過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1120903/img_1120903_33465615_0?20101016153602

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1120903/img_1120903_33465615_1?20101016153602

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1120903/img_1120903_33465615_2?20101016153602

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/1c/80/x1konno/folder/1120903/img_1120903_33465615_3?20101016153602

人気ブログランキング ← 最初に、応援のクリックをお願い致します


良識ある日本国民の皆様には、中共が菅首相の劉暁波氏釈放発言に不快感を示したのはご存知だと考えます。

劉氏釈放要求に不快感=菅首相らの発言「下心」―中国

【北京時事】中国外務省の馬朝旭報道局長は14日の記者会見で、中国で服役中の民主活動家、劉暁波氏のノーベル平和賞授与決定に関して、菅直人首相が国会で「釈放されることが望ましい」と述べるなど国際社会で劉氏の釈放要求が相次いでいることについて「授与を支持する一部の国の要人の下心はどこにあるのか。中国の政治制度が好きではないのだろうか」と不快感を示した。その上で「内政干渉は認めない」と反発した。
(10月14日 時事通信)より一部抜粋
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101014-00000115-jij-int

>劉暁波氏のノーベル平和賞授与決定に関して、菅直人首相が国会で「釈放されることが望ましい」

1989年に日本人拉致犯人の「辛光洙(シン・ガンス)釈放嘆願書」に署名した「菅首相」は14日の参院予算委員会で、ノーベル平和賞受賞が決まった中共の民主活動家「劉暁波(リウ・シアオポー)」氏について「釈放されることが望ましい」と述べましたが、自民党の山本一太議員が「中国政府に釈放を求めるべきだ」との発言には「直接釈放を求める」との回答はせず、仙谷官房長官は記者会見で「(中国政府)現段階では2国間でそういうことにはならないと考えている」と否定しており、民主党政権は日本国民の声を無視して「中共漁船衝突事件のビデオ公開」もしない「中共第一」の「菅中拝(缶酎ハイ)政権」です。

>国際社会で劉氏の釈放要求が相次いでいることについて「授与を支持する一部の国の要人の下心はどこにあるのか。中国の政治制度が好きではないのだろうか」

中共で獄中にいる「劉暁波」氏へのノーベル平和賞授与決定を受け、米国のオバマ米大統領は「(中国は)基本的人権はもっと尊重されるべきだ。劉氏をすぐに釈放するよう中国当局に求めたい」と述べ、フランスやドイツなど各国も「劉氏の早期釈放」を相次いで求めて「民主化」・「人権問題」での「対中包囲網」を形成しようとする「欧米諸国」は、チベットやウイグルの問題だけではなく「世界各地」へ軍事力と経済力を背景に「間接的侵略」をして、「世界通貨安紛争」とも呼ばれる中で「人民元」を操作する「中共」の政治制度を嫌っているのは常識です。

>「内政干渉は認めない」と反発

日本の靖国神社問題や教科書問題に「内政干渉」をする中共に「認めない」と言う資格はありませんし、欧米諸国が内政干渉をしなくても「中共国内」では言論統制が厳しい中で「劉氏」への「称賛」や「投獄」している中共政府への「批判」の声が上がっており、1989年の「天安門事件」の犠牲者遺族グループ「天安門の母たち」のメンバーは12日に「劉暁波氏の無条件釈放を中国政府に求める声明」を発表して「中国の政治体制を平和的に転換するのに役立つ」と平和賞授与を決めた「ノーベル賞委員会」に敬意を示しています。

中共のネットでは「劉氏を支持」するブログや掲示板の書き込みなどは「閲覧禁止」か「削除」されている中で、あるサイトに「今夜は我々に敵はいない」とする詩が掲載されて反響を呼び続々と転載され、「今夜、全世界が耳を傾けた。誰が地獄の門をたたいたか」(地獄は劉氏が収監中の監獄)・「涜神者=神を冒涜する者=は弱々しい非難を続ける」(涜神者は中共政府を指すとみられる)・「人民はただ、欧州で生まれたパンダのニュースを祝うだけ」(報道番組では欧州のニュースはスペインのパンダ出産の話題だけで、ノルウェーでのノーベル平和賞決定が黙殺されたことを皮肉る)などが書き込まれています。

[[attached(3, center)]]

