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靖国神社(四)

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昭和天皇陛下 靖国神社 御親拝 御尊影
 
 
靖国の英霊を思い詠まれた明治天皇陛下、昭和天皇陛下の御製です。
 
 
よとともに 語りつたえよ 国のため
          命をすてし 人のいさをを
 
畏くも明治天皇陛下、明治37年の御製です。大意は、(国のために生命を捧げた人たちの功績を、いつの世までも語り伝えていって欲しい)
 
 
忘れめや 戦(いくさ)の庭に たふれしは
          暮しささへし をのこなりしを
 
畏くも昭和天皇陛下、昭和37年の御製です。大意は(忘れることができようか。戦場で亡くなったのは、みな家庭のくらしを支えていた男たちだったことを)
 
 
《歴代天皇陛下の靖国神社御親拝合計回数》
明治天皇陛下   七回
大正天皇陛下   二回
昭和天皇陛下  二八回
今上天皇陛下   五回(但し、皇太子殿下時代)

戦前戦後を通じて、靖国神社の春秋の例大祭では、皇室の勅使(天皇の使者)が差し遣わされ、「奉幣」が行われてきた。皇室の幣帛(へいはく=神に供える物)を、伊勢神宮と靖国神社に奉(たてまつ)る伝統は、現在に至るまで変更されていません。
終戦後、昭和天皇陛下は昭和20年11月20日に、初めて靖国神社にご親拝あそばされた。 それ以来、30年間ご親拝が続けられていた。しかし、昭和50年、秋の例大祭に昭和天皇陛下が参拝されて以来、今上天皇陛下の御代もご親拝は途絶えています。
今上天皇陛下におかせられましては、皇太子殿下時代には5回、参拝あそばされた。死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった戦没者は、天皇陛下がご親拝されると信じ、そこに栄誉を感じていたのです。昭和50年以降、天皇陛下のご親拝がないという日本の現状は、英霊の期待を裏切るものとなっています。
これは天皇陛下の責任ではなく、政治の責任です。
 
昭和天皇陛下におかせられましては、たえずご親拝の御意向を持ちつづけられていたのです。
天皇陛下の靖国神社ご親参拝は、内閣の指示があって、はじめて可能となるのです。それまで政府は天皇陛下の靖国神社ご親拝を許可してきたのです。
陛下が切望されていた「靖国神社御親拝」を、昭和五十年を境にして阻んだ原因には、次のようなものが考えられます。
同年8月15日、三木武夫首相が私人としての参拝を表明したため、憲法問題として公式か私的かの論議が紛糾した。このことが影響していることは明らかです。
また、日本の体制転覆を企む極左集団は、その闘争目標を昭和三十年代の政府と国会、昭和四十年代の学園闘争から、昭和五十年代には皇室へとかえたのです。
昭和五十年九月三十日の昭和天皇陛下訪米には、「天皇訪米絶対阻止」叫び、昭和五十年九月十五日、同時に三件の皇室へのテロ事件(伊勢神宮の内宮別宮の瑞垣御門焼き討ち事件、葉山御用邸火炎瓶事件、宮廷駅に接続する原宿駅での発煙筒事件)などが起こった。
この日から昭和天皇陛下訪米までの間、都内は、一万数千人の警察官を動員する程の非常事態となったのです。
昭和五十年代、左翼暴力集団による「反天皇運動」が激化する中、靖国神社への御親拝は、警備上の問題もあって差し控えられたものと考えられます。
また、国会においても、極左集団に呼応するように、昭和50年以降、社会党などから皇室を標的とする国会質問を行った。
秦豊参院議員(社会党)は参院内閣委員会において、昭和五十年五月二九日、皇室の御祭祀にまで難癖を付けたのです。
その内容は以下のとおりです。
 
【秦豊議員の「宮中祭祀・憲法違反」質問】
「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思います。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるというありようにあわせてこれは明らかに憲法二十条に抵触する習慣と思います。これを習慣として見逃すことは余りにも重大であると思います」
 
それに対して、角田内閣法制局第一部長は、あろうことか次のように秦議員の意見に賛意を表明した。
 【角田内閣法制局部長の「宮中祭祀・憲法違反」への賛成答弁】
「神社へお参りするという場合もいろいろな方法があるわけでございます。いわゆる神道の儀式によって正式に参拝をするというような、いろいろなやり方があると思いますが、そのやり方によって、ある場合は宗教的行為、あるいは宗教活動になるだろうと、しかし、非常に単純なおじぎをするだけではそういうものにならないというような考え方もあると思います。」
 

