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先日9月30日ですが、麻生元総理を団長とする自民党議員団が台湾の「中華民国建国100周年」祝賀式典に出席するという記事が、現地の新聞に載ったそうです。国内のメディアは全く無視でした。東日本大震災では、世界の国の中でダントツに最も多くの義援金を届けてくれた親日国台湾を、メディアはこれほどに無視して、支那共産党政府に媚びへつらう姿勢を頑なに貫いているのです。日本メディアの意識の中では、既に日本が支那政府の属国であるのだという現状がまざまざと感じられます。
2011年は1911年の辛亥革命から100周年当たるのだそうです。つまり、中華民国の成立100周年であり、その後継となる台湾で記念式典が行われることになっているのです。
一方支那の「中華人民共和国」でも、10月10日に辛亥革命100周年記念の式典が開催されるそうです。そして、こちらには仙谷由人氏を中心とする民主党議員団が出席するそうです。支那の領海侵犯にも、わざわざ敬語をつけて話すような支那傀儡政権の官房長官ぶりだった仙谷氏ですから、いかにも朝貢団の団長にはふさわしいのかも知れません。
自民党議員団は、小遣いを持ち寄って東日本大震災の義援金を日本に送った台中市の建国国民小学校を訪問して謝意を伝えるそうです(この記事は産経に乗りました)。政治家として、正式に是非台湾の方々へ、義援金を始めとしていろいろな励ましの御礼を言って欲しいものです。
先日友人が送ってくれた印刷物に、台湾の歌壇に寄せられた和歌が書いてありました。
曾(かつ)ての日「わが国」と呼びし土地なれば この災害の身に沁みていたし
未曾有なる大震災に見舞われど 秩序乱れぬ大和の民ぞ
原子炉の修理に赴く男の子らの『後を頼む』に涙止まらず
原発にいざ立ち向かう武士たちよどうかご無事で生きてくだされ
これらの歌には、まるで同胞を思いやるような真心が表れています。涙無くしては、読めません。本当に台湾の方々の気持ちにはありがたいと思わずにはおれません。
そして、また、これは日本の曾ての統治が、まさにこのようなものであったということではないかと思います。同じ国民として、教育を施し、インフラを整備し、仁政を敷いたことの証ではないでしょうか。
左翼メディアはこのことを隠したいのではないでしょうか。真実が何処にあるのか、そうしたことを示す記事は、決して載せません。歴史教科書では、近代日本は、西洋諸国と同じような帝国主義、植民地主義の仲間入りをしたと教わってきました。西洋の植民地が決して現地人に教育を与えず、搾取することのみを目的にしていたのと、この日本の台湾、韓国或いはパラオといった国々の統治とが如何に異なるかが明らかにされるのを恐れているのでしょう。
占領政策に迎合した進歩的文化人、反日の共産主義者、それらを受け継いだ人々の、真実を見ようとしない、見たくない、頑なな精神は気の毒なものです。真実を覆ってまで守る自分の立場の行き着く先には一体何があるのかと、不思議でなりません。
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2011年10月06日
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香取神宮
香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市にある神社である。式内社、下総国(しもうさのくに)一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。
前節、鹿島神宮(かしまじんぐう)でも述べましたが、一宮(いちのみや)とは、神社・神宮のある地域の中で最も社格の高いとされる神社をいいます。下総国(しもうさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県の東辺、東京都の東辺(隅田川の東岸)にあたり、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式のなかで定められた、延喜式(えんぎしき)での格は大国、遠国になります。大国とは、古代日本の律令制が布かれた時代に定められ、朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、地方行政区画の一環として国力により諸国を四等級に分けたもので、大国 - 上国 - 中国- 下国の順で、大国は一番上の位の国です。
延喜式が策定された当時、大国に分類されたのは国は13ヶ国で、大和国(やまとのくに)、 河内国(かわちのくに)伊勢国(いせのくに)河内国(かわちのくに)武蔵国(むさしのくに)上総国(かずさのくに)下総国(しもうさのくに)常陸国(ひたちのくに)近江国 (おうみのくに) 上野国 (こうずけのくに)陸奥国 (むつのくに)越前国(えちぜんのくに)播磨国(はりまのくに)肥後国(ひごのくに)を言いました。
遠国(おんごく、えんごく)も律令国の等級区分の一つで、畿内(近畿地方)からの距離によって国を分類し、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多く、現在の中国地方五県は、この地方のほとんどが「中国」にあたる名残といえましょう。
前節の鹿島神宮(かしまじんぐう)と香取神宮(かとりじんぐう)息栖神社(いきすじんじゃ)は、東国三社と呼ばれています。
また、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったことからその格式の高さが窺えます。
創建は、神武天皇十八年(皇紀十八年)現在が皇紀二千六百七十一年ですから二千六百五十三年の歴史があります。
前節、鹿島神宮でも述べていますが、
