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警神たちへ・・

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花や飲み物の供え物が絶えない港町交番=岩手県宮古市
 
 
多くの同胞の生命と財産を奪った東日本大震災の発生から、もうすぐ7ヶ月になろうとしています。
震災発生直後、多くの警官、役場職員、消防署員、消防団員、民間人が一人でも多くの方々に助かっていただきたいと、自らの命も顧みず、避難誘導、救助等に命を賭されました。
それらすべての方々を民間人であっても、私は殉職と呼びたい。
人としての天命を全うされたのだと・・・・
殉職された方々にも家族はあっただろう。
最後まで、役場の放送で避難を呼びかけた女性職員もあったし、
命を懸けて、職務を全うした人が多いのに、今の国会を見ていると悔しさがあふれてきます・・・・・
今の政治家など瓦礫(がれき)以下だと・・・
 
昨日の産経新聞に、「警神」たちへ 無残な交番に感謝の合掌という素晴らしいコラムが記載されていたので引用したい。
 
「大きな津波が来ます。高台に避難してください」「津波が来ます。急いで避難してください」
 震災発生直後のようすをとらえた映像で、轟音(ごうおん)や悲鳴に混じって途切れ途切れに聞こえる拡声器の警察官の声が耳に残る。最後の最後まで住民に避難を呼びかけていた、あの警察官は無事でいるのだろうか。
 映像には、車のない港の堤防沿いの道を走るパトカーもあった。アナウンスしながら逃げ遅れた者がいないか確認しているようだった。あのパトカーは津波から逃げ延びたのだろうか。
                   ◇
 岩手県宮古市鍬ケ崎(くわがさき)の宮古漁港は損壊した跡は残るものの、魚の積み込み作業が行われ、活気が戻っていた。その傍らにある宮古署港町交番は今も無残な姿をさらしている。
 勤務していた2人の警察官は津波にのみ込まれ、殉職した。
 交番には花束が手向けられ、国旗が掲げられている。誰が津波で汚れた国旗を洗ったのだろう。
 「お勤め、お疲れさまです。安らかにお眠りください」。折り鶴とともに高校生のメッセージ。「鍬ケ崎のためにありがとうございました」という書き置き。一つ一つ読んでいると、がれきの向こうから路線バスがゆっくりと走ってきた。前から2列目に座る老女が窓越しに交番に向かって、静かに手を合わせるのが見えた。
5人体制の港町交番で、中村邦雄さん(54)と村上洋巳さん(43)は、その日非番だった。地震発生で2人は官舎から自主参集で署に上がった。制服に着替えた中村さんは家族に「じゃあ、行ってくる」と軽く声をかけた。
 2人は津波警報でごった返す署からパトカーで漁港周辺に向かった。小野寺勝善副署長は「自らの判断で持ち場の住民誘導を行っていたのでしょう」。
 中村さんと村上さんが激しい口調で高台への避難を呼びかける姿が多くの人に目撃されている。港に防潮堤はなく、第1波で周辺が浸水した。
 立ち往生した救急車から搬送中の病人を救助しているところを第2波が襲った−。
 3月14日パトカー発見、4月4日に村上さんの遺体が発見された。中村さんの遺体はいまだに見つかっていない。
 住民が供える花や飲み物が絶えぬ港町交番。すでに取り壊しが決まっている。
                   ◇
 2年前の夏、佐賀県唐津市肥前町高串の増田神社を訪ねた。JR唐津駅からレンタカーで山道を抜けると、目の前は海を挟んで長崎県だ。山にへばりついたような高串は小さな漁港と温泉以外、何もないように思えた。中学生だろうか、釣り竿(ざお)を持つ男の子に増田神社の場所を聞くと、「『増田さま』は先の二股を右です」と教えてくれた。
明治28(1895)年、新米の増田敬太郎巡査はコレラが流行していた高串に赴任する。当時は防疫も警察の任務だ。現場を一目見た増田巡査は感染拡大の原因は隔離の不徹底と判断した。すぐさま感染者を隔離し、交通を遮断、誰も手を出そうとしない遺体を背負い、埋葬した。そして、赴任3日目に発病する。
 「村人の世話をするために来た私がかえってお世話になるようになり、申し訳ありません。高串のコレラは私が背負っていきますからご安心ください」。その翌日、増田巡査はこう言い残して死亡、25歳だった。
 遺言通りコレラは収束、以来、高串で伝染病の流行はなく、地元の人々は感謝の思いで巡査を神様とあがめるようになった。巡査を火葬した小松島は神聖な島とされ、漁師は島に一礼してから沖合に向かう。
 毎年7月の夏祭りでは、白馬にまたがる巡査の山車が繰り出される。最期まで住民の命を守る使命を全うした巡査は「警神」と呼ばれている。
                   ◇
 今回の震災で多くの警察官が警神となった。死亡・行方不明は宮城県警14人、岩手県警11人、福島県警5人。女性警察官もいる。多くは避難する住民の最後尾で任務を全うした。
 私たちは、父を失った子に、夫を失った妻に、子を失った父母に何ができるだろうか。神社とは言わないが、最後の任務をできる限り詳細に記録し、遺族に残しておきたい。
 「みんなを助けようとして最期まで『みんな逃げて』と叫んでいたんだよ。最期まで警察官だったんだよ」。遺(のこ)された幼い子にそう言い聞かせることができるように。警察官だった父を、夫を、子を自慢できるように。いつまでも遺族や住民の胸に残る警神であってほしい。いくら感謝しても足りない一国民の願いである。(将口泰浩
 
