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伊勢神宮の由来2

新田均皇學館大學教授の論文の続きです。


伊勢神宮ご鎮座の由来
 
ここから話は初代神武天皇から第十代崇神天皇に移ります。この間ずっと三種の神器は天皇陛下のおそばにありました。第十代の崇神天皇の時に、『日本書紀』にはこう記録されています。

崇神天皇陵

「神の勢いを畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」。神の威力を恐れられて自分のおそばに八咫鏡を置いてお祭りしていることを恐れ多いと思われた、というのです。

この崇神天皇の時代には『日本書紀』によりますと、流行病、今でいう感染症がはやったり、それにより反乱が起きる、人民が離散するなど治安の乱れがあって、これをご心配になった崇神天皇はもっと丁寧に天照大御神をお祭りする必要があるのではないか、と考えられ、ご自分の皇女であられる豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に八咫鏡をお渡しになって、皇居を出て大和の笠縫邑(かさぬいのむら)というところで専門に豊鍬入姫命によって鏡を祭るようにされました。

それでは皇居の中で一切お祭りがなくなってしまったかというとそうではありません。『古語拾遺』という書物を見ますと、この時に別の鏡が作られて、宮中ではその鏡をお祭りし続けられました。それが今の宮中三殿の中心になっている賢所の起源になります。八咫鏡本体は外に出られたのですが、それは、より一層お祭りを厳重にするためだったということです。

天皇のお名前には後になってその天皇のご業績を考えて奉られたお名前が多いのです。神武天皇は神のような武力を行使された。崇神天皇は神を崇められた天皇ということで付けられました。ですから崇神天皇のご業績といえば、それまで宮中でお祭りされていた八咫鏡を、もっと丁寧にお祭りするために外に出された、ということです。

その次は第十一代の垂仁天皇です。仁を垂れた天皇、愛情深い天皇と言えます。この御世の時に今度は豊鍬入姫命ではなく、ご自分の皇女の倭姫命に、もっと鏡をお祭りするのに相応しい場所を探させます。

お父上のご命令により倭姫命は、天照大御神を祭るに相応しい場所を求めて、今でいう奈良県そして琵琶湖の東岸滋賀県、そして岐阜まで行かれて、、今度は三重県に降りてこられて、ようやく五十鈴川のほとりに来たときに、天照大御神が、ここで祀られたいとおっしゃられたので、神宮が立てられることになったといわれています。西暦にすると大体三世紀末、三〇〇年少し前のことではないかと古代史家は推定しています。

ここで天照大御神を祀る皇大神宮がまずできます。それから十代下って第二十一代の天皇、雄略天皇の夢枕に天照大御神が御出現になって、一人で祀られているのはさびしいとおっしゃって、自分に食事をささげて下さる神様を招いてほしいと言われます。そして丹波の地域から天照大御神に食事をささげる神様として豊受大御神が招かれました。それが西暦五世紀後半、四七八年くらいではないかといわれています。

ここまでが御鎮座の由来ですが、日本神話の一つの特徴は、キリスト教の神話に比べてよくいわれることですが、国土も国民も神々から生まれたとなっていることです。キリスト教の神話は、人間は神によって作られたことになっています。これはある意味決定的な違いです。作ったものと作られたものの間には大きな溝がありますが、生んだものと生まれたものとの間にはそれほど大きな違いはありません。親から子供が生まれますが、子供はやがて親になります。神々と人間との関係は日本人においては親子のような関係で、そこには絶対的な違いはありません。ですから立派な人が神様として祀られることもあるのです。

もう一つは、国土も、その国土を治めるべく使命を与えられた君主つまり天皇も、その君主に治められるべき国民も、すべて神々の子孫ということになりますので、神々の子孫という点では、国土も君主も国民も違いはないのです。違いは、天上界の中心である天照大御神の子孫であるか、その他の神々の子孫であるか、、あるいはこの地上で生まれた神々の子孫であるか、の違いに過ぎません。ここが日本神話の大きな特徴であるといわれています。
 
 
 
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              秩父宮殿下による「八紘一宇」の文字 (宮崎市 平和台公園)
 
 
ユダヤ人の長老であるモルデカイ・モーゼが書いた『日本人に謝りたい』より抜粋して、厚かましくも「日本人よ、覚醒せよ!」と題して数回書いてきました。
今回は神武天皇の御即位の日であります211日の「紀元節」を前にして、「八紘一宇(はっこういちう)」の項を掲載させて頂きます。
 