「皇室の祭祀」を誹謗中傷する意図をもった社会党議員の意見に、法制局が賛成して、皇室の伝統である祭祀のやり方まで容喙するという異常事態となり、また社会党に遠慮した、宮内庁は内閣法制局の意見に合わせて、昭和五十年九月以降、突如として、それまで明治以降毎朝行われてきた宮中でのお祭りを大幅に変えてた。それは、明治以来慣例となっている、侍従が陛下にかわって、毎朝、宮中三殿への代拝を行うのを次のように変更しました。
 
①浄衣に笏を持った姿をモーニング姿にかえ、
 ②宮中三殿の殿上での拝礼を、庭上からとした、
 ③御馬車での参進を自動車へかえた。(当時、宮内庁掌典補永田忠興氏の証言による)

それだけにおさまらず、伊勢神宮をはじめ橿原神宮や靖国神社への勅使が、従来の侍従から掌典へと変えてしまいました。
由々しき事態です。
昭和五十年以降の「靖国神社御親参拝中断」の真因も、社会党を始めとする野党による宮中祭祀へのいわれなき批判と、政府部内にこの批判に呼応する勢力が強くなっていったのです。

 
昭和五七年の昭和天皇陛下の御製に次の御歌、
 
「わが庭のそぞろありきの楽しからずわざわひ多き今の世を思へば」
 
昭和五十年以降の靖国神社参拝を含めた皇室祭祀への内外の攻撃をも強く御憂慮された陛下のお気持ちが込められています。
 
 
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
 
前年の昭和六十年に靖国神社公式参拝した中曽根首相が、中国の内政干渉に屈し、この昭和六一年は靖国神社参拝を断念しました。
これは、日本政府の中国政府への「屈服・屈辱記念日」とも呼ぶべき、昭和六一年八月十五日に詠まれた昭和天皇陛下の御製です。
昭和天皇陛下は、日本政府の腰の据わらない対応に困惑されたばかりではなく、靖国神社へのご親拝が実現できないことを靖国神社に祀られている神々である英霊に詫びておられる叡慮がひしひしと伝わってきます。昭和天皇陛下が、靖国神社参拝を切望されていたことは、この昭和六一年の御製であきらかです。
 
畏くも昭和天皇陛下は崩御あそばされるまで、「靖国神社ご親拝」がおできにならないことに御心痛なさりあそばされておられた。そのことは、昭和天皇陛下が病床にあられながら、最後にご臨席された「全国戦没者慰霊祭」の日(昭和六三年八月十五日)に詠まれた御製で、あまりにも明らかであって、多言は要らないでしょう。
 
 
 
 
「やすらけき世を祈れどもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」
 
昭和天皇御製(昭和六三年八月十五日)
 
 
御國に命を捧げられた英霊は、畏くも天皇陛下のご親拝を待ち焦がれておられるでありましょう・・・一日千秋の思いで・・
 
 
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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下、最後の靖国神社 ご親拝 御尊影
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

靖国神社(三)

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靖国神社
 
 
靖国神社(一)では靖国神社のあらまし、靖国神社(二)では、靖国問題の根っこについて持論を述べさせていただきました。
今回は、世界から見た靖国神社について述べさせていただきたいと思います。
 
靖国神社(一)でも述べましたが、どこの国でも、祖国を守るために斃れた戦死者に敬意を表する場所があります。
アメリカのアーリントン国立墓地、イギリスのウェストミンスター寺院、台湾の忠烈祠、韓国の国立墓地、中国の人民英雄記念碑、インドネシアのカリバタ英雄墓地など、形は様々ですが、国民の魂のより所とも言うべき聖地になっています。
いかなる宗教を持とうとも、国のために亡くなった人々の魂を鎮める場所を求めるのは世界共通の心情であり、近代国家の成立とともに世界各国はそれぞれの伝統に基づいて戦歿者追悼の国家施設を生み出してきました。
交通手段の発達とともに外交使節や政治家の往来が活発化し、相手国を訪れた際には戦歿者追悼施設に敬意を表することが外交儀礼のひとつとして重視されるようになりました。
 