畏くも、今上天皇陛下が元日の夜明けに、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)と呼ばれる束帯(そくたい)を着用あそばされ、宮城の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入りあそばされ、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝されます。この祭祀を戦前には四方節、現在は、四方拝(しほうはい)と言います。
この時に畏くも天皇陛下が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮です。
香取神宮(かとりじんぐう)は、経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神として、祭祀されています。。『日本書紀』のみに記載があり、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)などと表記されています。
経津主神(ふつぬしのかみ)が、鹿島神宮の武甕槌神(たけみかずちお)共に武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられているのをご覧になられたことも多いとおもいます。
国譲り神話では、経津主神(ふつぬしのかみ)は、武甕槌神(たけみかずちお)とともに葦原中国へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしています。神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であると言われています。
要石(かなめいし)
古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが鹿島神宮同様、根元を見ることが出来なかったといわれています。(写真上)
香取神道流
前節の鹿島神宮、香取神宮は、古くからの剣術の流派として「香取の剣・鹿島の剣」が、葦原中国を平定した神として日本神話に登場する経津主神と武甕槌神を祀った、香取神宮と鹿島神宮の神職に伝承されていました。
飯篠 家直(いいざさ いえなお)(元中4年) - (長享2年))は、下総国香取郡飯篠村郷士、父親は飯塚金兵衛。日本武道の源流の一つである天真正伝香取神道流の創始者で、「日本兵法中興の祖」ともい言われています。香取神宮の奥の宮に近い梅木山に篭り、1千日の厳しい修行の末、ついに「兵法とは平和の法なり」との悟りを得たとされる。 この修行で梅の古木の上で「汝、後に天下剣客の師とならん」と経津主神の啓示を受け、一巻の神書を与えられたとし、このことから経津主神に由来する名を冠した「天真正伝香取神道流」を創始しました。
武神の地たる由縁です。
この系統の春日大社は、香取・鹿島の二柱の神さまの他に、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめかみ)とをあわせて四柱の神々を祭祀しています。昔、藤原氏が香取・鹿島の二柱の神さまを奈良に勧請(かんじょう)して氏神とされ、まもなく皇室・国家の守護神とされたのが春日大社です。
神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
続く・・・・(次回は春日大社)
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続き 楠木正成公 {建武中興」
伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうさん)におられた
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、京都の六波羅探題が足利高氏(あしかが
たかうじ)達によって撃ち破られた知らせを受け、五月十八日京都へお帰りに
なるために出発されました。
六月二日朝、兵庫をご出発になろうとしているところへ、
楠木正成(くすのきまさしげ)が七千騎の兵を従え、 後醍醐天皇のお迎えに
馳せ参じたのです。 天皇は輿のすだれを高く巻かせて、正成を近くに
召されました。
「正成…。」
天皇は胸が熱くなられ、しばらくお言葉を発することができませんでした。まだ
多くの武将が鎌倉幕府に従っていた時、笠置山の 天皇の下に馳せ参じ、全国
の幕府軍を相手に唯一人、千早城で戦い続けた正成でありました。正成もまた、
熱い涙を止めることができませんでした。
帝(みかど)…よくぞご無事で…。
両の眼から熱い涙を止めることができませんでした。
「正成…われが今日あるは、ひとえにそなたの忠義…そなたの命がけの戦い
あればこそじゃ。」
正成には身に余るお言葉でありました。
「いいえ、私の力などではござりませぬ。 帝の御徳を慕い、皆が命がけで戦った
のでございます。 帝の御徳なくして、正成ごときのわずかな謀などで、どうして
強敵の囲みを破ることなどできましょうか。」
正成は深く畏(かしこ)まるとお答え申し上げたのです。
後醍醐天皇は正成に、行列の名誉ある前陣を命じられました。
天皇の行列の先頭をゆき、行列を導く重要な役目です。
馬に乗って先頭をゆく正成の鎧が朝日に輝き、ことの外りっぱに見えました。
何万という行列がその後に従います。正成にとってもこの時は、周りの景色が
輝いて見える程、心満たされた至福の時であったのです。
元弘三年(一三三三年)六月五日、後醍醐天皇は京都にお戻りになりました。
鎌倉幕府が倒れた今、天皇を中心とした日本国本来の姿に国を整えるため、
御自ら政治を行われたのです。
元弘四年一月二十九日、年号が「建武(けんむ)」と改められました。
天皇は御自ら「後醍醐」と名のられたように、昔、栄えた御代を築かれた
「醍醐天皇」を理想とされ、武士も公家も一つとなって民衆が豊かに暮らせる
世の中をつくろうとお心を砕かれたのです。
《世治(よおさ)まり民安(たみやす)かれと祈るこそ
わが身につきぬ思ひなりけれ》
(世の中が平和に整い、民が豊かで幸せであることが私の切なる願いなのだ)
この 後醍醐天皇が治められた御代を「建武中興」と申し上げます。
