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 御来訪感謝申し上げます。

 昨日9月11日で、3.11東日本大震災発生からちょうど半年を迎えました。
 福島をはじめとして岩手・宮城の被災3県の沿岸部は、津波被害の痕跡が依然として残ったままです。津波で壊された建物の瓦礫の山の間にクルマが通れるように、仮道路が設けられた程度で震災前の面影すら、もはや見ることもできません。
 生活基盤を奪われてしまった被災者の方々の生活面での復興も思うように捗って(はかどって)いません。
 また、未だに5,000人近い犠牲者が行方不明のままとなっています。

 半年経って、少しは復興した未来への道筋が見えても良い頃なのに、遅々として進まぬ被災現場の復旧状況を見るにつけ、果たして東北は再生できるのか、と甚だ厭世的な気持ちに襲われます。
 新内閣を率いる野田首相は「東日本の再生なくして日本の再生はありえない」と東日本の再生が再優先課題であると就任時に所信を表明しましたが、前首相がそうだったように口では何とでも立派なことは言えます。
 国のトップである総理の公式発言に効果的な行動が伴わないから、国民の目と耳には「大見得を切っただけ」のパフォーマンスとしか映らないのです。
 
 野田総理は就任前から「財務省の傀儡」などと大手メディアから冷ややかな目で見られていました。
 野田氏の番記者たちが、以前から新総理のそばでその言動を見聞きして感じていた現場の生の声から発せられた「野田評価」なのでしょう。
 野田総理もその期待(!?)を裏切ることなく、早速、復興財源を名目とした増税に言及する発言も見られるようになりました。

 不肖敬天愛人は、この「復興財源確保のための増税」という一見耳障りの良い、それに反対することも憚れるような、まことしやかな言葉に前から嘘臭さを感じていました。

 敬天のような無知蒙昧な田舎オヤジが言うことですから、多少アサッテの方角に暴走することをご勘弁いただきたいのですが・・・・
 ・・・そもそも国が未曾有の天災により甚大な被害に遭った国土とそこに住む地域住民の生活基盤を復旧・復興させるのに、何ゆえ「先に財源ありき」という発想なのか?
 民間企業や民間個人が自ら再生しようとすれば、確かにその財源はどうするのか、自己資金がなければどこから借りるのかの問題が出てくるのは当然です。
 しかし、これは国家の問題なのです。
 国家が民間と決定的に違うのは、国家は「お金を造る」ことができるということです。
 つまり、国家は『通貨発行権』を持っているのです。
 極端な話、今回のように未曾有の大災害に見舞われるような国家の一大時には一刻の猶予も許されませんから、財源を云々する以前に、新たに必要分を発行して復旧・復興資金に充てれば良いだけの話なのです。
 これだけ円高が進んでいるということは、経済の基本原則である「需給のバランス」が崩れているということですから、円の供給量が需要に対し大幅に不足していることは誰も否定できません。焼け石に水でしかない一時的な介入をするより、根本的に対策を講じなければ円高傾向に歯止めをかけることもできません。

 また、例えば、もし、どこかの外国が日本に宣戦布告をして来たとします。あるいは宣戦布告無しに攻撃を仕掛けて来たと仮定します。
 日本には日米安保があり国連にも加盟しているからそんなことはありえないと普通の日本人は考えます。
 しかし、何が起こるか分からないのが世の常であり、人間世界であります。
 国連安保理に拒否権を持つ常任理事国のいずれかが日本を攻撃して来たら、国連に加盟しているなんてことは吹っ飛んでしまいます。また、アメリカが日米安保を稼働させることは自国の利益に反すると判断せざるを得ない国が日本の敵国となった場合、日本は単独でもその国と戦わなければならなくなります。
 この時、戦争を遂行する財源は?と半年も政府や議会が議論をしていたら、この間に日本は国民は全員惨殺され国土は焦土と化してしまうでしょう。
「今は戦争をするカネがないから待ってくれ」は通用しません。むしろ、そういう時を狙ってくるのが戦争なのです。
 だから、戦時国債(戦争債)があるのです。戦時国債は戦争に負ければ紙屑同然となってしまいますが、勝てば、相手国から賠償を得ることができますから、それで償還することが可能となります。
 勝つか負けるかは分かりませんが何もせずともヤラれてしまうのだったら、日本国民の誇りと名誉に賭けて戦う道しかない、もし戦わなければ日本は永遠に独立主権国家としての立場を放棄したことになります。
 話がトンデモない方角に行ってしまいましたが、敬天が申し上げたいのは、決して大げさでなく、今の日本の現状は議論も予断も待ったなしの国難時にあるということです。
 
