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        連載 「私の日本憲法論」
        ”国”というものの無い日本国
 
 
 
現憲法には”国”は存在しない
 
 
わたしは幾度も幾度も、マッカーサー元帥が占領中に占領軍の威圧の下に
押しつけた所謂「日本国憲法」を読んでいるうちに、重大なことを発見した
のである。
 
 
それはこの憲法によれば、「国」という字は諸方に書かれてはいるけれども
実際的に「国」というものが存在しないことを知ったのである。
 
たとえば、家永教科書裁判、において、文部省が家永三郎教授著の
『新日本史』を教科書としては不適当であるとみとめて検定から外した
のに対して、杉本良吉裁判長は、「国家には国民に対する教育権はない
検閲は之をしてはならない』と憲法第二十一条にあるのに文部省は
それを犯したのであるから」として、国、側が敗訴になったというのである
 
ここでは明らかに、自民党内閣の文部省が行ったことが、国、がそれを
行ったことが、国、がそれを行ったということになっているのである。
それ故に家永三郎教授は、文部省が同氏の著作を、教科書としては
不適当であると検定から外したために、その書の印税として収入さるべく
予測されていた金銭が家永教授に収入出来なくなったから、国、に
対してその損害を賠償するように訴訟を起こしたのであった
 
これは「日本国憲法」第十七条の、何人も公務員の不法行為により
損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、
その賠償を求めることができる、の条項解釈の下に行われた訴訟である。

文部大臣又は文部省所属の官吏の行為に対して、国、が損害賠償する
という規定は、、と行政機構の中の、官吏、とを混同するものである
 
どうしてこのような混同があらわれて来たかというと、国、という概念が
曖昧漠然としていて、換言すれば、国、なるものがハッキリ存在しない
のが現行の憲法であるから、その漠然とした霧の中に官吏が融け込ん
でいて、官吏が行為したことが国、がしたかの如く混同せしめられる
のである。
 
 
だいたい現行の日本国憲法には「忠誠の対象となるべき歴史的伝統を
もつ不変の、人格、としての国」存在しないのである。
 
明治憲法に於いては、
その第一条ハッキリと「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
万世一系の人格的内容をもつ、国、なるものが明記せられていて
吾々国民には、忠誠の目標・対象となるべき国家が厳然と存在していた
のである。
 
しかし占領憲法には、その第一条に「天皇は日本国の象徴であり日本国民
統合の象徴」と書かれているけれども、その「日本国とは何ぞや」という
定義も規定も内容の表示ハッキリしていないのである
 
 
日本国憲法に最初出て来る、国、なる語は、憲法前文に、「わが国全土に
わたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争惨禍が
起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを
宣言し、この憲法を確定する」とある一節に書かれている「わが国」という語が、
この憲法にあらわれたる「国」という字を使った用語例の最初である。
 
 
しかし、この「わが国」は直ぐ「全土」とつながっているので、この「わが国」とは
「わが領域」という意味にもとれて血の通った「国家」ではないようである
そして、その「わが国」は、次にある「政府」と対立した存在になっていて、
 
政府、が、わが国、に戦争の惨禍を再び起こさないようにするために、この
憲法を確定するという風な行文になっているのである。ここでは、政府、即、
わが国、ではないのである
 
政府は、行政府、であって、もし戦争を起こしたら、わが国、は被害者である
のである。政府の官吏の行為によって起こった損害は、国、に対して賠償を
求めることが出来るていう、この憲法十七条の規定は、この場合変なことに
なるのである。惨禍を受ける被害者であるわが国、が賠償を国民に支払う
ということになるのである。
 
 
こうして、ひと筋の合理的な論理が通らないのはこの憲法に国、の定義も
なければ内容の表示もないからである。そしてこの憲法の前文はつづいて
言う。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は
国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が
これを享受する」

国政というものは、国、の行政であるが、その行政権は、内閣に属する
(憲法第六十五条)となっている。
 
 
 
 
 よくこんな馬鹿馬鹿しい憲法平和憲法なんて云って国民を
   騙してきたものだ!
 
   だから、菅・岡田・小沢みたいな反日・左翼の韓国人
   国会でのさばり、平和ボケした鳩山みたいなのが出てくる
   のだ!
 
 
 

転載元転載元: サイタニのブログ

ある人の文章に引用されていた、ある少年の作文があります。平成17年(訂正しました)の作文のようですから、その少年も今はもう若者になっているでしょうが、ちょっと心を打たれました。日本放送主催の子供作文コンテストの入選作だったようです。
 
