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前前記事のさくらの花びらさんの転載記事で、フィリピン人が日本の神風特攻隊を非常に尊敬していることが書かれていましたが、戦争当時フィリピンが日本軍と戦ったその実情が「かつて日本は美しかった」で、書かれています。
フィリピンは米軍とともに戦いましたが、その戦い方は、アメリカ軍の督戦という戦い方だったのですね。これはひどいやり方です。支那の軍隊では聞いたことがありましたが、アメリカ軍もやっていたのですね。結局アメリカを始め、当時の白人たちは、有色人種を人間扱いしていなかったということでしょう。 03.大東亜戦争・フィリピンバターン半島のフィリピン兵
白人国家の軍隊や支那の軍隊には督戦隊というのがありました。
昭和16年(1941年)本間雅晴中将の指揮 する第14軍主力は12月22日にフィリピンのルソン島に上陸し、昭和17年1月2日にマニラを占領します。米軍の司令官マッカーサーはオレンジプラン通 りにコレヒドール島へ移動します。
オレンジプランというのは米国の対日戦争プログラムです。このアメリカ軍の中にはフィリピン人兵士が多く含まれていま す。アメリカ軍のフィリピン人兵士を見る上で色々興味深い記録があります。
火野葦平さんの著です。火野さんは芥川賞受賞者です。「麦と兵隊」「土と兵隊」 などの著書で有名でしょう。バターン半島攻撃の陸軍の報道部隊に従軍しています。
陸軍報道班員手記 昭和17年7月(GHQ焚書図書開封より)
フィリピン兵士の場合も使命感も戦う意義を持っておらず士気が低い。兵を集めた態勢にすると督戦はしやすいですが、砲撃の的になるため、散兵した攻 撃態勢をとります。すると督戦の眼が届かなくなるので、フィリピン兵が逃げてしまうのです。だから縛るのです。
これは当時でも卑劣な行為であったと思いま す。私は子供の頃、日本軍は人命を軽視した戦い方だった、米軍は人命を尊重した、と教えられましたが、米軍は「白人の命を尊重」し、有色人種の命などは尊 重しない戦い方だったのです。
参考文献 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著 参考サイト WikiPedia「フィリピンの戦い (1941-1942年)」 添付画像 米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。(PD) http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg クリックで応援お願いします。 |
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2012年01月20日
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国際派日本人養成講座からの転載です。
私の心を激しく打ったのは敗けてもなお、
後世に 受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さだった。 ■1.シンガポール国立博物館にて■
"The Singapore Story"という3D映画は、いきなり画面から飛び出した零戦が観客席の上でイギリス空軍戦闘機スピットファイヤーを追い回し、ついには撃墜する画面から始まっていて驚かされた。
シンガポールは、華僑を中心に、マレー人、インド人から成り立つ。日本軍が弾圧したのは華僑のゲリラ勢力であり、彼らが戦後は共産党ゲリラとして治安を脅かした事、そして英国支配下で搾取されていたマレー人は日本軍に優遇され、また英国からのインド解放を目指したインド国民軍が日本軍の支援を受けて、シンガポールで創設された事もあって、一方的に日本軍を悪者視する史観は、この多民族国家では通用しないのだろう。
大戦中の展示物の中に、この博物館の建物の前で日本人とイギリス人数人が、並んで立っているパネル写真があった。戦時プロパガンダのポスターや、悲惨な戦災光景写真の中で、日英両国人が一つのチームのように仲良く写っている情景は、他から浮き上がって、どこかほっとさせる雰囲気を醸し出していた。実は、この博物館自体が、これら日英の科学者たちの心を合わせた協力によって戦火から護られたのである。
■2.そうだっ、やらなきゃならん!■
E・J・H・コーナー博士が、日本軍の占拠するシンガポール市庁舎を訪れたのは、昭和17(1942)年2月18日、イギリス軍無条件降伏の3日後であった。
博士はケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポールに移り住んで13年間、ラッフルズ植物園で熱帯植物の研究をしてきた。博士は植物園と博物館に保存されている標本や論文が日本軍や現地人の略奪によって破壊されることのないように、イギリス総督の使者として日本軍に依頼していたのである。
この日、シンガポールの文化財を護るために日本から一人の学者が来ることになっていたので、その人に会うためにコーナー博士は再び市庁舎を訪れたのだった。
紹介された人物は、長い鼻、不釣り合いに大きな眼鏡、乱れた髪、くしゃくしゃの洋服と、いかにも貧相な五十男だった。東北帝国大学に奉職し、日本における火山学、湖沼学の先駆者・田中舘秀三(たなかだてひでぞう)博士である。
田中舘博士は、植物学者であられる天皇陛下がシンガポールの文化財、研究・教育機関の安否を気遣っておられ、陛下の名代として実態調査に来た、と述べた。コーナーはこの言葉に「これでシンガポールの文化は助かった」と感動でしびれるような思いをした。
コーナーが博物館と植物園、図書館などの文化施設が危険な状態になっていることを説明し、その保護を願うと、身を乗り出して聞いていた田中舘は、突如立ち上がり、腕を振り上げて大声で叫んだ。「そうだっ、やらなきゃならん!」
■3.これが戦争というものか・・・■
田中舘はコーナーに案内されて、すぐに博物館と植物園を見て回った。南洋植物の収集・研究で世界的に有名な植物園では、日本兵がオーストラリア部隊の残していったおびただしい武器弾薬、ドラム缶などを片づけていた。イギリス人の園長と数人の部下がかろうじて研究室や標本室を守っていたが、広い園内は現地人が自由に出入りして、勝手に木を切ったり、物を持ち出したりしていた。
田中舘は、ナプキンに赤インクで即席の日の丸を作り、立ち入り禁止との札とともに、建物に貼った。ちょうどそこに、官舎が現地人によって荒らされている、との知らせが入った。コーナーが研究室として使っていた場所であった。
