいるのかわからない時もありますが、いろんな所に飛び移りながら、すぐに去って行きます。一体何をしに来ているのかが不明です。でも飛び移りながら、昆虫をとっているのかもしれません。そんな風には見えないですが、冬なので、餌探しも大変なのかもしれません。時々庭木の茂みに入っていくので、やはり何かを見つけに来ているのでしょう。 夏の間は、よくジョウビタキのメスが来ていました。メスは少し地味な色ですが、それでも綺麗な色で、ジョウビタキは見た目にも美しく、美男美女の小鳥さんです。戻ってきたカメラで、早速写しました。愛用のカメラが有るというのは、しみじみ幸せですね。簡単なデジカメではありますが、使い慣れて気に入っていたので、故障したときには、もうだめかとショックだったのですが、戻ってきてくれてほんとうに有難いと思います。 今まで使い方が少し粗雑だったのかもしれません。帰ってきてくれたカメラを今度は大切に、もっと愛情を持って扱おうと思っています。ものにだって、きっと魂はあるのでしょう。だから相性が合う合わないということも起こるし、不思議とこちらの心持ちの、穏やかなとき、苛立ったときに、あわせて反応するような気がする時があります。まあ偶然といってしまえばそうかも知れませんが、でもそう思うほうが、ちょっとこころが温かくなる気がしますよね。 モノだって生きている、心がある、と考えることから、本当のエコロジーは始まるのかもしれません。日本人が勿体ないという言葉で、モノを大切にしてきたことを、 ノーベル平和賞のマータイさんはおっしゃいましたが、まさにこの勿体ないという言葉に、そうしたモノの命を感じて生きてきた日本人のものの観(み)方が表れている気がします。 マータイさんは、勿体ないという言葉には、単に節約というだけではなく敬虔な心が表れているとおっしゃいましたが、さすがに、マータイさんは、よく見抜く目を持っていらっしゃるものです。 さて、早速取った写真がこれです。
冬なので、小鳥たちは羽毛をふくらませて、丸く感じられます。そのためにちょっと幼い感じがして一層愛くるしさが増します。ずっと見ていても見飽きない可愛さです。
ちょこちょこと向きを変えてはさえずっています。ほんとにかわいい!
遠くから見たシルエットも、美しいです。
カメラを修理に出す前に年末に撮った写真には、カワウが写っています。カワウがいつも止まる電柱があり、しょっちゅう止まっている姿を見ますが、年末に見たカワウは、婚姻色が出ていました。一昨年だったか初めて婚姻色を見て以来、これが二度目の時期なので、カワウの繁殖期は、やはり冬なのでしょうか。白い冠に白い足首、ちょっと威厳まで増した気がします。
カワウというのは、ほんとに電柱の上が好きで、川の近くの電柱にはけっこうよくカワウを見かけます。 時にはこんなに並んで止まっていたりします。http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/f3/4174878525bcb70e280aa4c5eda735ba.jpg
あるときこの下の川を見ていたら、水面がぼこぼこと水が湧立つようなかんじになったと思うと、鵜が浮かび上がって来ました。
こういう場面は初めて見ました。カワウが飛んでいるところや止まっているところはしょっちゅう見ますが、餌をとっているところは初めてです。このあと、どこかに飛んで行きましたが、鳥のすばやい行動をカメラで追うことは出来ず、この写真が精一杯でした。
鵜が飛ぶ姿は、なんとなく翼をパタパタ動かして、下手な飛び方に見えて、ひょうきんなイメージなんですが、こういう水に潜るようなこの鳥らしい得意技の姿は、やはり野生のかっこ良さがありますね。
うちの近くの、用水路がちょっと大きくなった程度の小さな川ですが、こうして鳥たちが暮らしていると思うと、なくてはならない川です。山林の大自然でなくても、人の暮らしのごく近くにあるささやかな自然も、とても大切だとしみじみ思います。
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
マッカーサーの日本史認識
高知大学名誉教授 福地惇
勝ち誇って乗り込んで来た占領軍の最高司令官マッカーサー元帥の人となりの一端から述べたい。
彼の日本歴史や文化を見る眼差しは、欧米人の誤解に満ちた通俗的な理解の中でもかなりレベルの低い部類に属すると言わざるを得ない。
