完 「七生報国」の誓い 後編
夕日が西の空を赤く染め始めた頃、正成は楠木軍を集めると、林の奥の空家に
入りました。楠木軍は、七十三名にまで減っていました。
「皆よう戦ってくれた…もはやこれまでじや。」
部屋の中に二列に並び、皆で念仏を唱えました。
その時、一人の男が駆けつけて来たのです。
「某(それがし)、菊地武吉(きくちたけよし)と申す者。兄、菊地武重(たけしげ)に
正成殿のご様子を見て参るよう、言いつかって参りました。」
正成が家の戸を開けました。
「何と…敵陣の中を、よくぞここまで…!」
菊地武重、武吉兄弟は、鎌倉幕府を倒す戦で討死にした菊地武時の息子です。
父の菊地武時は、周りの武将が 天皇側から幕府側に寝返った時、ただ一人
天皇側について最後まで幕府軍と闘いぬき、討死にした勇猛果敢な武将です。
建武中興の時、正成が討死にした菊地武時を、帝の一番の忠臣だと皆の前で
言ったので、菊地一族の功績は武将達をはじめ、後醍醐天皇の知るところと
なったのでした。
今回の湊川の戦で新田義貞についていた息子の菊地武重が、孤立した正成を
心配し、弟の武吉を遣わしたのです。正成が言いました。
「我ら楠木七十三名ただ今より自刃(切腹)いたすところじゃ。兄上の武重殿に
呉々も宜しく伝えて下され。痛み入るお心遣い、正成が心より感謝申していたと
…義の志(こころざし)厚いそなたの父上と、生前一度お会いしたいもので
あった。…武吉殿、呉々もお気をつけて帰られよ…」
正成が家に入ると、武吉は部下に言いした。
「正成殿の…何と涼やかなお顔であろう…お前は急ぎ帰り、兄上に正成殿
の今の言葉を伝えよ。私は…ここに残る…正成殿のお陰で、わが菊地一族
はどれ程栄誉を賜ったことか…その正成殿が自刃する場に望み、どうして
私一人が正成殿を見捨て、おめおめ生きて帰れよう…!」
武吉の眼から大粒の涙がこぼれ落ちました。
「正成殿!菊地武吉、お供仕る!」
武吉は家に火を放ち、家の前で自刃したのです。
家の中では、楠木の者達が次々自裁(切腹)していきました。
正成の胸の内には、これまでの様々なことが思い出されては消えました。
最後に正成は、弟の正李と向かい合いました。
「お前と刺し違えるという…約束であったな。」
「正李…人間は死ぬ前の最後の一念が大事だという…今、お前は何を思っている…」
「兄者、わしの今の願いはな…七回までも、ただ同じ人間界に生まれ
変わって、朝敵(帝の敵)を滅ばしたいということじゃ!」
その言葉に正成も心から嬉しそうに笑いました。
「わしも全く同じじゃ。朝敵を滅ぼし、真に平和な世の中となるよう力を
尽くしたいものじゃ。」
「再び二人で、帝のため国のため力を尽くそうではないか!兄者、約束じゃぞ。」
「正李…約束ではない。これは…誓いじゃ…!」
正成と正李は、がっしりと腕を組み合いました。
「正李…さらばじゃ。それぞれ七度までも生まれ変わって、この志を貫こうぞ…!」
二人の目がピタリと相まみえたのと、二人の刃が互いの胸を貫いたのは、
ほとんど同時でありました。
正成の死は、一つの時代の終わりを示していました。
しかし、
正成兄弟が最後に残した誓いは、後に「七生報国(しちしょうほうこく)」
(七度生まれ変って国のために尽くす)と呼ばれ、この「七生報国」の
志は、時を超えて、その後の歴史に大きな影響を与えることとなったのです。
(完) 楠木正成
楠木正成
後藤久子著より抜粋