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後醍醐天皇、隠岐へ
 
元弘二年(一三三一年)、幕府を倒すために挙兵して戦われ。敗れた後(のち)
幕府側に捕らえられていた 後醍醐天皇が、遠い隠岐の島へ送られることに
決まりました。
 
 
そしてついに三月七日、大勢の幕府の兵に取り囲まれ、わずか三人の供の者を
連れられて、住みなれた京の都を後にされたのでした。
 
 
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の前を通られた時、輿(こし)を止め、
民(たみ)の生活が安らかであるよう、いつか都に帰ることができるよう、
祈られたのです。途中美作(みまさか)で数日休み、和歌を詠まれました。
 
「あはれとはなれも見るらむ我が民と思ふ心は今もかはらず」
 
(今の私をあわれと見るだろうが、すべての者をわが民と慈しむ心は今も
変わらない)
 
隠岐の島へ渡られた。帝は「ここで、年月が過ぎ行くのであろうか…」
 
つらい生活の中でも
天皇は毎朝、神様に日本の国の安泰を祈られ、伊勢神宮を遥拜(ようはい)
されて、天皇としての朝のお務めを休まれることなかったのです。
 
時は移り…紅の紅葉が山々染める秋……ある日、一人の漁師がそっと一通の
手紙を持って来ました。何と、それは護良親王(もりよししんのう)からの手紙
だったのです。
 
 
天皇は、はやる心をおさえ、震える手で手紙を開きました。そこには、護良親王も
楠木正成も無事であること、赤坂城が落ちたあと、それぞれ山の中に隠れ住み
ながら挙兵の準備を進めて来たことが書かれてありました。
 
天皇は「正成…無事であったか…!」一年前、笠置山で「…正成が未だどこかに
生きあると聞かれましたならば、帝の天下統一の道は、必ず開かれるものと
思(おぼ)し召(め)し下さりませ!」
 
今の 天皇にとってこの正成の言葉は、どれ程大きな希望であったか!
 
元弘二年十一月、赤坂城が落ちてから一年余り…ついに護良親王が吉野で
挙兵され、それに応えるように、正成も金剛山の奥に造った千早城という城で
挙兵した。
 
 
続く
 
                                    楠木正成
                                    後藤久子著より抜粋
 
 

転載元転載元: サイタニのブログ

続き 幕府と戦う
 
 
ところが十月に入り、大変な知らせが正成(まさしげ)の下に届きます。
後醍醐天皇(ごだいご)のおられる笠置寺(かさぎでら)が、幕府の兵によって
攻め落とされたというのです。
 
知らせを聞いた正成は仏間に入ったまま、出てきません。心配になった弟の
正季(まさすえ)が様子見に行ってみました。
 
「兄者…」
 
「正季… 帝(みかど)も幕府側に捕らえられたそうじゃ。… 帝の天下統一の
道が容易なことではないのはわしにもわかっておる。しかし、わしにもっと力が
あれば… 帝をお守りできたかもしれぬものを…くやしゅうてならぬ。」
 
正成にもわかっていたが、全国の武将のほとんどが鎌倉幕府側についている今、
幕府軍を相手に戦うということがどれ程大変なことか、ー けれど、囚われの
身となった後醍醐天皇の心を思う時、わが身の力のなさを責めずにはいられ
なかった。
 
十月の半ば、鎌倉からやって来た幕府の大軍は、天皇のおられた笠置寺がすで
に落ちたことを知ると、全軍が正成の赤坂城(あかさかじょう)を目指したのです。
しかし、赤坂城でも後醍醐天皇の皇子(みこ)、護良親王(もりよししんのう)が
入られ、皆心を一つにして幕府軍を迎え撃つ準備が整っていたのでした。
 
幕府軍の兵達は、山の上の小さな赤坂城を見て、すっかりバカにしてあざ笑い
ました。「何とか、1日でも持ちこたえてくれなければ、戦いのほうびにもあり
つけぬわ!」
 
幕府軍の兵達は、自分が手柄をたてようと我先に赤坂城の下へと走り寄って
いきました。兵達がたどりついたその時です。二十〜三十程並んだ櫓(やぐら)の
上から一斉にビシビシと矢が放たれました。上から下を射る矢のねらいは正確
です。その上、櫓の上には二百名もの矢の名手がそろえられていたからたまり
ません。幕府軍は、たちまち何百という兵を失うこととなってしまいました。
 
「うーむ、見かけより楠木は手ごわいぞ」
「今日は、各々陣を張って休むとしょうぞ。」
幕府軍の武将達はそれぞれに陣幕を張り、長旅で疲れた兵達は鎧兜をぬいで
横になりました。
 
この時…左右の山陰から三百騎程の武者が、迫ってきて幕府軍は鎧も馬も
捨てたまま、逃げ出してしまいました。
正成は幕府の大軍を相手にするため、様々な策と綿密な作戦を練って
いたのです。
 
元弘元年(一三三一年)十月、楠木正成との第一戦で負け戦となった幕府軍は、
正成の根拠地赤坂城を遠まきにして取り囲んでおりました。しかし、赤坂城に
たてこもる楠木軍は約五百。対する幕府軍は何万という兵力です。
この大軍でわずかな楠木軍を押しつぶせないはずはない、と幕府軍の武将達は
思いました。バラバラに攻めたのが悪かったのだ。
 
 
再び幕府軍は城に攻め寄せました。
今度はいっこうに矢が飛んで来ません。
勢いづいた兵達は、城壁を登り始めました。
 
赤坂城の塀は二重になっていて、綱を切ると外側の塀が落ちる仕組みに
なっていたのです。
 
「今だ!切れぇー!」
 
外塀は、塀を登っていたたくさんの兵もろとも落ちてゆきました。
幕府軍の兵は塀の下になり、混乱しているところに、大岩が次々と投げ落とされ
幕府軍は退却しました。
 
「もう、これは兵糧攻めしかあるまい。」
幕府軍は何万という大軍で城のまわりを取り囲み、食糧が尽きるのを待つ
ことにしました。
 
これは楠木軍にとって困った事態でした。
急いで造った赤坂城にはたくさんの食糧を備えることができませんでした。
「正成は、食糧がわずかとなった。もはや、この城で戦を続けることはできぬ。
もとより全国の武将に先がけて 帝の天下統一の道を開こうと志したからには
命をおしむべきではないが、帝のお志実現のため、今は城を脱出すべきと
考える。」
 
十月二十一日、にわかに風雨が強くなり、その夜城を脱出することにした。
正成は、護良親王に事次第を申し上げました
「正成…おぬしは、どんなことがあっても生きのびよ。父君は、おぬしを心から
頼みとされておられた。おぬしだけは必ず生きのびて、父帝の天下統一の道を
開いてくれ…たのむ…!」
 
「不肖この正成、命ある限り 帝の天下統一のお志のため力を尽くす覚悟に
ございます。今、この城を捨てて落ちようとも、必ず力を蓄え、再び兵を挙げ
ますこと、お誓い申し上げまする!」
 
その後、正成と楠木軍の兵達も三、四人ずつに分かれて城を落ちてゆきました。
正成は、金剛山の奥深くへと消えてゆきました。それから一年の間、正成の
行方は杳(よう)として知れなかったのです。
 
 
続く
 
                                  楠木正成
                                  後藤久子著より抜粋

 
 
 
 
注:一言
(今日、国会で自民党議員に第1のものを第1にしていないと言われキョトンと
 している野田総理?第1のものを第1にすると言う事を知らないようである
 天皇陛下を見習わなければなりませんね”)
 

転載元転載元: サイタニのブログ

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