マッカーサーは最高司令官を罷免された後に回想記を世に問うたが、それは日本版と米国版とでは内容に相当の懸隔があるいわく付きのものである。戦後間もなく『マッカーサー回想記』(津島一夫訳)と題して朝日新聞社が刊行したが、中公ビブリオ文庫として復刻された。
余談だが、チャーチルの定評高い『第二次大戦回顧録』のひそみに倣ったのであろうか、大仰に『マッカーサー大戦回顧録』(上下二巻)と表題が改められていた。原題名は“Reminiscences”だから、直訳すれば「回想記」である。
マッカーサーはこう書きとめている。
「私たちは九十二年前の同胞ペリー提督に似た姿で東京に立っている。ペリー提督の目的は、日本に英知と進歩の時代をもたらし、世界の友情と貿易と通商に向かって孤立のベールを引き上げることであった。しかし、恐ろしいことに、それによって西欧の科学から得た知識は、弾圧と人間奴隷化の道具に利用され、迷信と武力に訴えることによって言論の自由、行動の自由、さらには思想の自由までが否定された」。現今の事態になぞらえれば、マッカーサーは明治政府の指導者を、まるでサダム・フセインの如く見ていたようである。
「(日本の)実態は西欧諸国がすでに四世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。(中略)神人融合の政治形態は西欧社会では三千年の進歩の間にすっかり信用されなくなったものだが、日本ではそれが存在していた。(中略)神人一体の天皇は絶対君主であって、(中略)アメリカ人の目から見れば、日本は近代国家というよりは古代スパルタに近い存在であった」
「国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが支配の座に座り、他の何千万という国民は進んだ意識を持つ者のわずかな例外を除いて伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった」
あえて注釈を加える必要もないと私には思えるが、恐らくマッカーサーにとっては、日本の歴史に対する正確な知識はどうでもよいことだったのだろう。何となれば、米国の日本占領目的は、日本が発展性豊かな独立主権国家として再起することを極力抑えつけることにあったからだ。もちろん、最高司令官の占領統治目的もそこにあり、目的追求に役立つ道具(宗教・歴史観・政治観でも南京大虐殺や真珠湾奇襲攻撃や捕虜虐待でも経済政策でも何でも)ならば、それをトコトン活用するまでのことだったと言えよう。
歴史の事実は全くといってよいほど軽視し、日本の支配者は本来的に侵略主義の天皇制軍国主義者であったとか、大東亜戦争は世界の平和を撹乱する邪悪な侵略戦争だったとか、日本を悪者に仕上げて貶める説明であればそれでよかったのである。それゆえというべきか、マッカーサーの日本の歴史に対する認識は、日本共産主義者集団=講座派(戦前、『日本資本主義発達史講座』を岩波書店から刊行してこの名が付いた)の日本歴史説明とそっくりなのである。
戦後、日本人の精神を「敗北主義イデオロギー」に染め上げるためにマッカーサーが駆使した主力部隊(講座派)は、1920〜30年代に国際共産主義運動の司令塔(コミンテルン)が指令してきた革命運動方針(二七テーゼや三二テーゼなど)を鵜呑みしてきたコミンテルン日本支部要員(日本共産党)である。
コミンテルン・テーゼを要約すれば、天皇制は半封建的絶対主義で人民を奴隷的に搾取・抑圧するブルジョア革命以前の時代遅れの支配体制であるから、人民大衆は起ちあがって時代遅れの天皇制を打倒せよ、自らを解放せよ、というものだった。まさに日本共産党の檄文である。それを金科玉条と崇め奉った日本のマルクス主義者たちは、祖国の麗しき歴史伝統を侮蔑し、否定して天皇制打倒を鼓吹した。
大敗北を喫して精神的にも物質的にも打ちのめされ、厭戦気分に浸りきった日本国民の愛国心をここぞとばかりに壊滅させる作戦として、祖国を呪う共産主義者を格好の工作要員として、“活用”したマッカーサーは、軍人であると同時に、まさに“詭道の達人”であったと言わねばなるまい。
