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蛮社の獄で有名な渡辺崋山は、非常に才能のあった人のようです。
まずは画人として独自の画風を確立した一流の画家であり、写実的な肖像画は当時もかなり人気があり、多くの人物を書いています。『一掃百態』という風俗画集では、江戸の人々の風俗や職業の生態を描き、、大名行列や露天の小商人の動作などを軽妙なタッチで活写しています。

一流の画家としてだけでなく、後には田原藩の家老に抜擢されて、さまざまなトラブルの交渉と解決、藩政改革、国防理論と、手腕をふるいました。
 
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 渡辺崋山像。崋山の弟子、椿椿山によって崋山の死後12年後の嘉永6年(1853年)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。
 
渡辺崋山は、田原藩の江戸詰め勤務の渡辺定通の長男として生まれます。渡辺家は田原藩の上士の家柄でしたが、藩財政難と、父が養子であったために家禄が削られ、しかも父は病気がちだったため、その医薬に多くの費用がかかり、一家は極貧の生活でした。日々の食事にも事欠くこともあり、弟妹は次々に奉公に出され、華山は年少の頃から、家計を助けるために画業を志し、絵を学び、初午灯篭や凧の絵を描く内職などをしながら、勉強に励みました。

華山の絵の才能は、谷文晁(たにぶんちょう)に入門してからは、大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となりました。更に学問にも熱心で、儒学もよく学び、18歳のときには昌平坂学問所に通いました。
一家の家禄も父の出世と共に回復してゆき、文政8年(1825)に父が病死して、三二歳で家督を継いだ時には、80石となっていました。その年には、藩の取次役にも就任しました。

天保元年(1930)藩主康直が幕府より日光祭礼奉行に任じられると、康直の見栄を張るなど様々な浪費で、藩財政はさらに悪化し、藩政改革の必要に迫られ、康直は天保3年(1832)、崋山を年寄役に任じて改革を行なうことにしました。

華山はまず、田原藩のトラブルの解決を図りました。この頃、田原藩では領民が難破した他国船の積荷を奪った事件や、他国の商人が巧みに介入して藩領で新田開発を企てるなど、 様々な問題をかかえていました。崋山はこれらを交渉をもって解決しました。また藩主康直は姫路藩からの養子でしたが、康直の長女と若くして急死した前藩主の異母弟元信の男子を結婚させて次期藩主とするように、康直や姫路藩と交渉し、前藩主の血筋を残しました。

藩政改革としては、2人扶持の支給や格高分合制という人材登用制度などを新 たに取り入れました。特にこの人材登用制は、有能な人材であれば家格にかかわらず重く登用するという先進的なものでした。

また、崋山は農政学者・大蔵永常を招聘して、殖産興業に努め、当時諸藩で有力な財源となりつつあった商品作物として、甘藷(サツマイモ)、櫨(はぜ)、椿などの農産物の育成を奨励しました。さらに鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながりました。

天保7年(1836)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや、『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けています。
 
華山が更に必要と強く感じたのが、国防という問題でした。

田原藩は遠州灘につき出た渥美半島にあり、天保三年に海防を重視した華山は海防掛かりを兼務しました。日本は鎖国が続き、幕府をはじめ人々は太平の夢をむさぼって、”井の中の蛙”になっていました。ところがロシアの日本探検船団がしきりに日本本土をねらっていたのです。

華山は海防を担当したことで、オランダの学問を勉強し、シーボルト門下の高野長英、小関三英といった蘭学者と交流しました。

華山の蘭学研究は世界の地理、風俗、歴史、兵術など多方面にわたる本格的なものでした。兵書を取り寄せ西洋の火器を中核とした軍事組織を日本に移植しようとしたのです。

オランダ商館長ニーマンからいろいろな知識を学んでいます。鎖国以来二百年も平和が続いている国など、世界には日本以外にどこにもないこと。ロシアは支那領の満州や蝦夷諸島(北海道、クナシリ)をねらっていること。大名や旗本の供廻りなどが人と金を無駄に使って人材の育成を妨げていること。そういうことに幕府の為政者が無知であることを心のそこから憂えました。