後醍醐天皇は、国中の民が豊かな暮らしができるよう、様々な政策を打ち 出されました。まず、倹約令、を出し、ぜいたくな暮らしを禁じました。
身分の高い者がぜいたくをして、身分の低い者が苦しい思いをすることが
ないようにされたのです。次に「関所(せきしょ)」をなくすよう命令を出されました。
それまでは各地に関所があり、人々は関所を通る度に関所を持つ領主にお金を
払わなければなりませんでした。
商人は品物を都に持って来るまでに途中の関所でお金を払わなければならず、
その分、都では高く品物を売ったので、人々は品物の値段が高くて困って
いたのです。又、
天皇は商業を盛んにし人々の生活を豊かにしようと、新しいお金を造る計画を
立てられました。このように建武中興の政治は後醍醐天皇が国中の民の幸せを
願われて行われた、大変優れた政治でした。
建武の政治が行われ世の中から戦がなくなって、しばらく穏やかな日々が
続きました。
続く 楠木正成 後藤久子著より抜粋
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(二)鎌倉幕府滅亡
元弘三年(一三三三年)三月半ば、京都では赤松則村(あかまつのりむら)ら
天皇側の軍勢と六波羅探題(鎌倉幕府の役所)の軍とが戦い、未だどちらが
勝つともわからない状況にありました。
この時、九州で 天皇側について挙兵した者があります。菊地武時(きくち
たけとき)という武将でした。武時は九州で大きな力を持つ少弐氏(しょうにし)・
大友氏と共に挙兵しょうと約束していましたが、いざ挙兵という時、鎌倉幕府の
力を恐れた少弐、大友氏は約束を違え、挙兵しませんでした。
「あのような者達と共に戦おうと思ったわしが間違いであった。」
菊地武時は意を決すると、一族の兵わずか百五十騎で鎮西探題(九州の鎌倉
幕府の役所)に戦いを挑んだのです。武時の兵力はわずかでありましたが、
一人も生きては帰らぬ覚悟の兵達の勢いは凄まじく、まるで火が敵陣を燃え
尽くしてゆく様でありました。幕府方の兵は混乱し、ついに探題の屋敷に逃げ
込んだ兵を武時の軍は追いつめてゆきました。
ところがこの時、武時の背後から、六千騎もの軍が攻めかかりました。
幕府の咎めを恐れた少弐、大友氏が裏切り、反対に武時を攻めて来たのです
。
これを見た武時は
もはや…これまで…!と思い定め、息子の武重(たけしげ)を呼びました。 「わしは少弐、大友に裏切られ、これより討ち死にいたす。しかし、国のため
帝のため正しいと思う戦をして死ぬのであるから、一点の悔いもない。
お前は急ぎ国へ帰り、武力を蓄え 帝のため天下のためにお仕えいたせ!」
武時は息子の武重を五十騎の兵に守らせて国へ帰すと、裏切った少弐、大友氏
には目もくれず、残った一族と共に探題の屋敷に攻め込みました。そしてついに、
一歩も引くことなく突撃し、一人も残らず討ち死にしたのでした。
けれども、世の中は動き続けました。五月になり、幕府側で大きな力を持っていた
足利高氏が、天皇側について挙兵したのです。足利高氏は鎌倉幕府の北条氏に
従っていましたが、いつか北条氏に代わって天下を取りたいと思っていたのでした
。
丹波(京都府)の篠村で兵を挙げた高氏は、赤松則村らと共に京都の六波羅探題
を攻め、元弘三年五月七日、とうとう六波羅軍を撃ち破り、京都から鎌倉幕府の
勢力を追い出すことに成功したのです。
そしてまた、幕府軍の中で力を持っていた新田義貞(にったよしさだ)という武将も
、護良親王(もりよししんのう)より挙兵の令旨(指令)を賜り、五月八日、上野の国
(群馬県)で挙兵しました。鎌倉へ進撃した義貞は、鎌倉幕府の北条氏の軍と
何度も激戦を繰り返しました。
新田軍との激しい戦いに追いつめられた鎌倉幕府の北条氏は、先祖代々の墓の
ある東勝寺に入り、とうとう執権の北条高時以下一族が切腹して果てました。
ここに鎌倉幕府は滅びたのです。元弘三年五月二十二日のことでありました。
続く
楠木正成
後藤久子著より抜粋
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鹿島神宮
鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
一宮(いちのみや)とは、神社・神宮のある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことですが、一の宮・一之宮とも書きます。
通常「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多いですが、律令制において国司は任国内の諸社に神拝することが定められており、一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われている。律令制崩壊の後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けているのです。
鹿島神宮は、同県神栖市にある息栖神社(いきすじんじゃ)、千葉県香取市にある香取神宮(かとりじんぐう)と合わせて東国三社と呼ばれています。
また、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったことからその格式の高さが窺えます。
創建は、神武天皇元年(皇紀元年)現在が皇紀二千六百七十一年ですから建国以来の歴史があります。
畏くも、今上天皇陛下が元日の夜明けに、黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、宮城の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入りあそばされ、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝されます。この祭祀を戦前には四方節、現在は、四方拝(しほうはい)と言います。
この時に畏くも天皇陛下が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮です。
