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中野剛志氏のショックドクトリンに関する解説を紹介します。「鳴動する政局の本質と日本の行方」[桜H23/5/7]のなかのお話らしいです。
【中野剛志】戦後教育で改造された日本人 カナダのジャーナリスト・ナオミ=クラインが書いた『ショック・ドクトリン』という本がある。
ショックドクトリンとは、新自由主義的な構造改革のことである。
これが、処方される時期は、必ず、恐怖政治や大自然災害、戦争、テロのような恐怖が人々を襲った後である。
サッチャーはフォークランド紛争のあと、サッチャー改革で、労働組合を弾圧した。エリツィンは、議会を制圧したあとに、市場原理主義的な改革をした。中国は天安門事件のあとに、市場自由化をした。イラクはアメリカに占領されたあとに、徹底的な小さな政府、ほぼ完全な貿易自由化、徹底的な民営化をさせられ、そこにアメリカの軍需産業が入って乗っ取った。クラインの本は、そういう新自由主義のショックドクトリンというやり方を暴露した本である。
ミルトン・フリードマンという新自由主義のイデオローグは、2005年にハリケーンのカトリーナがニューオリンズを襲った時に、「子供たちが被災し、ばらばらになり、学校が破壊されてかわいそうだ。今こそ教育を抜本的に改革する時期だ」と言って、公立学校を全て民営化し、家庭にバウチャーを配って選ばせるようにした。これは、竹中平蔵がいつも言っているものである。
これは日本でも起きていることであり、橋本政権が六大改革をやったのは、阪神大震災、地下鉄サリン事件の後である。小泉改革が激しくなったのは、同時多発テロや金融危機のあとである。 昨年突然TPPが出てきたのも、その前に、尖閣問題やロシアの北方領土問題などのショックがあった。ショックがあるときには、なぜか必ず新自由主義的な構造改革に乗っ取られる。 これをクラインは、このように説明している。 CIAがテロリストや敵を捕虜にしたあと、その人格改造をするために、ショック療法をやる。それと同じ発想である。先ず孤立させる。仲間から話して独房に入れ、水攻めか電気ショックかわからないが、ショックを与えて、記憶を消滅させる。人間は孤立させ、見捨てられた状態にして、ショックを与え、記憶を消滅させると、実に改造されやすくなる。これはCIAだけでなく、ソ連のボルシェビキも、ナチスも知っていた。 今回の震災でも同じことが起きる。被災地特区といい、あるいはもとに戻す復興ではなく創造的復興案などといい、実験場にしようとする。また今こそTPPという議論もある。 もっといえば、菅首相の振る舞いが、戦後世代の典型である。戦後生れというのは、まさに敗戦と原爆で、ショックドクトリン、ショック療法をやられて、その後に戦後教育で改造されている。1990年代以降、構造改革のような新自由主義的改革が加速した。90年代、戦前戦中派が引退して、戦後のショック療法を施された世代が世の中の中心になり始めたころから、急に構造改革が増え始めた。いわば過去の記憶を消去され、ショック療法を施された世代が、この復興を見て思うことは、戦後の連想である。すなわち日本は敗戦して、焼け野原になったけれども、復興して立ち直って、実は良くなったじゃないかという、今もそれができるのじゃないか。完全にショックドクトリンだ。 |
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2012年01月15日
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
ハワイ王朝の悲劇は聞いたことがあり、アメリカという国が陰謀の国であるという一面をはっきり見せている気がしました。アメリカによってハワイ王朝は滅亡し、本来は王位継承者であったカイウラニ王女はその後、白人に弄ばれるような悲劇の生涯をおくられ、当時の白人の人を人と思わない、有色人種を侮蔑したやり方には憤りを感じました。
日本はまだ国力がなく、ハワイ王朝を助けることはできませんでしたが、なんとか出来る限りのことをしようという正義の気持ちは強く、アメリカの武力によるハワイ併合に、東郷大将の艦隊を差し向けました。
さくらの花びらさんの記事では、このときの感激をハワイの人は忘れず、人々の間で、日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたそうです。
強くて正義感ある国、日本、これは昔の話です。
マレーシア元上院議員 ラジャー・ダト・ノンチック氏も言っています。
かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた 中略
本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに 本当の日本人を 知っている 私達には 今はいつも 歯がゆくて 悔しい思いがする 誇りを取り戻す1881年3月のことです。
ハワイ王国のカラカワ王は世界一周旅行の途上で日本の横浜港に到着しました。 日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民」を演奏して出迎えたのです。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流した。
カラカワ王は日本人通訳を連れて密かに明治天皇との会見を願い出たのです。特別列車で皇居に向かう途中、港も鉄道も白人ではなく日本人が運用されているのを見て感激しました。これはハワイでは白人がいたるところで独占していたからでした。
カラカワ王はこのような心づくしと独立した誇りある日本を見て、日本と同盟を結んで白人支配から独立しようと思ったのでした。