 こうしている間にもどんどん被災地の人たちは疲弊して行くのです。その上、福島第一原発事故の影響も風評被害という最もタチの悪い被害を福島のみならず東北全体にもたらしています。
 数百年に一度という未曾有の国難だからこそ、通常時のモノの考え方ではなく、例えば緊急復興債や国土建設債などの緊急時の対応を取らなくては国の再生はありえないと考えています。
 国はというより、官僚はなぜ国債発行を嫌がるのか、それは自分たちの点数(成果)にならないからのです。むしろ自分たちの汚点となるからです。そして、国債は償還しなくてならないからなのです。 増税なら、国民から貰いっぱなしで済むのです。だから、誰の責任も問われず恒久税源を確保したということで成果と評価されるのです。
 それに政治家・マスコミに多い左翼赤化勢力が便乗するのです。 

 国が50年償還で復興債を発行したとして、その償還はこの50年で国の経済を建て直し、先進国ニッポン本来の強みであり最大の特長であった、他国にない分厚い中産階級層を復活させれば税収も上がるし、その税収で充分償還可能であり、仮にその時に償還を不要とする人たち(新たに別の資金運用先を必要とする人たち)はそのお金で新たに国債を優先的に購入できる権利を付与すれば良いのです。また、税収も上がれば通常国債の発行高も自然減していくのです。
 今の日本の不況とデフレは中産階級が大幅に減少した結果でもあるのです。
 増税でますます国民が食えなくなったら、それこそ税収はさらに下がることになり、まさに本末転倒もいいところであり、旧国鉄末期と同じように新たな増税の繰り返しの悪循環になるのです。 

 日本解体を目論むなら復興財源という名の増税、日本の再生を期すなら復興債または国土建設債の発行、この選択肢しかないのです。

 まやかしの言葉に騙されてはなりません。


 日本に巣食う無責任左翼勢力の陰謀に騙されてはなりません!!

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転載元転載元: 新“敬天愛人”のブログ

 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。最近のさくらの花びらさんの記事は修身で取り上げられた日本の偉人を紹介されています。

こうした先人たちの生き方を見ると、日本人がどういう思想を持ち、どんなふうに工夫して成し遂げていったかという日本人の性格のようなものが、おぼろげに見えてきます。それぞれ成したことは違いますが、共通したもの、があって、それらから、日本人が何を尊び、どんなふうに物事に立ち向かい、どんなふうに克服していくかという民族の持つ性格的なもの、個性というものが、なんとなく感じられます。もちろん世界の偉人たちには、ある程度共通する偉大さがありますが、それとは別に、いかにも日本人らしさという部分が感じられるのです。こういう部分を感じることは、やはり大事なことだと思うのです。


修身では外国の偉人も多く取り上げられています。これも素晴らしいことで、世界の多くの人種を、別け隔てなく、人類がどれだけ偉大なことを成し遂げられるかという、人間そのものの存在を肯定的に捉えることができます。そしてその中で、日本人が日本人らしさを発揮して、何かを成し遂げた話は、自分の中に、日本人としての誇りと共に日本人として世の中に尽くしたいという意識を芽生えさせるのではないでしょうか。

 
 
 
  
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   (太田恭三郎) 

