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8日付の韓国紙、朝鮮日報は、野田佳彦首相が18日から就任後初めて訪韓する際、日本が韓国に引き渡すことが決まっている朝鮮半島由来の図書計1205冊の一部を持参し、韓国側に渡す計画だと報じた。複数の外交筋の話として伝えた。(産経新聞)抜粋 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111008/plc11100811350007-n1.htm
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2011年10月09日
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誇りを失った民主外交
あの男が民主党の総理だった時、韓国に返す必要のない朝鮮王室儀軌の複本を返還することを決めた。
なぜなら、韓国はその原本を紛失してしまったからという何とも情けない話である。 日韓併合の時代に日本が韓国に残したもっと多くの歴史的な価値のある書物の返還を要求することも無く、片務的な返還には大いに問題があり、自民党も強く反対している。 それが何と今度は野田首相が訪韓の際にわざわざ持参して返還するといういかにも屈辱的な外交を民主党政権はやろうとしている。
中国への朝貢行為を「屈中」と呼ぶが、この行為は「屈韓」以外の何物でもない。 日本人は民主党政権でここまで成り下がったのか。 今日まで日本を受け継いできた先人たちはあの世で泣いているに違いない。 一方韓国側はアメリカでも日本人学校の歴史教科書を偏向しているとして法に訴えようとしている。
日本はどこまで舐められれば気が済むのか。 産経ニュース(2011/10/08)
低姿勢外交?野田首相が王朝図書持参か 訪韓時、雰囲気転換狙う 8日付の韓国紙、朝鮮日報は、野田佳彦首相が18日から就任後初めて訪韓する際、日本が韓国に引き渡すことが決まっている朝鮮半島由来の図書計1205冊の一部を持参し、韓国側に渡す計画だと報じた。複数の外交筋の話として伝えた。
同紙は、李明博大統領が、野田首相から一部図書の引き渡しを受け、今年中に日本を国賓訪問することを検討していると指摘。玄場光一郎外相が6−7日に訪韓したのにあわせ、日韓両国がこの問題について意見交換。9月末に大統領の実兄である李相得韓日議員連盟会長が訪日し玄葉外相らと会った際にも、野田首相が訪韓時に図書を持参することを提案したという。(共同) 産経ニュース(同上)
竹島、教科書記述は「偏向した歴史観」 日本人学校に使用中止要求 米ニュージャージー州の韓国系米国人が同州の日本人学校に対し、竹島(韓国名・独島)について「韓国が違法占拠していると説明する教科書を使い、偏向した歴史観を教えている」として教科書の使用中止を要求する文書を出した。同州教育当局には学校への補助金支出停止を要求している。韓国系米国人の弁護士側が7日明らかにした。
学校側などによると、文書は9月21日付。中等部の社会科公民の教科書で、日韓両国が領有権を主張している竹島について地図の横で「日本固有の領土です」と説明しているが、「不法占拠」の記述はないという。 学校を運営する「ニューヨーク日本人教育審議会」の倉西美由紀事務局長は「内容を精査中で、コメントは控える」と話している。(共同) *****************************************************
屈中・屈韓外交には断固反対する!
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「建武中興(けんむのちゅうこう) 後編」
続き
ある時、楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながとし)、新田義貞
(にったよしさだ)など主だった武将が集まった席で、鎌倉幕府を 天皇の
世の中にするのに、一番身命を賭して力を尽くしたのは誰か、という話題に
なりました。それぞれの武将達は内心では初めから 天皇側につき、千早城で
唯一人、幕府軍を相手に戦い抜いた正成が第一番だと思っておりました。
けれど、新田義貞は、鎌倉を攻めて幕府軍を撃ち破った時、どれ程激しい
戦いだったかを語りました。他の武将も自分達の戦いぶりを話しました。
けれどそれは、各々が命がけの戦をして来たので、無理のないことでありました。
しかしこの時、正成は黙ったまま一言も話しませんでしたので、名和長年が声を
かけました。
「正成殿、先程から何も言われぬ我、正成殿は、どう思われる…」
すると正成が、ゆっくり話し始めたのです。 「わしは…一番 帝のため身命を賭して尽くされたのは、九州の菊地武時(きくち
たけとき)殿と思うております。」
皆、驚いて正成の顔を見つめました。誰もが、正成は自分の手柄を話すとばかり
思っていたのです。
それを聞いた武将達は皆、黙ったまま下を向いてしまいました。誰が見ても手柄
第一と思われる正成が、自分の手柄は一切言わず、命を落とした菊地武時の
名を挙げたのです。正成の心の高さに皆、深く感じ入ったのでした。
正成は領地の河内に帰った折、「身方塚(みかたづか)」「寄手塚(よせてづか)」と
いう二つの塚を造りました。赤坂城や千早城の戦で亡くなった多くの、味方、の
兵と、寄手(敵軍)の兵を弔うためです。計らずも命を落とさせることとなった
多くの敵兵のため、大きな五輪塔を建てて供養したのでした。
正成は「記録所」や他の役所の仕事などで忙しい日々を送りましたが、仕事の
合間をみては法華経というお経を写経(お経を書き写す)しました。仏教を深く
信仰していた正成は、写経ができ上がると、それをお寺に納め、世の中が穏や
かで平和であるよう祈ったのです。
又、いくつものお寺や神社を建立し、人々の魂を救う仏の教えが広がることにも
力を尽くしました。
しかし、正成の願いとは裏腹に、世の中には不満が渦巻き始めていました。
鎌倉幕府を倒すために戦った武将達は、自分達の手柄に対する恩賞を求めて
全国から京都に集まって来ました。又、関所を取り上げられた領主達は、関所を
通る人々から取っていたお金が入らなくなり、不満でした。
後醍醐天皇が国中の国民のためを思って行った政策は、自分の利益を第一に
考える多くの者達にとっては、不満の種となったのです。
天皇の国民を思うお心は、なかなか人々には伝わっていかないのでした。
続く
楠木正成
後藤久子著より抜粋
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