冒頭にも述べているように、震災発生直後の我身を顧みぬ尊い行動。
震災後も、自衛隊、海上保安庁、警察、消防、役場職員の決死の救助、捜索活動。
彼らの獅子奮迅の活躍は、世界からも賞讃されました。
それを支えたのは、「天命」であったとしか言葉が見つかりません。
 
戦後復興の歩みを半世紀以上にわたって見続けた政治評論家、三宅久之氏は、「日本人はつらい時にこそ耐え抜いて力を発揮する。東北は必ず立ち直る」と述べています、しかしこうも述べられています。
「だからといって政府が怠慢でいい訳がないじゃないか。敗戦から高度成長期、国民は政治を信頼し、政治家も一心不乱に邁進(まいしん)した」と、現在の政治状況に対し深い危惧を感じておられます。
 
「政治家としての良心に忠実に、大震災がもたらした国難に立ち向かう」
 9月13日、野田佳彦首相は臨時国会での所信表明演説の最初にこう述べた。
確かに言葉だけは頼もしい・・
しかし、三宅久之氏は、「今や政治家の言葉は鴻毛(こうもう)より軽い」と揶揄されておられます。
何度もぶれる震災の復興増税や脱原発などの政府方針、失言で就任まもない閣僚が辞任する茶番劇の繰り返しに、「政治家は自らの発言に責任を持たねばならない。これはいつの時代も変わらない」。
 
上述した、震災発生直後の我身を顧みぬ尊い行動をされた多くの方々、震災後復旧、捜索に天命を全うされた方々に、恥じぬ政治が行われる日が果たしてくるのでしょうか?
 そして、政治家だけではなく、日本国民すべてが、殉職された方々に恥じぬ行いをしなければなりません。
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

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北条ロータリークラブが創立50周年を迎えました。
その記念事業として、加西市出身の青山繁晴氏の講演会が下記の通り開催されます。
参加無料でどなたでもお聞き頂けます。
お繰り合わせの上、是非お越しください。
    記
北条ロータリークラブ
創立50周年記念講演会
「祖国とふるさとは甦る」
・講師
㈱独立総合研究所
青山繁晴氏
・とき
平成23年10月10日(祝)
午前9時30分開場
午前10時開演
参加無料、収容人員1000名
・ところ
加西市民会館 文化ホール
お気軽にお問い合わせ下さい
 