その前に、この「八紘一宇」という言葉をご存知でしょうか。
昭和329月、衆議院文教委員会で松永文部大臣は「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と発言しました。
また、昭和581月の衆議院本会議で中曽根総理は「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と発言しました。
これぞ戦後日本を覆い尽くす間違った考えなのです。この八紘一宇という言葉と大東亜戦争という言葉は昭和201215日のGHQの「神道指令」により日本人が使うことを禁止されました。以来この言葉は左翼によって「戦前の天皇軍国主義が侵略戦争によって世界統一の為に利用したもの」に変わってしまい、戦前の悪の異物のようにされてしまいました。 しかし、事実は全く違うのです。
この「八紘一宇」とは日本書紀にある神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)に即位されたときに、「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と言われたのに由来したものであり、八紘とは四方八方のことで、一宇とは一つの家のことです。 天の下にあって人類はみな一つの家にいる家族の如くという意味で、日本の精神を象徴する和の精神であります。 では以下、モーゼ氏の著書より掲載致します。・・・
 
イメージ 1戦前の日本には、八紘一宇という大精神があった。これは神道のこれまた類い稀な偉大な思想に基づくものである。西洋の宗教の如き排他性をもたない、傑出した思想であるといえよう。この点を証拠づけるものは、西洋列強の東洋侵略と日本の満州国建設のコントラストであろう。
西洋列強の東洋諸国支配は搾取、収奪、奴隷化に他ならなかった。
英国がインド支配のため最初に打った手は、既存の教育関係を絶滅し、諸民族を相争わせ、言語の複雑化を計ることであった。オランダのインドネシア支配も同様であった。そこには何ら建設的なものはなく、ただ自己のための搾取があるのみであった。
しかるに、日本の満州国建設大事業はこれとは対照的であった。五族協和を唱い諸民族平等の関係を育て、その投資は建設的なものであった。当時欧米でも識者は、人口3000万の満州国は十年後には人口1億を有する大近代工業国家として極東の一角にその勇姿を現わすであろうと、称賛と期待をもって見守っていたものであった。他のアジア諸国で、欧米列強によって近代的工業国家に育てあげられた国が一国でもあっただろうか。満州の近代化の成果は、現代に至るも中国の工業の心臓部である点をみても分かることである。これを可能にしたのは、八紘一宇の大思想のしからしむるものである。
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最後に、モルデカイ・モーゼ著『日本人に謝りたい』についてのブログ記事を書かれた、今は亡き敬天愛人大兄の記事を抜粋して、この記事の終わりと致します。
・・・。
30年前に出版されているこの書籍が、果たして当時どれだけの人の眼に触れることができたのかも知る由はありません。
ただ、確実に言えるのは保守派にとっても強力な武器となりうるこういう貴重な資料を自在に駆使して、マスコミや左派勢力に敢然と挑むパワーや戦略が保守派には欠如していたということは、今の日本の現状を考えるに否定できない事実でもあろうと思います。
「人間獣化計画」の19項目に見事に骨の髄まで汚染された戦後世代の日本人には無力だったのではないかとも思います。
斯く言う私もその日本人の一人でありました。しかし、ネットを通じて多くの若い世代にたくさんのことを教えていただきながら、自虐史観という洗脳を解くことができたことを思うと、何かのきっかけ(起爆剤)さえ掴めればまだまだ日本人も捨てたものではないとも考えます。
保守派が反日勢力や特亜などの外国勢力に押されがちなのは、偏に「日本歴史の真の構築を放棄して来た日本人自身の問題」に帰結しているのだと、最近まで自虐史観に染まってのうのうと生きて来た我が身も含めて反省させられた書物でありました。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
ここ数回の福地先生の論文は執拗なくらいにマッカーサーについて取上げていますが、それほどまでに戦後の日本に影響を与えてきたことは間違いありません。そして、その矛盾点をマッカーサー自身の言葉を用いて鋭く指摘している福地先生は、日本が戦後間違って歩んできたその大本を日本人自身が知り、日本人の眼ざめの一助となればという強い思いで書かれていることであると解釈しております。
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米国製憲法を日本製と偽証したマッカーサー
 
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                                         高知大学名誉教授 福地惇
 
「詭道の達人」が記した矛盾憧着(しょうちゃく)と詭弁の回想録は、新憲法制定に関してのアリバイ工作についても堂々と述べている。
ポツダム宣言は、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるにおいては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし」(第十二項)と明記していて、日本国の「民族自決権」を容認している。
だがマッカーサーは、「日本の政治組織に本格的に手をつける前に、さしあたって日本の基本的な法、つまり憲法を大幅に改正することが必要だった。当時の日本の政治情勢はひどい状態にあった。古い明治憲法は勝手な解釈で歪められ、戦争の結果、国民の信用はすっかり落としていたので、日本に自治の機能を維持するには新しい憲法をつくることが差し迫って必要だった」と言っている。この「自由に表明せる意思」は日本国国民のものか。独裁官マッカーサーのものか、一読明瞭であろう。
 