占領政治は陰で共産主義者を利したと私は見ている。占領軍の支援(資金援助等も含め)なしに、講座派があれほどの勢力を保って学界、言論界に跳梁跋扈し得たかどうか興味は尽きない。アメリカ自由主義の旗手を自認するマッカーサーは、日本の共産主義者を占領政治に駆使することで、<思想改造戦争>に目覚ましい戦果を挙げたのである。我々はこれを、重大な負の遺産として受け止めねばならない。
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福地先生のこの論文のご指摘は戦後日本の立て直しのために知っておくべき事実であります。
特に太字で示したマッカーサーの歴史観は、戦後の日本に大きな影響を与えるものだと思えます。
階級闘争史観とは簡単に言えば、日本の戦争は“支配階級”であった「天皇制軍国主義者」が起こしたものであり、“被支配階級”である大多数の「日本国民」には責任がない、という善悪二元論です。
この時教わったのは、徳川封建制度の圧政であり、日本の大陸侵略と国内暗黒反動組織を最初につくり上げた西郷隆盛と山県有朋という悪人に対する憎しみを教わり、大正・昭和の日本の封建主義の圧政であったのです。
日本の歴史を全く知らないGHQの面々に対しノーマンは「日本には封建制度が重
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
アメリカ占領軍により、「大東亜戦争」という言葉が禁止され、「太平洋戦争」という呼称で呼ぶように命じられて、そのアメリカの歴史観のみを正しいとして、戦後は日本人はその歴史観で生きてきました。それがどんなに異常であるかさえ気づかないほど、しっかり教育されてきたということです。 アメリカはアメリカ大陸に移住した時から、西進の歴史が始まります。セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルト、両大統領の信奉する戦略家のマハンは、次のように言っています。以下、国際派日本人養成講座より引用です。
「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世界各地に植民地を獲得する必要がある。三番 目には、そのために海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象はとりわけて中国市 場に目を向けなければならない。」
1897年、日清戦争のわずか二年後に、アメリカは日本を仮想敵として、対日戦略プログラム「オレンジ計画」を策定した。この計画は、以後、定期的に改訂を重ね、50年後に実行に移された。1911年には、次のように書かれている。
1911年は大正元年、この時にすでに満洲に関する日米の確執を予言し、中国市場を独占するために、日本を封じ込めて暴発させ、「息の根をとめる」までのシナリオが正確に描かれている。真珠湾攻撃のちょうど30年前である。
日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムスは「太平洋の覇権を我が手に」と題して、次のような記事を載せた。
「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」 これがアメリカの戦争の本来の動機です。これを日本の侵略を制止するための正義の戦いという風に捏造して、この捏造史観を東京裁判を始めとするウォーギルトインフォメーションプログラムによって、日本人に植えつけたのです。
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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なぜ「大東亜戦争」と呼称すべきなのか
高知大学名誉教授 福地惇
連合国軍総司令部は昭和20年12月15日、日本政府に対し、国家神道の禁止と政教分離の徹底を支持する覚書を出すが(神道指令)、その中で「大東亜戦争」という言葉の使用を禁じた。
「大東亜戦争」の呼称は昭和16年12月12日の閣議で、「今次対英米戦を支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定したことによる。いわば日本にとって戦争の大義を示した言葉である。
米国がそれを否定し、「太平洋戦争」と呼称することを命じたのは、あの戦争が文明と人道に対し野蛮な挑戦をした日本を懲らしめ、平和と民主主義を願う文明・正義の戦争だったというアメリカにとって都合のよい認識を日本国民に刷りこもうと意図したからである。
