教職員処分規定:「卒業式に出られぬ」大阪・不起立で免職
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2012年02月10日
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米百俵の群像
「米百俵の精神」とは、平成13年5月7日、小泉元首相の所信表明演説で有名になった言葉である。それは次のような一節です。 明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、今日の我々に必要ではないでしょうか。 小泉元首相の実際の業績は別にして、この「米百俵の精神」は多くの国民の心に響きました。 小泉元首相の所信表明演説から今年で十一年、国家観なき政党の甘言に載せられ、子ども手当などのバラマキ政策を、国家予算の半分近くを国債、すなわち子孫への借金のつけ回しで賄おうとする現在の我が国は、「痛みを明日に回して今日を良くしよう」という姿勢に陥っています。 「米百俵の精神」こそ、日本人が日本人たる精神ではないでしょうか? 「米百俵」の事績を残したのは、明治初年、戊申(ぼしん)戦争で旧幕府側として新政府軍と戦って敗れた河井 継之助が率いた長岡藩で、大参事として敗戦後の再建を任された小林虎三郎翁でした。 長岡藩は禄高を7万4千石(実録は10万石)から2万4千石へと大幅に減封させられ、士族の中には食事も粥(かゆ)ばかりで、それにも事欠く武家もあったのです。 刀を売る者や、辻斬り強盗に走る者、娘を売る者など、敗戦国の惨状を極めました。 小林虎三郎翁は、幕末に江戸遊学をし、佐久間象山に学び、吉田松陰とともに、「象門の二虎」といわれたほどの逸材でした。象山は「天下国家の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と言いました。象山にそう言わしめるほど、教育者として優れた人物が、小林虎三郎翁でした。 明治3年春、長岡藩の支藩である三根山藩から、本藩の窮状をみかねて百俵あまりの米を送ってきた。小林虎三郎翁は、計画していた国漢学校の創設にこの米を充てたのでした。困窮していた藩士たちはこの米が分配されるものと期待していたはずで、それを押し切っての決断でした。小林虎三郎翁の必死の訴えを聞いた藩士たちも、一時の空腹を満たすことよりも、明日の人づくりを選びました。そして、学校教育に必要な書籍・器具の購入にあてるため、米百俵は売却され、その代金が青少年教育に充てられました。6月には、国漢学校の新校舎が完成し、ついで洋学校・医学校も建てられました。敗戦国の長岡で、全国に先駆けた画期的な教育が行われるようになりました。国漢学校には、二つの特徴がありました。第一は、士族ばかりでなく、町人や農民の子弟も入学が許され、そのため、最初からかなり多くの志願者が出ました。これは平民教育にも力を入れていくべきだ、という虎三郎翁の考え方でした。 第二に従来の藩校では漢学のみを教えていたのに、ここでは国学・国史も教えられました。これが国漢学校の名前の由来で、国史と言っても、それまでは漢文による大日本史や日本外史しかなかったので、虎三郎翁は自ら『小学国史』全12巻を編集し、さらに世界地理や国際事情、哲学、物理学、博物学なども教育科目に取り入れた。今後の日本が必要とする教養と知識を持った国民を育てようという考えでした。 国漢学校では、虎三郎翁の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、人材を育てる教育が行われました。その成果が実り、後年、長岡からは国家を担う多くの人物が輩出しました。国漢学校創設時の生徒だった渡辺廉吉はオーストリアに渡って法律、政治学を学び、伊藤博文のもとで帝国憲法の制定に参画、日本で最初の医学博士・小金井良精はドイツで解剖学と組織学を学び、帰国後は東京帝国大学医学部教授として、日本人として初めて解剖学の講義を行った。 そのほか、改進党で活躍し、福井県知事となった波多野伝三郎、検察官として活躍し、後に法務大臣となった小原直(なおし)、東京帝国大学総長となった小野塚喜平次、洋画家の小山正太郎、明治期の日本最大の出版社である博文館を創業した大橋佐平、連合艦隊司令長官・山本五十六など、各分野で実に多くの人物が育っている。 