|
我国の友好国、「タイ王国」が未曾有の災害が襲っています。
一刻も早い終息を願うばかりです。
以下に友好の歴史を抜粋します。
☆長崎から江戸まで、象が歩いた
享保13年(1728年)6月安南(タイ国)より雄雌2頭の象が来ました。牝象は、寒さの為死んでしまいましたが、翌年3月長崎から江戸まで、象が歩きました。
江戸になくてはならない人気者になりました。
☆日タイ交流の始まり
1882年(明治15年)、東伏見宮殿下がバンコクを訪問されて、国交関係樹立について会談された。
☆靖國神社参拝、外国要人第一号はタイの外務大臣
1887年(明治20年)9月22日、シャム(現在のタイ)国王の弟で外務大臣のデヴァウォングセ閣下が、外国要人として初めて靖国神社に公式参拝されました。
☆政尾虎吉博士がタイの法典編纂に従事
タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問の首席だった政尾虎吉博士は、1897年(明治30)から大正2年までの16年間、タイにとどまり、新法制と法典編纂の事業に取り組んだ。博士が大正10年に亡くなられた時は、タイ政府は国葬の礼を持って遇した。
☆日本女性がタイ貴族女学校の校長に
近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつ(1870〜1945)が事実上の校長として招かれた。1904年から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えた。それから再度のイギリス留学の後、帰国後は東京女子大学学長、東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教育に大きな足跡を残した。
☆泰の性格 - 1941年4月3日 田村大佐放送
前駐泰大使館附武官陸軍大佐田村浩氏は四日午後八時より「泰国最近の情勢」についてAKより放送、日本と攻守同盟を締結した前後の事情、最近の同国の政情、泰国人の特性、ビプン首相の人なり、泰国軍などを詳述したのち日本人が泰人に対する態度について次の如く述べた。
泰国人は面子を非常に重んじる。ゆえに彼らに接するにはその体面を傷つけぬように注意せねばならぬ。小さいことではあるがたとい低い身分の泰国人に対しても衆人の面前で口汚く罵ることは避くべきである。 また泰国人は深い仏教徒であるから仏様に対して不敬になるようなことをしてはならない。仏像や僧侶を大切に取扱うことが必要である。僧侶は王様や貴族に対しても絶対に頭をさげることをしないし礼をすることもない。これが小乗仏教の習わしであってそれくらい僧侶は権威を有している。 また泰人に体罰を加えることは屈辱を加えることになる。日本人は一寸したことですぐ他人の頭や頬っぺたをはることがあるが、これは泰人に対しては絶対にいけないことである。殊に泰人は頭は最も神聖なるものとして宗教的信念をもっている。可愛いからといって小さな子供の頭を撫でることも避けた方がよろしい。 また泰人がてきぱき返事をしないからといってむきになってはいけない。明瞭に「ノー」ということを彼らはいわない癖がある。
☆米英の圧迫打破 - 1941年12月16日 ピブン泰首相公式放送
われわれはタイ国家興隆のために生きねばならぬ。働かねばならぬ。しかも果敢に行動しなければならぬ。この重大時機を乗切るためには全タイ国民は政府と足並を揃えて断乎とした行動をとらねばならぬ。
過去をふりかえってみよう。最近には仏印と武器を執って戦わねばならなかったが、日本の強力な援助によって失地を回復し得た。遠い昔から日・タイ間にはただの一度として不愉快な思い出を残したというべきなんらの記憶もない。タイの国土は次第に小さくなって来ている。これは一体どこの国の仕事であったか。今さらいうまでもない。彼ら列国の間で条約まで結んだメナム河を国境としてわがタイ国を分割しようとしたのではないか。 タイは今まで堂々独立国家として自由に存在して来た。これまでになぜわれわれは欧米諸国に与えたような親善を日本に対して与えなかったのであろうか。これはよく考えてみると実に巧みな米英第五列の宣伝のためである。われわれは彼らに欺かれてはならぬ。 いま日本は全東亜民族を英米から解放するために戦っている。しかも日本はかつてのわがタイ国の土地にあって戦っているのだ。タイは今この機会を逸することなく立上らねばならぬ。そして米英の奴隷的圧迫を打破するために戦わねばならぬ。 ☆タイ、米英両国に宣戦布告 米英はタイが日本と同盟したというので、タイの地方都市の空襲を始めた。ピブン政権は、1942年(昭和17年)1月8日、米英両国に宣戦布告する。
☆東条首相、タイを訪問
1943年(昭和18年)7月、東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだという。
☆国に帰ったら、殺されるかな
「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は、『こんな気の毒な日本を見ていられるか。』と口々に言いました。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。」
