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筆者は一年に数回神宮に参拝しています。
嫁いだ娘が歩けるようになってからですから、二十数年毎年続けています。 何故なら、神宮に行きたいと魂がそうさせるのです。筆者のみならず、多くの日本人はそうであると思うのです。 神宮は、一般的には「伊勢神宮」、「お伊勢さま」などと呼ばれ親しまれていますが、正式な名称は「神宮(じんぐう)」です。全国には多くの「〜神宮」の称号がつくお社(やしろ)がありますが、神階が授与されたことがなく、石清水八幡宮と共に二所宗廟の一つとされました。 「神宮」とのみ称されるのは、伊勢の「神宮」だけです。それだけ特別なお社なのです。 大和朝廷(奈良県)から東に位置する伊勢は、太陽の昇る地であり、また、常世(とこよ、理想郷)から波が打ち寄せる聖なる海が広がっていました。その海からは豊かな幸(さち)がもたらされます。伊勢は当時の都の人にとってまぶしく映る別天地だったと思います。 『古事記』・『日本書紀』が物語る壮大な天孫降臨(てんそんこうりん)の神話。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の神勅(しんちょく)を受けた皇孫(こうそん)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降(あまくだ)る場面では、天上の高天原で大御神がつくられた田の稲穂を下の画像のように手渡されます。そして、米を作る暮らしこそが瑞穂(みずほ)の国に繁栄と平和をもたらすのだと託しました。天壌無窮の神勅です。 かって我国は、豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の國と呼ばれました。 神宮では春先の祈年祭(きねんさい)から秋の神嘗祭(かんなめさい)まで、稲作に関わる神事(かみごと)が多く行われます。 春に祈り、秋に感謝する。瑞穂の国のありようが神代のままに伝えられています。 天壌無窮の神勅 別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称します。所在地は三重県内の4市2郡に分布しています。 皇大神宮(こうたいじんぐう)は、内宮(ないくう)と呼ばれ、御祭神は皇室の御祖神(みおやがみ)であり、また、私たち日本民族の大御祖(おおみおや)の神でもある天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。皇孫の葦原中津国(あしはらのなかつくに)への降臨に際して、天照大御神が皇孫にお授けになった八咫鏡(やたのかがみ)に由来し、天照大御神はこの御鏡を自らの御霊(みたま)として皇孫(天皇)と同じ御殿でまつるように命ぜられたのです。
しかし、第十代崇神(すじん)天皇は、その御神威を畏(かしこ)み、皇女によって皇居外の神聖な地を選んでおまつりするようになり、大和の国(奈良県)の笠縫村(かさぬいむら)におまつりしました。 神社のお話(九)でも記述していますが、日本最古の大神神社の摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっています。
元伊勢とは、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮内外両宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所をいいます。
やがてその御社殿でおまつりのご奉仕をしていた豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が年老いたので、第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)がそのおつとめをかわりました。
倭姫命は天照大御神さまがお鎮まりになるのにふさわしい土地を探して諸国を尋ね歩かれました。上述の元伊勢の由来です。 宇陀(うだ、奈良県)の篠幡(ささはた)、近江(おうみ)の国(滋賀県)、美濃(みの、岐阜県)と諸国を巡られた末に伊勢の地に入り、現在の地にお鎮まりになりました。このことは、日本で一番古い歴史書である『日本書紀』に記載されており、そのなかで「この伊勢の地は、大御神の御心にかなった、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所であると、天照大神のお告げがあった」と書かれています。今から二千年前のことです。