↑ 香港の中共政府の出先機関前で、劉暁波氏の釈放を求める民主活動家たち

ノーベル平和賞で対中包囲網に加わらない日本

中国の獄中作家、劉暁波氏が下馬評どおり、ノーベル平和賞を受賞した。いまさらだが、ノーベル平和賞というのは極めて政治的な賞だ。国際社会からの政治的メッセージが込められている。劉氏が受賞できて、ウイグル人の人権擁護活動家として知られるラビア・カーディル女史や、中国のエイズ患者の権利擁護のために活動し国家政権転覆扇動罪で服役中の弁護士・胡佳氏が受賞できなかったのは、まさしく国際政治的な流れのおかげである。つまりGDPで日本を追い越し、南シナ海や東シナ海の海洋権益拡大にむけた強引な態度など、「中国このまま放置しておくと国際社会の脅威となる」と、周辺国家に思わせてしまったのだ。そしてノーベル賞委員会がそういう空気を察知し平和賞授与を決め、これを機会に、国際社会は対中国際世論包囲網で中国の体制改革を促そうと考えた。そういう国際社会の対中警戒を引き起こしたきっかけの一つは尖閣諸島海域でおきた中国漁船と日本の海上保安庁巡視船の衝突事件だろう。

ところが、欧米から台湾に至るまで劉氏のノーベル平和賞受賞を祝福し、中国の姿勢を批判するコメントを相次いで出すなかで、日本の菅直人首相のコメントは、祝福の言葉すらなく、「ノーベル賞委員会がそう評価した。しっかり受け止めておきたい」とまるで中国政府のスポークスマンのような発言をした。9月末に訪日していた中文独立ペンクラブの廖天●(王ヘンに其)会長が牧野聖修衆院議員(民主党)を訪問したさい、牧野議員は劉氏のノーベル平和賞受賞を支持する声明を人権問題議員連盟で出すと約束したそうだが、それも出されなかった。

これは、日本は国際社会の対中包囲網に加わらず中国の味方に立つ、と言っているようなものだ。中国はこのメッセージを受け取り、翌日には軍事管制区に立ち入ったかどで拘束していたフジタ社員を釈放し、尖閣事件で中国政府が受け入れを拒否していた「日本青年上海万博訪問団」の再招待が決まった。だが、日本は本当にこれでいいのだろうか。日本だけが中国の味方をする、という選択は確かに外交政策的には有りうるし過去にもあった。だが尖閣問題での中国の横暴に翻弄(ほんろう)され国際社会に注意喚起した当事者の日本が今のタイミングで中国にすり寄るのは、経済貿易など目先の利益を優先し、独裁国家の言論弾圧を肯定する非常にみっともない選択、ある種、裏切り行為にすら見えないだろうか。

さらにいえば、こういう主体性のない性格は、「不打不成交」(けんかしなければ友達になれない)という中国人がもっとも軽蔑(けいべつ)し嫌うタイプではないだろうか。きちんと情勢を判断できないと、日本は中国以上に国際社会で孤立する可能性がある。
(10月14日 サーチナ)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1014&f=national_1014_066.shtml

[[attached(4, center)]]

↑ 米国人の外交官で1931年上海副領事として中共に行き「満洲事変」に伴う第一次上海事変などを体験した「ラルフ・タウンゼント」氏の1933年の著書「暗黒大陸中国の真実」(田中秀雄・先田賢紀智共訳)は、大東亜戦争前の中共での体験を記してその内容は現在の中共にも当てはまり「日本が学ぶ」ことです。

『暗黒大陸中国の真実』抜粋

◎本文の一部24 『軍艦を盾に賠償金を取った田村総領事』 (以下大意)昭和七年の上海事変の直前のこと。福州でも収奪目的の学生秘密結社がたくさんあり、ある日本人教師夫妻が脅されていた。そこで日本の田村総領事は、福州当局や警察に警備を依頼した。中国人の顔を立てたのである。ところが、警備にあたった中国兵は、ある日とつぜん姿を消し、日本人夫婦はたちまち殺されてしまった。グルになっていたとしか思えない。

田村総領事は「これは重大な過失である。遺族に五万ドルの賠償金を払うべきだ」とした。ところが中国当局は言を左右してまともな返事をしない。そこで田村総領事は、日本海軍に打電して軍艦を向けてくれと頼み、それを中国側に話した。そうしたら急に五万ドルを持ってきた。・・・・・日本海軍は実際に来た。中国人には田村式が一番である。それ以後、福州では日本人殺害や反日行動がピタリと止んだ。日本人は最高の扱いを受けるようになった。
(オロモルフの論考)より一部抜粋
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ankoku_tairiku.htm

日本固有の「尖閣諸島」だけではなく「中共人」の「犯罪」や「観光客」に毒餃子のような「食品」など、あらゆる毒を撒き散らして日本を滅ぼす「毒国家の中共」には田村総領事の精神を持ち強硬な姿勢を示すべきで、反中共には劉暁波氏の釈放を求めて日本は欧米諸国の対中包囲網に加わるべきです。