そ もそも戦争とは当時国双方が互いに妥協不能の政治的、軍事的、経済的な対立に立ち至った時に発生する。だから当然、双方に言い分も理屈も正義もある。 ど ちらも根本には国威、国益を擁護・拡大したいという国家の本能が盤踞するが、一方が邪悪で不義、他方は善で正義だということはあり得ない。
大東亜戦争の真実は、我が国側からすれば、国家の大義と国益を死守するための「防衛戦争」であった。「開戦の詔書」はそれを表明している。だからこそ私は「大東亜戦争」と呼ぶ。
日本は連合国を向こうに回して勇猛果敢に戦った。 ルーズベルトは日本の「無条件降伏」を望んだが、日本圧服を目前にした1945年4月 に病没。後任大統領トルーマンは、本土決戦で予想される双方の甚大な人的・物的被害や大戦後の国際政治を勘考する現実主義の国務長官代理グルーや陸軍長官 スチムソン、英国首相チャーチルら堅実な政治家との合意の上で、日本に国家存続の最低条件を突き付けて降伏させる形での終戦をめざした。「ポツダム宣言」 がそれである。
我 が国政府はポツダム宣言が「國體」が護持されると確認した上で降伏し、同宣言の条件による連合国軍の軍事占領管理に国家の命運を委ねた。占領支配に直面し た我が国にとって必要だったのは、ポツダム宣言の誓約を超えた占領政策には巧妙に抵抗し、面従腹背しながら政策の内実を空洞化するなど「講和後を見据えた 我慢強い被占領側の政治」であったろう。それが出来なかったことは、それまで対外戦争の大敗北を経験したことのなかった我が国の弱点だった。
この弱点ゆえに、占領政治推進のためにねつ造された太平洋戦争史観を鵜呑みしてしまい、「無条件降伏」したのだからという諦念のもとに専制権力たる占領軍政府に迎合した日本政府は、国家体制変造に抵抗できなかったばかりか、「敗北主義」の蔓延を阻止しなかった。
小泉首相の解放感謝(2003年 に訪米した小泉首相はブッシュ大統領との会談で、日本の占領統治について日本を解放してくれて有難うと感謝した)の談話は何を意味しているか。 民族の弱 点に付け込んで醸成された「敗戦国体制」と、それを支える「敗北主義」的な意識、この占領政治の呪縛が半世紀以上経ってもなお日本を重く拘束し続ける魔物 であることに、我々は改めて思い起こさねばなるまい。
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戦前、日本では「太平洋戦争」「日中戦争」などという言葉はなく、「大東亜戦争」「支那事変」でありました。 確かに一時占領中はそういう呼び方を強制されていたのでやむを得ませんが、それを戦後六十数余年、今でも正しいと思い込んで使い続けているところに日本人の魂が抜かれた姿があるのです。
東京裁判、そして日本国憲法の「自由」「平等」という矛盾を「民主主義」という虚構ですっかり騙されている日本人は、その狡猾な意図さえも考えることを拒絶してしまって、現在の安楽に浸ってしまっているのです。
戦後から現在も売られている歴史の本の多くは「太平洋戦争」という言葉で書かれています。
これはアメリカ側の立場に立って書かれた本だということを知らない日本人が多いのです。連合国が”正義”で日本は”悪”、これこそ日本にとっては自虐史観であります。
そして学校でも、新聞も、テレビも、当然のように「太平洋戦争」という言葉を使っています。
これらすべてがアメリカの立場からの植え付けられた歴史観なのです。アメリカの立場の歴史観が正しいと思いこんでいる日本人の姿は世界的にみても異常でありましょう。
そのことを教えない教育の在り方も占領中のまま何も変わっていないということであります。
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かつて日本は美しかったからの転載です。
現代の日本の歪みの元凶は、GHQ内部にいたフランクフルト学派による占領政策の主導です。このフランクフルト学派は同じ共産主義でもコミンテルンとは少し違い、知識階級のマルクス主義と言われるものです。