そこで倭姫命は、この地に御社殿を建てて天照大御神さまをおまつりしました。以上のことから、伊勢の神宮の御鏡と、宮中の賢所におまつりされている御鏡は、一体にして不可分のものとされ、現在でも皇室の御祖先である天照大御神さまにお仕えする神宮の祭主は天皇陛下のお定めにより皇族、また元皇族の方がおつとめされています。現在の祭主は、今上天皇陛下の姉にあたる池田 厚子(いけだ あつこ)様が御祭主であられます。 古は令外官のひとつであったもので、近代以前は、代々中臣氏(大中臣氏)が任命され、神祇大副が兼任していました。
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮、げくう)
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は、外宮(げくう)と呼ばれています。御祭神の豊受大御神(とようけおおみかみ)は、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業の守護神でもあります。豊受大御神は第二十一代雄略(ゆうりゃく)天皇二十二年(今から約千五百年前)に、天照大御神のお告げによって丹波(たんば)の国(現在の京都府・天橋立(あまのはしだて)現在の元伊勢籠神社(丹後国の一之宮)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになられました。
外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、ここで天照大御神さまに毎日朝夕二回のお食事がお供えされています。 別宮(べつぐう)とは、十四社あり、両正宮(りょうしょうぐう)に次いで格式のあるお社(やしろ)です。内宮に十社、外宮に四社あり、これらは祭祀(さいし、お祭り)・祭神などにおいて両正宮と特別な関係にあるお宮で、正宮の「わけみや」とされ、特に重んじられています。別宮の中でも「遙宮(とおのみや)」とよばれる大紀町に鎮まる瀧原宮(たきはらのみや)と志摩市の伊雑宮(いざわのみや)の二つの宮は地元からも篤く崇敬されています。 伊雑宮(いざわのみや)
摂社(せっしゃ)は、延喜式(えんぎしき)の神名帳(じんみょうちょう)に所載されている神社をいい、両宮あわせて四十三社、末社(まっしゃ)は、延暦(えんりゃく)の儀式帳には記載されているが延喜式の神名帳には記載されていない神社で、同じく二十四社あります。
所管社(しょかんしゃ)は、前記以外で神宮の祭祀に直接関係のある神々をまつっている神社で、四十二社あり、いずれのお社においても天照大御神の祭祀を行う上で重要なお社です。参詣者を内宮へといざなう宇治橋(うじばし)をお護りする橋の神さま、塩作りの神さま、織り物の神さまなど御正宮や別宮の御料(ごりょう)や祭典に関わる神々がおまつりされています。 以上のように神宮は一二五社にも及ぶ大神社群です。その中でも内宮御正宮におまつりされている天照大御神(あまてらすおおみかみ)は皇室の御祖神(みおやがみ)として貴いご存在であるとともに、常に我々国民をお守りくださっている日本の総氏神さまです。 年間千五百回ほどにおよぶ祭典では、皇室国家の繁栄と国民の幸せを願って篤い祈りが一途にささげられています。 悠久の歴史の流れの中で、深く静かにささげられてきたこの無垢(むく)の祈りこそが、神宮の森厳(しんげん)を醸成(じょうせい)し「日本人の心のふるさと」として人々をいざなってきました。 神宮は全国で八万社ある神社の中でもその根本となるお社です。しかし神社の場合、寺院などのような本山末寺といった上下関係を表すものはありません。 古来の日本人の考え方が平等であった証でもあるのです。
神道の祝詞(のりと)のなかでも、非常に古い形態を残している「大祓詞(おおはらえのことば)」に、八百万(やおよろず)の神々が集まり、話し合いの結果、皇孫に豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国(みずほのくに、日本の国)を安らかな国として治めるようにと御委任なされたことが記され、天孫降臨(てんそんこうりん)に際して、国つ神である大国主命(おおくにぬしのみこと)が天照大御神の御子孫に国を譲り渡したように、多くの神々との関係においても、それぞれの神々の立場、役割が尊重され、話し合いの精神をもって諸事が決められています。こうした考えは現在の私たちにも受けつがれており、「和」をもって尊しと為したわが国の美風の淵源がここにあるのです。