 「お父さんへの思い 小六
 ぼくは、お兄ちゃんとお母さんとで住んでいる。お父さんは生まれる前に死んでしまった。ぼくはお父さんと少しでもいいから会いたかった。二、三年生の頃お父さんの夢を見た。お兄ちゃんとお母さんとぼくとお父さんがいた。ぼくはお父さんが写っている写真は見たことがあるけど、写真に写っていたお父さんの顔は忘れていた。だから夢に出てきたお父さんが写真に写っていたお父さんかどうかわからないはずだ。
 でもはっきりとぼくにはわかった。
 ぼくはその時聞いた。
 “なんでお父さんは死んじゃったのにここにいるの”
 そしたらお父さんはにっこり笑った。その時目がさめた。ぼくはふとんにもぐってすっごく泣いた。なみだがざあざあ両目に大きいたきがあるみたいにあふれ出た。やっと泣くのがおさまって来た時におきてお母さんにその事を言ったら“それはよかったじゃない”と言ってくれた。
 今お父さんは生きていないけどぼくの心の中では生きていて、はげましてくれたり、おこってくれたりしてぼくの近くにいてくれる」
 
ときどき亡くなった人の夢をみることは、だれでもあるのではないでしょうか。そしてその夢は妙に鮮明に覚えています。
私も三年前に父を亡くし、その後の一年くらいは、ずいぶん寂しい気持ちがつづきました。そしてやはりそんな時に、父の夢をみたことがあります。普通に父と話している夢で、夢の中では父はまだ生きていて何気ない日常のような会話でした。そして目が覚めると、やはりこの少年と同じく涙が出ました。なにか不思議な幸福感があって、夢で会えたことは、きっと父の霊がわたしを慰めにきてくれたのではという感じがしたものです。
亡くなった人の霊が生きていると、信じる人も、信じない人もいるでしょうが、鮮明な夢は、けっこうある実感を持って、私たちに何かを告げているように思います。
夢でお父さんにあった少年も、きっとお父さんの励ましを常に感じつつ育ったことでしょう。
今回、東日本大震災で、多くの方が亡くなられ、寂しい思いをなさっている方がたくさんおられるでしょう。でもその方たちを励まそうと、亡くなられた方々も神界から必死で応援の念を送っておられるのではないかと思います。その思いに応えて、必ず復興しなくては、させなくてはと思います。



        20世紀初頭のアジア地図   

 御来訪感謝申し上げます。

 最近、4月から始まったNHK朝の連続小説“おひさま”をよく観ています。
 先週は井上真央演じる主人公の次兄で予科練に入隊した兄が休暇を取って帰省し、家族や妹の勤務先の国民学校の児童たちに「日本は俺に任せとけ」というシーンがありました。
 当時自ら志願して予科練を目指したような青年たちは、国家存亡の危機に皆「自分がお国を守るんだ」という強い使命感と信念、そして決死の覚悟を持って出陣して行ったのだ、と改めて先人たちの偉大さと凄さを実感させる場面でした。
 これこそが「国家観に基づく危機管理」そのものではないかとも感じ入りました。
 本当は戦争が怖くて逃げ回っていただけなのに、戦後になって他人事のように評論家的な綺麗事を並べ立てて戦争を批判することにより、自己弁明に走っていた連中に比べれば国家を守る『当事者』意識を持った、このような多くの青年たちに日本人としての神々しいまでの凛々しさを感じます。
 戦後、戦争を批判してきた連中が主流となって作ってきた日本がどうなったかが、今の日本の姿であります。

 今日の読売新聞朝刊の文化欄に「『危機管理』軽んじた戦後・・・国家から個人まで再考の時」と題した記事が掲載されていました。

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 東日本大震災の発生から2か月余りが経過した。「天災」の凄まじさを伝えることの多かった言説も、政府の対応のまずさや深刻化する原発事故により、「人災」を語ることが増えてきた。被災者支援、復興のあり方、原発の将来など論点は様々だが、目立ったのが、菅政権の指導力や危機管理能力を問う論考だった。
 政治学者の御厨貴東大教授は、作家の半藤一利氏らとの座談会「関東大震災と東日本大震災」(『文藝春秋』)で政府対応を批判、「これまでの民主党政権は、『対策』ばかりです。(中略)全体としてどう動かそうかという構想がないので、すべてが断片化しています」と指摘する。
 なぜそうなるのか。「根底に、国家観の欠如があると感じています。私が卒業した東京大学でも、法学部が教えるのは機能主義的な分析ばかりで、国家学などない。だから、国家というものを考えた途端に、みんな思考がストップしてしまう」という。
 ジャーナリストの船橋洋一氏も「『生命の安全保障』の視点で国のかたちをつくり変える。」(『潮』)で国の対応に言及、いわく、「『こんなふうに起こってほしい』という『想定内』を“ムラ”社会の中でつくり、その範囲内でのリスク管理に精を出す。これでは危機管理ではありません。戦後はそこに『一国平和主義』の願望と幻想がかぶさって、冷徹なリアリズムと冷厳な安全保障政策が育たなかったと思います。国家の危機管理についても真正面から向き合わないままでやり過ごしてきたのです」。


     ( 中 略 )