明治新政府軍との戦いに敗れ、3度の粥にもことかく状態に追い込まれた長岡藩から、かくも多くの人材が育って、近代日本の発展に貢献したことは、虎三郎翁の「食えないから、学校を立てる」という考えが正しかったことを証明しているのです。 この事績は、昭和十八年に山本有三氏が戯曲『米百俵』を発表して、世に広く知られることになりました。 山本有三氏は、その時のやりとりを次のように描いています。 三左衞門 聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。小林虎三郎翁は、ドイツの学校制度を論じた『徳国学校論略』の序文で、自らの教育思想を明らかにしている。 ここでは、まずドイツ(プロシヤ)の学制に注目した理由として、ドイツが東にオーストリア、南にフランスを破り、強国のイギリスやロシアもドイツを恐れているとし、その力の根源は、ドイツがさかんに学校をおこし、教育を重視したからだとしています。 ドイツと対照的に弱いのが、アジアの老大国たる中国で、人口では4億と世界の三分の一を占めるのに、アヘン戦争に敗れて、欧米列強に領土を侵蝕されており、中国も欧米も、民族こそ違え、人間としては同じである。それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは人民に対する教育・啓蒙の差である、と虎三郎翁は説かれました。 虎三郎翁の教育とは、科学技術だけではなく、学校創設の10年ほど前に著した『興学私議』(学問を興すことに関する私の議論)では、「学問には『道』と『芸』が必要である」と述べている。人としての生き方を考える『道』と、科学技術や実務を学ぶ『芸』とが両輪となって、国民一人ひとりが、強く正しい生を送り、そのような国民が、強く正しい国家を作るのであると・・・ 小林虎三郎は、明治10年8月24日に亡くなります。虎三郎翁の遺志を引き継ぐ形で、長岡には女子教育・社会教育が勃興しました。人間の教育では幼児教育がもっとも大切であり、そのためには母親となる女性の教育の向上をはかり、社会全体が学ぶという理念を忘れてはならないというものでした。
小林虎三郎翁が説き、実践したのは、教育によって人材を育て、そのことによって国を興すことでした。教育は「国家百年の大計」といわれますが、まさにその事業に半生を捧げたのが、虎三郎翁でした。
幕末に欧米列強が押し寄せてくる危機の中で、わが国は急速な近代化を成し遂げて独立を守ることができました。それは江戸時代に寺子屋や藩校を通じて、世界でも群を抜く教育水準を達成していたからです。さらに近代化政策の筆頭として明治5年8月に「学制」を公布し、施行わずか2年間で、全国津々浦々に2万4千校以上の小学校を作り上げたました。虎三郎翁の「米百俵の精神」は、当時の日本全体が共有していたものでもありました。大東亜戦争敗戦後も、わが国は奇跡的な復興と高度成長を実現、これもわが国のすぐれた戦前の教育制度に原動力があったからです。 現世の日本は、経済の停滞、高齢化と人口減少、政治の漂流など、教育現場の荒廃、第3の国難とも言うべき時期にあるが、これらの危機は外から来たものではなく、政治にしろ経済にしろ、十分な人材が育っていない事からきた内発的なものでなのです。日教組の左翼偏向教育と文科省のゆとり教育によって、学校はあれども「人づくり」はおろそかにされてきた、というのが、危機の真因であると筆者は思うのです。 「食えないから学校をつくれ」という虎三郎翁の言を裏返せば、現在の日本の状況は「人を作らないから、食えなくなった」と言えます。今こそ「米百俵の精神」を思い起こすべき時です。 政治や経済をどう改革しようと、そしてそれが改善につながったとしてもたかだか生活が豊かになるくらいで、魂を失った日本の再生は不可能です。いまできることは、時間はかかるが立派な教育を子供たちにほどこし、立派な日本人をつくり、彼らに再生を託すことだけである。 教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものです。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが現世に生きる我々の勤めです。「痛みを明日に回して今日を良くしよう」ではありません。 それが先人の恩に報い、子孫の幸福を図る道でもあるのです。
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