 
 
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青山繁晴氏
 
 
 
筆者の生まれ故郷、兵庫県加西市に憂国の士、青山繁晴氏が講演の為帰ってこられます。近隣の方々、ご希望の方々はご参加ください。
青山繁晴氏の生家のことは、青山氏自身のHPで述べられています。
 
 
青山繁晴氏のご尊父は、地元加西でも屈指の企業経営者でもあられました。
筆者の父も、青山繁晴氏のご尊父の会社に勤務していました。
筆者もご存命の時にはお世話になりましたが、実に先見の明のある方でした。
青山繁晴氏は、混迷を極める今日の日本を憂い、警鐘を鳴らされておられます。
 
筆者の故郷、兵庫県加西市はかっては、三洋電機㈱の創業の地として、企業城下町として栄えましたが、三洋電機の回転事業部の撤退、売却、関連企業の廃業に加え、それに伴う人口流出など、灯りが見えない状態です。
 
 
 
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小篠綾子さん(左から2人目)とコシノ3姉妹
 
 
10月3日より始まる、NHK朝ドラ「カーネーション」は、ヒロコ、ジュンコ、ミチコのファッションデザイナー「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らも晩年同じ職で活躍し、2006年に死去した故・小篠綾子氏の生涯を実話に基づくフィクションストーリーにして描くドラマです。
故・小篠綾子氏のご尊父の生家が、筆者の実家から200mぐらいの近隣の出身であり、生前、筆者の母校の小学校の緞帳(どんちょう)をデザインしていただいたこともあります。今は故・小篠綾子氏に連なる縁故者は誰も住んでいらっしゃいませんが、コシノ(当地方では「おざさ」と読みます)ブランドのルーツが我町であることは町民の誇りでもあります。
 
青山繁晴氏の活躍、故・小篠綾子氏のドラマ化と、地盤沈下の著しい故郷「加西市」の活性に連なることを願ってやみません。
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国


          

 御来訪感謝申し上げます。

 以前はどうしようもないノー天気な発言で眉をしかめることが多かった経済評論家の森永卓郎氏ですが、最近の言動を見聞きしていると、不肖敬天愛人にとっては、彼に神が降臨したのではないかとつい思ってしまうほど説得力のある「神発言」が見られるようになりました。
 今日、紹介させていただく森永氏の論説文も、原発事故の後遺症に悩む福島の人間として心底共鳴できるものであり、また、同時に福島に限らず東北・北関東の被災地の人々にとっても心に沁みる意見であろうと感じます。
 彼は敬天と同い年ですが、こちらが恥ずかしくなるほど人間的に非常にバランスのとれた考えを示しております。
 最初から最後まで正論そのものであり、敬天如きがコメントをすることは何もないのですが、引用記事のあとに若干の感想コメを入れさせていただきます。
 色文字、太字は敬天が勝手に編集したものです。


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 原発とどう向き合うのか - 森永卓郎
2011年09月27日00時00分

 東日本大震災以降、私はともに貧困や抑圧と戦ってきた大切な友人たちと対立することになってしまった。それは、私が電力不足を回避するためには、しっかりと安全を確保することを前提としながらも、電力不足を解消するために原発を再稼働させるべきだと発言したことからだった。

 もちろん私は、安価で安定した電源に代替しながら、徐々に原子力発電所を廃止していったほうがよいと思う。しかし、急激に脱原発を進めると、国民にさらなる貧困と抑圧を与えることになる。そのことをしっかり考えなければならないと思うのだ。

 国民生活の抑圧は、今年の夏にすでに現れた。計画停電の実施に引き続いて、東京電力、東北電力管内では、電力節減令が発動された。電力節減令の本質は、電気の配給制度だ。罰則が適用される大企業はもちろん、そうではない中小企業や一般家庭でも徹底的な節電が求められた。問題は、それがどれだけ国民生活を圧迫したかということだ。