フランクフルト学派は、ドイツのフランクフルト大学から発生したものですが、ナチス政権下で、多くがアメリカへ亡命したため、彼らはアメリカに活動拠点を移し、隠れ共産主義者として社会の権力機構に潜り込んでいき、GHQにもたくさん潜り込んでいました。彼らは、社会の伝統的な道徳、価値観、社会規範、を壊すことで、革命をもたらそうとするものです。
現代の日本では、このフランクフルト学派の後裔が、日本の法務省、文部省など、いろんな所に潜り込んでこの古き日本の伝統、道徳、価値観を破壊して、国家解体を目指し、さらに、教育を支配することで、民主的な政権奪取を目指すという目標を掲げ、それが成功して、民主政権の誕生を実現させたと言えます。 フランクフルト学派は西欧マルクス主義、知識人向けのマルクス主義といわれ、1923年ドイツのフランクフルト大学内に設立された「社会研究所」が起点となっています。初代所長はマルクス主義者のカール・グリュンベルクで、彼の死によって1930年にホルクハイマーが所長として指導的な立場につきます。
フランクフルト学派はロシア革命後にヨーロッパ革命が敗北していき、プロレタリアートが革命の主体となっていない現実をみて、古いマルクス・レーニン主義は自覚しないままに権力奪取に成功してしまった。革命意識に鋭く目覚めた一団の「前衛」たちが文化破壊の状況のロシアを突破して革命に成功した。人間を疎外している文化を破壊しなければ共産主義に到達できない。革命の主導者は阻害された労働者ではなく、知識人でなければならない。批判理論を駆使し、諸学問を学際的に統合し、資本主義社会の構造を批判の対象として構造化できるのは知識人だと考えるようになりました。 (ルカーチの理論)
フランクフルト学派はあらゆる徳目や「価値」は批判されるべきとしています。
キリスト教(日本で言えば神道) 教会 家族制度 父権 権威 性的節度 伝統 国家 愛国心 尊敬心 心
このフランクフルト学派は戦後、GHQによって日本を席巻します。近年公開された米国の史料でCIAの前身であるOSSはフランクフルト学派の巣窟であったことがわかっています。占領政策はコミンテルンの要領とは異なっており、ルカーチの理論に基づいています。OSSの史料にはマルキストの日本人学者やアジア専門家が多く名を連ねています。この人たちもGHQの占領政策にかかわり、公職追放によって空席となった大学や教育機関、研究機関、行政に潜入していきました。
一ツ橋大学名誉教授だった都留重人氏は有名でしょう。彼は共産主義者ハーバート・ノーマンの同志です。憲法作成に関わっています。東大法学部憲法学者の宮沢俊義氏もフランクフルト学派でその教えは弟子に受け継がれているでしょう。民法学者の我妻栄氏もそうです。
「ジェンダー・フリー」「ゆとり教育」は文部省に潜入したフランクフルト学派のエリート官僚の賜物です。男女共同参画社会なんていうのも出来ましたね。男らしさ女らしさを全否定したわけです。日教組の変態教育も「古い性道徳からの脱却」というフランクフルト学派の影響を強く受けています。「憲法愛国主義」というのを聞いたことがあるでしょうか。国家観がなく憲法を最上に頂くものです。フランクフルト学派第二世代、ハーバマスによるものです。これに侵されている人の特徴は「強制」という言葉に反応することです。国歌斉唱時の起立も自由意志と叫びます。これはハーバマスのコミュニケーション論的理性という「強制なき合意」「支配なき融和」がもとになっていると思います。
フランクフルト学派は日本を破壊し、革命を導くというテロ的思想であり、これが日本の中枢に入り込み、教育やメディアを支配しています。このイデオロギーの洗礼をまともに浴びたのが団塊の世代です。現在が最高潮の時期となっており、現政権からもそれと匂う政策の話しが続々と出ていると思います。日本は今、非常に危険な状態にあると思います。
参考文献
「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政著 ワック出版「歴史通」WiLL10月号別冊 『野坂参三共産政権の誕生』田中英道 PHP「現代思想入門」仲正昌樹 清家竜介 藤本一勇 毛利嘉孝
添付画像
マックス・ホルクハイマー(左)。右はテオドール・アドルノ。 著者:Jeremy J. Shapiro. Original uploader was Jjshapiro at en.wikipedia
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