鹿島神宮は、武甕槌神(タケミカヅチオ)を祭神として、祭祀されています。『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記されています。
武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神(ふつぬしのかみ)と共に武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられているのをご覧になられたこともあるでしょう。
武甕槌神(タケミカヅチオ)は、「国譲り」神話に、記されている神です。
日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。
「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、神話「因幡のしろうさぎ」の主人公でも知られています。
天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めましたが、大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、古来より日本人の「和」の精神を見ることができます。
天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試みられ、武甕槌神(タケミカヅチオ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しました。
長男である事代主命は、国譲りを承諾しましたが、しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、武甕槌神(タケミカヅチオ)に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。
建御名方命はそのまま、諏訪の地にお鎮まりになり、諏訪神社のご祭神として祀られておられます。また、武甕槌神(タケミカヅチオ)と、建御名方命との「力比べ」が日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
「力比べ」
また神武天皇が熊野で窮地に陥ったとき、武甕槌神(タケミカヅチオ)が降した霊剣・師霊剣(フツノミタマ)の神威により救われました。この神恩に感謝した神武天皇は、即位の年武甕槌神(タケミカヅチオ)を鹿島の地に勅祭されたのです。
塚原卜伝
武甕槌神(タケミカヅチオ)は武芸の神ですが、戦国時代の剣豪、兵法家で名高い塚原 卜伝は、鹿島神宮の神官・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の子として常陸国(現在の茨城県)の鹿島に生まれました。
先祖は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)に連なります。
『卜伝百首』の後にある加藤信俊(相模守)による序では、三十九度の合戦、十九度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されています。父から国摩真人が、神事によって授かった日本最古の鹿島伝来の鹿島の太刀(鹿島中古流太刀)を、養父の塚原土佐守安幹から飯篠長威斎の天真正伝神道流を学び、さらに大永2年34歳のとき、鹿島の神前に1000日参籠して、「一の太刀」の妙術を感得し、剣(つるぎ、けん)六十七手・長刀(なぎなた)二手・鑓(やり)九手からなる新当流を創始したと伝えられています。
古くは鹿島神流(かしましんりゅう)と流派が存在しました。剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、手裏剣術からなる武術で、鹿島神宮祭神の武甕槌神(タケミカヅチオ)が悪神を鎮める際に使用した技がその始まりであるとして、抜刀術の「祓太刀」がその名残で、また、建御名方神(たけみなかたのみこと)との力くらべの際に武甕槌大神が使った技が柔術の「霊気之法」の始まりとしています。
國井善弥
昭和時代に「今武蔵」と謳われ生涯不敗であった鹿島神流第18代宗家。(福島県出身)國井善弥が有名です。
山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう)
また、幕末の三舟と呼ばれた、山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう)は、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖であり母、塚原磯は、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女であり、先祖に塚原卜伝に繋がっています。
鹿島神宮(鹿相撲)
鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使いとされている。また、藤原氏による春日大社の創建に際して、神護景雲元年に、白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行ったとされています。
英語で鹿の枝角をアントラー と言い、鹿島アントラーズのチーム名の由来となっています。 要石
境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。水戸黄門仁徳録によれば水戸藩主徳川光圀(黄門様)が七日七晩もの間、石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったと伝えられています。 神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
続く・・・・
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