タイ王国 元貸与金返還交渉使節団 ソムアン・サラサス最高顧問
※帰国後、ソムアン顧問はこのように報告し、最終的に1959年、20億バーツ(当時の換算で10億ドル以上)の巨額な日本側の借金を、実に40分の1の2,500万ドルにまで値引きに応じてくれたのである。また、後日こう振り返っている。
「国に帰ったら、殺されるかな。」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから。」と自分に言い聞かせました。団員も同じ気持ちだったのです。
※更に、ソムアン顧問とその父で戦前に経済相を務めたプラ・サラサス氏は、「あまりにも日本の子供達がかわいそうだ。」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈っている。プラ・サラサス氏はまた、マッカーサーと直接会って、「将来、アメリカはソ連とかならず対決する日が来る。その時、力になるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカの為にも、アジアの為にもならない。」と進言している。
☆12月8日 - 日本というお母さん -
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。
12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」 ククリット・プラモード タイ王国元首相(1973年就任)
※タイの人々は、目上の人を非常に大切にします。特に父母に対しては、敬意と感謝の念を忘れる事は有りません。国王は国民の父であり、王妃は国民の母と称される程です。そのような国の首相が、就任以前の記述とは言え、「日本という母がいたことを忘れるな」と東南アジア諸国の人々へ発信してくれた事に深い感銘を覚えます。
☆優しかった日本兵を私は忘れない
私はクンユアムに進駐してきた最初の日本兵から、帰還する最後の一兵までを知っている。クンユアムの日本兵は村人と共に働き、お互い協力して生活していた。カンチャナブリの博物館で宣伝される日本軍とは違う。優しかった日本兵を私は忘れない。
2005年1月8日 メーホンソン県クンユアム
旧日本軍博物館 財団設立準備総会 ジャルーン・チャオプラユーン(元運輸大臣) The Greater East Asia War Japanese Army Museum of Khun Yuam(大東亜戦争クンユアム旧日本軍博物館)
※インパール作戦後、日本兵が敗走した白骨街道。そこでは作戦中、道路建設に駆り出された現地人の多くもまた死んでいる。そのような究極の精神状態での交流を通して、今でも現地の人たちに語り継がれている日本兵が居たことを誇りに思う。
☆プミポン国王ご夫妻、靖国神社に公式参拝 1963年(昭和38年)6月4日、プミポン国王ご夫妻が、靖国神社に公式参拝(中村元司令官が名代)されました。
☆2002年、敬宮愛子内親王殿下お誕生のお祝いに日本国民に友好のしるしとしてアジアゾウのアティ Artid(太陽、オス5歳)とウタイ Authai(日の出、メス4歳)が寄贈されました。 タイからのアジアゾウ来園は、1964年に当時の皇太子殿下(現天皇陛下)がタイ王国を訪問したときに、タイ王国日本留学生会より贈られた「メナム Mae Nam(オス)」(1965年来園)以来37年振りとなります。
☆日本は最高のパートナー 2006-12-27
プリディヤトン副首相兼財務相は26日、ニュースクリップのインタビューに応じ、対日関係を重視する姿勢を鮮明にした。
私個人は、97年の経済危機から現在まで、日本は最高のパートナーだったと思っている。危機の際にも我々を捨てず、助けてくれた。タイの自動車産業がアジアのデトロイトまでもう一歩のところまできたのも、日本のメーカーの投資のおかげだ。来年は日タイ修好120周年に当たるが、日本との友好関係は今後も大事にしていきたい。
プリディヤトン・テワクン副首相兼財務相
1947年生まれ。王族。 米ペンシルベニア大学ウォートン・スクールで経営学修士号(MBA)を取得。 縁戚のラムサム財閥がオーナーの商業銀行カシコンバンクに勤務。 アナン暫定内閣で副商務相。 1993〜2001年タイ輸出入銀行総裁。2001〜2006年タイ中央銀行総裁。 ☆東日本大震災後、電力不足に悩む我国へ
タイから東京電力に無償で貸し出された天然ガスの発電機が、川崎市川崎区千鳥町の川崎火力発電所に設置された。短期間の工事で約四万世帯分の発電能力が増強された。試運転も済ませ、電力不足時の予備電源として緊急稼働に備える。(下画像)
☆天皇陛下の魚 - プラー・ニン(仁魚)
1964年(昭和39年)、今上陛下が皇太子時代にタイを訪問された時、プーミポン国王から山岳民族であるモン族のタンパク質不足の問題をお聞きになり、繁殖力の強いティラピア50尾を贈られた。その後、タイ全土で養殖されて、1973年にはバングラデシュへの食料支援として50万尾を贈られたという。今では山岳民族だけでなくタイ国民の貴重な蛋白源となっている。この話に感動した中国系タイ人が、御名前「明仁」から一字を頂き、中国語で「仁魚」、タイ語でプラー・ニンと命名したという話が残っている。