こうした神々の関係は同様に神社についてもいえることで、現在、全国の神社の多くが「神社本庁」のもと、それぞれに祭祀が厳粛に行われるよう努めており、神社界全体として、伊勢の神宮をはじめ、全国神社の振興をはかるための諸活動が行われています。 伊勢の神宮を格別のご存在として、神社本庁でも特に「本宗(ほんそう)」と仰いでいるのは、そういった全国の神社の総意にもとづいているのです。 一般の神社の「神社祭祀(じんじゃさいし)」と別けて、神宮での祭祀を「神宮祭祀(じんぐうさいし)」と呼ばれています。 神宮では、新年の歳旦祭(さいたんさい)から大晦日の大祓(おおはらえ)まで、年間を通じて千五百回ほどのお祭りがおこなわれています。これらの祭りは、十月の神嘗祭(かんなめさい)、六月・十二月の月次祭(つきなみさい)などの「恒例祭(こうれいさい)」と、皇室・国家及び神宮の重大事に臨んで行われる「臨時祭(りんじさい)」、そして「遷宮祭(せんぐうさい)」に分ける事ができます。どのお祭りも古い儀式を重んじておごそかに奉仕されています。 神宮の祭りの本義は、天皇陛下が御親(おんみずか)ら皇室の祖先の神である天照大御神をおまつりされることです。第十代崇神(すじん)天皇の御代(みよ)までは皇居内で、また皇居を離れられた約二千年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の彌榮(いやさか)、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変わることなく行われているのです。 豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神(あまてらすおおみかみ)は「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」と重ねて命ぜられました。この御神託(ごしんたく)によって神宮では古くから重要なおまつりである「三節祭(さんせつさい、六・十二月の月次祭、十月の神嘗祭)」においても、まず外宮でおまつりした後、内宮でおまつりするという「外宮先祭」によって祭祀(さいし)が行われ、現在に至っています。一般の参拝もこれにならって、外宮・内宮の順にお参りするのが慣わしになっています。 内宮・外宮の両御正宮(ごしょうぐう)はともに唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)ですが、少しずつ違いがあります。まず屋根の棟に飾られた丸い鰹木(かつおぎ)を数えてみると、内宮は十本、外宮は九本(御正宮以外の社殿は、内宮が偶数、外宮が奇数)。また、屋根の両端から空高く伸びる千木(ちぎ)も、内宮は「内削(うちそぎ)」といって地面に対して水平に切られていますが、外宮では垂直に切られる「外削(そとそぎ)」です。このほか内宮には御饌殿(みけでん)がなく、外幣殿(げへいでん)が板垣(いたがき)の外に建てられているのに対して、外宮では御饌殿と外幣殿が共に板垣の中にあります。
また、外宮では「左側通行」、内宮では「右側通行」というのが慣例となっています。これは手を洗い、口を漱(すす)ぐための御手洗場(みたらし)が、外宮では参道を進んで左側に、内宮では参道を進んで右側(五十鈴川、いすずがわ)にあるためで、内宮では五十鈴川に架かる宇治橋もまた右側通行です。 外宮・内宮の御正宮とともに、別宮・摂社・末社を巡拝(じゅんぱい)し、日本の息吹を確認されるといいでしょう・・ 神宮はまさに、日本人の魂と、文化、伝統の淵源なのです。
参考文献 多岐に渡ります。
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2011年12月19日
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サイタニのブログに竹田恒泰氏の女系天皇というものは存在しないこと、皇室の伝統ではないことを説明した文章を載せておられます。以下に転載して、現在行われている女性宮家が、女系天皇への道を開くもので、我が国の歴史(万世一系の天皇という国体)を断絶させる非常な危険なものである理由を明らかにしたいと思います。
竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より
過去三回あった皇統断絶の危機
問題になるのが、残りの三例である。この三例は、皇統の危機であり、万世一系の危機であった。いずれも天皇に息子がいない上、近親に一人も男系男子がいなかった。