戦前、靖国神社も多くの外国要人、国家元首が参拝しました。
多くは欧米からの参拝でした。それはタイを除く多くの民族が、欧米の統治下にあり、独立国家ではなかったからです。
昭和六年八月二十七日、大西洋単独飛行で有名となったアメリカの飛行士リンドバーグ夫妻が、昭和七年三月二日、イギリスのリットン卿一行が参拝しています。
リットン卿一行とは、国際連盟リットン調査団のことで、我が国の満洲政策を実地に調査し、批判的な調査報告書を提出したことでよく知られていますが、我が国の行動を非難したグループでも、靖国神社には正式に参拝している事実を知る時、戦争の評価とは無関係に、戦歿者に敬意を表することが国際儀礼であることを改めて実感させられます。
昭和十六年十二月八日の大東亜戦争勃発とともに、参拝する外国要人の顔触れもがらりと変わり、我が国の同盟国の要人と、大東亜戦争を契機に欧米宗主国の軛くびきから脱し、独立を獲得し始めたアジア諸民族の代表者たちが次々と参拝しています。
 
大原康男著『神道指令の研究』では次のように述べています。
 
未曾有の敗戦の中で、敵・連合国のGHQは我が国を占領し、「再びアメリカを始めとする連合国の脅威とならないようにする」ため、我が国の諸制度に根本的な改変を加えてきた。特にGHQの中には、軍国主義・超国家主義を廃絶するという観点から、靖国神社と護国神社の廃絶を主張する者もいた。
しかし、ポツダム宣言で保障した「信教の自由」という建前はもちろん、それ以上に靖国神社・護国神社の存続を願う一般国民の願いを無視することはできず、神社の廃絶まではいかなかった。
特に神道に対して敵意丸だしの神道指令を起草したGHQの民間情報教育局(CIE)の幹部は、当初、神社の祭典は軍国主義的な行事や扇動的な説教があると思い込んでいたようであるが、終戦直後の昭和二十一年二月、靖国神社の祭典を視察した際、軍国調とはおよそかけ離れた静かで簡素な、しかも清浄な感じのものであったため、予想に反した強い印象を受け、これがきっかけとなって、靖国神社のみならず神社神道に対するGHQの認識が大きく変わったようである。
 
我国を侵略国として非難するためにGHQが開催した政治ショーである極東国際軍事裁判の効果もあって、国際社会において我が国は残虐な侵略国家との烙印を押さた。当然のことながら、靖国神社に対しても圧倒的なマイナス・イメージを植え付けられたのです。それでも、肉親を戦争で亡くした日本人の大多数は靖国神社に対する崇敬の思いを変えることなく、国家による靖国神社護持を強く政府に求めていきました。
しかし、GHQの政治宣伝に惑わされることなく、靖国神社を日本の公的な戦歿者追悼施設と見なす外国要人(在日米軍幹部を含む)も決して少なくはなかったのです。
神道指令の法的拘束により、日本政府は表向き靖国神社にかかわることはできなくなり、訪日する外国要人に靖国神社参拝を勧めることは難しい事態となったにも関わらず戦後、靖国神社に参拝した外国要人たちのほとんどは自ら望んで参拝してくれたのです。
その行動は外交的な儀礼にとどまらず、我が国の戦歿者に対する、特別な思いの現れとして受け止めることができます。
戦前に比較して、外国元首の参拝が少ないのは、外務省が「靖国神社は日本の公的な戦歿者慰霊施設ではない」という考えをもっているからである。実際にアメリカのアイゼンハワー大統領が参拝して日本の戦歿者に敬意を表したいと要望したのに対し、外務省が難色を示して潰れたことがあり、中国などから首相の公式参拝を批判された昭和五十四年以降は、参拝を公式日程に入れることを希望した元首級の要人に対して、外務省が婉曲的に反対しているので、元首クラスの参拝は、ほとんど実現を見ていないのが真実です。
 