マッカーサーは、実に手前勝手に日本国は「自治能力」なしと断定しているが、歴史の事実は正反対で、軍事力の剥奪は受けたが、天皇陛下の御詔勅の下、整然とした自治能力は存在していた。最初から自分の意向に適った日本国改造を企図していたに違いないが、狡猾な「詭道」の元帥は、自分の「意志」とは言わずに、憲法の作り替えを日本国を取り巻く国際環境の所為にする。マッカーサーは、連合国には共産ロシアを始めとする「日本国家をぶち壊すことを狙った極端な考え方が次々に現れた」と含みのある表現をしている。これはソ連が極東委員会等で「天皇制解体」を強く主張したならば「日本の天皇制護持」はひとたまりもなく烏有(うゆう)に帰すだろうと日本政府を威圧して≪象徴天皇制≫の憲法を押しつけた論法であり、「詭道」の見事な展開である。
 
マッカーサーのアリバイ工作の独白をもう少し聞こう。
「私はアメリカ製の日本憲法を作って日本側に命令でそれを採択させるということは、しなかった。憲法改正は日本人自身が他から強制されずに行うべきものだったから、私は偶然の環境で絶対的な権力を握った征服者が完全に何の抗弁もしない政府にその意志を押しつけるというような形で、アメリカ製の憲法を無理押しに日本人に飲み込ませることだけはやるまいと心に決めていた」
いかにも物分かりのよい言い分だが、これも語るに落ちた文章である。
この短い一分の「アメリカ製憲法」という言葉が二度も登場していることは「アメリカ製の憲法」といわれることを極力避けたいと考えたマッカーサーの無意識が図らずも露呈したということであろう。史料批判の初歩的な読会によっても、これは「アメリカ製の憲法」だと自白したと同然の証言ではないか。
 
見え透いた詭弁はさらに続く。
「日本には、もはや検閲制度は存在せず、国民は街角や、新聞紙上や、各家庭などいたるところで新憲法を論じて意見を戦わせた。共産党までかなり熱心にこの論調に加わってきた。誰もが新憲法の内容について独自の見解を持ち、それを遠慮せずに発表した」
しかしどうであろう。占領時代、GHQ批判は最高の御法度であり、声を大にして非難したくても出来なかったし、終戦直後の日本共産党は占領政治の傭兵隊的活動にいそしんでいたのではなかったか。それから半世紀、戦後政治史研究家たちの探究により日本国憲法はマッカーサー草案にほんの少し修正を加えて発布されたことが十全に解明されている。
 
イメージ 1GHQの一機関「民間情報局」の事前検閲に関しては故江藤淳氏の労作『閉ざされた言論空間―占領軍の検閲と戦後日本』が“マッカーサーの嘘”を完全に暴露している。
要するに日本国憲法は、明治憲法改正手続きといういかさま芝居で国民の目をくらまして制定された訳で、実態は<マッカーサー欽定憲法>なのである。
 
ついでに述べれば、「極東国際軍事裁判(東京裁判)」が、国際法に違反する戦勝国の不当な敗戦国いじめであり、「敗北主義」を日本国民に植え付ける工作だったことは見識ある人士の尽力ですでに暴露されている。
イメージ 2例えば、小堀桂一郎氏らによって刊行された『東京裁判却下未提出弁護資料』(全八巻国書刊行会)を通覧すれば、甚だしく不公正で理不尽な復讐裁判だったことは明白である。ところがマッカーサーは「勝者に従順な日本人」は未来永劫この茶番劇を暴露するまいと高をくくっていたのであろうか、「これほど公正に行われた裁判もない。これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見を伴わない審議が行われた例もない」(回想録)とうそぶいている。
解任されて帰国後、彼は米国議会の公聴会で「東京裁判は間違っていた」と告白しているのだから、その支離滅裂ぶりを我々日本人はどう解釈し、どう評価すべきなのか。また同公聴会でマッカーサーが、「大東亜戦争は日本の防衛戦争だった」旨の証言をしていることはつとに明らかになっているが、これもまた、彼が如何に詐術の達人であったかを思わせる一事であろう。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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マッカーサーとは何者か
        〜「詭動の達人」は詭弁家でもあった
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高知大学名誉教授 福地惇
 
イメージ 3マッカーサーは、米国陸軍士官学校を彼の前後に適う者とてなき最高得点での首席で卒業し、元帥まで上り詰めた出世頭、紛うかたなき優秀な職業軍人であった。『孫子』の「計篇」はこう言う。
「兵とは詭道なり。故に能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれを近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離つ。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勢にして先には伝うべからざるなり」
 