良識ある日本国民の皆様、毒国家の中共についてご考慮下さい。

===↓↓ ランキングの応援クリックお願いします ↓↓===


「人気ブログランキング」 https://blog.with2.net/in.php?646336

転載元転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘

                       \?\᡼\? 1
          \?\᡼\? 2

・・・

・・・



イスラエルによるパレスチナ自治区のガザ地区への空爆で
パレスチナ人の死者はこれまでに380人以上、
イスラエル側にも死者が出ています。

過去にはイラクが核兵器を持っているとして、

イスラエルが自衛のためにイラクの核施設へ先制攻撃を行った、
「バビロン作戦」は有名です。
さしずめ日本が北朝鮮の核施設を先制攻撃するようなものでしょうか。


イスラエルといえばユダヤ人です。

そのイスラエルから日本人で唯一
イスラエルで一番名誉ある
「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を贈られた
杉原千畝(すぎはら ちうね)。


杉原千畝を今年最後に書いてみたいと思います。




〜東洋のオスカー・シンドラー、 センポ・スギハラ〜



杉原千畝は1900年の1月1日に岐阜で生まれました。

こんな覚えやすい生年月日も珍しいですよね。
明日の元旦1月1日は生誕109年ということです。


杉原は早稲田大学のときに生活が苦しいために

官費で留学生としてハルビンに行き
日露協会学校でロシア語を学び、
ロシア人宅に寄宿してロシア通となっていきます。
その間には朝鮮へ陸軍志願兵として入隊したこともあります。

その後、満州で外務省書記生や

ハルビンの日露協会学校の講師などもおこない、
外交部事務官としてソ連担当となりました。

ソ連とは北満州鉄道の譲渡交渉を担当し、

当時のお金で4億円以上の値引きをしたとして高い評価を受けました。

その後帰国したが、

フィンランドのヘルシンキに赴任となり、
さらにその2年後、
今度はリトアニアのカウナスへ領事代理として転任しました。

このカウナスでの出来事が杉原の人生を変えました。



杉原は日本人もいない、

しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、
ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていました。

しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、

ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。
杉原は急な閉館の準備で忙しくなりました。



さてこの時代の背景を少し書きます


<第1次世界大戦で敗北したドイツ。

敗北後にヒトラーが短期間でドイツを再建します。
このときのヒトラーは非常に評価されていました。

一方、ユダヤ人は

古代から欧州各国から嫌われ差別されてきました。
それはユダヤ教徒がイエス・キリストを殺害したといわれ
キリスト教徒から恨まれていたからです。

またドイツにとってユダヤ人は、

第1次大戦でユダヤ人の工作のため敗北したためと
ドイツをさらなるユダヤ人迫害に向けました。

ドイツの異常なほどのユダヤ迫害のため

ユダヤ人はナチスドイツから逃げまわります。

この時ドイツとソ連の間にポーランドがあり、

両国は共にそのポーランドに侵攻。
そしてドイツとソ連は不可侵条約を結び、
ポーランドはドイツ、リトアニアなどのバルト3国はソ連のものとなります。

そのポーランドの北側にリトアニアがあります。

そこにはナチスドイツから追われて逃げてきたユダヤ人が多くいました。>




リトアニアが中立国だと考えていたユダヤ人ですが、

この地にもナチスドイツが攻めてきそうになりました。
ユダヤ人は生命の危機感を感じて、
次はどこに逃げたらよいかわけがわからなくなっていました。
逃げるところはもうないのです。


絶体絶命のユダヤ人は

ここでこういう話を聞きつけました。
「ドイツに併合されて行き場のないオランダ人が
オランダ領のキュラソー島へならユダヤ人も差別なく行ける」ということです。

ただし、

ユダヤ人がキュラソー島に行くには日本を経由しなければなりません。
キュラソービザと日本ビザが必要となりました。

ユダヤ人は杉原のいる日本領事館に

ビザ発給のお願いに殺到しました。

ユダヤ人は杉原にナチスの恐怖を何度も語り、

そして何とかして日本ビザを発行してくれるように
必死でお願いしました。
迫害されて殺されるのはわかっていましたから。
杉原の心は動きます。

しかし杉原もここから出て行かなければならない。

時間がない。

そしてビザ発行への問題も多い。


問題とは

ここリトアニアの出国許可、
日本の受入れ許可、
その間の通過する国の許可、
その費用など。
現実には不可能に近かった。

詰め寄るユダヤ人に杉原は

「あなた方は極めて同情すべき境遇にあります。
私は自分に与えられた権限や守るべき規定の範囲内で、
できる限りのことをしてあげたい。
しかし、人数があまりに多いので上司の外務大臣の了解を得るから
2,3日待っていて下さい」と言いました。