 評論家の西部邁氏も「日本の国難を問い未来を考える」(『表現者』)で、「日本人の危機管理というものが、単に国防のみならず、産業においても地域においても家族においても、いや、果ては個人においても、自立的に危機防衛の精神や態度を作り上げる習慣、習俗というものを失ってきた」と指摘。危機管理の本質を「実にパラドキシカルな、逆説的な作業であって、『管理しがたき事態を管理する』という、言葉本来においての冒険なのです」と示した上で、「我々は、管理しがたきものの管理という難局に、単純にシステム化された人智、理屈っぽい論理だけでは対処しようのない困難にちょくめんしています」と説いていた。
 我々は、危機に対する「精神の構え」を、根本から考え直すべき時に来ているのかもしれない。(文化部 植田滋)

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 不肖敬天愛人はこの読売の記事に感銘を受けて引用したのではありません。
 この記事には、途中に取り上げる価値もない二名の論説もあったので割愛しましたが、引用部に登場してくるこれらの論説にもチャチャを入れたくて引用させていただきました。
 冒頭部に敬天が記しましたが、「他人事のように評論家的な綺麗事を並べ立てて戦争を批判することにより、自己弁明に走っていた連中」と全く同じ類の人物が引用文中にまず登場しています。
 東大教授の御厨貴であります。彼は確か政府の「復興構想会議」のメンバーであるはずです。復興構想委員でありながら、正論を吐きながら政府対応を堂々と批判しているのです。
 敬天が太字で著した部分「根底に、国家観の欠如があると感じています。私が卒業した東京大学でも、法学部が教えるのは機能主義的な分析ばかりで、国家学などない。だから、国家というものを考えた途端に、みんな思考がストップしてしまう」は、まさに正論であります。
 しかし、よく考えてみると彼も政府の委員でありますから、「国家というものを考えた途端に、みんな思考がストップしてしまう」という、「みんな」の中に入っているはずですから、意地の悪い敬天に言わせれば、自らそれを暴露していることになるのですが、多分、そこには御厨教授自身は入っていないのでしょう。入っていたらこんなことを言えるはずがありません。
 こういうのを「他人事のように評論家的な・・・」というのです。
 雑誌の座談会で、それこそ国家観もない作家相手に正論を吐くのではなく、TVに出て、場違いにも誤った歴史観に基づいた自説を滔々と語って顰蹙を買った議長の五百旗頭や、菅総理はじめとする最も国家観が欠如している政府の要人に対して堂々と指摘することが、菅内閣の目玉である復興構想会議委員としての本来の役割ではないのかと言いたくなります。
 議長が議長なら、メンバーもメンバーだということです。これでは一向に復興が進むはずがありません。
 みんな、他人事なのです。

 船橋洋一も創価学会の機関誌で「『一国平和主義』の願望と幻想がかぶさって、冷徹なリアリズムと冷厳な安全保障政策が育たなかったと思います。国家の危機管理についても真正面から向き合わないままでやり過ごしてきたのです」と指摘したところで、創価学会の政治機関の公明党がまさにその通りの政治志向でやってきたわけですから、学会員の読者には寝耳に水の話でしょう。

 敬天も評価する保守系論客の西部邁氏も「理屈っぽい論理だけでは対処しようのない」と言いながら極めて理屈っぽい論理で説いていて、正直、何を言いたいのかさっぱり分かりません。簡単にいえば国家観がなければ安全保障観も根付かないということでしょう?

 極めつけは、この記事の著者である読売文化部の植田記者のまとめです。
 「我々は、危機に対する「精神の構え」を、根本から考え直すべき時に来ているのかもしれない」
 無知蒙昧な敬天はいったい何を言いたいのか、全く理解できません。

 はっきり言わせてもらえば、根本から考え直すべき「精神の構え」を愚かにも今まで築いてきたのは、アンタら机上で無為な論理を弄んできた、知的エリートと称する無為の徒たちではなかったのか。

 奇しくも結論は先に出ているではないか。御厨東大教授が指摘している「国家観の欠如」そのものが、日本を被っている根源的な病巣であることを。
 
 話は変わりますが、敬天がなぜ冒頭のイラストを持ってきたかというと、これが20世紀初頭の紛うかたなきアジアの実態です。
 戦後の知的エリートはこの現実を無視して、あるいは見て見ぬをふりをしながら、あえて国家観を国民から排除させるような「日本は侵略者だった」という亡国教育に加担してきたのです。
 
 その事実を無視して、今さら綺麗事を言うな!と言いたい気持ちでいっぱいです。

 まるで、大東亜戦争中に自ら国民大衆を煽るような大本営発表を率先して報道していたのに、戦後は手のひらを返したようにいきなり反戦派に転向したようなものです。

 話を戻しますが、今、被災地の人たちは皆当事者意識を持って、それこそ凛々しく「明日の日本を再興するのは自分たちだ」という気構えで苦境の中を頑張っているのです。

 これこそ今日本が求められる「危機に対する精神の構え」ではないでしょうか。

 最も危機管理を軽んじてきたのは、現場の国民個人個人ではなく、政府はもとよりマスコミや識者たちではなかったのか。

 根本から考え直すべきは君たちだろう!と言いたくなりました。


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