  
太田恭三郎 
 
明治三十六年、二百五十人ばかりの一団を先頭に、 
日本人渡航者が相次いで、フィリピンに向かった。 
フィリピンの首都、マニラからおよそ三百キロ北の高い山の中に、
バギオという町を新しく建設するため、その手始めとして、険しい山坂を切り開き、
三十五キロという長い道路を作ろうとしたのである。
岩が落ちてきて、人が怪我をする。出来かかった道は、すぐに崩れる。
そのため、フィリピン人も、アメリカ人も、支那人も、
これまで果たすことの出来なかった難事業を、今はしとげてみせようというのである。
 
日本人は、辛抱強くて、よく働いた。
けれども、やっぱりこの仕事は生易しいことではない。
何人も病気になったり、けが人もたくさんできた。
その上、日本人が一番困ったのは、急に食物が変わったことである。
このまま仕事を続けていたのでは、みんな病気になってしまうかもしれない。
 
この様子を知って、義侠心を起こしたのは、マニラの街に住んでいた太田恭三郎であった。
恭三郎は、早く明治三十四年からマニラへ渡って、そこで日本雑貨の輸入業を営んでいた。
渡航した時は、まだ二十六の若者であったのである。
恭三郎は日本人渡航者たちの苦しみをみては、じっとしていられず、フィリピン政府に相談して、
これを救う工夫をするとともに、自分で漁師からいわしを買い求めて送ることにした。
続いて梅干しやたくあん漬けなどをたくさん送り届けた。
このことを聞いた日本人たちは、
「太田さんは、偉い人だ。太田さんは、有難い人だ」
と、心から感謝して元気づき、一生懸命に働いたので、間もなくフィリピンの島に、
ベンゲット道路という立派な道路が、日本人の力で出来上がったのである。
 
ところが、今度はその日本人たちに、仕事のなくなる時がきた。
早くもこの様子を見た恭三郎は、またしてもこれを救ってやろうと思い立ち、
「ダバオこそ日本人の新しく働くところだ」
こう考えて、行く末を心配する日本人たちを励ましながら、ます百八十人だけをダバオに送り、
マニラ麻を作らせることにした。
その頃、ダバオは非常にさびしいところであった。恭三郎は、まだ二十九歳にしかなっていない。
三十八年には、二度ほど日本人をベンゲットからダバオへ送ったが、
二度目の時には、自分も一緒になってミンダナオ島のダバオに移り住むことにした。
 
そうして、今までの輸入業をやめて、太田興業という新しい会社を作り、
広大な畑に麻を栽培し始めたのである。
「日本人にマニラ麻がうまく作れるものか」
と、ばかにしていたアメリカ人やスペイン人をしり目にかけて
恭三郎の会社はだんだん大きくなっていった。
それだけではなく、腕のある日本人たちは、引っ張りだこで、
みんなに麻の作り方を教えるようにさえなった。
 
「有難い。これで日本人は、ダバオに落ち着くことができる」
恭三郎は、心から喜んだのである。
恭三郎の一生の望みは、どうしたら日本人が、海外でよく栄えることができるか、
ということであった。この望みに向かって、いつも全力を尽くした。
ダバオに落ち着いたのも、せっかく苦心した麻が暴風のため一夜で倒されてしまったことがある。
その時恭三郎は、
「こんなことで、負けてなるものか」
と、雄々しい気持ちを奮い起して、日本人たちを励ましながら、
一生けんめいになって復旧に努めた。
 
また、干ばつのときに困らないよう、畠に水を引く大きな工事を始めたり、
いつも先々のことを考えながら、細かく気をつかって、仕事をした。
恭三郎は日本人のために学校を作ったり、慰安の設備をしたりした。
その上、フィリピン人も日本人にならって、幸せになるようにと大きな心から、
病院を建てたり、道を開いたり、港をつくったりした。
大東亜戦争になって、フィリピンの島々から、アメリカ人を追い払うことのできる前、
すでに恭三郎は、ダバオ開拓の父と仰がれる大きな事業を成し遂げたのである。
ダバオのミンタルというところ、フィリピン群島第一の高峰アポを背にした緑深い山の上には、
恭三郎の立派な記念碑が立っている。
(第五期(昭和十六年)・初等科修身四より)
 
 
  
 
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