 例えば、我が家では今年の夏、日中は一度もエアコンを使わなかった。熱中症になるからエアコンをつけようと何度も妻に言ったのだが、「エアコンをつけたら室外機のファンが回って、近所にばれる」と言って、妻は私の言うことを聞かなかった。毎日繰り返される節電キャンペーンは、まさに「節約耐乏。ぜいたくは敵だ。欲しがりません勝つまでは」という戦時中のスローガンであり、節電をしない者は非国民だという密告社会を作ってしまった

 自由主義経済は、稼いだお金の範囲内で、好きなことに自由にお金を使えるということが、大原則だ。それをさせなかったのは、統制経済に戻したのと一緒だった。あらゆる面で、国民生活は圧迫されたが、例えば、日中の電車の運行が間引きされたため、5分おきには必ず来るはずの東京の地下鉄が、10分おきにしか来ない時間帯ができた。駅舎や車内はおろか、一部ではホームまで照明が落とされ、暗くなった。知人の視覚障害を持つ男性は、ホームからの転落を恐れて、電車に乗るのが怖くなったという。駅のエスカレーターの下りが停止され、お年寄りや妊婦は怖い思いをするようになった。結局、しわ寄せは弱い人に行ったのだ。

 企業活動でも、例えば自動車メーカーは電力節減令のかかる平日の電力消費を抑制するために稼働日を土日にシフトした。そのために子育て中の従業員は、土日に子どもを保育してくれるところを探すために、走り回った。それだけではない。自動車メーカーは土日シフトをしたが、重機メーカーはしなかった。その結果、自動車メーカーと重機メーカーの双方に部品を納めている中小メーカーは、納入のために、休みなく働かなければならなくなったのだ。

 他にも被害は枚挙に暇がないが、15%の節電というのが、国民の多大な犠牲の上に達成されたことは、紛れもない事実だ。しかし、そこまでして、節電をする必要があったのか。つまり、そこまでして、原発を停止する必要があったのだろうか。

 事故が深刻な影響を与えたのだから、停止は当然という意見はある。しかし、原発を停止させたからといって、新たな事故のリスクは減るのか。いま日本の大部分の原発が定期点検からの再稼働ができずに停止中だ。その原発のなかには、使用中の核燃料が納められている。冷温停止しているからと言って、安全だということは絶対に言えない。電源供給が絶たれれば冷温停止中であっても、水素爆発を起こすのだ。福島第一原子力発電所でも、爆発した4号機は冷温停止中だった。

 私は、核燃料を建屋のなかに抱えている限り、運転中でも、冷温停止中でも、リスクは大して違わないと思う。だったら、安全を確保したうえで動かしたほうがよい。それは電力供給の確保という理由からだけではない。原子力発電所には建設のために1000億円単位の莫大なコストがかかっている。もし、停止したままにしておくと、ムダな減価償却費が発生し、それが利用者の電気料金に跳ね返ってくるのだ。エネルギー経済研究所の推計では、原子力発電所の再稼働がままならず全停止になった場合は、家庭の電気料金が2割もアップするという。減価償却費がかかってくるうえに、燃料を割高な化石燃料に切り替えなければならなくなるからだ。

 振り返ってみると、今回の原子力発電所の事故は、あきれかえるほどの、ずさんなミスの積み重ねから発生したものだった。現場に電源車が到着したのに電源ケーブルが接続できなかったとか、1号機では電源供給が絶たれても、余熱で冷却を続けられるシステムがついていたのに、バルブを開け忘れたためにそれが稼働しなかったり、そもそもディーゼル発電機が地下に置かれていたり、その燃料タンクが地面に置かれていたりと、津波対策がまったくなされていなかったことなどだ。
こうしたミスをきちんと改め、何重もの安全対策を加えれば、当面のリスクは大幅に減るはずだ。もちろん、それをやっても原発のリスクはなくならないということも事実だ。