「よし、行こう」と田中舘はすぐに走り出した。コーナーは暴徒が武器をもって向かってきたら、と不安を抱いたが、田中舘はそんな事は思ってもいないようだった。二人が官舎についた時、数人の現地人がコーナーの部屋から、標本や私物を持ち出している所だった。田中舘が日本語で叫んだ。「そこに置けっ。さもないと殺すぞ」
日本語が通じるはずもなかったが、田中舘の気迫に侵入者は縮み上がった。彼らは、最初の略奪者はオーストラリア兵で、自分たちも物を持ち出してもよいのかと思った、と弁解した。
コーナーは私物には目もくれずに、四つん這いになって踏みにじられた自分の論文を、宝石でも集めるように一枚一枚泥を落としながら拾い上げた。その有様に、田中舘は「これが戦争というものか・・・」とつぶやきながら、論文を気遣うコーナーを、本物の学者だ、と見て取った。
■4.これから山下に会いに行く■
田中舘は、この上は一刻も早く強力な手を打たなければならない、と思い、「コーナー君、これから山下に会いに行く。そして文化財の保護を頼む。君も一緒に来るんだ」と言った。 「ヤマシタ? その人は誰ですか?」と聞くコーナーに、田中舘は「シンガポールの支配者・山下奉文軍司令官だ」と、こともなげに答えた。「オー、ノー」コーナーは怯えるように首をふった。
山下司令官は開戦と同時にマレー半島に上陸し、約3万5千の兵力で、8万の英豪軍を蹴散らしつつ、わずか2ヶ月余りで1千キロ以上を南下し、遂にシンガポール占領を成功させた武功輝く将軍である。 「心配ない、山下と僕とは大学の同窓だ。学生時代からの親友さ」と田中舘は笑った。これはコーナーを安心させるための方便であったようだ。
田中舘は、総督官邸にいる山下に会い、二人だけで2時間も話し込んだ。会見が終わって出てきた田中舘は、コーナーに 「大成功だった。山下将軍は、できるだけの援助をしようと言ってくれた」と語った。コーナーは後にこう書いている。
その後、教授は私に東条首相より発令された命令のことを伝えてくれた。それは占領下にある東南アジアの国々の博物館、図書館、総ての科学標本のたぐいは、その国の国民のために保存さるべきことを軍上層部に命じたものである。その後ろに山下将軍の進言があったことは言うまでもない。
■5.いかに英人学者や現地人雇用者を食わせていくか■
田中舘は、山下将軍から口頭で博物館と植物園の責任者に任命されたが、書面の辞令がなかなか届かず、その間の財政的援助は一切得られなかった。田中舘は無給の館長であったが、現地人の園丁や雇い人はそういう訳にもいかない。悪い事に、主事ヘンダーソンがシンガポール陥落の2、3日前にからすべての金を持ち逃げしていたので、植物園の金庫はからっぽだった。
やむなく田中舘は、私財をはたいて当面の支出をまかなった。不足分はその特異な政治的手腕を使って、食糧や金をどこからか掻き集めていた。この時期の田中舘の主要な任務は、いかにコーナーら英人学者や現地人雇用者を食わせていくか、ということだった。
田中舘はシンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままなので、ぼろぼろになってしまった。博士は平気な顔をしていたが、コーナーは気の毒に思って、空き家で見つけた上着やズボンをプレゼントしたが、大きすぎて、いかにもおかしかった。
そこまでしてシンガポールの文化財を守ろうとする田中舘やコーナーらの努力に感謝して、こっそり資金援助をしてくれる華僑も出てきた。
■6.学問への深い敬意■
山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきた徳川義親侯爵は、自身が生物学者であり、田中舘らの活動に深い理解を寄せた。侯爵はチャンギー刑務所に収容されていたイギリス人学者たちを引き取って、博物館と植物園に配属させ、各自の研究を続けさせた。
それを聞いて、日本軍の憲兵が飛んできて、「スパイされたら、どうします?」と問うと、「少しくらいスパイされて、負けるような日本軍なのか?」と叱って、追い返した。侯爵は後に、博物館と植物園を兼ねた総長に就任し、田中舘を全面的にバックアップした。
マレーのジャングルの研究では第一人者と呼ばれるC・F・シミントンは、コーナーの友人であり、マレーの林務官と植物学者のための手引き書を数年がかりで書き上げていたが、出版前に戦争となり、原稿はクアラルンプールの出版社に置かれたまま、彼は行方不明となっていた。
この件をコーナーから聞いた田中舘は、「それは大変な事だ」と驚き、すぐに山賊やゲリラの徘徊するマレー半島を無防備の車でクアラルンプールまで北上し、ゲラ刷りの原稿を発見した。原稿は、徳川侯爵と田中舘が費用を負担して、500部印刷された。コーナーは後にこう記している。
著者のシミントンは、自分のライフワークが戦火の中を生き残り、敵国日本人によって救出され、出版され、そして敵国人からも同胞からも高く評価されたことを知ることもなく、失意のうちに亡くなった。(中略)
侯爵と教授が自腹を切り、大金をはたいて英国人の一業績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほかならない。戦争の真っ最中、敵国人の仕事を英語で出版していかなる利益があるというのか。
■7.何か高貴な力に守られている■
その年の12月も押し迫った頃、田中舘は一時帰国することとなり、コーナーの著書「マレーの路傍の木」をトランクに入れながら、「これは献上するつもりだ」と語った。「献上」とは何を意味するのか、コーナーには分からなかった。
翌年1月、田中舘は博物館に帰任すると、コーナーを館長室に呼んだ。彼は突然立ち上がり、直立不動の姿勢をとり、「起立! 気をつけっ」と大声で号令をかけた。びっくりして立ち上がったコーナーに、田中舘は続けた。
賢くも大日本帝国天皇陛下には、マレーの写真と貴殿の著書「マレーの路傍の木」をご受納あらせられ、ことのほか感謝しておられる。これは余が献上申し上げた故であるが、漏れ承ったところによれば、貴殿の本は陛下がお床の中で読まれた唯一の本である。終わり。着席。
コーナーは唖然とした。教授の話が本当かどうか疑いつつも、忘れがたい印象を受けた。
その話は博物館中に知れ渡った。その時から私とバート(同僚)は自分たちが比較的自由に博物館の仕事をしていられるのは何か高貴な力に守られているからだという気がしてならなかった。
■8.敗者の贈り物■
徳川侯爵が総長となり、また日本から二人の学者が、植物園長、博物館長として赴任してきた。田中舘教授の仕事はほとんどなくなり、日本の学術研究会議から教授に帰還命令が出された。田中舘は昭和18年7月に寂しく祖国に帰っていった。