世界各国の練習艦隊が遠洋訓練の途中、日本に立ち寄り、日本の戦歿者に敬意を表するべく靖国神社に正式参拝するケースもあります。
戦後初めて正式参拝に訪れた外国軍隊は、フランスの練習艦隊でした。
昭和三十八年二月十一日午前九時、遠洋訓練の途中、日本に立ち寄った巡洋艦ジャンヌ・ダルク号、護衛艦ビクトール・シェルシエ号の士官候補生及び乗組員百六十名は分乗したバスから降りて、神門前に整列。軍楽隊を先頭に隊列を整えて発進した。真っ白な手袋にゲートル、礼装用の剣を携え、中庭に参進。横隊に整列し、修祓の後、ジャンヌ・ダルク号艦長ストレリー大佐が本殿木階下に花輪を奉奠、この時ストレリー大佐以下全隊員軍楽隊の奏楽とともに捧げ銃をし、一分間の黙祷を捧げました。
昭和三十九年十月七日には、練習艦隊で来日中のイタリア陸海空三軍の士官候補生九十名が、ジュリオ・アンドレオツテイ国防大臣、練習艦隊司令官ダラデーネ海軍中将とともに参拝してくれました。
 
大東亜戦争で被害を蒙ったと主張する中国人や、欧米統治下における中間管理者としての地位を失った東南アジア諸国の一部華僑が今なお、大東亜戦争のシンボルとして靖国神社を非難していることはご存知だと思います。
しかし、
「アジア=大東亜戦争の被害者」という構図だけでは、なぜアジアの要人たちが次々に靖国神社にそれも自主的に参拝するのかは理解できないでしょう。
アジアには、中韓両国とは違った感情が存在しているのです。
昭和三十年代に入ると、大東亜戦争とその後の独立戦争を勝ち抜いて独立を達成したアジアの要人たちの参拝が増えてくる。特にビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、タイの要人が参拝しました。
ビルマのタキン・バセイン副首相は何度も来日し、そのたびに靖国神社に参拝しています。
ASEANセンターの中島慎三郎氏によると、タキン・バセイン氏はある時、靖国神社の社頭で参拝し、涙を浮かべてこう語ったという。
 
「ビルマの独立のためにたくさんの日本兵が死にました。アジアが貧乏で弱いから、独立というビルマ自身の仕事を日本兵に頼みました。(インパール作戦では)二十万以上の日本兵が死去しました。いまもビルマの山野に眠っています。ビルマ人は兵隊さんに申し訳無いと思っています。ビルマ人は兵隊さんの志を忘れません。兵隊さんよ、ビルマを立派な国にするから見ていて下さい。兵隊さんが作ってくれたタイ・ビルマ(泰緬)鉄道は使っています。兵隊さん、ありがとう。」  と・・・・
 
 
ビルマは、独立運動の指導者として有名な「三十人の志士」が日本軍の鈴木敬司大佐(南機関)によって育てられた上、昭和十八年八月一日、日本軍の支援のもと独立を宣言した(国家代表バー・モウ)という経緯もあって、日本を抜きにしては独立を考えることはできない歴史を持っています。
 
インドネシアの政府関係者の参拝も多いのです。
三百五十年にわたってオランダに支配されたインドネシアはその間幾度となく、反オランダ独立闘争を起こしましたが、その都度制圧されていました。
それだけに、僅か七日間余りで宿敵オランダを打倒した日本軍に対する期待は熱狂的でした。そして日本軍に物資や労務を提供する代わりに、インドネシア人による軍隊(独立義勇軍=ペタ)の結成や官僚組織の確立、教育体制の整備などを日本軍の支援のもとに着々と進めました。
日本軍は降伏しましたが、二日後に独立を宣言し、再び植民地化を目論むイギリス、そしてオランダ軍と四年間にわたって激しい独立戦争を戦い抜いた。この独立戦争のために、日本軍はひそかに大量の武器や資金を提供しただけでなく、約千人(一説では二千人)の日本兵がインドネシアに残り、独立軍の一員としてオランダと戦ったと言われています。
インドネシアのサンバス少将が昭和五十年代のある時、ASEANセンターの中島慎三郎氏とともに靖国神社に参拝し、こう嘆やかれたそうです。
 
「アジア諸国の独立を促した大東亜戦争の勇士たちを尊敬し、その英霊に敬意を払おうと思っているのは、何も日本人だけではない。大東亜戦争はわれわれアジアにとっての独立戦争だったのであり、その意味で、靖国神社はアジア独立の聖地でもあるのだから、それにふさわしい威容を備えてほしい」
 
サンバス少将の訴えがいまの日本人にとって奇異に聞こえるのは、日本人のほとんどが、そもそも大東亜戦争自体は日本人だけの戦いではなかったという事実をすっかり忘れ去ってしまっているからで、当時日本人だった韓国、台湾、パラオの人々、同盟国だったタイ、フィリピン、ミャンマー、自由インド仮政府、中国の汪兆銘政権の人々が大東亜戦争をともに戦ってくれたという事実をも知らないからです。
 