 だから、いま我々が取り組むべきことは、事故原因をしっかり究明して、原発のしっかりした安全対策を講じることと、安価で安定した原発以外の電源を開発していくという二つなのではないか。

 脱原発を唱える人たちは、いままで大変な苦労を重ねてきた。いくら原発のリスクを訴えても、なかなか国民が耳を貸してくれなかったからだ。しかし、敵失によって生まれた原発事故をチャンスと捉え、一気に自分たちの目指す脱原発に、世の中を持っていこうとしているのではないだろうか。私は、そのやり方は、アンフェアだと思う。これまで原発推進派がやってきたことと、やり方が変わらないからだ。

 いま必要なことは、原発のリスクを正しく評価し、そのリスクと脱原発がもたらすコストを比較して、どのようなスケジュールで、原発をどの程度他の電源で代替していくのかという現実解を求めることだ。やたらと放射能の被害を叫んで、恐怖を煽ることは、判断を狂わせるし、何より被災地に大きな風評被害を与えることになる

 風評被害という意味で、もう一つどうしても触れておきたいのは、放射能汚染された食品についてだ。私は、政府の規制値を下回っていたとしても、放射能の影響が皆無だとは思っていない。しかし、私は自分自身の食生活から、被災地の食品を排除していない。選択肢がある時には積極的に被災地のものを食べるようにしているし、被災地の食品も通販で取り寄せた。なぜそうしているのかというと、そうしないと被災地の産業が救えないからだ。いつまでも義援金や財政の力で被災地での生活をすべて支えることなどできない。被災地の復興に一番重要なことは、被災地に働く場が戻ることだ。そのためにはまず、被災地の農林水産業が元気を取り戻さなければならない。しかし、政府が安全基準を設定して、それを上回る放射能が検出された食品は出荷を止めているのにもかかわらず、産地を公表したとたんに、被災地の野菜や肉や魚は、大幅な安値になってしまう。だから、誰かが現地の食品を食べないと、被災地は本来の姿を取り戻せないのだ。

 もちろん放射能の感受性の高い子どもたちの食べるものには気を配らなけれならないし、被災地のものを食べたくない人に強要することもできないと思う。

 ただ、一つだけ確実に言えるのは、被災地の食品を毛嫌いする人を、私は信用しない。いままで、さんざん被災地にリスクをばらまくことで、安い電力を使ってきたのに、事故が起こったら、さっさと被災地を見捨てるような人を信用しろというのはとても無理な話だからだ。

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 名古屋の大学の武田某のように、自分だけがいい子になろうと正義感ぶって必要以上に不安を煽っていた方が同じようにいい子ぶりたいマスコミ受けがするし、商売にもなるのです。不安を煽れば煽るほど不安に駆られた大衆は不安を少しでも解消しようと、不安を煽る人間の著書などに群がりたがります。これを恐怖ビジネスあるいは脅迫ビジネスと言います。家相占いや人相占いで根拠なき凶相を吹き込み、運が上向くと称して高価な印鑑を売りつける商法と何ら変わりません。
 
 だからこそ、全国的に知名度の高い森永氏のようなタレント評論家といっても良い人気者がこういう発言をしたことは、生意気な言い方をすれば、高く評価したいのです。
 なぜなら、こういう発言をしても彼は一銭にもならないのです。それどころか、マスコミ界や学会にも多く巣食う左翼脳の反原発派たちから攻撃を受けることになりかねないのです。被災地以外の人口が圧倒的に多い現実を鑑みれば不必要に恐怖を煽った方がビジネスになり、比較して少数派である被災地の人間の立場に立った良識的な意見を述べても、目に見える得は何もないのです。但し、人として目に見えない徳を積むことにはなります。
 特に最後の4行は、こういう人としてバランスのとれた人間が多く居れば、被災地の人間にとっては何よりのエールになり、援護射撃になり、「頑張ろう」がスローガンだけでなくなって、本気で頑張ろうという気にさせてくれるし、希望を見出すことにもなるのです。