田中舘秀三教授がいなかったらシンガポールの博物館と植物園と図書館は跡形もなく滅び去っていたであろう。若き世代に残すべきものを失い、自分達の時代を子供たちに誇り高く語って聞かせることもできなかったであろう。たとえ一粒の種は小さくとも、一粒の塩は無に等しくとも、それは人類を救う大きな力になりうる。教授は傷つき、寂しく島を後にした。だが私たちは彼の遺志を受け継ぎ、希望の灯を高々と掲げ続けたのである。
昭和20年8月、日本軍が降伏し、9月には英軍が上陸した。英人捕虜が釈放されるのと同時に、博物館と植物園に残っていた日本人学者達が抑留された。コーナーは英軍司令部に占領中の彼らの功績を説明して釈放を願い出たが、日本人学者達は同胞と共に収容所に留まる道を選んだ。
コーナーはその夜、ただ一人、植物園の庭を歩きまわりながら、占領中の思い出に浸った。
私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さというより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さであった。
敗残者は今や勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つということはこういうことを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下でいつまでも立ちすくんでいた。国家も、政府も、そして民族も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問は消して滅びない。私はこのことをシンガポールで、日本人科学者との交流を通じて学んだのである。
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(日章旗を振るフィリピン・バンバン村の子供たち)
SAPIO(小学館) 2000年12月20日号「日本軍−もうひとつの真実 ジャーナリスト井上和彦氏」より掲載いたします。
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平成12年10月25日、
フィリピンではパンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。
私はその3か所すべてを1日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。
東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。
昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、フィリピン・ルソン島西部のマバラカット飛行場から出撃しレイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまったく違っていた・・・。
式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯は静かに語る。
「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
ディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。
「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです。
当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう。 神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏の証言だった。
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。
これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」
これまでフィリピンが親米反日的と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分の1)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含む180万人が犠牲となった。
ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くはアメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
日本人にとってのこうした初耳は数え上げれば枚挙にいとまがない。
たとえば米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという「バターン死の行進」。これは一般に日本の蛮行といわれている。 だが、ある地元民は私にこう語った。
「実は日本軍は米比軍捕虜をサンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。捕虜達を虐待するために歩かせたように言われるがそんなことはない」
同じ10月25日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。
そして、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんばかりに打ち振って見送ってくれたのである。日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。
子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。
式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。「Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています」
引率の男性教師は、
「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
屈託のない笑顔で皆は答えた。「もちろんです。 だってあの人達はヒーローですもの」 ・・・
ディゾン画伯の描いた敷島隊五名の肖像画(カミカゼ博物館)
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