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古い雑誌に、日本の文化的風習である、浄めの話が載っていました。
日本人は早くから海は神聖なものと信じてきました。禊(みそぎ)や祓(はらい)をすれば身のけがれが取り除かれるものだと疑いませんでした。藻塩や塩を浄めのために使うのは、すでに我々の中で日常化しています。
われわれ日本人は海から生まれ育ち、海と共に生きてきました。周りを海に囲まれた環境からいって自然のことです。その海にみなぎる水は水平に平等に横たわり極まるところがありません。そして清らかに澄む水に穢(けがれ)を除く神秘さがあると昔から信じられてきました。水に身体を浸し、身体についた穢れを洗い流す禊(みそぎ)はその精神を端的に物語ったものです。 海水から生まれる塩にも神聖さがあるとするのは水の浄化力を具象化したものです。塩が神供として使われ、あるいは海藻や潮水を神前にささげるのは、塩が穢れをはらうと信ずるからです。所によっては潮水のかわりに海砂や川砂を使います。それが「お潮井」の行事です。
われわれの日常を見回してみましょう。相撲の仕切りの時に力士がまく塩。弔いのあとに五体を清める浄め塩などの習俗が思い出されます。また瀬戸内海や九州の漁村では一家の主人が早朝、浜辺に行き潮水桶に海水を汲んできて神棚に供えたり、門前にまいて辺りを浄める風習があります。農村の中には早稲の刈り入れの時、最初に刈る稲に塩井をかけ「神の穂」にする儀礼が残っています。先にふれたみそぎの例ですが、祭礼の前に潮掻き(しおかき)といって、潮垢離(しおごり)つまり潔斎をする習わしが、ほうぼうの漁村で見られます。 この「浄」のイメージは、われわれの古典「古事記」や「日本書紀」の中のイザナギ、イザナミの神の物語に見ることができます。イザナミの神は火の神を生んだので黄泉国(よもつくに)に帰りました。イザナギの神はその后を恋しく思い黄泉の国に行ってみると、そこは暗黒と汚濁の世界です。イザナギの神は奥へ行き、頭にさしていた櫛の歯の一本を折って火を灯し、中をご覧になるとイザナミの神の体にウジがいっぱい湧き、頭、胸、腹などに八種の雷神がいる、といったものすごさです。イザナギの神は一生懸命になって、そこを逃げ出されました。 生と死の戦いからやっと解放されたイザナギの神は命の根源である心身を浄めなければなりません。明るく健やかな生命こそ、限りない幸せを生み金剛不壊(こんごうふえ)の境涯をささえるものだからです。イザナギの神は禊(みそぎ)の場所を求めて筑紫(つくし)の日向(ひむか)橘の小戸の阿波岐(あはぎ)が原に行かれました。 筑紫は日本文化の発生の地であり、日向はやがて差し昇る太陽を迎えることのできる陽明の方角であり、橘は良き今の続く常世(とこよ)のめでたさを象徴する霊木であり、その青々として緑なす地帯が阿波岐(檍)原だったのです。
イザナギの神は、その神聖な海辺の中つ瀬を選んで身を沈め、体についたけがれを振り落として浄められました。すると最初はマガツヒノカミなど汚い神々が生まれました。禊祓というのは洗濯ですから汚い汁が出るというわけです。最後に生れたのがウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオの三柱の神でした。「古事記」では「三柱の神は、墨江の三前の大神なり」と書いています。これが住吉の大神で禊ぎという浄めによって天照大御神が誕生されました。 |

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