明治天皇と会見したカラカワ王は、日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本に対してハワイの人口減少を日本人移民の実現したいこと、王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族の山階宮定麿親王との婚約を申し入れました。 明治天皇もこの申し出には驚かれ、即答せずに後日返答する旨を伝えました。
我が国としては明治維新後まもなく、米国と対抗する力のないため、明治天皇はカラカワ王に特使を派遣して婚姻の議は「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に辞退されたのでした。
しかし、移民については1885年に実現しました。ホノルルに到着した日本移民のために歓迎会が催され、カラカワ王自身も参加し、日本酒を振る舞い、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会でもてなしたのです。
しかし、ハワイの米国人たちはカラカワ王の動きを 封じるために新憲法を起草し、白人武装集団の圧力のもと承認の署名を行うようカラカワ王に突き付けました。この中には王の政治的行為は全て議会の承認を必 要とし、多くのハワイやアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣でカラカワ王に署名させたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。 1891年、カラカワ王が病死すると、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。 女王は選挙権を貧しい島民にも与える憲法改正を発表し、イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって女王支持のデモを行いました。
しかし、白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出しました。
米国公使スティーブンスは「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」というデマで訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」と言ってホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」の海兵隊を上陸させて女王を退位させたのです。
ここにハワイ王国は消滅し、ハワイ共和国が樹立され、頃あいを見て米国は併合しようとしました。
しかし、ここで思わぬことが起きました。
「浪 速」の艦長は東郷平八郎です。後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督であります。東郷平八郎は、「武力でハワイ王制を倒す暴挙が進行してい る。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と宣言しました。この市民の中には米国市民も入っていました。
「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年後に再び姿を現しました。ハワイ共和国大統領から「建国一周年」を祝う礼砲を要請してきましたが、東郷艦長は「その理由を認めず」と拒絶しました。するとホノルル軍港の各国軍艦も東郷にならいました。世界の新聞は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えました。
ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子供に「トーゴー」と名づけたり、ある地域では「ナニワ(浪速)」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。・・・
浪速
金剛
かつて日本という国は強くて正義感ある国でした。
しかし、現在の日本はどうだろう。
1月14日、我が領土である北方領土に視察した玄葉外務大臣は自国領土であるのに遠くから眺めるだけで島に近づくこともできず、以前の前原外相の北方領土視察も遠くから見ているだけでした。同じく1月4日、尖閣諸島付近ではチャイナ漁船監視船が接続水域に入ってきました。尖閣付近では頻繁に起きていますが、我が国は注意をして様子をうかがっているだけであります。
竹島は韓国が我がもの顔で構造物を作り続け、日本政府は韓国や在日に気づかって「不法占拠」とも言えず、それが更なる挑発行為となり、ついには韓国日本大使館前に従軍慰安婦像を置く行為にもつながっているのです。
戦前が全ていいというわけではありません。戦前にも幣原喜重郎のような軟弱外交もありましたが、やはりその時も多くの日本人の犠牲を伴ってきた歴史的事実があります。
国の護りというのは自分たちの「手」と「命」で護らねばなりません。自国の護りを他国に依存する愚行は戦前にはありません。
きっと自衛隊の中にも東郷提督に劣らぬ立派な方はいるであろう。ただ、今の日本はそういう人物が表に出てこられない土壌があることが残念であります。
かつて日本には東郷平八郎のような堂々とした立派な提督がいたことを誇りに思い、今のダメな日本を変えて行こうじゃありませんか。
小野田寛郎元少尉の著書のこの一文をこの記事の最後としたい。
「私は戦場で三十年、『生きる』意味を真剣に考えた。戦前、人々は『命を惜しむな』と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は『命を惜しまなければいけない』時代になった。何かを“命懸け”でやることを否定してしまった。覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。・・」
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