 心より、森永卓郎氏に敬意を表したいと思います。


 
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転載元転載元: 新“敬天愛人”のブログ

後醍醐天皇、隠岐へ
 
元弘二年(一三三一年)、幕府を倒すために挙兵して戦われ。敗れた後(のち)
幕府側に捕らえられていた 後醍醐天皇が、遠い隠岐の島へ送られることに
決まりました。
 
 
そしてついに三月七日、大勢の幕府の兵に取り囲まれ、わずか三人の供の者を
連れられて、住みなれた京の都を後にされたのでした。
 
 
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の前を通られた時、輿(こし)を止め、
民(たみ)の生活が安らかであるよう、いつか都に帰ることができるよう、
祈られたのです。途中美作(みまさか)で数日休み、和歌を詠まれました。
 
「あはれとはなれも見るらむ我が民と思ふ心は今もかはらず」
 
(今の私をあわれと見るだろうが、すべての者をわが民と慈しむ心は今も
変わらない)
 
隠岐の島へ渡られた。帝は「ここで、年月が過ぎ行くのであろうか…」
 
つらい生活の中でも
天皇は毎朝、神様に日本の国の安泰を祈られ、伊勢神宮を遥拜(ようはい)
されて、天皇としての朝のお務めを休まれることなかったのです。
 
時は移り…紅の紅葉が山々染める秋……ある日、一人の漁師がそっと一通の
手紙を持って来ました。何と、それは護良親王(もりよししんのう)からの手紙
だったのです。
 
 
天皇は、はやる心をおさえ、震える手で手紙を開きました。そこには、護良親王も
楠木正成も無事であること、赤坂城が落ちたあと、それぞれ山の中に隠れ住み
ながら挙兵の準備を進めて来たことが書かれてありました。
 
天皇は「正成…無事であったか…!」一年前、笠置山で「…正成が未だどこかに
生きあると聞かれましたならば、帝の天下統一の道は、必ず開かれるものと
思(おぼ)し召(め)し下さりませ!」
 
今の 天皇にとってこの正成の言葉は、どれ程大きな希望であったか!
 
元弘二年十一月、赤坂城が落ちてから一年余り…ついに護良親王が吉野で
挙兵され、それに応えるように、正成も金剛山の奥に造った千早城という城で
挙兵した。
 
 
続く
 
                                    楠木正成
                                    後藤久子著より抜粋
 
 

転載元転載元: サイタニのブログ

続き 幕府と戦う
 
 
ところが十月に入り、大変な知らせが正成(まさしげ)の下に届きます。
後醍醐天皇(ごだいご)のおられる笠置寺(かさぎでら)が、幕府の兵によって
攻め落とされたというのです。
 
知らせを聞いた正成は仏間に入ったまま、出てきません。心配になった弟の
正季(まさすえ)が様子見に行ってみました。
 
「兄者…」
 
「正季… 帝(みかど)も幕府側に捕らえられたそうじゃ。… 帝の天下統一の
道が容易なことではないのはわしにもわかっておる。しかし、わしにもっと力が
あれば… 帝をお守りできたかもしれぬものを…くやしゅうてならぬ。」
 
正成にもわかっていたが、全国の武将のほとんどが鎌倉幕府側についている今、
幕府軍を相手に戦うということがどれ程大変なことか、ー けれど、囚われの
身となった後醍醐天皇の心を思う時、わが身の力のなさを責めずにはいられ
なかった。
 
十月の半ば、鎌倉からやって来た幕府の大軍は、天皇のおられた笠置寺がすで
に落ちたことを知ると、全軍が正成の赤坂城(あかさかじょう)を目指したのです。
しかし、赤坂城でも後醍醐天皇の皇子(みこ)、護良親王(もりよししんのう)が
入られ、皆心を一つにして幕府軍を迎え撃つ準備が整っていたのでした。
 