※タイの市場ではナマズが見当たらない日があっても、プラー・ニンが売られていない日はありません。体長30〜40cmのものでも20〜30Bで買えます。今では、それほど庶民的な魚です。
私たち日本人が思う以上に、タイ王国は変わらぬ友好、友情を持ち続けてくれています。我国も震災後、時間もたっておらず国難の時ですが、支援の輪が広がっていくことを願ってやみません。
災害に遭われた、タイ国民の皆様にお見舞い申しあげます。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年10月25日
全1ページ
[1]
|
かつてプロのサッカーチームの選手として活躍した京谷和幸さん。
とても期待された選手でしたが、そんな京谷さんに悲劇が訪れます。
京谷さんが車を運転中、脇から飛び出してきた車を避けようとして電柱に正面衝突するという
大事故に遭い、足がピクリとも動かなくなってしまいました。
子供の頃からサッカー一筋に打ち込んできた京谷さんにとって、
これは受け入れがたいものでした。
入院中の病室で一晩中一人で泣くこともあったそうです。
しかし、京谷さんは決してあきらめませんでした。
懸命にリハビリに励み、やがて「車いすバスケット」と出会います。
車いすバスケットとは、文字通り車いすに乗りながらバスケットをするスポーツですが、
最初はコートを十周走るだけで腕がパンパンに腫れあがったそうです。
それでも京谷さんは真剣に車いすバスケに取り組みます。
そして、事故から6年半後、シドニーで開催されたパラリンピックで日本代表入りを果たすのです。
現在、仕事、車いすバスケの練習、そして講演と積極的に活動している京谷さん。
・・・
パラリンピックが日本で初めて開催されたのは、昭和39年の東京パラリンピックでした。
当時パラリンピックは世界的に注目を集めていたとはいえず、
まして日本では障害者スポーツ自体、全く知られていませんでした。
そのような中、パラリンピック会場を回られ、選手たちを激励されたのが
皇太子同妃両殿下(現・天皇皇后両陛下)でした。
皇太子殿下は、日本でまだまだ障害者スポーツが受け入れられていないことに御心を痛められ、
「このような大会を、国内でも毎年行ってもらいたいと思います」とお述べになりました。
このお言葉がきっかけとなり、昭和40年から毎年、国民体育大会に合わせて、
「身体障害者スポーツ大会」が開催されることになったのです。
皇太子同妃両殿下は毎年この大会にご出席され、練習場所のご心配もされるなど、
常に選手たちを励まされ支援され続けました。
そして、障害者に対する社会全体の意識も少しづつ変わり始め、
今まで施設に閉じこもりがちだった障害者が外に出てスポーツに取り組むようになり、
「障害があってもやればできる」という勇気と自信を持てるようになっていきました。
平成6年、
天皇皇后両陛下は「重症心身障害児(者)を守る会」創立三十周年記念大会にご臨席されました。
その際、大会参加者とその家族にねぎらいと激励のお言葉をかけられました。
皇后陛下は手袋をお外しになり、優しく子供たちの手を取られました。
会長の北浦正子さんはこの時のことを次のように述べています。
「施設のみんなはすごく感激していました。いつもは意思疎通が難しい子供の表情も和らぎ、
微笑みが浮かんだんです。子供のみならず、手を取ってお言葉をかけられた人は、もう忘れられません。
特に重症心身障害児、社会の谷間でひっそりと生きてきましたから。
子供たちを育ててきたお母さん方にしてみれば、その子供たちを両陛下が温かく見守って下さることが、
とてもうれしく、みんな涙を流していました」
(「天皇陛下を我が町に」より)
両陛下は今でも地方をご視察されるときには、福祉施設をご訪問され、
障害者や関係者の話を真剣にお聞きになり、お励ましのお言葉をかけてゆかれます。
そのような両陛下のお陰で、障害者やその関係者の心は救われ明るくなっていきました。
また、それまで、どちらかというと人を寄せ付けないような暗い雰囲気だった障害者施設も、
両陛下のご訪問をきっかけにして新しく整備されるなど、障害者を取り巻く環境も今では随分変わりました。
日本身体障害者団体連合会会長の小川榮一さんはこう語っています。
「障害者に対する理解が進まず、胸の痛む思いをしてきましたが、
そんな私どもを一貫して支えて下さったのが天皇皇后両陛下でございました。
正確に申し上げれば、両陛下のお陰で障害者施設が大きく前進したといっても過言ではありません。
・・・・ハンディがあっても国民の一人として尊重して下さり、
障害者とその家族・関係者に勇気と自信を与えて下さっている皇室こそ、
日本の素晴らしい国柄を代表されていると思っております」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
さくらの花びらへの応援お願いします。
*歴史ブログランキングのクリックをお願い致します。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
全1ページ
[1]