皇統の危機を先人たちはどのように切り抜けたのだろうか。
三例のうち一番古い例は第二十六代継体天皇、次が第一〇二代後花園天皇の例である。まずこの二例について説明する。 天皇家始まって以来の皇統の危機を繋いだのは継体天皇だった。継体天皇は先代の 武烈天皇から見ると十親等の隔たりがあり、「祖父同士がはとこ」という関係に当たる。現在の日常生活では従兄弟ですら疎遠になりがちで、はとことなると一度も会ったことがない場合が多いのではないだろうか。
しかも「祖父同士がはとこ」とはもはや他人と呼んでも差し支えないほどの遠縁である。武烈天皇には皇子がおらず、男の兄弟もいなかった。武烈天皇が崩御して天皇の後継問題が深刻化し、しばらく空位が続いた後に 三顧の礼で迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)が即位して継体天皇となったと伝えられている。継体天皇は応神天皇の男系の五世孫、つまり玄孫の子に当たるため、男系継承が守られたことになる。
だがこの時期に王朝の交代があったのではないかという説も存在している。しかし、それは応神天皇の五世孫であるという継体天皇の出自に疑いを示しているのみで、立証に至っていない、それどころか、継体天皇は仁賢(にんけん)天皇(武烈天皇の父)皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、皇后としている。
しかも仁賢天皇の他の皇女である、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)、 橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も、それぞれ安閑(あんかん)天皇(継体天皇の第一皇子)、宣化(せんか)天皇(継体天皇の第二皇子)の皇后となつている。
したがって武烈天皇までの王朝と継体天皇からの王朝が別のものであると考えるのは不自然であろう。よって、継体天皇の即位は血筋の違う地方豪族が武力によって皇位を簒奪(さんだつ)したものではなく、祖先を同じくするふたつの皇統が、この婚姻によって再統合したと考えるべきである。私はこの時期に王朝交代はなかったとの通説は自然なものだと思う。
伏見宮家から即位 時代を下ること900年、室町時代の天皇家に二度目の皇統断絶の危機が訪れた。このときに皇統を繋いだのが後花園(ごはなぞの)天皇だつた。後花園天皇も先代の称光(しようこう)天皇から十親等の遠縁にあたる。皇子のなかった称光天皇が崩ずると父帝の後小松(ごこうまつ)上皇が伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王の第一皇子彦仁(ひこひと)を御所に迎え入れ、践祚させた。 このときは皇統を巡り南朝と北朝で争いがあった時期であり、空位はなんとしても避けなければならないという切羽詰った事情があつたようだ。
後花園天皇は北朝第三代崇光天皇の男系の曾孫に当たるため、ここでもやはり皇位が全く別の家に渡ったわけではない。そもそも伏見宮自体が皇統を安定させるために創設された経緯もあり、また、もともと伏見宮家は、持明院統の正嫡の家柄であった。
皇位継承とは血のリレーであり、宮家とは血のリレーの伴走者であるとは評論家の大宅壮一の残した言葉であり、後花園蚕が皇統を繋いだことで、伏見宮は血のリレーの伴走者の役をよく果たしたことになる。
後桃園天皇崩御で皇統の危機
さらに時代が下ることおよそ360年、三度目の皇統断絶の危機が訪れた。江戸時代後期の安永8年(1779)10月29日、皇室は皇祖以来最大の困難に直面する。系譜上第一一八代に数えられる後桃園天皇が崩御したこの日、天皇が不在となったのだ。
本来であれば天皇の在位中に皇太子が立てられ、天皇崩御の日か、その翌日に皇太子が践祚して皇位が継承されるはずであった。しかし、後桃園天皇は幼い欣子(よしこ)内親王(後の新清和院(しんせいわいん))一人を残して22歳という若さでこの世を去ったため、皇太子となるべき皇子がいなかった。
そのうえ、天皇の近親に皇族男子が一人もいなかったため、皇位継承者不在のまま天皇崩御となり、空位が生じるに至った〔本書では現代の感覚でとらえることができるように、年齢を表記するときには数え年を使わずに満年齢で表記することにした〕。