また華山は、西洋文明の進歩の基本要因として「物理の学」をあげ、日本には科学的精神が欠如していることを指摘しました。こうして華山の学識や知見を慕っていろいろな人が集まって来ました。長英らのほか、江川英竜、川路聖謨(としあきら)、遠藤勝助、立原杏所と言った洋学者や知識人たちでした。華山はこうした洋学者のリーダー的な存在となり、彼らは学問のサークル的な集まりであり、飢饉対策の救荒作物についても話し合いました。この会合に出席したことのある藤田東湖は、華山のことを「蘭学にて大施主」とよんでいます。華山を中心に、やがて国防について議論する場となって、幕臣であった江川や川路は、幕府の海防政策での助言を受けています。

『鴃舌小記』『慎機論』『西洋事情書』『外国事情書』といった華山の著書や草稿は、日本の危機を訴えようとしたものです。鴃舌というのはモズの声、”野蛮人のことば”と言った意味です。そのなかで華山は「世界の五大州のなかでアジアを除く諸州はことごとくヨーロッパ人の所有に帰した」と書き、そのアジアの中でも独立できているのは、ペルシャと日本のみ、「されば誠に心細きことに御座候」。しかも道に置かれた肉のようにトラやオオカミがねらっていると警告したのでした。
こうした華山の研究や忠告に対し、憎しみをもって不当な敵意をいだいたのが、幕府の目付鳥居耀蔵です。この人物は、政敵や論敵に遺恨をいだき、讒言で陥れることが多い人物でした。また、鳥居の実父が大学頭を務めた儒者の林述斎であったことから、儒学以外の学問を排斥する傾向が強く、華山が昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受けた人間であるにもかかわらず、蘭学研究をしていることに、裏切り者という意識を強くもち憎しみを覚えていたという話もあります。また蘭学者が国政に口を挟むことも気に入らなかったようです。
鳥居は手下を使って華山の身辺を探索し、風説をねたに”事件”をでっち上げました。

一、華山は『鴃舌小記』を表して蘭人の幕府批判を紹介し、高野長英、小関三英らと徒党を組んで外国事情を詮索して、当今のまつりごとを中傷した。
一、無人島渡航を計画し、漂流にかこつけてあわよくばアメリカへ渡らんとした。
一、長英は『夢物語』と題して日本と外国との政治人情の善悪を評する著作をあらわした。

これは要するに、洋学嫌いの鳥居が、華山や長英をおとしいれようとして弾圧した事件でした。鳥居は彼らを一斉検挙しました。世人が鳥居耀蔵のことを鳥居妖怪(耀甲斐)と呼んだほどのこすからい陰謀家だったのです。

この事件を歴史では「蛮社の獄」と呼んでいます。長英たちは、自らを蛮学社中」と称していたからです。蛮学とは洋学、オランダの学問のことです。

長英はいったん身を隠したのち自首し、三英は自害しました。華山は北町奉行所で取り調べを受け、ひとまずは釈明が受け入れられました。奉行所もこれが鳥居が仕掛けた陰謀であろうとうすうす感じていたからでしょう。

ところがまだ出版もされていない『慎機論』と『西洋事情』の書きかけ草稿が家宅捜索により、新たな証拠として提出され、有罪とされてしまいました。投獄された華山には画家の友人や門弟などの支援者から救援運動がおこされ、そのため田原に送還、蟄居を命じられました。

しかし華山は藩主に迷惑のかかるのを恐れ、天保十二年(1841)十月十一日、腹を切って自刃しました。四十九裁でした。

この蛮社の獄を機に、洋学者は研究をしりごみし、日本の科学は停滞しました。

ところが「蛮社の獄」の翌天保十一年(1840)にはアヘン戦争があり、幕府はあわてて海防の準備にとりかかります。華山や長英の警告どおりの事態が起きてきたのでした。
 
参考

渡辺崋山 - Wikipedia

蛮社の獄 - Wikipedia

 
石井英夫 「渡辺崋山」


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