インドネシア独立戦争の指導者の一人ブン・トモ情報相は昭和三十二年にこう述べている。
 
《われわれアジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人にたいして何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、“これからの独立戦争は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。
そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。それなのに日本にだけ担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった。》(ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』)
 
「大東亜戦争はわれわれの戦争である」と思っているからこそ、いくら連合国や中国・韓国などが大東亜戦争を侵略戦争と非難し、靖国神社を軍国主義の中心と批判しても、そして当の日本の外務省が嫌な顔をしてもなお、アジアの要人たちは靖国神社に特別の思いを寄せ続け、自ら望んで靖国神社に参拝し続けてきたのではなかったのではないでしょうか?
 
我が国の為政者たちは、靖国神社公式参拝を見送っても、一部の保守層から反発があるだけだと安易な思考しかありません。しかし国際的に見れば、一国の首相が靖国神社に参拝しないということは、「為政者たるものは自国の戦歿者に最大級の敬意を払うべきである」という国際常識に背を向けることであり、そうすることによって欧米諸国からもアジア諸国からも、侮りと不信感を持たれ、国際的信用も失っていることを知らねばならないし、日本の信用は先人の血によって得られていることも忘れてはならないのです。
 
世界の常識は日本の非常識とはこのことです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

天皇皇后両陛下の祈り


天皇皇后両陛下の祈り
ー かくて日本は苦難を越え、甦る
                                                 筑波大学名誉教授
                                        竹本忠雄
東日本大震災と両陛下の祈り
 
四月二十八日付産経新聞の一面に掲載された、天皇皇后両陛下が、畳なわる
瓦礫に向かって黙祷を捧げられるお姿に、私は言いようのない感動を覚えました。
 
今回の東日本大震災に限らず、これまでにも、諸外国から、なぜ日本人は被災地
においてまで、かくまでも「冷静で秩序正しいのか」との疑問が投げかけられて
きました。そのつど私は、このようなメンタリティについて下される種々の憶測を
興味深く思うと同時に、本当の理由がどこにも指摘されていないことにももどかし
さを禁じえませんでした。
 
その「なぜか」への至上の答えを右の写真は黙示していたのです。
このことは、私に忘れられない、ある対話を思いおこさせてくれました。
 
昭和49年5月、フランスの歴史的偉人、アンドレ・マルローが、出光佐三(いで
みつさぞう)氏(出光興産の創業者)をその美術館に訪ねたときのことです。
「日本人は精神の高貴さを持っています。なぜですか。仏教も、その理由の
一つではないでしょうか」との単刀直入のマルローの問いに、間髪容れず、
出光翁はこう答えたのです。
 
「そうじゃありませんね。二千六百年続いてきた皇室が原因ですよ」。

たしかに、国難のいま、私たちを斉(ひと)しく打つものは、
皇室、何よりも両陛下の同床同高とも申しあぐべき御姿勢であり、
敬虔(けいけん)そのものの祈りなのです。
 
 
これまでの日本中の被災地めぐりだけではありません。
先の戦災地、さらには南冥(なんめい)の島々まで、慰霊の旅をお二人は重ねて
こられました。しかもこれは、「民を哀れむは、皇道の第一義」として歴代天皇が
実践してこられた「恤民(じゅつみん)」の心のあらわれにほかなりません。
 
 
そうであればこそ、国民の側も常にそれに感じ、「民を思い、倹を守る」お姿以上
に、頭を高くすることを慎んできたのです。被災地で命を救われたおばあさんが
「すみません」とお礼を言って美談となったそうですが、このような国なればこそ、
自ずと培われてきた節度であるといえます。

しかし、今や日本は、日本国の解体を粛々として進行させつつある民主党政権
の面々によって、「国安かれ、民安かれ」との天皇の「日の守り夜の守り」の祈り
が踏みにじられ、彼等の無知、厚顔、専横の数々によって、「3・11」を待たずして
既に別のツナミにより水没しつつあると認めざるをえません。

加えて、世界には、日本国の衰亡(すいぼう)に付け入り、中国をはじめとして、
これに与する群狼(ぐんろう)国家の反日勢力があることを、しっかりと心に留め、
対応していかなければなりません。