通過国のソ連はOKがでました。

費用も神戸のユダヤ人協会で何とかなる。
日本のビザ発給だけです。

しかし、外務省の答えはノーでした。


杉原は再度、特例でお願いしたが答えはノーでした。


当時日本はドイツ、イタリアと同盟を結ぶつもりなので、

ユダヤ人の受け入れは公(おおやけ)にできませんでした。

領事館を取り囲むユダヤ人は日増しに増える一方です。


杉原は悩み続け、妻の幸子に

「彼らの望む事をすれば、外務省を辞めさせられるかもしれない。
ドイツ軍にも捕まるかもしれない。君も幼い3人の子供も。それでもいいかな」
幸子は「かまいません」

ついに杉原は外務省の反対を押し切り、

独断でユダヤ人にビザを発給したのです。
自分や家族の身がどうなろうとも。

杉原はビザ発給のために

食事をする時間も、書き過ぎで手が動かなくなってきても、
最後に自分が汽車で出国するそのホームに群がる難民にも
書き続けました。

しかもそのビザ発行は無制限に発行しました。

有効期限が明らかに切れていようが、
偽造パスポートとわかっていても、
全くお金がないユダヤ人にも、
とにかくこのユダヤ人が生きていくために、
すべて発行しました。
ユダヤ人たちはビザは、
杉原が外務省と交渉して許可されたと思っていました。
独断だとは知りませんでした。



そしてユダヤ人難民はシベリアを越え、

ウラジオストックに着きました。
すでにここには外務省から難民ユダヤ人への杉原ビザの
検印捺印は駄目だと命じられていました。

しかし、ここウラジオストックの領事代理として根井がいました。

彼は杉原のハルビンの日露協会学校の同窓生でした。
根井はリトアニアでの杉原のビザ発行を知っていましたので、
外務省命令を無視してユダヤ難民15000人の全てにビザ発給をしました。


そしてついにユダヤ難民は敦賀に着き、神戸に着きました。

日本はこのユダヤ難民を手厚く保護しました。
あれだけ反対していた外務大臣の松岡洋右もユダヤ難民を擁護します。

ヨーロッパのようにユダヤ人に偏見がない日本人に対して

ユダヤ人たちは驚きと感謝でいっぱいでした。

しかしユダヤ難民たちの日本滞在は14日しかありません。

早く次の行き先を見つけなければなりません。
これも外務大臣の便宜で1ヶ月の許可になりました。


ユダヤ人たちは神戸からアメリカ、イスラエル、香港、

さらに日本の支配下の満州や上海へ旅立って行きました。


日本に帰国後、この件で外務省は杉原を退職させました。



戦後、ユダヤ人たちは恩人である杉原を探し続けました。

実際に見つけるまでには28年かかったそうです。
それは「チウネ・スギハラ」でなく「センポ・スギハラ」
で探していたからでした。

チウネはユダヤ人には発音しにくいのでセンポと呼ばせていたからです。



昭和43年ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原に

イスラエル大使館から一本の電話がありました。
不信に思った杉原でしたが、
そこで参事官と面会しました。

参事官は「私のことを覚えていますか?」と聞きましたが、

杉原には覚えのない知らない人物だったので
「申し訳ありませんが、」と答えたら、
参事官はボロボロになったビザを取り出し、
自然と溢れてくる涙を拭いもせず、
「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、
私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、
28年間あなたのことを探していました。
やっと会えましたシンポ・スギハラ」

彼こそカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行った

ユダヤ人だったのです。


翌年、昭和44年に杉原はイスラエルに招待されました。

出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。
彼もカウナスでビザ発給の交渉を杉原とやったあのユダヤ人だった。

生きての再会を喜んだ二人でしたが、

バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。
あの杉原ビザの発給が日本政府の許可もなく、
杉原が独断で外務省に逆らって発給したこと、
さらにそれが原因で杉原が外務省を辞職せざるを得なかったことです。

ユダヤ民族の命の恩人として、

永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、
杉原には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

バルハフティックはイスラエルでの

「自らの犠牲を顧みずにユダヤ人を助けてくれた異邦人に贈る」という
「ヤド・バシェム賞」の受賞選考で杉原を推薦し、
杉原は昭和60年にイスラエルから「ヤド・バシェム賞」を贈られました。

その時すでに杉原は病床の身であり、

夫人の幸子に
「私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。
しかし、私は頼ってきた人たちを見殺しにすることはできなかった」
と語ったそうです。

その年の暮れにはイスラエルに杉原の顕彰碑が建てられ、

式典には代理で息子が出席しました。
杉原はその様子を手紙で知らされ、
あるれる涙でいっぱいだったそうです。

スギハラに助けられたユダヤ人は6000人。


その翌年の昭和61年、杉原は86歳という人生を閉じました。





死の前年、杉原はこう語ったと言います。


「あなたは私の動機を知りたいという。

それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。

避難民には老人も女もいた。

当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、
内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。
彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。

いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。

しかし、私自身これが正しいことだと考えた。
多くの人の命を救って、何が悪いのか。
人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、
私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。」


さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

輝かしい日本の発掘     より転載しました



開く トラックバック(2)

全1ページ

[1]


.
kakinoki
kakinoki
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事