幕府軍の兵達は、山の上の小さな赤坂城を見て、すっかりバカにしてあざ笑い
ました。「何とか、1日でも持ちこたえてくれなければ、戦いのほうびにもあり
つけぬわ!」
 
幕府軍の兵達は、自分が手柄をたてようと我先に赤坂城の下へと走り寄って
いきました。兵達がたどりついたその時です。二十〜三十程並んだ櫓(やぐら)の
上から一斉にビシビシと矢が放たれました。上から下を射る矢のねらいは正確
です。その上、櫓の上には二百名もの矢の名手がそろえられていたからたまり
ません。幕府軍は、たちまち何百という兵を失うこととなってしまいました。
 
「うーむ、見かけより楠木は手ごわいぞ」
「今日は、各々陣を張って休むとしょうぞ。」
幕府軍の武将達はそれぞれに陣幕を張り、長旅で疲れた兵達は鎧兜をぬいで
横になりました。
 
この時…左右の山陰から三百騎程の武者が、迫ってきて幕府軍は鎧も馬も
捨てたまま、逃げ出してしまいました。
正成は幕府の大軍を相手にするため、様々な策と綿密な作戦を練って
いたのです。
 
元弘元年(一三三一年)十月、楠木正成との第一戦で負け戦となった幕府軍は、
正成の根拠地赤坂城を遠まきにして取り囲んでおりました。しかし、赤坂城に
たてこもる楠木軍は約五百。対する幕府軍は何万という兵力です。
この大軍でわずかな楠木軍を押しつぶせないはずはない、と幕府軍の武将達は
思いました。バラバラに攻めたのが悪かったのだ。
 
 
再び幕府軍は城に攻め寄せました。
今度はいっこうに矢が飛んで来ません。
勢いづいた兵達は、城壁を登り始めました。
 
赤坂城の塀は二重になっていて、綱を切ると外側の塀が落ちる仕組みに
なっていたのです。
 
「今だ!切れぇー!」
 
外塀は、塀を登っていたたくさんの兵もろとも落ちてゆきました。
幕府軍の兵は塀の下になり、混乱しているところに、大岩が次々と投げ落とされ
幕府軍は退却しました。
 
「もう、これは兵糧攻めしかあるまい。」
幕府軍は何万という大軍で城のまわりを取り囲み、食糧が尽きるのを待つ
ことにしました。
 
これは楠木軍にとって困った事態でした。
急いで造った赤坂城にはたくさんの食糧を備えることができませんでした。
「正成は、食糧がわずかとなった。もはや、この城で戦を続けることはできぬ。
もとより全国の武将に先がけて 帝の天下統一の道を開こうと志したからには
命をおしむべきではないが、帝のお志実現のため、今は城を脱出すべきと
考える。」
 
十月二十一日、にわかに風雨が強くなり、その夜城を脱出することにした。
正成は、護良親王に事次第を申し上げました
「正成…おぬしは、どんなことがあっても生きのびよ。父君は、おぬしを心から
頼みとされておられた。おぬしだけは必ず生きのびて、父帝の天下統一の道を
開いてくれ…たのむ…!」
 
「不肖この正成、命ある限り 帝の天下統一のお志のため力を尽くす覚悟に
ございます。今、この城を捨てて落ちようとも、必ず力を蓄え、再び兵を挙げ
ますこと、お誓い申し上げまする!」
 
その後、正成と楠木軍の兵達も三、四人ずつに分かれて城を落ちてゆきました。
正成は、金剛山の奥深くへと消えてゆきました。それから一年の間、正成の
行方は杳(よう)として知れなかったのです。
 
 
続く
 
                                  楠木正成
                                  後藤久子著より抜粋

 
 
 
 
注:一言
(今日、国会で自民党議員に第1のものを第1にしていないと言われキョトンと
 している野田総理?第1のものを第1にすると言う事を知らないようである
 天皇陛下を見習わなければなりませんね”)
 

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