空位が生じることは、とうてい許される事態ではない。そしてこれをこのまま放置すると、天皇家を断絶させることになる。このとき、空位を避けるために後桃園天皇の崩御はしばらく黙されることになり、その間にさまざまな策が検討された。朝廷において判断に苦慮した場合、常に先例を参考にしてきたことは既に述べたが、このときも、およそ2000年以上続く歴史を辿(たど)って皇位継承に関する先例調べが行なわれた。
既に説明した継体天皇と後花園天皇の二例が最も参考にされたことは言うまでもない。この時代、徳川幕府は絶大なる権力を持っており、皇太子を立てるにも幕府の承認を得る必要があった。朝廷は後桃園天皇がまだ存命であることにして、天皇の重体を伝え、世継ぎを誰にするか幕府と交渉を始めた。
男系維持へのこだわり
後桃園天皇が崩御したこのとき、天皇が残した子供は、崩御の年に生まれたばかりの皇女欣子内親王ただ一人だった。そのため、皇位継承の問題は深刻化した。通常、皇子がいない状態で天皇が崩御すると、天皇の兄弟、叔父、大叔父など、歴代天皇の男系の子孫が皇位を継承するのが通例となっていた。
後桃園天皇には弟の貞行(さだもち)親王〔「さだゆき」とも読む〕がいたが、宝暦10年(1760)に伏見宮を相続した後、明和9年(1772)、既にこの世を去っていた。
そのうえ、後桃園天皇の父桃園天皇は既になく、その兄弟もいなかった。もう一世代遡(さかのぼ)ると、桃園天皇の父、桜町天皇も既になく、その兄弟四方のうち、公遵入道(こうじゅんにゅうどう)親王と忠誉入道(ちゅうよにゅうどう)親王は健在であったものの、既に満57歳と満56歳という高齢だった。〔入道親王とは、親王宣下を受けた後に仏門に入った皇族のこと〕
しかも二人は仏門に降って僧侶となっており、いずれにも皇子はいなかった。つまり近親に皇位を継ぐことができる歴代天皇の男系の男子が一人もいなかったのである。
続き 男系維持へのこだわり
高齢の入道親王では次の世代を担う皇位継承者とはなり得なかった。この状況は皇統の危機が盛んに議論される平成の状況よりもさらに厳しいものである。
近親に男系男子が一人もいないのであれば、後桃園天皇が残した欣子(よしこ)内親王を女帝にすればよいと考える読者もいることだろう。欣子内親王は父親が天皇であるため、女子でありながらも男系であることに変わりがない。確かに我が国には、それまでも女帝が存在した歴史を有す。
欣了内親王が女帝となることについても問題がないかのようにみえる。しかし、その先のことを考えると、そう簡単な話ではない。もし 天皇の近親に高齢で子のいない二名の入道親王しか男系男子がいない状況で欣子内親王を女帝とした場合、皇統断絶の危機を何一つ解決したことにならない。
その女帝が末代となり、女帝の崩御で皇統断絶となるだけだ。女帝を立てるためには、条件が整っている必要がある。安易に女帝を立てることは、極めて危険なのだ。
八方十代の女帝 後桃園天皇が崩御したこのときも、女帝の先例が調べられた。皇統の歴史上、八方十代の女帝〔重祚(ちょうそ)、つまり一度退位した後に再び即位した女帝が二代あったのでこのように表現される〕が存在している。しかし、女帝となったのはいずれも、天皇の皇女など、男系の女子であり、女系たる女帝の子息が皇位を継いだことは一度もない。やはりここでも男系継承は確実に守られてきた。また、男系継承を確実なものにするため、女性は生涯独身を貫くこと、そして生涯出産しないことの不文律が存在していた。 女帝が即位後に結婚した例はなく、また同じく即位後に出産した例もない〔ただし、即位する前に皇后として出産した例はある〕。
ではなぜこのような不文律が成立していたかといえば、もし女帝の配偶者と女帝の子供がいたとすると、彼らの扱いは非常に難しく、皇位を巡って争いが生じることが予想されたからだと思われる。女帝の配偶者と女帝の子供はいない方がよかったと考えられていたのではないか。
また、後桃園天皇が崩御したときのように、皇位継承者がいない状況で仕方なく 女性が天皇になったことは一度もないことに注目しなくてはいけない。
女帝は、政治的緊張の緩和か、継嗣の成長を待っ目的で成立してきた。
それぞれの女帝がどのような背景で成立してきたか、簡単に概要を説明する。 注:今再び女性宮家なるおかしな話が出てきたが、皇室の事は皇室に任せるのが良いと思う。正しい歴史認識もなく、それ以上に2000年続いている本当の皇室の正しい歴史も知らない、者がとやかく言うものではない。「解(わか)らんもん(者)と知(し)らんもん(者)が話しても何もわからん」(サイタニ)
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