歴史の壁をこえ
 
私は、これまで二度、長きにわたってフランス生活を送ってきました。
最初は、ド・ゴールとマルローの黄金時代の時でした。その間、

日本は常に文化交流上の上座に置かれ、後指一本さされることは
ありませんでした。こうした順風の中で私も日本文化の真髄を伝えるべく、フランスを中心に積極的に言論活動を展開し、また各地で日本への敬意を
もって迎えられてきました。

しかし、ほぼ一九八0年代頃から、フランスのみならず、広く欧米圏
全般にわたって、反日的な潮流が起こりました。

それは、何らかの政治目的を持った「アンチヤマトイズム」ともいうべき、
根強い民族差別としか言いようのない運動であると称して憚りありません。

『パンセ』の名言を待つまでもなく、現実を支配しているものは力の原理
です。その力は、大きな欠陥を持ちながらも中国にありと認め、
 
 
フランスは、ド・ゴール以後の反米的感情からも親中の傾斜を深め、
ついには中国のプロパガンダと一体化したフランスの大手メディアが
反日報道を垂れ流しにするに至ったのです。

しかし、問題はむしろ、日本側から抗議の声一つ上がらなかった点に
あります。私は「ル・モンド」紙の「南京大虐殺」特集記事に抗議して、
同社ジャン=マリー・コロンバニ会長宛に長文の公開状を送りつけ
ましたが、黙殺されました。

そこで右派の「ラジオ・クールトワジー」 に出演して公開状を朗続して
訴え、さらに(AFP)(フランス通信社)を通して同志とともに
『日本人の文化人宣言』を発して「戦勝国の歴史は真の歴史ならず」と
出張して大反響を得ました。

桜井よし子さん以下七十余名がこれに参加し、いまなお著名ブログに
1万件余の参照件数が昇り続ける成果を挙げていますが、そのコピーを
在仏日本メディア十数社に配布しても、これまた無視されるばかり
でした。

唯一、これに反応示し、電話をかけてよこしたのは、産経新聞のパリ支局長
でしたが、その言い分はというと、何と「日本は敗戦国なのだから、何を言わ
れても当然。悔しかったら戦争に勝てばよかった」というのです。
 
 
逆に抗議される始末で、これには唖然とするのみでした。
少なからぬ日本の親仏知識人は、このように、保身の上からもフランス化され、
目に見えない反日バリアに取りこまれてしまっているのです。
 
日本人は真実が歴史をつくると思いこんでいますが、西洋人は、政治が歴史を
つくる、歴史が真実をつくると認識しています。噛み合えると思いますか。
 
文化ー至高の文化を伝えることが、ここから、かけがえもなく重要となっていく
のです。
 
特に天皇皇后の至純のお姿というものはこれまでめったに海外に伝え
られることはありませんでした。
 
 
日本人自身がそのための十分な努力をはらわなかったことが原因ですが、
そこには、王制は悪であり民主主義の敵であるという進歩主義史観によって
先人主的に君民一体の日本本来の国柄が没却されてきてしまったという
事実をもっと認識しなければなりません。
 
私は、このような歴史的状況を踏まえ、思想ではなく、心ー深層の心をとおして
日本の真髄を伝えることが重要であると考えました。
 
 
そのとき、「皇室は祈りです」とおしゃった皇后陛下のお言葉がいかに重要で
あるかに気づいたのです。




 
注:「皇室は祈りです」これです。
 
  菅から想定外と使われていますが、人生想定外の事ばかりと言っても
  よいのではないでしょうか!仕事であれ、何であれ、それが、何となく
  解決していく、皆さんそうではないでしょうか、もちろん個人の努力も
  ありますが、そこには、朝起きたら解決のヒントが脳裏に浮かんだとか、
  先日の津波でも奇跡的に救われた方をみます。
 
  結局それが、目に見えない先祖の守りでしょう。
  それを、菅も野田も靖国神社へ参拝しないと言いました。これでは国家
  の守りはないでしょう。それが和歌山の山津波ではないでしょうか!
 
  津波で救われなかった方は先祖の守りがなかったと言う事ではあり
  ません。こん世の卒業(寿命)という人もあります。(サイタニ)
 


転載元:サイタニのブログ
       天皇皇后両陛下の祈り ...
続き  天皇皇后両陛下の祈り...
続き  天皇皇后両陛下の祈り...


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