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30年くらい前の古い雑誌に、かつて拓大で水戸学の講義をしたという人が思い出を書いていました。その中に、水戸光圀に関しての講義のことを述べてあったので、面白かったので引用します。
引用開始
父の初代藩主、徳川頼房は、奥向きに仕える老女の娘に通じて妊娠させた。この娘を谷久子という。この谷久子こそは光圀の母、後の久昌院である。久子の母、水戸奥向きの老女は、娘の腹がふくれたのを怒って、いくらなだめても頼房公の側室にすることを承知しない。頼房も老女の頑固さには困り抜いて、久子の兄谷平右衛門に向かって久子を頼房の召使として奉公させよと命じたが、これもなかなか承知しない。やむなく、頼房は一生涯正妻を迎えないという誓を立てて、やっと承知させた。それほど久子を愛していたのである。 ところで頼房には側室は他に何人かいた。そのうち藤原弥々女が一番尊く、佐々木お勝が一番権力が強かった。このお勝の方は、頼房が他の女に懐妊させると、必ず殿さまに迫って堕胎させたという。恐ろしく嫉妬強い女で、早くも久子が身重になったことに感づき、殿さまに迫って堕胎させることにした。 先ず水戸藩の重臣・三木仁兵衛夫妻に久子をあずけ、その三木の家で「水にせよ」という命令が下った。生まれる子供を水にせよ、つまり無いものにしてしまえ、というのである。いまでも堕胎された赤ちゃんのことを「みず子」という。その霊をなぐさめることを、みず子供養という。生命尊重しなかった人々はその罪の意識に堪えかねて、このみず子供養に泣く泣くお参りするわけだ。大学生ともなれば、それくらいのことは心得ておるべきである。 ところが三木仁兵衛夫妻は、いろいろ悩んだすえ、江戸麹町の家でひそかに久子に子供を生ませた。殿さまの御子を水にするのは、なんとしても、もったいなくて、できなかったのである。これは生命尊重でなくて、殿さまへの忠義の一念でその種をも尊重したのである。
嘉永五年といえば西暦1628年であるが、この年の六月十日に、男の子が生れた。幼名を長丸とつけた。これが後の義公・水戸光圀公である。まことに危いことであった。このとき水にされていたら、と思ってみるがよい。契沖をして不朽の大著『万葉代匠記』を書かせる人は、光圀以外に当時日本にいたとは、とても思えない。政治というものの基礎に道義を据えるという為政者のあの比類なく高い格調も見られなかったであろう。それよりも、皇室を日本の中心として尊ぶという思想の展開も、あの時代には一部の埋もれた学者以外には成立すべくもなかっただろう。むろん、『大日本史』の編纂という修史の大業は開始されなかったであろう。もし、そうであれば、後代における維新回天の大業は、どうなっていたか。それを、とことんまで考えるのが歴史の感覚(センス)というものであるぞ。 歴史は常に断崖絶壁を行くものである。一歩ふみはずせば墜落して背骨を折るか、いのちを失うかである。だから、もしあのとき左せず右していたらどうなっていたか、と果てしもなく考えるのが歴史に対面する者の正しい姿勢である。歴史のなかで、「もし」という問を常に発したのは、私の知るかぎり徳富蘇峰の『近世日本国民史』だけである。 この頃、諸君が学校で覚えた習性は、この「もし」がなく、なにごとも、そうなるべくしてなった、というのじゃないか。結果から推して、こうなったのは当然だという、蛙に小便ひっかけたように何ともない顔をすることらしい。じつにふざけた考えである。敗戦という結果がある。この結果を招いたのは、日本が無謀な戦争をしたからだなどという。無謀ということは、敗戦という結果から押して言うことである。こうして、こうすりゃ、戦は敗けと、知りつつ、こうして、こうなった、というのだろうか。ふざけるなと言いたい。 世には妙な歴史家がいて、こうなることは必然だったなどという。その必然を無視して、すること為すこと全て悪い事ばかりだったという。まるで東京裁判の連合軍判事みたいな頭だ。彼らは思わくあってのことだが、そのまねをする日本人のは阿呆の寝言である。
よろしいか。光圀が水にされなかったのは、必然ではないぞ。危機一髪なんだぞ。これをよく思え。
しかし、このことを全身で感ずることができるためには、光圀がどんなことをしたか、どうして自己を形成したかを知らねばならない。この人の偉大さを知らないでは、危機一髪というのも口先だけになる。
こんな調子は、むかしの高校あたりでやることかと思う者もあるらしいが、事実はそうではない。むかしも今も、手に汗にぎる歴史は一ぺんも学んだことがないわけだ。少し言いすぎかも知れないが、これが本筋だから承認しないわけにはいかない。
ここで側室というのが、大名にはたくさんいたことを知った。これは今では通用しない封建的悪習である。
しかし、その然る理由は勉強しないとわからない。またこの悪習が今も残っている理由も勉強しないとわからない。キリスト教がくるまで一夫多妻は当然のことだったのか。じつに、わからないことだらけだ。ああ、わからない。われに長寿を与えよ、われに勉強の時を与えよ。一刻を惜しんで、勉強せしめよ。麻雀で夜更かしする暇などあってたまるか。 以上がざっと、わが水戸学講座の二回分だった。みず子のこと、妾制度のこと、危機一髪のこと。これが思わざる主題となった。しっかりした母の娘、がっちりした兄の妹、これが久子の方、久昌院だ。このような生命力の旺(さかん)な腹がないと、すばらしい種は育たない。京都の御公卿さんの娘ただ一人ということになると、三代目でダメになる。それを防ぐのが元来の優生保護という概念で、封建時代の優生保護は、じつに妾制度だった。殿さまが百姓に子供を生ませて血統の中に生命力を回復させた。これが徳富蘇峰翁の御意見だった。 引用終わり
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2011年12月11日
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