「詭道」とは、敵の意表を突く行動、つまり謀略・詐術・惑乱戦術を駆使して優勢を占め、敵を打ち負かす道理のことである。兵学の用語だが、もちろん政治にも完全に適用できるのである。
マッカーサーはさすがに軍人、「詭道の達人」であったと私は感銘する。だが、日本的な武士の情けを知る武士ではない。ましてや人徳豊かな大政治家とは言い難い。完全武装解除されて抵抗力を剥奪された敗戦国に対して、一介の武弁に過ぎないのに善人・大政治家ぶってワンサイド・ゲームであること明瞭な第二の戦争=占領国管理統治を楽しんだ、としか私には思えない。
彼は敗戦国の小間使い的政治家を巧みに使嗾した。時には聖人・英雄風を吹かせて恩を着せ、宥(なだ)め賺(すか)し、時には威圧をかけて脅迫して己の目的をのませ、見事に敗戦国を自分好みに改造した。
そればかりか、敗北国民に敗北者根性を尊崇させる目的を持つ思想戦争を「詭道」を以て強力・巧妙に遂行した。天皇陛下の下、恩忍自重して神妙にして従順だった日本政府はじめ国民は見事に「詭道の人」の餌食となったと言ってよい。時の政府がGHQに対応する唯一の国家機関であった以上、占領期間中の我が国の政府首脳部の政治責任は、敗戦責任に劣らず重かったというべきだろう。
 
イメージ 5かかる「詭道」の最高司令官に対抗できる大政治家はいなかった。たとえいたとしても「詭道の人」はその団結を許さなかった。分断して上手に統治した。砲弾以外の“武器”はいくらでもある。公職追放、言論統制、思想改造、教育改造、労働運動の扇動、共産主義者のスパイ的活用等々。
丸腰の敗戦国政府を操縦し、「戦争に懲り懲りの」日本国民を誑(たぶら)かすのは赤子の手をひねるようなものであったろう。日本人は「十二歳の少年」である。その集大成ともいえるのが、国家の基本法である憲法を日本人製と詭弁して下賜したことである。
吉田茂は「負けっぷりをよくする」などと腑抜けた戯言を吐いたが、潔さというものは日本の古武士には通じても米国の軍人には日本人の脆弱性としか映らない。1951(昭和26)年4月、トルーマンに解任されて離日する際、マッカーサーは「日本国民は、勝者に媚びる国民である」という侮蔑の言葉を吐いている。
 
イメージ 4私はこの「詭道の達人」は、己の日本占領政策が国際法に違反することを自覚していたと推測せざるを得ない。『回想記』は、まさに彼が日本人をいかに欺き、愚弄したかを、いみじくも自ら暴露している真に貴重な記録である。マッカーサーは、事実を曲げた甚だ矛盾した発言を平気でなし、自分の功績を誇大に喧伝するアリバイ証明的言辞を多発している。
以下にいくつか引いてみよう。
「日本政府が降伏条項を受諾した後、その実行に当たるのは私の仕事になった」と、ポツダム宣言と降伏文書の条項を執行するのが任務だと自覚している。だが頭隠して尻隠さずで、「私たちはポツダム宣言の諸原則によって、日本国民を奴隷状態から解放することを約束している。私の目的は、武装兵力を解体し、その他の戦争能力を消滅させるのみ必要な手段を取ると同時に、この約束を実行することである」と強弁するが、ポツダム宣言は「吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず。(中略)日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし」と謳っているのであって、マッカーサーはこの条項を逆さ読みして占領政治に都合よく活用したのである。
さらに、「改革は日本人自身によってはじめられねばならない。東京在任中、この考えは常に私と幕僚たちの指針となった」と記してもいるが、「占領の課題」なる章には、「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上、如何なる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった。私の権力は至上のものであった」と言い放ち、「占領目的」なる章の冒頭に、「私は五年以上もの期間、日本改革の仕事に取り組むことになった。私の考えていた改革案は、結局全部実現した」と誇負している。
しかも改革推進の法的根拠は、米国統合参謀本部が彼に訓令した「最高司令官の権限に関する通達」だという。国務省や統合参謀本部の通達は、本国政府が現地司令官に示した政策方針でありその心得である。それは、我が国の与り知るところではない。マッカーサーは内達を法的根拠として『無条件降伏』した敗戦国を自らの思うように改造して何が悪いのかと言っているのである。しかし、連合国と我が国が取り交わした約束は、ポツダム宣言と降伏文書以外にないのであって、ポツダム宣言は「有条件」の国際協定である。
 
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